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“―――ほら、見て下さい。今年も、こんなに綺麗に咲いたのですよ”
白い手が、青白い花が咲き乱れる草原を指し示した。
あたたかな光りの中で咲き誇ったそれは、とても綺麗で儚くて。透き通るほどに薄い花弁は、少しの強い風が吹けば消えてしまいそうに頼りなげで。
“この花は、まるで姫様のようですわ。手折ってお部屋に飾りましょう。きっと心休まりますわ”
そう言って白い手は、慰めるように手を握ってきた。
“待って。それは駄目です……。この花は、ここにいてこそ輝けるのです。部屋の中に入れてしまったら、この輝きが無くなってしまうわ。この私のように―――だから、このままで。
見たくなったら、ここに来ればいいのですから”
“姫様―――おかわいそうに……――”
――――――エリス……?
あの花は、確か……。
『ザキ、慎重にな。くれぐれも、傷をつけるな』
『わかってるさ。あんたはいちいちうるせぇんだよ』
―――ん……何かが頬を触ってる……。ざらざらとした感触……これは、何――――
薄く開いた瞳に、綺麗なブラウンの毛並がぼんやりと映る。
輝くような瞳も。
――この姿、知ってる……この方は私を起こそうとしているんだわ。
「――っ……」
体を起こそうと身動ぎすれば、激痛が体中を駆け巡り、声にならない息が漏れる。
腕も脚も動かない。
それに、なんだかとても寒い……。私、もしかして死んでしまったの―――?
むせかえるような甘い花の香りがする……
ということは、ここは、天国――――
『おい、動くな。怪我をしているんだ。ザキ、もうやめろ。起きている』
ざらざらとした肌触りが消え、ふわっとした浮遊感が体を襲う。
『ザキ、そっちを頼む。いいか、食べるなよ』
『わかってるって。まったく俺を何だと思ってやがる』
落ち着いた声と不機嫌そうな声が交互に聞こえてくる。
――私、誰かに運ばれてる。
とても安心出来る腕の中……これは、ラヴルに似てるわ。
ラヴル―――――――
心地よい揺れに身を任せ、戻りかけていたユリアの意識は、再び闇の中へと誘われていった。
***
―――甘い花の香り―――
それに混じるのは、ツンとした刺激のある薬品のような匂い。
あたたかくて柔らかな物に包まれる感触。
ひんやりとしたものが額に乗ってる。
重い瞼を開くと、黒い天井がぼんやりと映った。
―――ここ、どこかしら……私、一体どうしたの……。
もぞもぞと体を動かしてみると、途端にズキンとした痛みが体中を襲った。
―――そうだわ。私、ヴィーラ乗り場から落ちて……。
あんなに高いところから落ちたのに、よく助かったわね……。それとも、あれは夢だったのかしら――――
「目が覚めたか」
野太い声が耳に届き、ぎぃ…と何かが軋む音を立てた後、血管の浮いた太い腕が伸びてきた。
額に乗ってる布が取りはらわれ、大きな手が目の前に降りてくる。
それは額と頬にひたひたと触れ「まだ熱があるな」と呟いた。
何もかもが気だるくて重い。
質問したくても、唇が縫い合わされたように閉じたままで、動かない。
まるで何日も眠っていたかのよう。
「ちょいとばかし、我慢しろよ」
腕がまた伸びてきて背中を支え、頭を少し持ち上げられた。
黒い瞳に、金色がかったブラウンの髪と清んだブラウンの瞳が、映る。
―――こんな感じの人、私見たことがある……。そう確かあの時一緒にいた……。
「ほら、口開けてこれを飲め。薬だ」
細くて固いチューブ状のものが、唇を割って押し込まれる。
からからに乾いていた喉に、急に流れ込んでくる液体。
それはとても苦い味で、喉が詰まったようになって咳き込んでしまった。
咳をするたびに体に痛みが走り、とても苦しい。
男の手が背中をさすった。
「おい、大丈夫か」
「はい……すみません。ここは……どこ、ですか?」
やっとの思いで開いた口から、弱々しい掠れた声が出る。
自分の声のはずなのに、まるで他人が出したもののよう。
……私、こんな声だったっけ……。
「ここは瑠璃の森の中だ。そして、ここは俺の家。お前は森の中に倒れていたんだ。怪我してるんだから、ゆっくり休んでろ」
―――瑠璃の森―――?
そういえば一人じゃなかったはず。あのとき、確かに、腕を掴まれた感覚があった。
“駄目!!そっちは、ユリアさん!!”
「もう一人、いたでしょう……その子は……?」
「あぁ、もう一人は別の部屋にいる。まだ意識はないが時期に目覚めるだろう。あいつらは、馬鹿みたいに体が丈夫だからな。怪我なんか何処にも無かったぞ。安心しろ。お前は、自分の心配だけしとけ」
「そう、ですか……それなら、よかった」
男がバッと後ろを振り返る。
誰かが来たよう。
「おい、フレアが呼んでるぞ」
「あー、そうだったな。お前、ちょっと待ってろ。いいか、あんまり動くんじゃないぞ」
額にひんやりとした布を乗せて、男がスタスタと部屋から出ていった後暫くすると、部屋の中にほんわりといい香りが漂ってきた。
「ねぇ、貴女、食欲はないと思うんだけど……」
脇のテーブルの上にことんと置かれたそれから、その香りは漂ってくる。
カチャカチャと音がした後、唇に少し熱い物が押し当てられた。
「私はフレアっていうの。心配しないで、ほら、口を開けて……。少しでもお腹に入れないと、体力が付かないわ」
ね?食べて。
そう言って、少し強めに押し付けてきた。
さっき飲まされた薬の効果なのか、体の感覚が鈍くなっている。
体の痛みは薄らいだけど、お腹が空いてるのかどうかも分からない。
ゆっくりと少しだけ開いた口の中に、するんとそれは入ってきた。
とろんとした柔らかい半固形物が、口の中で蕩けていく。
ほんのり甘くてあたたかいそれは、思いのほか飲み込みやすくて、するすると喉の奥に入っていく。
フレアはそれを知っているのか、どんどん口の中に放りこんできた。
「貴女、随分長い間眠っていたのよ。これはね、こう見えてもとても体力がつくし、傷をいやす効果もあるの。ほら、これが最後の一口よ。……そう、その調子。いい子ね」
最後のひとすくいを口の中に入れた後、綺麗な手がふわりと頬に触れた。
そこには小さなガーゼが一枚貼られている。
「こんなに綺麗な顔なのに、こんなところに怪我をして……大丈夫よ。この頬の傷は、痕もなく綺麗に治るわ。だから安心して。でも……何があったの?かわいそうに……早く治るといいわね。ね、もう少し眠るといいわ。その方が治りが早いもの」
フレアの白い綺麗な手が脇のテーブルの上を片付けている。
その様子をぼんやりと見ていると、さっきの男が部屋に入ってきた。
フレアの腰に手をまわして、ススと抱き寄せているのが見える。
きっと、恋人なのだ。大切そうに包み込む優しげな手を見ていると、ほわんと心が温かくなる。
「どうだ?」
「えぇ、この通り、全部食べてくれたわ」
「そうか、ありがとな。フレアの薬は良く効く。時期に良くなるだろう」
「えぇ、そうね。じゃぁ私、帰るわ。また何かあったら、呼んでね。貴方のためなら、私いつでも駆けつけるから」
2度のリップ音をさせた後、フレアは食器を持って部屋を出ていった。
「お前はもう少し眠れ。そのうち、さっき食べた薬食が効いてくる」
大きな手が伸びてくる。
あたたかいそれは、瞳を閉じさせるように、瞼の辺りをスーと撫でた。
~聞けよ 森の声~ 碧き泉に 緑の風ふく~
優しい歌声が何処からともなく聞こえてくる。
部屋の中からじゃない……これは窓の外から聞こえてくる。
~蒼き瑠璃の意思 ~ 古の記憶 呼び醒ます~
「とても綺麗な声……誰が歌ってるのかしら……」
「これは……魔唄だ」
そう呟いた男の様子が一変し、慌てたように外へ飛び出していった。
妖しく耳に纏わりつくメロディ。
聞いていると、薬の効能ではない、全く異質のとろんとした眠気がユリアを襲う。
魔唄、魔力を持った韻律。
ユリアの意識は奪われる。
深い、深い夢の中へ―――
***
「参ったな」
そう呟くのは、野太い声の主だ。
大きな耳をピクピクと動かし、歌声に誘われるように、森の中を歩いて行く。
「しまったな……窓を開けておいたのは、失敗だったな」
家を出る際にあちこちで見たのは、眠り込む使用人の姿。
あれは、数時間は起きないだろうと思える。
魔力ある歌声は、森の奥の方から響いてくる。
目の前に、行く手を阻むような大きな岩がある。
この向こうから歌声は聞こえてくるのだ。
男は、手慣れた様子ですいすいと大岩を登って行き、向こうを覗き込んだ。
そこには、まるでその存在を隠すように、四方を大きな岩と木立に囲まれた深く碧い瑠璃色の泉がある。
岩の隙間から絶え間なく水がこんこんと湧き出、涸れることなく水を湛える不思議な泉。
その小さな泉で唄の乙女が水浴びをしていた。
―――見つけたぞ。
だが、困ったことに、すこぶる機嫌がいいようだ。
唄を辞めてくれるだろうか。
唄の乙女は機嫌がいいと際限なく歌い続けるという。
しかし、初めての遭遇だが、見惚れるように美しいな。
魔唄を歌わなければこのまま捕え、我らが国王にお傍女として献上したいくらいだ―――
艶々とした豊かな碧い髪。
美しく膝まで届きそうに長いそれは、碧い泉の中に浸され、薄青い指先が丁寧に梳いている。
滑らかで綺麗な薄青い肌が描く、柔らかな体の曲線。
ラベンダー色の唇が動き、魔唄を風に乗せて森の中へと運ばせる。
柔らかく響く可憐な歌声と、たおやかな美しい旋律。
瑠璃の森中に届けられるそれは、すべての生ける者を眠りへと誘う。
唄の乙女の子守唄。
気丈な男の意識も保つのがやっとだった。
たまに体がゆらぎ、意識がほわんっと遠のく。
―――くそっ……このままでは俺も、もたんな。
歌を止めるには、機嫌を損ねるしかないと聞く。
さて、どうやって乙女を怒らせようか―――
様々なアイデアと伝え聞いた対処法が頭の中を駆け巡る。
短い時間の中、いろいろ考えた末、ごく単純だが、一気に気を引く言葉を投げかけることに決めた。
これで駄目なら、次を考えよう。それまで気がもてばいいが―――
「おいっ、唄の乙女!お前、その変な歌を辞めろ!耳障りだ!」
瑠璃の泉に響く野太い声。
綺麗な声と旋律で満たされていた空気の中、それは異質に響く。
唄の乙女の耳にも、男の声は酷く醜く届いた。
急に割り込んで入ったそれに驚いて、がばっと男を見た白銀の瞳。
みるみるうちに美しい顔が歪んでいき、柔らかな曲線を描く裸体を長い髪でふわりと隠した。
歌はピタリとやみ、ぐわっと開けた口から大きな牙が二つ見える。
怒りをあらわに向けられたそれから、金属を擦り合わせたような耳障りな音が発せられた。
物理的な攻撃の術を持たない、唄の乙女の唯一の精一杯。
耳の良くきく男にとって、これは堪らない。
塞いでも容赦なく届く音に、堪らずにその場に膝をついた。
それを見た乙女は、満足げに不敵な笑みを浮かべ、ふーと消えていった。
―――やれやれ、なんとか巣に帰ってもらえたな。
まだ嫌な音が耳に残っている。美しい姿に可憐な甘い歌声。
あの妙な副作用さえなければ、家に招待して、是非歌を聞かせて貰いたいものだが―――
瑠璃の泉から戻る道すがら、薬草の入った籠を抱えたまま倒れているフレアを見つけた。
幸せそうに眠る美しい顔。ユリアに食事を運んだ優しい手。
男の手が優しく抱き起こし、髪をそっと撫でる。
「フレア、お前も眠らされたか。この分だと相当な数がやられたようだ……なにせ、被害は森中だ」
フレアを抱きかかえて家路を急ぐ途中、あちこちで眠りこむ姿が目につき、男は深い溜息を一つ吐いた。
―――これでは、ベッドが足りんな……だが、お前だけは―――
男はフレアを自室のベッドに寝かせ丁寧に毛布を被せると、被害を確認するべく再び外に出た。
家の裏手に回り込むと一人眠りこけている男を発見し、眉根を寄せてため息をついた。
―――やれやれ。お前までやられたのか……。
「おい、ザキ、起きろ!!」
耳の傍で大声を出しつつ、大きな耳をつまみ、ぐいと引張ってみる。が、五本の指がぴくんと開き動くものの、起きる気配は微塵もない。
―――こりゃぁ困ったな。コイツまで眠ってるとなると、無事だったのは、ひょっとして俺だけか?
だとすりゃ、一人じゃとても対処できねぇな。なんとしてもコイツを起こさねぇと。
さて、どうするか―――
男は、ひと思案の末思いついた策を講じるべくバケツを手にし、水場へと向かった。
いくら深く眠りこけていたとしても、冷たい水を浴びれば起きるだろう。
いきなり水を浴びせられ驚いて目を瞬くザキの様子を想像し、クククと喉の奥で笑う。
少し離れたところに小さな泉がある。
そこからなみなみと水を汲み運んでいると脇から声を掛けられた。
「――――ジーク、楽しそうだな?」
振り向いた男の瞳が大きく見開かれ、唖然としてそのまま固まってしまった。
なにしろそこには信じられない人物が立っていたのだ。
───まさか、ここに来られるなど───
その人物は驚き固まるジークの姿を、面白い物でも見るかのようにじっと見ている。ブラウンの髪を逆光に輝かせ白い歯を見せて。
「それにしても、お前がそんなことをしているとは、珍しいな?使用人は何処に行った?」
「皆、唄の乙女にやられまして。今動けるのは自分だけでして―――――っと、そんなことよりも。バル様、何故こちらに来られたのですか?ご連絡いただければ、こちらから出迎え致しますのに。しかも、お一人、ですか?」
「何故か、ここ数日心騒いでな。サナに水晶の中をのぞかせたら、この瑠璃の森とジークの家が浮かんだ。で、そのままの脚でここに来たわけだ。だから気にしなくていい。―――あそこに寝てるのは、ザキだな?」
「はい」
「―――で、それを浴びせるわけだな?」
「はい」
「よし、貸せ」
「は?バケツを、ですか?」
ジークはバルの顔と手に持ったバケツを交互に見る。
バルは、そうだ、とばかりに大きく首を縦に振って、掌を差し出した。
ジークが戸惑いつつもバケツを渡すと、悪戯っこくにんまりとし、眠るザキの傍らに立った。
「ザキ、起きろ」




