7
ラヴルがユリアを抱いた時刻。
丁度その同じ頃、夜更けの王宮殿では豪華な王の寝室の中で肘掛け椅子に座り、一人目を瞑るセラヴィの姿があった。
瞼の裏に浮かぶのは、記憶の中に鮮明に残るあの日のクリスティナの姿。
最後の会瀬――――――
「セラヴィ様……それは、なりません」
目の前の唇から弱々しく拒絶の言葉が漏れる。
色とりどりの花が咲き乱れ、光り溢れる庭の片隅で、細く柔らかな体を包み薔薇色の頬に手を添えるセラヴィ。
黒目がちな大きな瞳。
それを縁どる長い睫毛。
セラヴィの長い親指が艶々とした薄紅色の唇を丁寧になぞる。
少しの力で手折れそうな華奢な体。
美しい黒髪が風になびき、爽やかなコロンの香りがセラヴィの鼻をくすぐる。
この女性のすべてがセラヴィの目を捉え、心までをも離さない。
心底から愛しく想う気持ちは、セラヴィの気を逸らせていた。
「クリスティナ。貴女との婚儀は目の前だ。少しくらい早くても、何も差支えん」
「駄目です……。正式な儀式を通さなければ、私は―――」
そう言って瞳を伏せ、恥じらってどんどん俯いていくクリスティナ。
それを許さず、小さな顎に指を当て上を向かせる。
―――美しい。
揺らめく黒い瞳。
戸惑うようにふるふると震える唇。
このすべてを今すぐに我がモノとしたい―――
「そのようなことは後になんとでもなる。私を誰だと思っている。魔界を統べる王だぞ―――いいから、観念しろ。クリスティナ―――」
しなやかな体を引き寄せて自らの体にぴたりと密着させると、クリスティナは観念したように瞳を閉じた。
セラヴィの顔がクリスティナに徐々に近付いてゆく。
薔薇色の頬と唇に息がかかるほどになったその刹那に、側近の声が庭に響き渡った。
「お待ち下さい!セラヴィ様!」
余程意を決して声を出したのか、側近の顔が強張っていた。その、二人並んで立つ側近たちの顔を、交互に睨みつけるセラヴィ。
「何だ、無粋だな。どちらが止めた」
震えながらも前に一歩進み出て頭を下げる側近を見、セラヴィの漆黒の瞳が赤く染まり始めた。
「私です。申し訳御座いません。ですが、もうそろそろお戻りになりませんと、お体に障ります」
側近は再び深々と頭を下げた。声を出した瞬間に、覚悟は出来ているのだった。
「貴様か、いい度胸しているな。覚悟しろ……」
「待って。セラヴィ様、お願い……お待ち下さい」
制裁を加えようとしたところを目の前に現れた白く細い指に阻まれ、出しそびれた力をぐっと引っ込める。
白く細い指に嵌められた指輪が小刻みに震え、日の光に当たってキラリと煌く。
それは、今先程に施したものだ。
「クリスティナ、何故止める?」
「あ、ごめんなさい。でも、あの方を傷つけるのは……。セラヴィ様のためを思ってのことですもの。お止めください」
正面に立ちはだかり、双眉を寄せ、懇願するように見つめるクリスティナ。
自らも恐怖に震えているのに、懸命に止める気丈な心は実に愛らしく、魔王の嫁に相応しいものだ。
クリスティナの指を取り、口づけを落とすセラヴィの瞳は、赤から黒へと変わっていた。
「クリスティナは甘いな……。分かった。その代わり早く我が元に来い。いいな?それが、交換条件だ―――――――……」
……―――クリスティナ―――――
あの日、強引にでも城に連れて来ていれば……。
それが悔やまれてならない。
風に花弁が舞う中で手を振るクリスティナの笑顔。
いつまでもこの腕の中に閉じ込めておき、慈しみ守りたいと心の底から思えた。
―――あれが最後になろうとは、全く思いもよらぬこと。
婚儀の日取りを決め、愛を語ったあの日。
あの日に戻ることが出来たなら、私は何もいらないとさえ思う。
どんなに力があれど、時間を戻すことはできない、か。
自分の望むことも出来ずに、何が魔王だ―――
湧きあがる憤りを発散するように、手にしたワイングラスを壁にぶつける。
派手な音を立てて飛び散る破片。
それを、虚空の瞳が無言で見つめた。
「戻ったか―――」
小さな魔物の息吹を感じ、視線を脇のテーブルに落とす。
空気が揺らぎ、もやもやと浮かび上がってきたのは、あの黒い影。
そう。書状に忍ばせたあの小さな黒の使い魔だ。
セラヴィが掌を差し出すと、それはぴょこんと乗り込み、所在なくうろうろと青白い肌の上を動き回る。
「……お前、何故戻ってきた」
セラヴィが唸るように問い掛けると、しゅんと項垂れたように縮こまり、小刻みにプルプルと震えだす。
「戻ったということは、失敗した、ということだな?」
ゆっくりと噛み含めるように、確認するように、出される低い静かな声。
見下ろす温度のない漆黒の瞳には、失敗を許さない非情な色が浮かぶ。
黒の使い魔は恐怖に震え、掌の上でぐるぐると回り始めた。
掌から逃れようにも見えない壁が阻み、そうさせてくれない。
逃げ場を失った黒い使い魔は、ただただ震えていた。
セラヴィの薄い唇が歪み、狭く開いた隙間から低く抑揚のない声が漏れ出る。
「使い魔よ、無に帰すがいい」
―――ポッ―――
消え行く運命から逃れるように動き回っていた使い魔は、微かな音とともに空に霧散した。
使い魔の消えた掌を暫く見つめた後、ぎゅっと握りしめれば、爪が食い込み、ぽたりと一滴の血がしたたり落ちた。
―――あれを阻んだのは流石だと敬意をはらっておこう。
……やはり、思うより手強い。そなたを跡目にと、望む私の目に狂いはない。
だが、あれも完全体で戻って来ていない。
少しは体に入っておるはずだ。それだけで私の力は及ぶだろう。
今はそれで良しとしておこう。今は、な。
待っていろ。
私が必ず会いに行く。
そして、この手に、必ず――――――
セラヴィの心の中に生れ出る感情。
それはまだ見ぬ娘に対する恋心なのか、ただクリスティナの面影を追い求めているだけなのか。
どちらかは分からない。
ただ、娘に会いたい。会って話をしたい。
その想いだけが時間とともに膨らんでいった。
「来い、ケルヴェス」
「―――はい、セラヴィ様。ここに御座います」
ケルヴェスに耳打ちをし、霧のように消えてく姿を見送った後、セラヴィは窓の外を眺めた。
自らが清めた月が空に輝く。
セラヴィの眠れぬ夜が、更けていく―――




