3
ナーダに何度も体を揺すられて
“ユリア様、早く食べて下さい。せっかくの食事が冷めてしまいます”
と急かされ、気だるい体をなんとか動かして食事を終えたユリアは、昨夜守ってくれたお礼を言おうとライキを探しに庭に来ていた。
黒い瞳に映るのは整然と手入れされていた綺麗な庭の荒れた様子。
何本かの木は枝がぽっきりと折れ無残にも地面に垂れ下がり、ライキが大切にしている花の庭も踏み荒らされて、まるで嵐が過ぎ去った後のように茎が折れて花弁が方々に散らばっていた。
ユリアが寝ている間に相当な争いがここで繰り広げられていたことが想像できる。
――こんな状態になってるなんて。ライキは大丈夫なのかしら。怪我してないといいけど――
庭の惨状を目にするたびに、不安な気持ちが大きくなっていく。いくらライキが強くても、多勢に無勢ということもある。怪我もなく無事であることを願いながら、白い花の生け垣に囲まれた庭を覗き込んだ。
「ライキ?……いないわ」
お礼を言いたいと言ったら、ナーダはこう言っていた。
“今の時間であれば、ライキはいつもの庭にいるでしょう。……いいえ、ユリア様。あの者は徹夜など平気です。10日ほど眠らなくても大丈夫ですから”
ここにいないということは、やっぱりどこか怪我をして、休んでるんじゃないかと思ってしまう。
瞳を伏せて考え込むユリア。
どうしても、怪我を負って寝込んでいるライキの姿を想像してしまうのだ。
「ユリア、どうしたんだ?」
急に背後から掛けられたのんびりとした声に驚きつつも、すぐにライキの声だと分かり、重く沈んでいた心が一気に晴れていった。
振り返ると、かすり傷一つないライキがそこに立っていて、不思議そうな顔をして見下ろしていた。
手には、何処で捕まえたのか、2匹の小動物をぶら下げている。
「ライキ、無事だったのね!?良かった、私心配で……。だって、庭がこんな風になってるから……きっとすごく大変だったんだろうって、思って。……ごめんなさい、ありがとうライキ」
「そんなの気にしたらダメだぞ、ユリア。もっと信じてくれよ。昨日見た通り、俺、強いだろ?だから平気なんだ。あんなの、なんてことないからな。俺が負けたことがあるのは、ラヴル様だけだぞ」
そう言って、ライキは何か懐かしむような瞳で遠くを見やった。
“―――……私に勝てるまでだ。私に勝てるような自信ができたら、また挑んで来い。それまでだ。それまででいい。ライキ、私に忠誠を誓え―――”
“分かったよっ。誓えばいいんだろっ!?”
血が滲みでている口の端を手で拭い、ライキはラヴルの脚元に跪く。
ライキは鬼の子。素手の戦いにおいては最強を誇る鬼一族。
子供とはいえ、ライキは仲間からも“乱暴者のライキ”と恐れられるくらいに強かった。
ラヴル属する吸血一族といえども、力を使わなければ到底敵うものではない。
その鬼のライキに、ラヴルは素手で勝ってみせた。
木の根元に体を預ける傷だらけの体。
そんなライキを見下ろしているのは、まだ若きラヴル。
少なからず傷を負い、身に纏う服もあちこち破れてはいたが、漆黒の瞳を妖しく輝かせ、ライキと真摯に向き合っていた―――……。
あの頃はまだ子供だったライキ。あれからもう10年以上経っている。正直、素手のラヴルには勝てるほどに成長しているのだ。
だが、ライキは今更闘いを挑もうとは思っていなく、このまま一生ラヴルに仕えようと思っている。
――あの時だ。あの日、この俺はラヴル様に忠誠を誓ったんだ。体中傷だらけになって、普通はカッコ悪いはずなのに、この俺を見る表情は威厳がたっぷりで、俺にはとてもカッコ良く見えた。
この人にはとても敵わねぇと思った。
俺、今は強いからな。もしかしたらラヴル様に勝てるかもしれねぇ。でも、俺、ラヴル様を尊敬してるんだ。だからもうあの約束は、今更なことだ――
「ねぇ、ライキ。その、持ってるのはどうするの?どこかに埋めてあげるの?」
「あぁ、これかぁ?これはな、こうするんだぞ―――こっちに来いっ!ヴィーラ!」
ライキは手に持っているうちの一匹を、空高く放り投げた。
屋敷の屋根を超えて上がったそれを、何処からともなくやってきたヴィーラの前足がワッシと掴み、ワッサワッサと翼をはばたかせながら悠然と下に降りてきた。
玄関前の広場に降り立ち、小動物を口の中に放りこみ、バリバリと音を立てて飲み込んだ。
いつものことなのか、もう一匹が投げられるのをそのまま待っている。
ライキがそこにめがけてもう一匹を投げると、ぱくんと口の中に入れてこれまた美味しそうにごくりと飲み込んだ。
「あれはなぁ、ヴィーラの餌なんだぞ。この俺が毎朝捕まえてきて、こうしてやるんだ。なんてたってラヴル様に頼まれてるからな。大事な仕事だ」
食べ終わったヴィーラの顎のあたりをライキが指でくすぐると、ヴィーラは気持ちよさそうに目を閉じた。
「ユリアも、こいつと仲良くなっておいた方がいいぞ。ほら、こうやって触ってみろ」
「な……仲良く……って言われても」
――この子と?こんな大きな子と―――??
見上げれば大きな瞳にじろっと睨まれ、口髭のような長い触角がユリアを調べるように、うにうにと体の周りを動き回っている。
「あぁ、そうだぞ。ずっとラヴル様の傍にいるなら当然だぞ。もう乗っけて貰っただろ?これから何度も背中に乗っかるんだ。なぁ、ヴィーラ?」
ライキがそう言うと、ヴィーラの鼻の穴が広がって、返事をするようにブワァッと大きく息を吹き出した。
正面にいたユリアの体が、その強風で大きくよろめき倒れそうになる。
その体をライキが素早く支え、ヴィーラの傍に誘導した。
「おっと。大丈夫かぁ?ほら、こっちに来て触ってみろよ。鼻の上、触ると喜ぶぞ」
ユリアが近づくと、ヴィーラの顔がゆっくりと地上近くに降りてきた。
恐る恐る言われた通りに鼻の上を撫でるユリア。
見た目よりも柔らかな手触りの毛並みがとても心地いい。
ふわふわの毛を梳くように指ですくと、くすぐったいのか、ヴィーラの鼻からブホブホと息が吹き出された。
強い風となった鼻息は、荒れた庭の木の枝を動かし、乱れ落ちた花弁を空に舞わせた。
「こいつ、笑ってるぞ。ユリア、気に入られたみたいだぞ。良かったなぁ!」
「本当?これ、わらって……っ!!?」
言いながら振り返ろうとした瞬間に、ライキに背中をバンッと叩かれ、つんのめってヴィーラの鼻の上にボスンと倒れ込んでしまった。
柔らかな毛並の上に顔が埋まり、加えて背中を叩かれた衝撃のせいで息が止まり、とても苦しい。
もがきながら顔を上げるユリアの呼吸は乱れ、瞳には涙が滲んでいる。
「……ぅっ、イタタッ……もうっ、酷いわ、ライキ」
「っ、ごめんなぁ。俺、力持ちだもんな。これでも加減したんだけどなぁ」
ライキが申し訳なさそうに頭を掻いて項垂れた。
ヴィーラの触角が華奢な背中を癒すようにさする仕草をした後、涙目になっているユリアの頭をそっと撫でた。
ユリアはその触角をそっと握って、ぎょろりと動く大きな瞳を見つめて微笑んだ。
「ありがとう……ヴィーラは優しいのね?」
――こんなに優しいのに、あの日、最初に怖いと思ってごめんね――
ユリアはもう一度鼻の上に体を預け、頬を寄せた。柔らかくてあたたかくて、とても居心地がいい。
暫くすると、肩にそっとライキの手が乗せられたので振り向くと、さっきまでの和んだ表情とは打って変わり、緊張感たっぷりの顔でユリアを見ていた。
「どうかしたの?」
「ユリア、そろそろ屋敷の中に戻った方がいいぞ。うん、何か嫌な気配がする。気のせいだといいけど、この俺の勘、結構当たるんだ。ナーダの傍にいろ。ヴィーラ、お前はもう空に帰れ」
それは、お馴染みののんびりとした口調ではなく、いつもより声が低くて小さい。その様子からかなりの緊迫感が伝わってきた。
ユリアはヴィーラの鼻から手を離し、ライキの方に向き直った。
「ライキ、何か、来たの?」
そう問いかける声が少し震えていた。
イヤでも目に入る、昨夜のままの荒れた庭。もしかしたら、またこんな風になるかもしれない。ラヴルが結界を張り直したから、もう終わったと思っていたのに。
“ユリアを守るためだ”
――ラヴル……私、怖い。
心に浮かぶ、ラヴルの妖艶な微笑み。ドキドキするけど、何故か安心する腕の中。
あの腕の中に入りたい。あの声で“大丈夫だ”って言って欲しい。
でも、貴方は今ここにいない――――
“きっと大丈夫、平気だから”と、何度も自分に言い聞かせても、怖くて体が震える。
得体の知れない恐怖で体が覆われて固まり、全く動くことが出来なくなっていた。
そんな気配を察したのか、うにうにと動き回るヴィーラの触角が、小刻みに震える体を庇うように包み込んでくれた。
「大丈夫だぞ、ユリア。さっき張ったラヴル様の結界は、最高級に強いぞ。他所者は絶対入って来れない。だけど、一応念のためだ。それに、この俺、いるだろう?なんてったって、ラヴル様に頼まれてるからな!絶対守る。だから、ドンと任せろ!」
ライキは絡みついたヴィーラの触角を剥がし、ユリアの震える背中をそっと押して屋敷に入る様に促した。
見上げている黒い瞳が不安げに揺れている。
「なぁ、ユリア、怖いかぁ?脅かしてごめんな。さ、早く部屋に戻れ」
震えながら屋敷に入るのを見届け、ライキは目を閉じた。
――うん、俺、この気配は誰だか知ってるぞ。前に会ったことある。ラヴル様がいない間に来るなんて、おかしなことだ。狙いはやっぱり、きっと、ユリアだぞ――
「ほら、ヴィーラ、お前も行けっ」
ライキがヴィーラの横腹を掌でぺしっと叩くと、翼をバサリと広げふわっと飛び立った。ぐんぐん上昇する体が結界を超えて空に戻ったのを確認すると、気配のする方角を睨みつけた。
――こんな緊張すんのは久々だな。さっきからずっとあそこにいる。気を抑えてるけど、俺はごまかせねぇぞ。あの木の向こうだ――
ライキは慎重に近付いて行った。
結界は最高に強いけど、もしかしたら簡単に通り抜けてしまうかもしれない。結界自体を無効にしてしまうかもしれない。
頭に浮かんでいる者は、それほどに強い相手だった。
ライキは木の傍に立ち、向こうにいる者に声をかけた。
「そこにいるのは、誰だぁ?」
「うむ、ライキか。久しいな。今飛び立ったのはヴィーラだな?」
木の向こうから、低いが耳に良く響く声が聞こえてきた。
ルミナの街くらいなら、ほんの少しの発声で、隅々まで響かせることのできる、それ。お腹にズシと響く重い声色。
こんな声の持ち主は、国中探しても一人しかいない。
「やっぱり、あんただったか」
気配を抑えていても、漏れて来る、静かな恐ろしい威厳。抑えてなければ、生あるもの全てを凍りつかせるよう。
この雰囲気はラヴルにも似ているが、桁が全く違うのだ。
「何で、ここにいるんだ?ラヴル様なら、今いないぞ」
「分かっている。所用でルミナに来たついでに、少し立ち寄ったまでだ」
「所用?ほんとかぁ、嘘っぱちだろ?」
「本当だとも―――しかし、この結界、前に来た時と随分違うな。妙に強固だ。私も迂闊に近付けん。よほど守りたい者が中にいるとみえる」
「そりゃぁ、当然だぞ。ラヴル様の大事な人がいるからな。それにだ、この俺が、留守を任されてるんだ。もし、あんたが結界を破っても、俺が絶対に中に入れないからな」
ライキは両掌を握り締め、瞳に赤い炎を滾らせ睨みつけた。
戦闘態勢に入り込んだライキに対し、木の向こうからは焦りも殺気も漂ってこず、最初と変わらない気配のままそこにいる。
「ふふっ……相変わらずライキは怖いな。殺気は、そんなに簡単に放つもんじゃないぞ。……だが、甘いな。そんなんで私に敵うと思ってるのか?」
「っ、当然だぞ。俺が負けるのは、ラヴル様だけだ」
「ラヴルか、そうだったな。おっと、冗談だ。別に何もしやしないよ。無理に中に入るつもりもない」
ライキの放つ赤い炎のような気が、結界の外まで出てくるのを見て、急いで両手を軽く上げてヒラヒラさせて見せ、敵意のないことを示した。
が。ライキの気は増すばかりで一向に収まる気配が無い。
「そう怒るな。私は戻るとしよう。そろそろ騒がれる。あぁ、このことはラヴルには―――いや、ま、いいか」
――私がここに来たことを知れば、ラヴルは驚くだろうがな……。まぁ、別に知られてもかまわん。どの道、結界の記憶でばれることだ。……うむ、しかし、この香り。確かに、実に似ているな。だが―――
男は遠い記憶に思いを馳せ、愁いを含んだ瞳を閉じた。何を想うのか、懐かしむように唇を緩ませ、何事かを呟くとゆっくりと目を開けた。
「もう、行かねば……。ライキ、またな」
「何言ってんだ。もう、二度と来なくていいぞ」
「そう、嫌うな。この私に、そんな口をきくのはライキだけだな。実に面白い奴だ――」
重低音の笑い声が遠ざかって行く。
ライキは、昂る気と瞳の赤い炎をすぐに消すことが出来ず、暫くその場に立ったまま、男の去った方を睨みつけていた。
―――坂の下で馬車の傍らで佇む背の高い人影。
男が近づくと、丁寧に頭を下げて馬車のドアを開けた。頭を上げると、坂の上に赤い炎のような気が揺らめいているのが見える。
「――っ、あれは、ライキですね?」
「あぁ、少々怒らせてしまったようだ。奴は怖い者知らずの恐ろしい鬼だ――あれは、そなたでも敵わんぞ。なるべく怒らせんことだ」
「……はい。――――あ、それはそうと、いかがでしたか?」
「うむ、報告の通り、感じる気配は似ている。だが、恐らく別人だろう―――まぁ、実際会ってみないと分からんがな」
「では、一度、お連れ致しましょう。お会いになった方が宜しいです。大変美しい方ですよ」
「――うむ……いや、いい。何もするな」
―――私から、会いに行く―――
男は屋敷の方を振り返り見て静かに微笑み、馬車に乗り込んだ。