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――――あたたかな日差しの中、一人の黒髪の少女が庭を駆けまわっている。


サラサラと髪をなびかせ、花咲く花壇の間を抜けるように走っている。


少女が身につけているのは、胸元に小さなリボン飾りがあるだけのシンプルな白いワンピース。


靴は履いておらず、サンダルのような紐で縛るタイプのものを履いて、何かから逃げるように走っていた。


追いかけているのは侍女姿の若い娘。


手には綺麗な布で作られたドレスと靴を持っていた。


すばしっこく逃げる小さな体を追いかけ、息も絶え絶えの体でヨロヨロしている。


“……様、お待ち下さい。そんなに走られては、危のうございます”


“いやよ。そんなきゅうくつなの、きたくないもの”


“ですが、此方をお召しになりませんと―――あぁっ危ない!!”



青ざめ口に手を当てる侍女。少女の脚が石に躓き、今まさに倒れようとしている。



“おっと―――お転婆姫様。いけませんな。その様な姿で走り回っていては”



鍛えられた腕が倒れゆく体をスッと支えた。


軽々と抱き上げられる小さな体。幼い瞳に映るのは、筋骨隆々の鍛えられた体。腰には剣を差し、簡易な鎧を身につけている。


窘めるような色を宿したブルーの瞳が、幼い少女を見つめていた。



“きゃ、だんちょー。ごめんなさい……だって……”


“だって、では御座いません。今からパーティに出かけられるのでしょう?早くお着替えになりませんと。侍女を困らせてはなりません”



ストンと侍女の前に下ろされる少女。



“はーい……ごめんなさい”



ぷぅっと頬を膨らませて不服そうに呟き、少女は侍女に手を引かれ歩いていった―――――





―――――あれは、誰――――?



ユリアはゆっくりと目を開けた。


今見たのは、何?……もしかして、私の子供の頃の記憶―――?



姫と呼ばれていた。それに確か、侍女に名前を呼ばれていたわ。えっと……。



ユリアは懸命に今見た夢を思い返していた。


会話や風景は思いだせるのに、肝心な名前と相手の顔がおぼろげで、すっぽりと抜けている。


私は、誰――――?






「ユリア様、お目覚めですか」


「……おはよう、ナーダ」


少し元気のない様子のユリアをチラッと見やり、ナーダはクローゼットからドレスを取り出しながらポソっと言った。


「ラヴル様でしたら、昨夜はケルンの屋敷で休まれました」


「え?」


不思議そうに見つめるユリアの枕元にドレスを置き、ナーダは朝食の乗せられたワゴンの方に歩いていく。


ワゴンをガラガラと動かしながら再びポソっと言った。


「あぁ見えますが、ラヴル様は大変誠実な方です。ご心配なさらなくても、ケルンには女性はおられません」


「あの……」


「もう少しお待ち下さい。きっと、すぐに会いに来られますよ」


――ナーダはさっきから何を言っているの?――


「あの、私、何も聞いてないんですけど……」


すると、ナーダは少し顔色を変えた後、瞳を伏せた。


心なしか頬が赤く染まっているように見える。



「ほら、ユリア様。早く起きてお着替えになりませんと、また不躾にドアが開けられます」


「え?本当に、もう来るの?」


ユリアは起こしかけた体を再びベッドに沈めた。


もし、着替えてる途中で来られたら堪らない。


――ラヴルが来るまで、着替えない方がいいみたい……。でも、もし、来なかったら――?


ユリアが起きるか起きまいか迷っていると、大きな声がドアの向こうから響いてきた。


『ユリア様!おはようございます!ツバキです!』


ほらね、というように肩をすくめたあと、ナーダはドアの方をキッと睨んだ。


バッと開かれたドアの向こうに、妙に姿勢よく立つツバキと、その後ろで静かに佇むラヴルが見える。


「ラヴル様、ユリア様はお目覚めになられたばかりで、まだお着替えになっておりません」


「分かっている。だが、ナーダも昨夜のことは知っているはずだ」


「御心配は分かりますが。ラヴル様が手配した夜の守りのおかげで、ユリア様には傷一つ御座いません。ユリア様に嫌われたくないのでしょう?でしたら、着替えが終わるまで、此方でお待ち下さい!」


鼻息も荒く、有無を言わせぬ迫力できっぱりと言い渡し、ナーダは後ろ手でドアをパタンと閉めた。


「ユリア様、お早く着替えを済ませて下さい」


ナーダはベッドからもそもそと起き出したユリアに、着替えを押し付けて急かした。でないと、待ちきれなくなったラヴルが入ってきてしまう。

昨夜のことがあるとはいえ、こんな早朝に此方に来られるなんて、ラヴルは相当ユリア様のことを気にかけている。


このか弱い人間の娘を。


ナーダは急いで着替えをしているユリアを観察するように盗み見た。目覚めた時は元気のない様子だったけど、ラヴルの顔を見たせいか瞳に少し力が戻っていた。良い傾向なのか、そうでないのか、ナーダにはよく分からない。


ユリアが脱いだ夜着を拾い、いそいそと洗濯かごの中に入れるとナーダは朝食の準備に取り掛かった。


こうしていても、ドアの向こうからラヴルのイライラとした気が部屋の中に入り込んでくる。


早く会いたいという気持ちがヒシヒシと伝わってくる。もう限界かもしれない。

ユリアをチラッと見やると、既に着替えは済み、鏡の前に座って髪を整えていた。


もう中へ入れても良いだろう。早くしないと、ラヴルの機嫌が悪くなるかもしれないのだ。


たかがこれくらいのことで、とも思うが、ユリアを迎えてからのラヴルは以前と少し違うように思える。


昨夜部屋に呼ばれた時そう思ったのだ。


今までとどこか違う、と。


それに、ラヴルは一旦機嫌が悪くなると手がつけられなくなる。普段穏やかな分、怒った時は言葉では言い表せないほどに、恐ろしい。


ナーダは以前見た光景を思い出して身震いをした。


まぁ、こんなことで怒る方ではないけれど……。


そう思った途端、ドアの向こうから静かだが少し苛立った声が聞こえてきた。


『ナーダ、まだ駄目か?もう待てん。入るぞ』


ドアノブに手をかけようとした瞬間、ナーダの手が空を舞い、ドアが音もなく開けられた。


コツンと靴の音を鳴らし、ラヴルが部屋の中に一歩入り込んだ。


「……、もう良いだろう?」


ドアを開けたまま、一応確認するラヴル。


待ちきれなくなってドアを開けてしまったが、もし着替えが終わっていなかったらユリアの機嫌を損ねるかもしれないのだ。


笑顔が見たくて、可愛い顔が見たくて、一番にここに来たのに、ぷぅっと膨れた頬はなるべく見たくない。


ナーダは空で止まっていた手を慌てて引っ込め、一歩下がって頭を下げてラヴルを迎えた。



「はい、ラヴル様。お待たせいたしました。どうぞお入りく下さい」


「うむ」


さっと部屋の中を一瞥しある地点で留めると、そこに真っ直ぐ向かっていく。


朝日の差し込む部屋の隅で、ユリアの綺麗な黒髪が櫛からサラサラと零れる。その姿がラヴルの瞳にはとても眩しく映る。


「おはよう、ユリア」


挨拶もそこそこに髪を梳く手から櫛を奪った。


驚いた様子で此方を振り返り、仰ぎ見たユリアの薄紅色の唇が「ラヴル?」と呟いた。


手は取られた櫛を奪い返そうと空を舞っている。


その手を掴み、指先にそっと口づけをした。



――心配していたが、元気そうで良かったな――



頬を染め、慌てて手を引っ込めるユリアの様子を見ると、少しは自分のことを想ってくれているのかと思い、自然に口元が緩む。


「私が髪を梳く。ユリアはちゃんと座って前を向いていろ」


肩に手を置き椅子に座る様に促し、頭を鏡の方に向かせた。


窓の外に気を向けると、結界の外に数人の黒い影の気配を感じる。



――……先程追い払ったが、まだいるか。やはり結界が綻びている。張り直さないとならないが……―――


「ユリア、昨夜は怖くなかったか?」


サラサラのストレートの髪を丁寧に梳く。ユリアの髪に触れているだけで心が落ち着くのだ。


「平気です。ライキが守ってくれましたから。ライキはとても強かったわ。あっという間に倒してしまって、おかげで安心して眠れました」



そう言ったあと、ユリアは思い出したようにクスッと笑った。



「何が可笑しい?私が髪を梳くのがおかしいか?」


「いえ、そうではありません。ライキは強いけれど、少し変わってますね」



そう言うと再びクスクスと笑っている。やはり笑顔が一番いいと思う。



「あぁ、そうだな。そうかもしれん。あいつは鬼だからな、私たちと少し違う」


「え?鬼、ですか?」


「あぁ、だから強い。ついでに言うと、ツバキもだぞ?」


「ツバキも、ですか?」



もう少し驚くかと思ったが、意外に落ち着いた反応に少し驚くラヴル。


鏡の中のユリアは、瞳を少し伏せた後、合点がいったような表情をして小さくうなずいていた。


少しずつ環境に慣れてきているのか。人間のユリアにとって、魔物ばかりのこの国は住みづらいと思っていたが、案外順応性があるのかもしれない。



「ユリア、少し力を貰いたいんだが、いいか?」


「力を?どういうことですか?」



鏡越しにユリアの瞳がラヴルの漆黒の瞳を見つめ、不思議そうな顔をしている。

きっと、全く意味が分かっていないのだ。


「ユリアを守るためだ。出かける前に結界を張り直しておきたい。いいな、貰うぞ」


強引でいつも有無を言わせないのだが、珍しく了解を取ろうとしていた。


ユリアの返事を待つように鏡の中を見つめている。


しかし、それも束の間のこと。元来の性格はそうそう変えられるものではない。


すぐにラヴルは櫛を置き、どういうことか分からず戸惑っている様子のユリアを後ろから抱き締めた。


耳にそっと口づけをして


「ユリアの血を貰うぞ?」


と囁くと体がビクッと震えて少し堅くなった。


「待って……あの、今――?」


「あぁ、そうだ。ユリア、そう緊張するな」


ユリアは血を吸われると、自分がどういう状態になるかもう分かっている。


体の芯から蕩けるような恍惚感に襲われる。


さすがに朝からそんな状態になりたくない。そう思ったのか、ユリアはラヴルの腕の中から逃れようとし始めた。


逃げないようにがしっと頭を包み込み、額に掌を当て、指先で首筋を撫で始めた。


こうするとユリアの固くなっていた体が少しずつ解れていく。


本当は抱いた後の方が力のある血が貰えるが、生憎今は時間が無い。


ユリアの体の力が抜けた事を確認し、頭部を支え、白い首筋に唇を乗せた。


牙を立てると体がぴくっと震え、徐々にぐったりとし出し腕の中に体が預けられていく。


愛らしく頬を染め、唇からは吐息が漏れ始めると、ラヴルの体に力が漲っていく。


昨日失っていた力は一晩寝て戻ってはいるが、どうしたって昼間のラヴルは夜よりも、弱い。


他の者も少しは力が弱まるが、ラヴルは飛びぬけて夜と昼の力に差があった。


唇を離し、ぐったりとした体をしっかり支えたまま屋敷の外に気を向けた。



屋敷を囲む空間がぐにゃりと歪み、庭の草木が揺れてさわさわと音を立てた。


屋敷の上の中心空高くから、外と中をすっぱりと切り離すように、見えない膜が球状にスーッと降りてくる。


数秒の間に昨夜よりも強固な結界が張られ、日の光に当たって一瞬キラリと光った。


空を飛んでいた大きな鳥が膜に弾かれ大きく方向転換をし、屋敷の中を窺うように見ていた黒い影達もビリっとした結界に触れ、悔しげに唇を噛んだ。


結界の近くにいるだけでやけどしそうになる。


影が一つ減り、二つ減り、ラヴルが最初に確認した影は最早一つもない。


それを確認すると、ラヴルはホッと一息を漏らした。


「うむ……これで少しはもつだろう」


ラヴルは血が滲みでている白い肌に口づけをし、何度か指でなぞって傷口を塞いだ。


触れるたびにユリアの体がぴくっと動く。可愛らしい反応を示す、初々しい色香を放つ甘い体。


時間が無いというのに、このままベッドに運んで抱きしめたい衝動にかられる。


腕の中の体をゆっくり起こし、昂る気持ちをなんとか沈め、ユリアの顔を覗き込んだ。



「ユリア、また夜に来る。それまでいい子にしてるんだぞ」



ぼんやりとした潤んだ瞳で、無言で頷くユリアの頬に指先でそっと触れ、頭をポンポンと優しく叩いた後、ラヴルは足早に部屋から出ていった。



『ツバキ、行くぞ』


『はいっ、今行きます!』



ラヴルと入れ替わりに入ってきたナーダは、まだ心ここにあらずの様子のユリアを見て、腰に手を当ててため息を吐いた。



――もう、ラヴル様ももっと手加減なさればいいのに――



体を揺さぶり、大きな声で言った。



「ユリア様、お早くお食事なさってください」





***






ラヴルがツバキと一緒に屋敷を後にした数刻後―――


屋敷の傍、強固に張り直された結界の外でこっそりと佇む一つの人影があった。


黒い瞳の見つめる先には、不用心にも窓が開け放たれた大きな部屋。


そこから結界の外まで僅かながらにも漂ってくる何とも言えない甘い香り。


ユリアが放つ香しい香り。




こんなに極上の香りを放つとは……。


残り香が漂うのも無理はない。


やはり思った通りの者が屋敷の中にいる。


ラヴルはどうやって手に入れたのだろうか。


それが不思議でならない。




キラリと光る結界に指先を当ててみた。


途端にビリビリとした電気のようなショックが体中を駆け巡り、苦悶に顔を歪める。


慌てて手を引っ込めると、指先はやけどをしたように真っ赤に腫れあがっていた。


体は痺れてしまい、少しの間はまともに動けそうにない。



「……チッ、流石だな。力が弱まる昼間でもこんなモノが張れるとは。これでは容易に近付けん」



結界を睨みつけ、さてこの先どうやってこれを突破しようかと思案を巡らせていると、のんびりとした口調の男の声が聞こえてきた。



「おい、そこに誰かいるのかぁ?もしいるならこの俺が追い払うぞ。だから、逃げるなら今のうちだぞ。なんと言っても、この俺、結構強いからな」



――っ……この声は、鬼のライキ。そうか、こいつがいたか。これは、まずい―――



まだ痺れて動きづらい体を叱咤し、這うようにしてその場を離れた。


今はまだ見つかるわけにはいかない。


待たせていた馬車に乗り込むと荒い息を整え、車窓から広大な屋敷を仰ぎ見た。


暫く睨むようにしたあと、従者に命じた。


「戻る。出せ」


馬車は静かに進み出し、坂をゆるゆると下って行く。


“連れて来い”


ラヴルはこのことをまだ知らない。


いや、知られてはならない。


秘密裏に動かなければ―――

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