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「髪はもう下ろしておけ。その方がいい」


馬車に乗り込むと、早速ラヴルの指が髪を解き始めた。器用な指が一つ一つアクセサリーを外し、隠れているピンを一つ一つ取っていく。


ストレートの長い髪がサラッと背中に落ち、長い指がそれを丁寧に梳いた。



「うむ、やはり私はこの方が好きだ。この方が落ち着く。で、ユリア。何故あの時声をかけなかった?」


「は……?あの時って、何のことですか?」



何のことか分からずにラヴルを見上げると、髪を弄っていたラヴルの手が急に腰にまわってきて、体ごとずるっと引き寄せられた。


もう片方の手も背中にまわってきて、顔が胸に押しつけられ、体がすっかり密着した状態になってしまった。


抱かれる際、咄嗟に手を体の前に出したおかげで、顔と逞しい胸の間に隙間があって何とか呼吸は出来るが、それが無ければ息苦しいほどにラヴルの腕は力強く引き寄せている。



――もしかして、私が逃げるとでも思っているのかしら。ずっとむっすりしていたし……。何でも良いけど、もう少し緩めてくれないと―――



「離して下さい。少し、苦しいです」


「……それは無理だ」



胸に置いた手に力を入れて少しでも離れようとしたら、却って腕の力が強まってしまい、余計に苦しくなった。諦めて大人しくしていると、耳元で囁くような声が聞こえてきた。


鼓膜をくすぐるような、低い声。



「ドアを開けてあっただろう。離れるなと言った筈だ。何故一人で外に出た?おかげで私はかなりの距離を走らされ、あいつの毒を消すはめになった。この代償は大きいぞ?さて、何で返して貰おうか―――」


「……そんな……何かで返してと言われても、困ります……。私、何も持ってませんから。それに、ラヴルは“待ってる”て言ったのに、なのに、何処にもいなくて。だから私、外にいるものだと思ったんです。でも、ドアが開けてあって気付いたとしても、あんな時に声はかけられません。女性の方と、あんな風にしてて」



背中に当てられていた腕がスッと少し弱まり、息苦しさが消えてホッとしていると、ラヴルが訝しげな声を出した。



「あんな時、あんな風……?ユリア、何のことを言っている」



考え込むように暫く黙りこんだ後、思い当たる節が無いとでもいうように、顔を覗き込んできた。



「―――ユリア、こっちを見ろ。ちゃんと話せ」


「部屋の中に女性の方と二人でいて、“愛してる”と言ってたわ。切なそうで、とても綺麗で……。特別な方なんでしょう?二人でいるのに、私にはとても声をかけられません」


「……愛してる―――?あぁ、あれか。あれは……」






***




“彼女は友人だ。悩みがあると相談を受けていた。私が血の契約を結ぶのは一人だけだ。しかも最近それをしたばかりなのに、他のレディに心を移すわけがないだろう。それよりユリア、お腹が空いてないか?”



そう言って、あのあと湖が見える綺麗なお店に行って、とても豪華な食事をしてきた。


馬車は坂道をゆるゆると登って行き、玄関前に静かに停まると、連絡があったのか待ちかまえていたツバキがサッとドアを開けた。


「お帰りなさいませ」


屋敷からいそいそと出てきたナーダの目が、ユリアの姿を映すとどんどん大きく開かれていった。


長い指でユリアの髪を整えるように触った後、腰に手を当ててキッとラヴルの方を睨んだ。



「ユリア様の髪を弄らないでください。崩れますから、と何度もお願いしたではないですか。まったくもう」


「すまんな。だが、ここまで崩したのは、私のせいばかりではないぞ?なぁ、ユリア?」


「どうやれば、ここまで見事に崩れるんですか。というか、何故解いたのですか。まったく」



ぶつぶつ言いながら睨んでいるナーダに、アクセサリーやピンやらを手渡し、ラヴルはツバキに何かを耳打ちして、階段を上がって行った。


その姿を見送って部屋に戻ろうとすると、ツバキが腕を引っ張った。



「ユリアはこっちだ。ラヴル様が先に湯に入る様にって……。あ、ナーダ、ラヴル様が上に来るようにって言ってたぞ。何か話があるみたいだ。ユリア行くぞ」



長い廊下を歩き、連れて行かれたのはとても大きなドアの前。


しかも、脱衣所にはメイドが3人も控えていた。


皆待ちかまえていたようで、ユリアを見ると無言で頭を下げた。


ツバキがぴっちり扉を閉めると、メイドたちはサササと近くに寄ってきて、ドレスを脱がせ始めた。


「あ……自分でできますから。ちょっと……あ、待って下さい」


ユリアが戸惑った声を上げてる間にも、スススと手際良く脱がされていき、サササと運ばれ、湯の中にトプンと沈められていた。



湯煙にけむる浴室はとても広い。壁から湯船に至るまで、すべてが白い石で作られている。


真正面の壁には、頭に二つの角を持ち、大きく開けた口の端に大きな牙がニョキっと生えた、怖い顔の彫刻が嵌めこまれている。


その恐ろしい顔の口から、湯が絶えずドバドバと湯船の中に流れ込んでいる。


湯の中には香草がたくさん入れられていて、花の香りが漂い、とても気持ちいい。ぽやーとしていると、成すがままに3人がかりでゴシゴシと体を洗われ、テキパキと体が拭かれ、あっという間に夜着の姿になって部屋に戻されていた。


風呂上がりのほてった体を夜風に晒し、ぼんやりと外を眺めていると、後ろから延びてきた腕にふわっと体を包み込まれた。


「ユリア、そろそろ機嫌は直ったか?」



丁度顎の下辺りに絡められたラヴルの腕が、どんどん閉められ、ススと体が引き寄せられる。頭の上から髪の匂いを嗅ぐ小さな音が聞こえてきた。


「甘くていい香りだ。ユリアの香りは落ち着く」


「……あの……ありがとうございました」


「―――?何のことだ。それは機嫌が直ったという答えなのか?」


訊ね返すラヴルの唇が、髪に何度も落とされる。


「違います。襲われていたところを助けてもらって、それに、あの毒も……。その、お礼です」


「ユリアを守るのは当然の私の役目だからな。礼なんか言う必要はない。ユリアは―――っ…………」



言いかけた言葉を飲み、急に口を噤むラヴル。大きな掌がユリアの口をそっと塞いだ。


豹変したラヴルの雰囲気に、何が起こったのか不安になりユリアも息をひそめる。


部屋の中は物音一つしない。もちろん窓の外も、変わらない夜の闇があるだけ。



さっきからラヴルは微動だにしない。何かに集中するように息を潜めてる様子が、ユリアの背後から伝わってきた。



「……不粋な……」


ぼそりと呟いた後、口を塞いでいる手が何度かピクッと動く。


ラヴルは、ユリアの体を窓から離すように、自分の体で隠すように脇の辺りで抱え直した後、テラスに向かって掌を差し出した。


瞳がすーっと赤く染まっていく。と、同時に、外の木がザザザッと大きく揺れ、ドンと何か重いものが落ちたような音と、微かなうめき声のようなものが外から聞こえてきた。


木の枝は、名残でガサガサと揺れたままで、相当大きなものがそこにいたことが容易に想像できた。


何が起こっているのか分からずにラヴルを見上げると、眉根を寄せて窓の向こうをずっと睨みつけていた。無言のまま外を見据える瞳から、緊迫感が伝わってくる。


「あの……、ラヴル、何が起こってるんですか?」


「しっ……ユリア、静かにしてろ。私の腕の中から出るな――――」


低い声で早口で言われ、ユリアの緊張感が高まっていく。どう見ても普通でないラヴルの様子が怖くて、言われた通りに体を寄せて息を殺していると、体の向きをくるっと変えられ、顔が胸にぎゅっと押し付けられた。ユリアの体は、まるで見えないものから守る様に、細い体に覆い被さるように、すっぽりと腕の中に入れられた。


気配を探る様に、漆黒の瞳が部屋の中を注意深く彷徨う。


「……チッ……こんなときに。結界を掻い潜ってまで来るとはな―――」


その瞳が部屋の中のある一点に留まり、そこに空気を裂くような鋭い視線が注がれた。


暫くすると、見つめる先のドアの辺りがゆらりと揺らぎ、何もなかった空間に、霧のようなものがもやもやと現れ始めた。それが縦に長く伸びて徐々に人の形を成していき、一人の若い男性の姿になった。


「お久しぶりで御座います。ラヴル様」


ウェーブのかかった短めの金髪に温和そうな青い瞳。跪き丁寧に頭を下げた様は、前触れもなく突然侵入してきた賊だとはとても思えない。


その姿を見てラヴルの緊張が少し緩んだのか、腕がふわっと緩まり発する声色もいつものものに戻っていた。


「ケルヴェス、外にいた者は貴様が放った者か?こんなところにまで何の用だ。事によっては許さんぞ」


ケルヴェスは瞳を伏せ考え込むそぶりを見せた後、ラヴルを真っ直ぐに見た。


「外の者とは―――?何のことでしょうか。私は一人で此方に参りましたので。……ですが、お気をつけください。結界は紙を破るがごとく簡単に抜けられました。あの様子では、2級の者でも破ることが出来ましょう。ほら、また―――」



ケルヴェスが促すように窓の外を見やると、ラヴルが忌々しげに舌打ちをした。その瞬間、テラスの向こうから小さなうめき声が響いてきた。


「貴方様らしくもない。随分力が弱まっておられるようです。原因は、そちらの、抱えておられる美しいお方ですか?」


「貴様が知る必要はない」


ケルヴェスの温和な瞳が鋭いものに変わり、胸に掻き抱かれている黒髪の娘を調べるように見つめた。


ケルヴェスの言葉を聞いたユリアは、ハッとした思いでいた。



――ケルヴェスの言う通りなら、きっとこの体の毒を取り除いたせいだわ。結界はラウルが張ってるってライキが教えてくれた。他所者を入れないように、私を守るためだって言ってた。その結界が弱くなってるなんて――――



ユリアは胸に押しつけられた顔を何とか剥がし、ラヴルを見上げて言った。


「ラヴル、やっぱり体調が悪いんでしょう?」


「いや、少し疲れているだけだ。ユリアは気にしなくていい」


「でも、休んだ方がいいわ」


ラヴルは、いや、休むよりも・・・と言いながら体を包んでいた腕を緩め、心配そうに見上げているユリアを見下ろした。口元は緩まり、疲れていたはずの瞳がキラリと煌いている。



「……ユリアを食べた方が、私には良い疲労回復になるんだが。そんな風に心配してくれるということは、もちろん協力してくれるんだろう?機嫌は直ったようだしな」


「え?何を言ってるんですか……ち、ちょっと待って。あの、ラヴル、あの方の用事は―――?」



ユリアにそう言われ、今にも抱き上げようとしていた手を止め、ラヴルは深くため息をついた。恨めしそうに、ドアの前で無言で立っている金髪の男を睨む。


脚元から不機嫌そうに背中に戻された腕の中で、ユリアはホッと胸をなでおろしている。まったく、危ないところだった。



「ケルヴェス、一体何の用で来た。早く言え。見ての通り私は今、忙しい」


いかにも機嫌が悪そうな口調でジロリと睨まれ、困惑の表情をしながらもケルヴェスはラヴルの傍に近寄った。ラヴルがいくら忙しかろうが、兎に角用件を伝えなければならない。


一歩ずつ近寄るたびに、ユリアの体を抱いている腕がきつく締められていく。


そんな気配を察し、腕の中のユリアを気にしつつ、ケルヴェスは遠慮がちに口を開いた。



「大事な話です。少し、その方を遠ざけて頂けると宜しいのですが」


「このままでいい。ユリアのことは気にするな。彼女は何を聞いたとしても、決して口外しない」



ケルヴェスは唇を引き結び、迷ったようにユリアを見つめている。その表情を見たユリアは、身動きのしづらい中、なるべくケルヴェスから離れて顔をそむけ、話を聞く気が無いことを態度で示した。



「――――いいでしょう、分かりました。では、失礼致します。ラヴル様、少々御耳を宜しいでしょうか」



ラヴルの耳元でケルヴェスの唇が僅かに震えるように動いている。唇が動くたびに、ラヴルの顔が徐々に顰められていき、眉間に深い皺が刻まれた。


「セラヴィが……?」


「はい。お早く、との仰せです」


「よりによってこんな時に―――分かった、仕方ないな。すぐに行く」


守るように抱き締めていた腕が離され、大きな手が細い肩に乗せられた。ラヴルの体がすっと屈められ、漆黒の瞳がユリアの視線の位置まで降りてきた。いつも不敵に輝いている妖艶な瞳が陰り、少し辛そうに見える。


――やっぱり体調が悪いんだわ……――


「ユリア、今から出かけなければならなくなった。今夜は一緒に過ごせない。寂しいだろうが我慢してくれ」


「……。私は、平気です」



ふぃっと横を向くユリアの頬に、ラヴルの唇がそっと触れた。


ゆっくりと離れていく唇が「明日、また来る。それまでいい子で―――」と言った。


ポンポンと頭に置かれた手が、とても優しく感じる。


離れていく大きな手がやけにゆっくりに感じる。



――どうして?なんだかこのまま逢えないような、そんな気がしてしまう。ケルヴェスは悪い人には見えないけれど、何か不安を感じてしまう。どこか遠くへ連れて行ってしまって、二度と逢えないような―――


離れていく体を追いかけるように、いつの間にか手が伸びていた。


ピタッと動きを止めたラヴルの脚。少し驚いた瞳が、遠慮がちに腕を掴んでいる白い手の上に向けられた。


長い指が、白い手の甲をくすぐる様にするっと撫でる。


振り返った漆黒の瞳に映るのは、不安げに見上げているユリアの少し潤んだ黒い瞳。


「どうした?ユリア」


「あ、ごめんなさい。あの……」


パッと手を離し、口ごもりながら俯くユリア。目の前の自分の手を見つめ、どうしてそんなことをしてしまったのか、自分でも理解できないでいた。


ラヴルは、腕から逃れていったその白い手をすかさず掴んで両掌の中に包み込み、不安そうに揺れるユリアの瞳をじっと見つめた。


「一緒に連れて行ってやりたいが、今回はそういうわけにもいかない。だが、こんな事を思うのは初めてだが……、これが例え不安に思う気持ちからだとしても、こんな風に引き留められるのは嬉しいものだな。なるべく早く戻る」


手の甲に口づけを残し、ラヴルはケルヴェスと一緒に部屋を出ていった。





広い部屋の中、一人佇むユリア。



―――寂しい―――



急に心に浮かんだ想い。妖艶にからかうような瞳。


人がいても、なりふり構わず触れてくる長い指。


苦しいくらいに抱きしめてくる逞しい腕。


とても困っていたはずなのに……あの方はとても怖い方なのに……こんなのおかしい……。


会って間もないのに。


私は買われた身で、ラヴルはご主人様。


二人の間は、愛情などというもので結ばれてはいないのに、どうして寂しいなんて思うのかしら。


きっと、私にはラヴル以外に頼る方がいないからだわ……。


“お前のような者は珍しい”


オークションで、あの時男に言われた言葉がふっと浮かんだ。


そう。今はまだ珍しいから寵愛を受けていられるけど、そのうち飽きられる。


そうなったとき、行く宛てのない私は、この屋敷に住むことは許されたとしても、ラヴルはもう逢いに来てはくれない。


今の私にしてくれてるように、他の方の元に毎日逢いに行くわ。


私は、愛しい人をただ待つだけの日々を送ることになる。何をすることもなく、来ない人を想い


昇る朝日と沈む夕日を数えるだけの日々―――



考えるだけで、想像するだけで、こんなに胸が苦しくなる。


そんなのは嫌。


だから、心を固く閉ざしておかないと。好きにならないようにしないと……―――――




「おーい、ユリア。聞こえるかぁ?俺だ、ライキだ」


テラスの向こうから不意に聞こえてきた、のんびりとした男の声。


テラスに出て下を覗き込むと、ライキがニッコリ笑って手を振っていた。夜なのに麦わら帽子をかぶってる。


ユリアは手を振り返しながら、クスッと笑みを漏らした。やっぱりライキは少し変わってる。



「俺が、ラヴル様に頼まれたんだ。ユリアを狙う者からここで守れって。この俺が、だ。だから、ここにいるから、お前は安心して寝ていいぞ」


「ライキが守ってくれるの?それなら安心して眠れるわね。ありがとう」


胸をドンと叩いたあと腰に手を当てて見上げているライキ。


その背後で黒い影がサッと動いた。


それに気付いたライキは、目にもとまらぬ速さで振りかえり、その影を捕まえ引き倒し、あっという間もなく組み伏せて一撃を加えていた。


その場にぐったりと倒れた影の首根っこを、むんずと捕まえてライキは立ち上がった。



「―――な?この俺が、こんな風にお前を守ってやる。どうだ?こんな俺、結構強いだろ?だから、安心して寝ていいぞ」


そう言うと、ライキはぐったりとした影を引きずって、庭の向こうに消えていった。


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