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「ユリア様、今夜の食事はラヴル様が外で御一緒に、とのことで御座います。此方にお着替えになってお待ち下さい」
そう言って差し出してきたのは、黒いサラサラとした布の綺麗なドレス。布に何が織り込まれているのか、光りに当たるとキラキラと煌いている。
ユリアはぴらっと広げて体に当ててみた。
線が細くて、ノースリーブで、襟ぐりが広くて、なんだかとっても色っぽいような……。こんなのを着たら、体の線がはっきりと分かってしまいそうだ。
「それはラヴル様がお選びになりました。今夜はそれを着て出かけるそうで御座いますので、お早くお着替えを」
―――これを着るの……??
こんな色っぽいドレス、私にはとても無理だわ……それに、出かけるって何処に行くのかしら――
「あの、ナーダ、これ―――私には」
―――コンコン!『ユリア様!入ります!』
廊下からツバキの叫ぶような声がしたと思ったら、ドアがバンッと大きな音を立てて開かれた。
ナーダがすかさず入口の方をじろっと睨み、それを見たツバキが、ドアのノブを持ったまま首をすくめて“しまった”と言う顔をしていた。
その背後に、ラヴルが静かに立っている。
「ツバキ様、ユリア様はまだ着替えておりません。出て行って下さい。ラヴル様も。どうぞ出て行って下さい」
腰に手を当ててきっぱりと言うナーダの声を無視し、ラヴルはスタスタと部屋の中を進み、黒いドレスを持ってぼんやりとしてるユリアの傍に近付いた。やっぱり夜のラヴルは、驚くほどに足音を立てない。
「ユリア、まだ着替えてないのか。それが気に入らないのか?」
「そうではなくて……あの、こんな大人っぽいドレス、私に似合うとは思えません」
頬を染めて、今にも泣き出しそうな表情のユリア。
―――ナーダのように背が高くてスタイルが良ければ似合うだろうけど、私は背も高くないし、胸もないんだもの……―――
「何言っている。ユリアにはそれが似合うはずだ。一人で着替えられないのなら―――」
ユリアの肩にそっと左手が置かれ、背中にもう一方の腕がまわり、ファスナーの金具に触れた。
「―――私が、着替えさせてやろうか?」
ラヴルの漆黒の瞳が妖艶に輝き、ユリアを見下ろしている。
金具を持った指がジリジリと下におろされていけば、背中に冷たい夜気が感じられ、焦るユリア。
「……っ!ぃいえっ、結構ですからっ」
「私はユリアの全部を知っている。遠慮するな。今更恥ずかしがることではないだろう?」
「ダメです。あの……一人で着替えられますから。外で……外で、待っていてください」
黒い瞳には涙がじんわりと滲み、左手で黒いドレスを胸のあたりでしっかり握りしめ、右手でラヴルの体を懸命に押している。
ユリアは恥ずかしくて泣きそうなのに、それを見てラヴルは何故かクスクスと笑っている。
――ラヴルはとっても意地悪だわ!――
ユリアはありったけの怒りを込めて、ラヴルをじろっと睨んだ。が、それでも楽しげにクスクスと笑っている。
「そんな可愛い顔で睨んでも、ちっとも怖くない―――あぁ分かった、分かった。外で待っている。だから早く着替えろ。ナーダ、ユリアを頼む」
いつの間にか部屋の外に出ていたナーダを呼び戻し、交替するようにラヴルは部屋の外に出ていった。
ユリアはため息をつきながら、黒いドレスを見つめた。
「どうしてこれが似合うって思えるのかしら。期待はずれにならないといいけど」
黒いドレスに袖を通すと、ナーダが早速メイクと髪をセットし始める。
ナーダの手が手際良くユリアの顔の周りを動き、あっという間に一人のレディに仕上げていく。
うっすらとメイクが施され、ストレートの黒髪はふんわりと結いあげられ、耳と胸元には大きな宝石が煌いていた。
似合わないものだと思い込んでいた黒のドレスも、白い肌によく映え、自分で思うのも何だが、意外と着こなせていた。
――これが、私なの?――――
ユリアは鏡の中を信じられない気持で見つめていた。
「ラヴル様、どうぞ―――」
ナーダの呼び声に導かれるままに静かに入ってきたラヴルは、鏡の前で佇んでいるユリアを見て、満足げな微笑みを浮かべた。
「ユリア、綺麗だ……。さぁ、行くぞ」
そう言ったラヴルの腕がユリアの目の前に差し出されている。
それを見て、どうしていいのか少しの間迷っていた。この腕のどこにどう捕まればいいのか分からないのだ。
迷っていると、ラヴルが白い手を掴み、自分の腕にグイッと誘導して乗せた。その手が重ねられたまま、真剣な瞳が黒い瞳を見つめている。
「いいか、絶対に私から離れるな」
「はい……あの、今から何処に行くんですか?」
「今宵はヤナジの夜会に行く」
「夜会、ですか?」
夜会なんて初めてのことで、どんなもので何をしたらいいのか、ユリアには分からない。
「私が行ってもいいのですか?」
不安そうに見上げていると、ラヴルの長い指がそっと頬を撫でた。
「心配するな。ユリアはこうして私の腕に掴まっていればいい。行くぞ」
ラヴルの柔らかなエスコートに従いゆっくり歩き始めると、今回はヴィーラではなく普通に馬車で出かけるようで、そのまままっすぐ玄関に向かっていた。
玄関では、こんなに今までどこに隠れていたのだろうと思うほどの、沢山のメイドや使用人が並んでいて深く頭を下げていた。
両側に壁のように居並ぶ沢山の使用人たちの真ん中を堂々と歩くラヴルと、どこか緊張気味に楚々と歩くユリア。
ユリアが傍を通ると、ぴくんと身動ぎをする者もいる。
ラヴルがそれに気付くと漆黒の瞳がすぅっと細まり、射るような赤い光を瞬間的に放った。
身動ぎをした使用人は頭を下げたままだが、顔は苦しげに歪み、額には汗が滲んでいるのが見える。
ユリアは、ラヴルと使用人たちのそんなやり取りに、当然気付くはずもなく、これから向かう夜会の場に思いを馳せていた。
初めてラヴルと一緒に向かう社交の場。
きっと身分の良い方ばかりが集まっているに違いない。
迷惑をかけないためにも、粗相をしないようにしないといけない。
そう考えると緊張してしまい、ユリアの顔がどんどん青白くなっていく。
「ユリア、何緊張してんだ。夜会って言っても、今日のはそんなに肩苦しくないぞ」
馬車の前に立っていたツバキがこっそりと耳打ちしてきた。
―――そうは言っても、初めてのことだもの。もし、ラヴルの顔に泥を塗る様な事をしてしまったら…………。
ユリアの逞しい想像力が、どんどんネガティブな方へと転がっていく。
「ユリア、そんなに緊張するな」
ラヴルの手が肩に置かれ唇が素早く首に触れたと同時に、チクンとした痛みが少し走った。
「ぃっ―――今、何をしたんですか?」
「まじないだ。行くぞ」
黒塗りのシンプルな馬車の中には深紅の椅子があり、ユリアは奥に誘導され、ラヴルはその隣に静かに座った。
「出せ」
静かな声で短く命じると、馬車はゆるゆると進み始めた。
馬車の中は車輪の音が響くだけで、しんと静まり返っている。
ユリアはラヴルの顔をそっと覗き見た。何かを考えているようで、腕を組み、瞳を閉じている。
ユリアはこのとき初めてラヴルの顔をじっくりと見ていた。
漆黒の瞳に見つめられるとドキドキして、いつもまともに見たことがない。
鼻筋の通った横顔・・・肌は絹のように滑らかでとても綺麗……。
じっと見つめていると、瞳を閉じたそのままの姿勢で、ラヴルは静かな声を出した。
「ユリア、何だ?―――私に見とれているのか?」
「み、見とれてなんかいません。ただ、聞きたいことがあるんです」
「何だ?何でも聞いてみろ」
「あの、ラヴルは普段何をしてるんですか?この街の領主なんですか?」
「私か?」と言いながら目を開けたラヴルは、妖艶に微笑みながらユリアにす……と近付き、掌は華奢な肩を包み込もうと動いていた。
「あぁ―――領主か……少し違うが、まぁ、そんなようなものだ。私は普段街の治安を守っている」
ラヴルの手が華奢な肩をそっと抑え、もう一方の手が背後からまわってきて頬に当てられた。
「私のことが知りたいか?」
「だって、ラヴルは私のご主人様ですから……少しは知っておかないとと思ったんです」
「私が人間ではないことは、知ってるだろう?」
人間ではないことは知ってるけど、何者で普段何をしてるのか、何も知らない。
「さっき、チラッと見せたが、分からなかったのか?」
「え?さっき?」
「意外と鈍いな……。私のことを怖いと思うかもしれんぞ。まぁ、そうだとしても、私は貴女を手放す気はないが。それでも知りたいか?」
いつになく真剣な瞳で聞いてくるラヴルに対し、ユリアはゆっくりと首を縦に振った。
「そうか、では教えてやろう」
くいっと顔が傾けられ、綺麗な白いうなじがすぅ……と伸びた。
ラヴルの顔がユリアの斜め上にあって、じっと見つめている。
その妖艶な漆黒の瞳がどんどん近付き、ラヴルの顔が首筋に埋もれ、吐息がユリアの耳元にふっとかけられると同時に静かな声でこう囁かれた。
「私だけのモノだ。逃げることは許さん」
「ぅっ……いっ!」
言葉とともに、耳の下がチクンと針を刺すような痛みに、再び襲われた。
ラヴルの唇がとても熱い……そう感じたのと同時に、体の奥がじんわりと熱くなっていく。
唇を離したラヴルの漆黒の瞳が妖しく光っているのを、ユリアはぼんやりとした瞳で見つめた。
「これが、私だ」
長い指が優しく首筋を撫でると、チクチクした痛みが消えていくのが感じられる。
体の奥が熱いままそっと触れられて、その指遣いにゾクッとして体が少し震えてしまう。
――私、今ラヴルに血を吸われたんだわ。ただ傍にいればいいって、こういうことなの?
ただ、血を吸うためだけに私を買ったの?だから、沢山食べろって、体力をつけるようにって、ナーダはいつも言ってたのね……。
オークションでラヴルに買われて、私には記憶がなくて、何処にも行くところがなくて……。
私はラヴルの傍にいるしかないけれど。ラヴルは私が必要ではなくて、私の血が必要なだけだったのね。
求められているのは私ではなくて、血……―――――――
ユリアはとても哀しくなって、無言のままラヴルの瞳をぼんやりと見つめていた。
見下ろしているラヴルの顔が、どんどん滲んで見えなくなっていく。
そんな心を見透かしたように、ラヴルがいつもと同じ静かな声で言った。
「言っておくが、このためだけに、わざわざ1000もの大金を出してユリアを手に入れた訳ではないぞ。ただ血を吸うだけなら、ユリアでなくても誰でもいい。そこを勘違いするな」
「え……?じゃぁ、何のために?」
「ユリアには難しい話だ。知る必要はない。それより、泣くなユリア……、血を吸う私が怖くなったか?私から逃げたいか?」
指先で瞳から溢れた涙を拭うラヴル。
その見下ろしてる漆黒の瞳が、少し切なげに揺れているように見える。
――どうして?……私が泣いているから?
それとも、私がどう答えるのか不安なの?
でも、そんなはずはないわ。私が泣いてても、答えがどうであっても、ラヴルはきっと何とも思わない。
強引で、私の気持ちなんてお構いなしなのに。
今更そんな瞳で、見ないで……。今更、そんな顔しないで……。
私には逃げる術もないし、記憶もないから行く場所もない。
ここを離れてもどうしていいか分からないのだから―――――
「怖くありません。それに、逃げられません」
そう答えると、漆黒の瞳がふわっと緩まった。長い指先が頬を撫で始め、さっきまでの切なげだった瞳に、妖艶な輝きがみるみるうちに宿っていく。
ほどなく、いつものような、静かな自信に満ちた表情に変わっていった。
「そうか、良かったな。もし、怖いと、私から逃げると言ったのであれば・・・危ないところだったぞ?」
「危ないって、それってどういうことですか?」
柔らかな頬や髪を撫でながら、ラヴルは恐ろしいことを言い始めた。
「ユリアのことは私の心一つということだ。ユリアがこうして息をしていられるのも、このように夜会に出かけられるのも、ユリアが私の傍で生きるのを、私が許しているためだ。ユリアは私のモノだということを忘れるな」
声や表情は静かだが、その裏には冷たいものが潜んでいる。
ラヴルの漆黒の瞳に、紅い光が一瞬宿ったように見えた。
普段のもの静かで、時に意地悪な顔の他にもう一つ、冷酷な顔が僅かに覗いた。今まで感じたことのない恐怖。
この命はこの方の手の中で、自由に転がされている。
“逃げたら殺す”
遠まわしにはっきりとそう言われ、この時初めてラヴルを怖いと思った。
「だから逃げようと思うな。さっきも言ったが、これから向かう夜会でも、私から絶対離れるな」
「はい……」
「―――脅かし過ぎたか。心配するな、ユリア、もう泣くな……。可愛い顔が台無しだ……」
震えながらも返事するユリアの頬を撫でたあと、ラヴルは涙に濡れた瞳に何度も口づけた。




