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――何もしなくていいって、そう言われても。それに、ただ傍にいるだけでいいって、どういうことなのかしら。
こんな大きなお屋敷とあの小さな島の屋敷。それに、昨日見たこの街は小さいけれど、とても栄えているようだった。
ラヴルって、この街の領主様なのかしら―――
ユリアがナーダをチラッと見やると、さっきからずっと、箒を持って忙しげに部屋の中を掃除していた。
「あの、ナーダ。聞いてもいいですか?」
「何でしょうか」
ナーダは箒を持つ手を止め、ユリアを見た。
「ラヴルって何をされてる方なんですか?私、何も知らなくて……」
これから傍にいる方のことくらい、知っておかないと。何も知らないのでは、話も出来ない。
「ラヴル様から何も聞かれてないんですか?」
「えぇ、聞いてないです」
――聞くも何も。
昨日はヴィーラに乗って島に行って、湯に入ったあと部屋に入って。気が付いたら襲われてて―――……
そんなわけで話も何もしていない。ラヴルに聞きたいことは沢山あるのに――――
「でしたら、私の口から話すことは出来ません。ラヴル様から直接お聞き下さい」
そう言って再び箒を動かし始めるナーダの近くに、水を張ったバケツがあるのが見える。
――箒の後、あれでどこかを拭くのよね――?
ユリアはバケツの傍に座りこみ、中に浸してあった布をぎゅっと絞った。
「ラヴルのことが話せないなら、その代わりに、ナーダのことを教えて?それから、この街のことも―――それで、何処を拭けばいいの?」
濡れた布を持ってニッコリと微笑むユリアに対し、ナーダは暫く目を見開いていたが、ハッと我に帰り白く小さな手から布を奪い取った。
「こんなこと、ユリア様がなさることでは御座いません―――街のことはともかく、私のことなど知ってどうするのですか」
「ナーダのこと、知りたいことはたくさんあるわ。年齢とか、いつからここで働いてるのかとか、いろいろ。私、記憶をなくしてて自分のことが何も分からないもの。でも、ナーダは自分のこと話せるでしょ?お願い、教えて」
布を握り締めているナーダの手を握り、もう一度にっこりと微笑んだ。
濡れた布を持っているせいか、ナーダの手は結構冷たく感じる。
「……この街は『ルミナ』という名前です。この屋敷は、ラヴル様が最近購入されました。私はラヴル様に仕えて3年になります。年齢は分かりません。以上です……もう宜しいですか」
呟くようにそう話すと、ナーダはユリアの視線を避けるように、ぷいっと横を向いてしまった。
この隙に、ナーダの手から濡れた布を奪い、さっと後退りをするユリア。
ナーダが慌てて手を伸ばしてくるのを、手で制して笑いかけておく。
「これくらい、私にもさせて。ラヴルには内緒にしておけばいいわ。ね?」
「分かりました。自由にしてください。貴女は変わってますね」
ナーダは奪い返そうと伸ばした手を引っ込め、大きなため息を吐いた。
「ユリア様には、この屋敷内であれば自由に過ごして頂くようにと、ラヴル様より申しつけられております。ですから、どうぞご自由に屋敷内を散策するなり、庭に出るなりなさって下さい。私は自分の用事を済ませて参りますので。では、失礼致します」
一通りの掃除が終わると、ナーダはそう言い残して部屋を出ていった。
この屋敷に来て2日目。
目覚めたらいつもベッドの上で。
出歩くときはラヴルに抱きかかえられて。
この屋敷で知ってるのは、今いる部屋と階段を登った場所にある、あの狭くて怖いヴィーラ乗り場だけ。
――そういえば、こっちのテラス側の景色は綺麗だけど、ヴィーラ乗り場から見た景色は、星空が何処までも続いていたっけ――
ということは。この反対側の窓の外は、断崖絶壁なわけで―――――
ユリアは何となく確かめてみたくなって、反対側の窓に向かった。
テラス側の大きな窓と違い、腰高の小さなそれには、細かい木の葉模様のレースのカーテンがかかっている。
――予想通りなら、このカーテンの向こうは何もなくて、果てしない空が続いているはず――
真っ青な空に、白い雲が浮かんでいる様を想い浮かべながら、ユリアはカーテンをサッと開けた。
「……え?」
ユリアは思わず目を瞬いた。
窓の向こうには予想に反し、普通に地面があって、大きな木が何本も生えていた。そしてそれが見渡す限り奥の方までずっと続いている。
木の根元には小さな白い花弁を咲かせる草がたくさん生えていて、白い毛並みの可愛い小動物が一匹、その草を美味しそうに食んでいた。
――昨日見たあの景色は何だったのかしら。やっぱり幻だったの?
そうよね……だって、今見てるこの景色の方が、多分常識にあってる気がする。
昨日は地の底が見えないほどに、闇がどこまでも広がっていた。まるで地獄の底まで続いているような、そんな深い深い闇だった。
きっと、ラヴルの妖艶な雰囲気にのまれて、夢を見ていたんだわ――
ユリアは、ちっとも納得できないが、そう思うことにした。分からないことを、ずっと考えていてもしょうがない。
「……あの動物、とても可愛いわ」
草を口いっぱいに頬張って、もぐもぐする姿がとても微笑ましくて、とても可愛い。
飽きることなく見ていると、草を食んでいた小動物は満足したのか、頭をぴくんと上げて体を反転させ、木立の奥に消えていった。
ユリアはカーテンを締め、今度は屋敷の中を探索することにした。
部屋を一歩出ると、長~い廊下がずっと真っ直ぐに伸びている。しんと静まり返っていて、誰もいる気配がない。
普通、このくらい大きな屋敷であれば、もっと沢山の使用人やメイドが居て、忙しげに働いててもいいはず。
なのに、こうして歩いていても響いているのは自分の足音だけで、他には何の物音もしない。
―――皆どこかに出かけているのかしら。
まさか、ナーダ一人で、この広大な屋敷の手入れをしてるわけじゃないわよね?
誰もいないなんておかしいわ―――――
ユリアは試しに手近なドアをノックしてみた。
コンコン―――「どなたかいらっしゃいますか?」
ドアに耳を近付けてみても、中は静まり返っていて人のいる気配は微塵もない。
ドアのノブに手をかけると、カチャッと音を立てて苦もなく開いた。
「……鍵はかかってないのね。と言うことはこの部屋は使われてないのかしら?」
中は普通サイズのベッドに、鏡台にクローゼット。窓には薄いピンクのカーテンがかかっていて、一見して女の人の部屋のよう。
真ん中では大きな白い鳥が、止まり木の上ですやすやと眠っている。
「きれいな鳥だわ……この部屋の方のペットかしら―――……ぁ、もしかして、ここはナーダのお部屋――――?」
ユリアが慌ててドアを閉めようとすると、いつの間にかナーダが横に立っていた。驚いて、ビクッと体が震えてしまう。
「あ……ごめんなさい。鍵がかかってなかったものだから―――ここはナーダのお部屋ですか?」
自分よりも背の高いナーダにじろっと睨まれて見下ろされると、とても怖い。
――もしかして、勝手に開けたから怒ってるのかしら――
「鍵が……?違います。ここは別のメイドの部屋です。私の部屋はこの隣ですから」
そう言いながら部屋の中を覗いて、中を調べるようにキョロキョロと瞳を動かした。
その様子がいつもの冷静なナーダと違って、何か慌てているように見えるのは気のせいだろうか。
「ユリア様、何かご覧になりましたか?」
「いいえ……何も。ペットの白い鳥を見ただけで―――あの、ナーダ。ここには今誰もいないんですか?ずっと歩いて来たけど、誰にも会わなかったわ」
「誰も?……そんなことは御座いません。今の時間は―――皆それぞれの仕事をしていますので、屋敷内にいないのはそのせいでしょう。ユリア様、出来れば、勝手に部屋の中を見ることはお辞めください。何が見えるとも分かりませんので―――」
「えぇ、そうよね。勝手に開けて中を見て、このお部屋の方に失礼なことをしてしまったわ。ごめんなさい」
「いえ、そういうことではなくてですね……あの―――」
ナーダは困ったように瞳を伏せて言い淀み、何かを小声で呟いた後にユリアを真っ直ぐに見つめた。
「いえ、なんでも御座いません―――ユリア様、綺麗な花はお好きですか。今の時間は庭に出られると、庭師が居ります。あの者は、庭を褒めると大変喜びます。あちらに玄関が御座いますので、外に行かれてみてはどうですか」
「えぇ、分かったわ。実はテラスから見えた庭がとっても気になっていたの。行ってくるわ」
ユリアは、曖昧に口を歪めているナーダにニッコリと微笑み、教えて貰った玄関へと急いだ。
背後では、ナーダがホッとため息をついて、まだ開かれたままだった部屋のドアを、静かにそっと閉めていた。
ユリアが玄関を出て石段を降りていくと、前方に白い花が咲いた小さな木がたくさん見えてきた。
壁のように植えられたその木は、ユリアの肩くらいまでの高さで、中の空間とユリアのいる場所とを区切る様に、ぐるっと囲むように植えられている。
覗き込むようにして中を見ると、花がきっちりと色ごとに分けられ、それぞれが真四角にきっちりと植えられていた。
その光景は、まるで色とりどりの四角いタイルが、整然と並んでいるようにも見える。真ん中辺りには、まん丸に植えられた赤い花と、きっちりと三角錐状に刈り込まれた背の低い木が、丸を囲むように4本植えられ、その向こうに、またタイルのように四角形に花が植えられていた。
その三角錐の木の向こうで、ツナギのような服を着た丸いお尻がふりふりと見え隠れしている。
ユリアはぐるっと囲まれた白い花の木の開いたところを探し、中にいる庭師と思しきその人物に声をかけた。
「こんにちは。素敵なお庭ですね」
「お前、今、素敵と言ったかぁ?」
その男はユリアを見ると、嬉しそうにニッコリと笑った。日焼けした黒い肌に白い歯がキラッと光っている。
「えぇ、とても綺麗だわ。あなたが手入れしてるんでしょう?」
「そうだ。この素敵な庭は、この俺が手入れしてる」
「中に入ってもいいですか?」
「あ?あぁ、お前は俺の庭を褒めてくれた。本当は誰も入れないんだが、いいだろう、お前は入れてやる。入れ」
ユリアは四角い花の間にできた隙間を、花を踏まないように慎重に足を運び、男の傍に近づいた。
すると、鼻をピクッと震わせた男の瞳が、ぎらっと一瞬鋭い光を放った。
「お前……もしかして、ラヴル様が連れてきた奴か?」
「えぇ、私ユリアです。宜しくお願いします」
「……俺はライキっていうんだ。お前、そんな風にふらふらと外を出歩いていいのか?」
蹲って花を眺めているユリアを見たあと、ライキは周りを警戒するように、キョロキョロと鋭い瞳を動かした。
ユリアが外にいることに、まだ誰も気付いていないよう。ライキには何者の視線も感じない。
「どうしてなの?」
ユリアが不思議そうに見あげると、ライキはしきりに周りを見ていた。何がそうさせているのか、少し焦っているようにも見える。
「ラヴルは自由にしてていいと言ったそうなの。ここのことはナーダに薦められて。綺麗な庭だから見てくるといいって。聞いた通り、とても綺麗。お花が生き生きしてるもの。ライキは腕がいいのね」
そう言うと、ライキの緊張した様な表情が途端に崩れ、頭を掻きながらにっこりと笑った。
「ナーダに?そうかぁ。綺麗かぁ―――そんなに褒められてもなぁ・・・・お前良い奴だな!うん、分かった。そんな良い奴のお前に、俺が忠告してやる。お前、外に出ない方がいいぞ」
「え……っと、どうしてなの?私このお庭が気に入ったの。だから好きな時にまた見に来たいわ」
「どうしてって……そりゃぁ、お前―――」
ライキは言いかけて口をキュッと噤んだ。目の前にいるのはラヴル様が連れてきた人間の美しい娘。
体から放たれる匂いから、ラヴル様の寵愛を受け、お手付きになったことはすぐ分かる。
だが、この娘が放つ匂いは強く、それはとても甘くて香しい。この屋敷には結界が貼ってあるとはいえ、他の奴がいつ目をつけるとも限らない。
それに、あの方に目をつけられると、とても厄介なことになる。そんなのが外に出てるとは―――
「くそっ、ナーダの奴……上手いことやりやがる……俺を巻き込みやがって」
ライキはユリアの黒い瞳から逃げるように視線を外していた。腰に手を当てて俯き、何やらぶつぶつ言っている。
そんなライキの顔を、覗き込むようにしてユリアは見ていた。ライキが小声でぶつぶつと呟いているのは分かるが、何を言ってるのかまでは分からない。
―――外に出るなって、ここに2度と来ちゃいけないってことかしら――――
「仕方ないなぁ。お前、いい奴だしなぁ……。よし、分かった。ラヴル様やツバキほど強くないけど、お前に何かあれば俺が守ってやる。だから好きなだけここにいろ。今日だけじゃなくていつでもここに来ていい。だけど、俺がいないときはすぐに屋敷の中に戻るんだぞ。それが約束だ」
「ありがとう。ライキがいないときはすぐに戻るわ」
ライキの言ってることがよく分からないけど、とりあえずここにいていいよう。
ホッとしたユリアは、暫くの間ライキと一緒に花に水を上げたり、草を抜いたりして楽しく過ごした。
そして日が暮れかけた頃『もうすぐ夜が来る。すぐに屋敷に入れ』と真剣な顔で言われ、笑顔で別れを告げて部屋に戻った。




