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セラヴィが魔王として憂い思う、ロゥヴェルの広大な国土。
何千年もの間保たれてきたそれは、高い山に囲まれ、豊かな水を湛える湖や流れる川がそこかしこに点在し、人の世となんら変わりなく作られている。
森には小動物が生の営みを繰り返し、川や湖に出れば魚介類が豊富に獲れ、民は何不自由なく幸せに暮らせる。
これは、セラヴィが婚儀の決意を固めたその翌朝のこと。
国一番の美しい景観を誇る、ゾルグが管理する街「ナルタ」の端っこの森近くに住む、ビリー一家。
『破滅の実』ことラシュの実を見つけた、あのビリーたち家族は、この地から逃げることなくあれからもずっといつもと変わらない日々を過ごしていた。
あの時に手に入れた金貨はきっちりと分け合い、生まれ来る子供のためにと大事に仕舞いこみ、ビリーは相棒クルフと一緒に毎朝狩りに出掛け、夕暮れ前には獲物をぶら下げて帰宅していた。
愛するモリーの出産を今か今かと楽しみに待つ、そんな、普段通りの幸せな日々を――――……
「行ってらっしゃい、ビリー。この子も、良い獲物を待ってるわよ。ほら……」
はちきれんばかりに膨らんだ大きなお腹に、ビリーの大きな手を導いたモリーはにっこりと笑った。
お腹の中でぴくぴくと動く元気な様子を確認し、ビリーの顔が蕩けるような笑顔に変わる。
―――うん、最近動きが小さくなってきたぞ、爺様やクルフの言う通りだなぁ。
こりゃぁもうすぐだ。もうすぐ、出てくるぞ―――
「よっしゃぁ!力が出たぜぇ、モリー。お前も、楽しみに待っててくれよ?父ちゃんは、お前のためにガンバルぜぇ」
お腹の中に話しかければ、赤ちゃんはピクピクと動いて返してくれる。
「うひょー!おい、見たかぁ?モリー。何て頭のいい子なんだ、早く会いてぇなぁ」
ビリーが大げさにも思えるほどの声を上げると、私は見るんじゃなくて、感じるのよ?と言ったモリーも嬉しそうにウフフと笑う。
「ねぇ、ビリー。今日はなんだかとっても寒いから、獲物を取ったらすぐに帰ってくると良いわ。十分気を付けてね」
「分かってるよぉ。モリーも、無理するなよ?家から出ずに、あったけぇカッコしてろよ?」
手を振るモリーに「じゃ、行ってくるな!」と意気揚々と声を上げたビリーは、玄関ドアを少しだけ開けてすり抜けるように外に出た。
モリーと年老いた爺様ため、なるべく家の中に冷気を入れない配慮だ。
日だまりのように暖かな家の中から出れば、たちまち全身にぶるるっと震えが来る。
顔を埋めるように帽子を深くかぶり、襟元を立てた。
「しっかし、さみぃなぁ、おい。まったく、どぉなってんだぁ?」
昨日まではそれほどでもなかったのによぉ。
震える声でぶつぶつと呟くと、白いものがもやもやと出る。
「おぉ?なんだぁ?この白い煙は?」
経験のないことに驚きつつも、どうやらそれは自分から出てるようだと気付き、何度も確かめるようにはぁはぁと息を吐く。
何度目かの後、自らの口から出る湯気のようなものだと漸く理解できた。
普段は、暖かい気候に安定している魔界。
雨の日に寒いと感じることはあるが、こんなに、指先が凍るほどに寒いのは、国中探しても誰一人として経験していないだろう。
厚手の服を何枚も重ね着してはいても、どうにも寒い。
ガタガタと震える体をなだめようと両の腕を摩りつづける手を止め、いつも通りに小屋の中から愛用の籠を出した。
「こんな日じゃぁ、獲物も巣にこもってるだろうよ」
今日は、止めるか?クルフと相談するかぁ。
出ても獲れなきゃ、働き損だしなぁ。
そう思った時、ふわりと白いものが舞い落ちて来るのが目に映った。
ゴミが落ちてきたのか?と思いながらも、そのままの固まった姿勢でその行方を追ってると、それは籠の底に留まりすぐに消えた。
水のようなシミが籐の籠に残る。
ばばっと襟元を下げ上着に埋めていた顔を出して帽子を取り、空を見上げる。
「―――こりゃぁ、一体……何だぁ?」
薄墨色の空から、白いものが幾つもふわふわと落ちてくる。
試しに手で受ければ、さっきと同様にたちまちに溶けてなくなってしまった。
……雨は、何度でも見たことがある。
だけど―――
呆けたように掌を上に向けた姿勢のままでいるビリーの髪に、小さな白い塊が付いては溶ける。
と、横からクルフの呑気な声が聞こえてきた。
「おい、ビリー。知ってるか?街は、この白いのが溜まっちまって、道も屋根も真っ白になってるそうだぞ?『それは綺麗な景色だぜ、あれは魔王様が起こした大きな奇跡だ』つって、ミルク屋が自慢げに言ってたぞ」
狩りに行く前にちょいと見に行くか、滅多に見れないぜ?とにこにこ笑う顔は随分愉しげだ。
そんな顔を見つめるビリーの瞳は、恐怖に揺れている。
…マジかよぉ、クルフ、ちょっと待ってくれよぉ。
何でそんなに愉しそうなんだよぉ。
頭がわりぃ俺でも分かるぜ?
どう考えても、こりゃ異常過ぎんだろ?
昔には、こんなんが空から落ちてきたことがあるのかよぉ……。
「じ、爺様ぁ!……爺様よぉ!寒いとこ悪ぃけど、ちょっと外に来てくれよ!」
普通にはないビリーの呼び声に反応して、何だ?と寒さに震えた声を出し、杖をつきながらよろよろと出てきた爺様は、空を見上げた途端に顔を歪めて絶句した。
その様子を見たクルフの顔から笑みが消え去り、不安げに爺様とビリーの顔を交互に見る。
「爺様、こんなの昔もあったのかぁ?」
寒さも忘れたように、捲れる袖も気に留めずに腕を天に差し伸べ、カッと見開いた眼で空からふわふわと下りてくるそれの行方を見つめる爺様。
綿の欠片のようなその粒は、地面に触れるとすぐに溶けてなくなる。
「……ビリー、分からん。分からんが……これだけは言えるて――――」
自らを凝視する二人の顔を順番に見て、爺様はゆっくりとした口調で言った。
「早いとこ、モリーと一緒にケルンに行った方がいいぞ。クルフ、お前の一家も、だ」
ケルンから遠く離れたこの地。
セラヴィの懸念通り、いや、それ以上の気候となって、朝から雪がちらちらと舞い落ちていた。
早朝の街。
うっすらと白く化粧を施した景色は、日頃の景観の良さも相俟って、生憎の曇天とはいえ目を瞠るほどに美しく映る。
量は少なくとも、ちらちらと降り続く雪。
この現象を、その綺麗さから、滅多に訪れない“素晴らしい奇跡”ととらえる民もいれば、何らかの波乱が起こる“不吉な前兆”と、不安げに双眉を歪め天を仰ぐ民もいる。
街の管理者ゾルグは、この様子を寝室の窓から眺め、思案に暮れていた。
裸体にガウンを羽織っただけの姿は、起き抜けに、気候の異常を感じたためだろう。
―――このままでは、不味いな……。
ナルタの地を清め植物を育て管理することは、任されてる身だ、私にも出来る。
だが、天候は、別物だ。
こればかりは、国作りをする魔王にしか出来ん――
「いや?私でも、やればできるのか?奴は、戴冠したのみ。力の継承なくとも、やっていたではないか」
ふと浮かんだ考えだが、すぐに首を横に振る。
―――いやいや、やはり無理だ。
そもそも奴とは魔力が違いすぎる。
いや、待てよ。
気候を変えることは出来んが、雲を払うことくらいは私にも……。
あぁ、しかし……根本を解決せねば、同じことか――――
「ゾルグ様、どうかなされたのですか?今朝は、随分寒いのですね」
ベッドの中から、思考を中断するような、気だるくか細い声が掛けられる。
昨夜のままの裸体をふるふると震わせて、再び毛布に潜る姿がゾルグの瞳に映る。
ベッド端に座り、乱れたその柔らかな髪を指先で整えると、娘は、擽ったそうに首をすくめた。
―――実に、愛らしい。
「ふむ、貴女は寒いと感じるのだな。今、整えるから待ってろ」
綺麗な額に唇を落としたあと、すくっと立ち上がったゾルグは、両の腕を広げた。
瞳が紅くなれば、室温が日だまりのような暖かさに変わっていく。
……室内ならば、制御出来るのだがな……
「―――外出する。支度せよ―――」
声を城の中に響き渡らせ、ゾルグはガウンを脱ぎ捨てた。
儀式の招待状がゾルグの元に届けられたのは、この後すぐのことだった。