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自らの体の感覚は薄れ、姿の見えなくなったティアラの声だけが白い空間に木霊する。
―――……至高の色、黒。
人の世においては稀有であり見目麗しく、その血は濃く香しく魔を惹き寄せる。
破魔の力を持ち、古より巫女として民に崇められ慕われた。
数奇な宿命を持ち生まれる、それが、黒の者。
古き時代。
まだ、魔と人が同じ世界に住んでいた頃。
私は黒の者として、巫女となり国を護る役目をおっていました。
自らが囮となり魔を引寄せて討伐する、そんな危険な役目を。
私が彼と出会ったのは、そんな役目を終えた後の帰り道。
絶好の曇りの夜。
私のささやかな楽しみ、疲れた体と心を癒してくれるもの。
あの日も美しい光景が見られる夜のはずでした……―――
ふ…と明るさが消え、暗い中にぽつんと残される。
暗闇の中に、ほわんと小さな光が二つ浮かび上がり、点滅しながらゆらゆらと動きまわっている。
さらさらと流れる水の音が大きく聞こえてくると、ゆらゆら揺れる儚げな光りを中心として映像が色濃くはっきりとし出した。
流れる川、岸近くに茂る木々と草、川原に点在する大きな岩。
ふわふわと飛び回るほのかな光。
その川原の平らかな場所に、白い衣を着たティアラと見られる黒髪の娘を取り囲むようにして、侍女のような姿をした女性一人と、剣を構えた数人の騎士が立っていた。
―――ここは、彼女の記憶の中―――?
「ティアラ様!この数ではとても太刀打ちできません!討伐を終えた直後です、貴女様も暫くはお力が出ない筈!どうかお逃げ下さい!!」
「いいえ。クロウス。こうなったのは我儘を言った私のせいなのです。貴方達はお逃げなさい。私が、囮になります!」
点滅しながら光る虫が飛ぶ、幻想的な光景の見える沢のほとり。
その向こうの茂みの中には、美しくも儚い光を打ち消す程に紅く光る瞳が無数に蠢いている。
「ティアラ様何を仰るのです!いけません!―――急いで戻りましょう。さぁお早く!」
急ぎましょう!と腕を引く侍女の手を制し、ティアラは頑としてその場から動こうとしない。
「お待ちなさい。彼らの狙いは分かっています。討伐後だからと、油断していましたね。まさかこんなに沢山出るなど思いもよりませんでした。きっとこの機会を虎視眈々と狙っていたのでしょう」
なんて狡猾な…。そう呟くティアラの美しい顔が苦しげに歪む。
後ろは沢。
前方は餓えた魔獣の群れ。
無事に皆が逃げられる可能性はかなり低い。
魔獣たちは牙を剥き涎を垂らしながら、じりじりとティアラたちに近づいていた。
「剣をお持ちなさい!命じます、貴女はお逃げなさい!」
ティアラはそう言い放ち、侍女に護身用の懐剣を持たせ、自らも腰の剣を抜き正眼に構えて襲い来る敵に備えた。
「私は巫女姫ティアラ!まだそなた達に喰らわれるわけには参りません!かかって来なさい!破魔の力は出ずとも騎士免許皆伝の我が腕、返り討ちにして差し上げるわ!」
皆が制する声を無視して勇ましく前に駆け出たティアラに唸り声をあげた魔獣が横から飛びかかる。
咄嗟に身を屈めて剣を振るいながら飛び退いたところを別の魔獣が繰り出した鋭い爪が横髪を切りハラハラと舞い落ちた。
二匹の魔獣が紅い瞳をぎらつかせ威嚇するような唸り声を上げる。
構えつつも、じり…と後退りをしたところを四肢を攻撃に備えて低くした二匹が地面を蹴り跳び上がる。
片方には剣が届き仕留める事に成功するももう一匹は取りこぼした。
素早い体捌きで地面を蹴り再度飛び掛かる魔獣に対し、剣を繰り出す体勢を整えるが間に合わず、身を屈めて何とか避けるも鋭い牙がティアラの細い腕を掠めた。
柔らかな白い肌から血がじわりと滲み出て、額には汗が浮かぶ。
魔獣の赤い舌がペロリと自らの牙についた血を舐め取ると、グォー!と興奮の雄叫びをあげた。
悔しげに唇を引き結び、ぎらぎらと赤く光る目を睨みつけるティアラの横で斬撃音が鳴り、魔獣の首だけが飛び転がっていった。
黒い瞳には、庇うように立ちふさがる騎士の逞しい背中が映る。
騎士は攻撃してくる魔獣をひたすら切り倒している。
「貴女様は無茶をなさる!大丈夫ですか!?」
騎士が取りこぼした魔獣を美しい太刀筋で薙ぎ払った後、ティアラは辺りに響き渡るような勇猛な声を出して言った。
「これしき、何と言うことはありません!皆の者!誰一人と欠けることなく必ず一緒に帰城しましょう!」
騎士たちの士気が高揚し雄叫びが上がる。
駆け寄った別の騎士が魔獣を仕留めるのを横に、ティアラは勇壮に、次々に襲い来る何匹もと相対し剣を振るう。
薙ぎ払っては刺し切り倒す。
剣を振るう音とざくざく砂利石を踏む音に加え、断末魔の鳴声が静かな夜の川原に響く。
こんなときでも点滅する幻想的な光は止むことなく続き、ティアラたちの戦う場とは全く別の次元のよう。
百もおろうかと思われる敵相手に、男並みに強いとはいえ所詮は力弱い女の腕と数少ない騎士たち。
圧倒的な数の差に疲れたのか、見る間にティアラの剣の速度が緩まっていく。
肩でする息も荒く、額から流れる汗が滴り剣が重そうに見える。
きりなしに襲い来る爪と牙に対し剣を振る力もなくなり腕も上がらなくなった様子のティアラを、嬉々として襲う魔獣達。
“―――危ない!避けて!!―――”
どうにも黙って見てることが出来ずに考える間もなく叫び声をあげながら手を伸ばした瞬間、それは起こった。
「右に、避けよ」
地を這うような低い声。
言われた通りに反応し避けるティアラの背後から放たれた、光の矢一閃――――
数匹が一瞬で薙ぎ払われた。
生き残った魔獣達は、唸り声を上げながらそろそろと後退りをしていく。
「巫女姫ティアラ。貴女は死ぬ気か。この数を相手にするとは正気の沙汰とは思えん」
雲間から覗き出た月に照らされて浮かび上がる、風になびく黒髪と煌く黒い瞳に黒い衣装。
「貴方は誰!?どうしてここに来たのですか。今のは一体何なのですか」
「通りがかりだ。私は吸血族の王。我が名は、そなたにはまだ言えん、王と呼べ。城まで送る。召集せよ―――全く……、いいか。女は守られるものだ、闘うものではない。まして、このような傷を負うなど―――」
黒髪の王がティアラの手を取り、掌で傷を一撫ですると何事もなかったかのような美しい肌に戻った。
「助けていただいたことには礼を申し上げます。ですが、これ以上はご遠慮いたしますわ。二度と会うことはないでしょう。御機嫌よう―――皆の者、帰城する!」
「成程。男勝りだと聞いていたが、これは、中々のものだ。待て、送ると言っただろう」
「お構い無きように!これ以上魔の方に借りはお作り致しません!私には破魔の力が御座います。頼もしい騎士たちもおります。礼ならば、父君を通し改めて致します」
ティアラは毅然と言い放つが、どう見ても体は疲れ果てて脚は震えている。
ふらつきながらも懸命に歩くティアラの体をひょいっと肩に担ぎ、王はスタスタと歩いた。
「何をする!?」
「ティアラ様を離せ!」
騎士たちが騒然として剣を構えて向ける。
「っ、この!離しなさい!」
なけなしの力を振り絞るように暴れるティアラの額に手を当てた王が何事かを呟くと、黒い瞳が閉じられ、首と細い腕が力なく垂れた。
「どの道城に用がある、ついでだ。騎士どもよ。悪いことは言わん、剣を収めよ。城まで運び行くだけだ。大事な姫だ、獲って喰いはせん。……この者の香しい血の匂いは風に乗り相当広がったぞ。更に強い魔が集まり来る、良いのか」
迫力のある低い声と紅く光る瞳に騎士たちは顔を歪め、ティアラ様…と呟きながら、剣を収めた。
――ふ…と、突然暗闇に戻る。
息詰まる光景で張りつめていた気が萎み、肩を落としてホッと一息ついていると、しんと静まった闇の中に、薄紅色の花弁が一枚舞い落ちてきた。
ひらひらと落ちるそれを手で受けた瞬間、ふわ…と浮かび上がってきた場は、先ほどとは雰囲気が一転し明るい月に照らされる整えられた庭だった。
そこでティアラと吸血族の王がゆっくりと歩く姿が映し出される。
立派な枝を広げる木に満開に咲く薄紅色の花。
時折ひらりひらひらと花弁が舞い落ちる中を、楽しげに散策する二人。
背の高い王を見上げて話しかけるティアラの瞳は潤み、艶めく黒曜石のように光る。
頬は血色良く薔薇色に染まり、微笑む表情はとても美しく見える。
対する王も、隣で楚々と歩くティアラの腰を支え気遣う腕は優しく、微笑みはないものの、見下ろす瞳は愛に溢れているように見える。
静かな夜、ゆったりと流れる時の中歩く二人の様子は、どう見てもとても幸せそうな恋人同士だ。
そのティアラの表情がふと曇り、俯いて歩みをピタと止めた。
王が怪訝そうに顔を覗き込む。
「ティアラ姫、どうかしたか」
「…お願いがあります…。私に、貴方の名を、教えて下さい。…貴方は、私を愛してはくれないのですか」
切なげに瞳を潤ませ懇願するように見つめるティアラの髪に手を伸ばし、ついた花弁を取る王の漆黒の瞳は惑い揺れている。
王の長い指先が、ティアラの細い首筋をツーっとなぞる。
「私は貴女を愛している。だが、妃には出来ん。一から世界を作るなどは想像以上に難しいのだ。辛く苦しい道を歩ませることになる。確かに力を欲しているが、貴女を巻きこむことは出来ん。黒髪の巫女姫とはいえ、人、なのだ。未知の世界の生活だ、死をも覚悟することになるのだぞ」
それでもいいのか。と問いながら、苦しげに眉根を寄せて涙を零さんばかりのティアラの瞳を見つめる王。
「それでも構いません。貴方と共に歩めるならば。愛しているのです。貴方のお傍でこの生を全うできるのであれば、それは本望です。―――お願いです、連れて行って下さい」
貴方の作る世界ですもの、私にも合うはずです!
声と瞳に力を込めてそう言った後「お願いです…」と囁きながら王の胸に頬を寄せるティアラ。
「貴女は、それほどに私を信じてくれるのか。――――いいのか」
ぐいっと、か細い体を引寄せ、顎に手をやり目を合わせるよう固定させた王の瞳は、ギラギラと紅く輝き、歪ませた唇からは吸血族特有の鋭い牙が出ていた。
「―――私は、人を騙し活き血を啜り貪る魔の者の王だぞ。私の語る愛は虚無であり、貴女のその心は、私の術に嵌ってるとは考えんのか」
「違います。術ではありません……感じますか、この胸の鼓動を―――」
ティアラの白く美しい手が自らの顎にある大きな手を取り、胸に導いた。
白く柔らかな肌に長い指が食い込むのを気にとめず、ティアラは手を重ねて更に押し付けた。
「貴方がお傍にいるだけで、こんなにもときめいているのですよ。この心は私だけのもの。何者にも侵されません。貴方を想うこの気持ちは、本物です。どうか、お傍に。お支えしたいのです――――」
“もっと貴方に触れて欲しい”
“貴方の傍で過ごしたい”
“苦しみを共に乗り越えたい”
仕草と声から、ティアラの強い想いが痛いほどに伝わってくる。
「……では、次回の会議の後、皆の前で貴女の意思を聞く。その答えが今と同じならば、我が名を告げよう」
王の手が愛しげにティアラの頬と髪を撫で、額にそっと口づけをした。
見つめ合う二人の瞳。
ふと、王が哀しげに眼を細めたとき、ティアラの体が一瞬揺らいだのを大きな手が支えたように感じた。
何でもないようなそぶりで花壇に咲く花を一輪手折り、王はティアラに渡している。
微笑みながら受け取るティアラの瞳は、迷いなど一切なく決意に満ちたものだった。
薄紅色の花弁が、視界を覆うほどにハラハラヒラヒラと舞い落ちてくる。
二人の姿が見えなくなり、舞う花弁がなくなった時に見えてきた場は、蝋燭の灯りが点る広い部屋の中だった。