9
“クリスティナ。まだ、思い出さんか”
あの日、セラヴィは、私にこう訊ねた。
それは、とても切なげな声と、辛そうに細められた瞳で――――
王の役目、自らの病と寿命、あの場所の気候がおかしな理由。
それら全部を、人である私にもわかりやすくなるよう、何度も行きつ戻りつしながら長い話をした最後に、セラヴィは私のことを妃ではなく『クリスティナ』と呼んだ。
ずっと背後からすっぽりと抱き締めて話していたのをやめ、向き合うよう体勢を変えて改まった風情で名を呼んだ瞳は、今までになくとても優しいものだった。
それは、面前にいる私ではなく、過去に逢っていたクリスティナに向けているようにも感じた。
“貴女は、私が愛した黒髪の姫。カフカ王国のクリスティナ・フィーレ・カフカだ”
人界に降り幾度も逢い、互いに愛をはぐくみ、婚儀の誓いを交わした者だ。
だから、無理を承知で傍に寄せラヴルの契約を解除させたのだ、と。
人であることを計算に入れてはいたが調整がつかず、危険な目に合わせ心底焦ったとも言っていた。
真剣な声と話しぶりは作りごとをしてる風には思えず、すべて本当のことなのだろうと感じられた。
カフカ王国。
確かに、私の国。
姫であることも確かなこと。
でも、本当に、セラヴィと逢っていたのかしら。
あんな強烈なお方だもの、しかも愛をはぐくんだとあれば、思い出さないはずがない。
―――クリスティナ―――
そう。
夢の中で何度も呼びかけられていた。
おかしなことが起こったあの時も。
あの声の主は、やっぱりセラヴィだったのだ。
私を呼び寄せようとしていたんだわ。
でも、どうしてなのかしら。
この名前は、幼い私の心には入ってなかったもの。
今も思い浮かぶのは違う名ばかり。
話を聞いてから幾度も記憶を呼び覚ます努力をしてみた。
私がそのクリスティナならば、約束をしていたお相手だもの、歩み寄らなければいけないと思うから。
今は愛していなくても、例え自分勝手な怖いお方でも、今はそう見せているだけかもしれないもの。
けれど、バルのそばにいたときとは違って、この城に来てからというもの、夢も映像も全く見られなくなった。
まるで心の奥底で思い出すことを拒否してるような。
そんな気がする―――
ヒインコの唄うような囀りでハッと我にかえる。
やけに近くで声がすると思ったら、肩にとまっていた。
「どうしたの?今日は、もう帰った方がいいわ。もうすぐセラヴィが来てしまうの」
話しかけながら指を肩に寄せると、ちょん、と飛び移ってきた。
ぴょこんと首を傾げて真ん丸な瞳が瞬きを繰り返す。
「ティアラの部屋という場所に連れて行かれるらしいの。歴代の人の妃は必ずそこに行くらしいわ」
実はまだ、妃になる決心はしていない。
酷いことばかりされたもの、今も、逃げたいと、心の片隅で思ってる。
愛することなんて、とても出来ないとも思ってる。
けれど、あの日のセラヴィの真剣さと周りを取り巻く事情、それとクリスティナに向ける愛情の強さに、ほだされたことは事実。
この国を守ろうと、国を変えていこうとする、立派な王としての志にも心を打たれたのもある。
クリスティナは、そういうところに惹かれたのかもしれないと思った。
ティアラの部屋に何があるのかは分からない。
もしかしたら、後戻りできないことになるのかもしれない。
“私の寿命は迫っている。だが、クリスティナ。貴女が妃になれば留めることが出来るのだ”
カフカの王族の中で唯一生き残った私。
その私が、魔の世界に迷い込んだのは偶然ではないのかもしれない。
経過はどうであれ、こうして魔王の城にいることも必然なことで、妃は定められた運命なのだとしたら―――
思い出さなければ。
私の名を。
記憶の全てを。
怖くてたまらないけれど、逃げずに向き合わなければ。
その上で、どうするのか判断しないと。
初代妃の過ごした場所。
人の想いが残る部屋。
「ティアラの部屋がきっかけになればいいけど。記憶を戻すこと、あなたは応援してくれる?」
ぴくんとドアの方を振り返り見たヒインコは、指先から離れるといつもと違った予想外の行動をとっていた。
「え?あ…待って?……どうして?」
焦って外に出そうとするけれどももう遅く、ノック音の後すぐにセラヴィが入って来ていた。
「貴女は、何をしていた」
「え?何もしていません。少し…緊張しています」
「ふむ、そうか―――」
怪しむように部屋の中を見廻すセラヴィ。
何か気付かれたのかしら。
不味いわ、見つかってしまうかもしれない。
何か、何か話しかけて気を逸らさないと―――
「あ、あの、お願いがあるんです」
一歩近づいて伸びあがって顔を見れば、長い腕が腰にまわされて抱き寄せられた。
「む、また何かを作りかえるのか。願いは叶えたいが、尖った物は駄目だぞ」
「えっ、違います、そうではなくて。ティアラの部屋へは、歩いて行かせて下さい」
「ふむ、歩くのか。まぁ、いいだろう。手をここに置け。ゆっくり行く」
「…はい」
意外な反応に驚きつつも、差し出された腕に手を乗せた。
いつも通りの薄暗い廊下。
相変わらず何もない壁。
違うのは響く足音だけ。
廊下を歩くのは初めてだ。
それだけのことで、少しだけわくわくして嬉しくなる。
不安の方が大きいけれど、楽しみにもなってくるから不思議なものだ。
「ティアラの部屋は、何処にあるのですか?」
「この下だ。階段を下りていく」
「階段、ですか?一度も見たことがないわ」
独り言のように「一体どこに?」とブツブツ言ってると、セラヴィがぴたと止まった。
灯りに照らされる瞳が、何だか無駄にキラキラして見える。
「貴女には見えないだけだ。そこにあるぞ」
「はい?そこ、ですか?」
指し示された場所は、どう見ても、ただの平らかな壁だ。
「見てるがいい」
セラヴィが掌を当てると、石の壁がみるみる黒く侵食されていき、ぽっかりと大きな穴が口開いた。
どうやら階段が出現したらしい。
けれど、灯りが届かないものだから、どう目を凝らしても真っ暗な穴にしか見えない。
一歩踏み出せば真っ逆さまに落ちていきそう。
ヴィーラ乗り場から落ちたときの感覚が体に蘇ってきて、堪らずに一歩後退りをする。
「ここを、降りるのですか?」
灯りもなく、このまま?
ごくんと喉を鳴らす。
「怖いか。貴女が歩きたいと言ったのだが?」
…っ…だって、こんなのだとは聞いてないもの。
最初に言ってくれればいいのに。
セラヴィは暗くても平気なのだわ、きっと。
私みたいな能力のない者の気持ちなんてちっとも分からないだろうし、なんと言っても魔王だもの、何でも出来るもの。
隣に悠然と立って、こちらの様子を窺う様が何だかとてもしゃくにさわる。
灯りを頼むのも悔しいと感じてしまう。
転げ落ちて怪我をしたら、それを理由に妃を断れば良いわ。
何も出来ない娘じゃない、私だってやればできるんだから。
だから、これだって―――…。
「お、降りてみせます!」
「ふ…無理をするな」
愉快げに笑い声を漏らしたセラヴィがぱちんと指を鳴らすと、穴の方から、ぽぽっと聞き覚えのある音が聞こえてきた。
ぼやぁと階段が浮かび上がる。
「どうだ?」とでも言いたげに此方を見たセラヴィから、あからさまに顔をそむけてみせた。
もう意地悪過ぎて言葉も出ない。
やっぱり、この方の妃になんてなれない。
暫くは、口もきいてあげないもの、たっぷり困るといいわ。
ぷんすかつんつんした勢いに任せ、セラヴィの腕を引っ張ってずんずん階段を降りた。
私にしては、最速だったに違いない。
セラヴィが驚いていたのだから。
誰にも会うことなく辿り着いた最下階。
廊下の突き当たりに見えてきたのは、とても古びたドアだ。
豪華な飾り彫りもない素朴で平らかな様式は、今の城には似つかわしくないように感じる。
所々にうっすらと色がついてるのは、もともと塗られていた緑色がかろうじて残っているからだろうか。
歴代、王が手を入れて荘厳さを保ち続ける城の中で、唯一ここだけが時の流れそのままに置かれているよう。
「古の約束に護られ、ここだけは、いかに魔王といえど手が加えられんのだ。魔力が及ばん。一歩中に入れば、私は無力となり何もできなくなる」
貴女に危険が及んでもすぐには助けられん。
腕に乗ってる私の手に触れながら、不安とも苦しげとも聞こえる声色でそう言って、セラヴィは慎重にドアを開けた。
見た目軽そうに見えたそれは、随分ぶ厚い木で作られていた。
長い間開けられていなかったのだろう、ぎぃ…と重く軋む音をたてて塵が宙に舞う。
―――ティアラの部屋…これが―――
階段の穴と同等の闇が口を開ける。
目を凝らせど、床があるのかさえ分からない。
廊下にある作りつけのランプシェードの灯りは頼りなく、入口付近を照らすだけで中までは見通せない。
…少し…じゃなくて、かなり怖い、かも。
暗闇、先の見透せないことには、怯えてしまう。
「…私が先に入る。暫しここで待て」
無意識にも強く絡みついていた私の手を腕から剥がして、セラヴィの背中が闇に溶け込んでいく。
硬質な足音が聞こえて来て、固い床があるのだけは伝わってきた。
「…貴女も来い」
突然暗闇からぬっと現れた手に手首を掴まれて、中に引きずり込まれる。
入る瞬間ぬめっとした感触に襲われ、おまけにカビ臭さもあって目を瞑って息も止めていると、後頭部が支えられて額に温かく柔らかなものが触れた。
それは、小さな音を立てながらゆっくり離れていく。
「っ…今、貴方は何をしたのですか」
「愛しい妃に誘われれば、応えるのが男というもの」
「もうっ、誘ってなんていません」
きつい反論はくぐもってしまい、拒絶効果は半減する。
頭だけでなく背中までをしっかりとらえられていて、腕をばたばたさせて“離して”とアピールしてもどうにも出来ない。
この方はなんてことをするのか。
うっかり目も瞑れないなんて、全く気が抜けない。
「それに、妃でもありません。離して下さい」
なんとか二人の間に手を捩じ込んで厚い胸板を押し返しながら見上げれば「時期にそうなるのだ」と呟いた優しい瞳が向けられていて、少しだけどきっとしてしまう。
名前を口にして以来、どんどんセラヴィの思惑通りになっていってる気がする。
もっと気を引き締めないと、流されてしまう。
「貴女は、環境の変化に気付いているか」
今までの笑みを含んだようなものから一転し、真剣さを帯びた声で言われてハッと気付く。
――――そういえば。
セラヴィの顔がはっきり見えるなんて。
もっと暗いと思っていたけれど―――
「私が入った際はまだ薄暗かった」
壁にも床にも何も置かれてないただ四角いだけの広い部屋。
見廻しても、どこにも窓もランプシェードもないのに、仄かなこの明るさは一体何処から来るのか。
それに、微かな空気の流れを感じる。
ドアは?と見れば、あるべきところには黒い幕のようなものがあった。
歴代の妃たちは、こんなところで何をしていたのか。
ぴっちりと閉鎖された空間は、古びているけれどすきま風が入りそうなひび割れも見当たらない。
「ふむ、あの場所より空気の流れが起こっている。貴女がここに来た為門が開き始めたようだ。私も見るのは初めてだ。何処に通じているのかも分からん。貴女はあの先に行くのだ」
「―――門?あの先って……」
セラヴィが指差す方を見れば、白い壁の一部がほんのりと緑色に染まっていた。
どんどん濃くなってて、心なしか光っているようにも見える。
そこから微風が吹き込んで、傍の床に、波のような模様を描いていた。
あまりにも、想像していたことと違う。
調度品や残された持ち物から人の想いや人の世界が垣間見えるどころか、こんなにしっかり魔界の雰囲気を帯びているなんて、詐欺だわ。
セラヴィはしきりに知らぬ存ぜぬと言うけれど、妃になるための試練を受けるよう仕向けられてる気がするのは、私の被害妄想なのかしら。
どうしても、行かなくちゃいけない?と聞いても無駄よね、きっと。
「この城は貴方のものなのに、知らないことがあるなんて、不思議だわ」
「魔王といえど、万能ではないということだ。自らの病を治すことが出来んのもそのひとつ」
胸を押さえる仕草をしたセラヴィの瞳は哀しげだ。
死期が迫る身。
魔王として即位したのに、やりたいことの半分も出来ずに終えるのは、とても無念なこと。
私が妃になれば、病の進みを止め、在位期間が延びる―――
歴代の人の妃たちは皆、夫である魔王を愛していたのかしら。
人の世を守るため、贄として育てられて。
これが宿命だと、仕方なくこの世界に嫁いできたのかしら。
あなたたちは幸せだった?
私は、どうすればいい?
この先に行けば、答えが見つかるのかしら。
「特に、人の妃に関しては残された文献も少ない。この部屋のことも必要最小限の“人の妃が訪れる場”としか情報がない。―――この先は、共に行くことが出来ん。私はここで待たねばならん。……貴女は脚が弱い。遠いばかりの道が続けば辛いだろう。そのときは、すぐに戻って来い」
“門”というには、おぼろげな輪郭。
本当に、通り抜けることが出来るのかと心配になるほどに、色が変わってるだけの堅い壁のように見える。
そこの前まで背中を押されるままにソロソロと進み、恐る恐る手を伸ばして壁に触れてみると、何の抵抗もなく指先が壁を通り抜けた。
ぬめっとした感覚もない。
意を決し息を大きく吸い込んで踏み出そうとしたら、急に、セラヴィの腕がお腹にまわってきて、くいっと部屋の方に引き戻された。
「え?」
背中を押してきたのは貴方なのに―――
振り返り見上げれば、セラヴィは門ではなく、何事かを言いたげな表情でこちらをじっと見つめていた。
「何ですか?」
「む…やはり無理だ、止めよ」
「いいえ、無理ではありません。大丈夫です。待つ間、貴方は暇でしょう?このお部屋の塵を掃ってると良いわ。私が戻るまでに、ティアラの部屋という美しい名前に相応しいものにしてて下さい」
不思議な力も使えないと言ったこのお部屋の中。
たまには汗を流して働いてみればいいわ。
そうすれば、力ないヒトや私の立場も少しは理解できるでしょう。
「言っておきますけれど、使用人に命じてはダメです。貴方が、して下さい」
瞳に思いを込めて、貴方が、の部分には力を込めて言うと、セラヴィは「ふむ…」と呟きつつ眉根を寄せて部屋の中を見廻した。
どうやってお掃除するか、方法を考えてるのかもしれない。
お腹にある腕の力が弱まった機会を逃さずに押し避けて、すかさず「行ってきます」と言った勢いそのままに、素早く門を潜りぬけた。




