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「湯は此方で御座います。着替えはこちらにありますので、ご自由にお選びください」
白い戸棚を指差してそう言うと、カルティスはドアをピッチリと閉めた。
湯煙でけむる向こうには、石で囲まれた湯船があり、中には乳白色の湯がたっぷりと入れられていた。ユリアは長い髪を紐でまとめ、溢れるほどの湯の中にゆっくりと身を沈めた。
昨日まで鎖に繋がれていたのに、この待遇が信じられない。
豪華な食事と、大きなお屋敷―――
空飛ぶ謎の生き物……あの生き物もオークションで手に入れたのかしら。
私、もしかして、何か変な病気になっていて実際は眠ってるのではないのかしら。
それで、これは、決して目覚めることのない長い夢を見ているのかもしれない。
もしかしたら、今も、あの何もない部屋で、鎖に繋がれているのかも……。
でも……この肌に当たる湯の感触は、どう考えても夢じゃないわね。
何故だか、今のところ扱いは良いけれど、それは私が具合が悪くて、今にも倒れそうに見えるからだわ。
ナーダもしっかり食事をとるようにと、目を離さないようじっと見ていたし……ずいぶんと、私に体力をつけて欲しいみたいだった。
体力さえつけば、働くことが出来るもの。きっと、人間の私にしかできないことをやらせるつもりなんだわ―――
ユリアは湯船から出て、温まった体をしっかりと拭いた。戸棚の中を見ると、何種類かの色のドレスがハンガーにつられている。
どの服もレースや刺繍が施されていて、とても豪華でとても悩んでしまう。
―――どうしよう……。
みんなとても豪華なドレスで、今まで着ていた、この夜着が買われた自分の身には一番似合っているような気がするのだ。
ユリアは迷った挙句に選んだものを着て、ピッチリと閉められていたドアをそっと開けた。
するとカルティスがさっと現れ、驚いたように目を見開いた。
「おや。それで宜しいのですか?」
「えぇ、いいんですこれで。有難うございます」
「ですが、ラヴル様は――――まぁ、いいでしょう。ラヴル様がお待ちです。此方にどうぞ」
カルティスの後について行くと、長い廊下の突き当たりの部屋に案内された。
「中でラヴル様がお待ちです」
その部屋は広くて、灯りが付いていなくて、なんだか普通の雰囲気じゃなくて、とてもドキドキしてしまう。脚が竦んで立ち止まってたら、「さぁ、どうぞ」と背中を押されて部屋の中に無理矢理入れられ、ドアが静かに閉められた。
「ぁ……あの……」
カーテンの開けられた部屋の中は、灯りなど必要のないほどに、月明かりが差し込んでいた。テラスに続く大きな窓が開け放たれ、外の景色が良く見えている。月の光は時々雲に隠れながらも、辺りを柔らかな光で満たしていた。照らされた木々の葉は夜風に揺れてつやつやと光り、遠くに見える水面はちらちらと光る。夜風がさわさわとカーテンを揺らし、冷たい風がユリアの熱い頬に心地良く当たった。
ラヴルは、テラスの傍の大きなソファに、此方に背を向けて座っていた。漆黒の髪が夜風にサラサラと揺れている。後ろ姿からでも漂ってくる、近寄りがたいようなラヴルの威厳。
―――この方、ほんとうに何者なのかしら……声をかけるのも、怖い――――――
ユリアは、ドキドキしている心臓を抑えるように胸の前で手を組み、勇気を出してソファの傍に近付いて行き、ラヴルの後ろの、ソファから少し離れたところに立った。
「あの……お湯、有難うございました。おかげで、すっかり疲れが取れました」
ラヴルは無言のまま、ずっと窓の外を眺めている。
ユリアは所在なく、そのままそこに立っていた。
言われるままに、部屋の中に入ったのは良いけど、これからどうしたらいいのか分からない。
「ユリア――――こっちに来い」
「え……?そちらに……ですか?」
ラヴルは此方を振り向きもせず、目線は窓の外をずっと見つめたまま。声色はとても静かだけどよく響いていて、オークションの時に聞いたものと同じだった。
「あぁ、そうだ。こっちに来て、ここに座れ」
「はい……」
小さな声で返事をして、ソファの前に行ってラヴルをチラッと見た。上着を脱いでタイを外し、リラックスした恰好で座り、片手にはワイングラスを持っていた。
緊張しながらオズオズとソファの隅に座ると、ワイングラスを脇のテーブルの上に置いて、肘かけに頬づえをついて脚を組んだ姿勢になった。なんだか、不思議そうな顔をして此方を見ている。
「用意してあったドレスは、どれも気に入らなかったのか?」
「ぁ……違います。そうではなくて……。どのドレスも素敵過ぎて、私には身に余るものでしたので。私にはこれで十分です」
「そうか、ユリアは変わっているな……。ふむ、そこでは駄目だ。もっと近くに来い」
ユリアとラヴルの間には、一人座れるくらいのスペースが空いていたので、それを半分くらい近付けて座った。
「駄目だ。もっとだ―――もっと傍に来い」
ユリアが少し動いてソファに座ると、ラヴルが“もっとこっちに”と言う。それを何回か繰り返していると、ユリアの体がラヴルの体にぴったりとくっつくまでになった。
なんだか恥ずかしくて、俯いていると、漆黒の瞳が除き込んでクスッと笑った。
「やっと、傍まで来たな」
ユリアの瞳に、ラヴルの妖艶な微笑みが映っている。その妖艶な笑みに、ユリアの心臓がトクンと小さく脈打った。
「―――私のモノだ」
逞しい腕がユリアの華奢な肩をしっかりと包み、ぐいっと引き寄せた。男らしい厚い胸に頬が押しつけられ、ラヴルの規則的な息遣いが耳に届いてくる。
ユリアの心臓ははちきれんばかりにドキドキしていた。
―――こんなところに連れてきて、こんな風に抱き寄せられて。この方は一体何をするつもりなのだろうか……―――
体を包む腕から逃れたくても、何とか抵抗したくても、何故か、ちっとも体が言うことをきかない。手脚を何とか動かすことができても、ただじたばたともがいているだけに終わってしまう。
そうこうしているうちに、ますますラヴルの腕の力が強まり、頬が胸に押しつけられていく。
「ユリア、そう逃げるな」
静かな声が心地よく耳に届く。
――逃げるなって言われても、無理……。男の人と二人きり、しかも相手はこんな御曹司の方で。こんな居た堪れない空気、もう逃げたい……。
ユリアがドキドキしていると、ラヴルの指が髪に触れ、少し濡れたストレートの黒髪を丁寧に梳き始めた。
「きちんと乾かさないと風邪をひく。人間は、か弱き者だ」
ラヴルの手にはいつの間にかタオルがあって、ユリアの長い黒髪を丁寧に拭き始めた。たまに長い指先が柔らかい耳に当たり、するっと撫で上げている。
偶然なのか、わざとなのか、何度も耳に触れるラヴルの指先。予想外の感触に驚き、何度も体がぴくんと震えた。
漆黒の瞳が柔らかに緩まり、その反応を楽しむかのように腕の中の体を見つめている。
「ユリア、私が怖いか?」
「えっ……そん、な―――怖くなんて……怖くなんて、ありません」
自分をからかうようなラヴルの瞳を見ると、心の中とは裏腹に、つい強がりを言ってしまう。
ユリアの様子を見ていたラヴルの漆黒の瞳が、月明かりでキラッと輝いた。
「そうか?―――ユリア、こっちを向け」
自分をからかうような瞳。それから逃れるように俯いていたら、長い指が顎に当てられ、くいっと上を向かせられた。目の前の漆黒の瞳に、戸惑い怯える自分の顔が映っている。
抑えようと思って頑張っても、どうにも震えてしまう唇。
漆黒のこの瞳は、小さな心の中なんて、すべて見透かしてしまいそうに思える。
息も掛かりそうに近くて、顔をそむけたくても、長い指が軽く添えられてるだけなのに、全く動かすことが出来ない。
「ユリア、そう怯えるな―――」
そう呟くと顎から長い指を離し、ラヴルはテーブルに置いていたワインをくいっと飲みほした。漆黒の瞳から解放され、ホッと一息ついて俯いていると、満足げに呟くラヴルの声が聞こえてきた。
「やはり、ユリアは可愛いな」
目の前でラヴルの髪がサラッと揺れたと思ったら、脚に腕が差し込まれ再び浮遊感に襲われた。驚いてラヴルを見上げると、妖艶な微笑みがこちらを見下ろしている。
「ユリアは私のモノだ。この美しい肌も、その汚れない心も何もかも、すべて私だけのモノだ。他の誰のモノでもない。したがって、ユリアは私を拒むことは許されない。分かるだろう?」
「え?何を言ってるんですか?……あの、下ろして下さい」
「駄目だ」
そう言うと、何処に連れていくのか部屋の中をスタスタと歩いていく。その向かう方向にある物を見て、ユリアの黒い瞳が戸惑いの色を浮かべ、ラヴルを見上げた。
もともとドキドキしていたのに、更に、壊れるほどに心臓が脈打ち始めている。
―――もしかして……このまま行くと、あれは……あれは―――
ラヴルが一歩進むたびに、それはどんどん近付いてくる。
本能が身の危険を警告している。焦るユリア。
「ぁ……っ、あの、ラヴル……。今から、何をするのですか?」
「分からないのか?……決まってるだろう。今からユリアを頂く」
「頂くって……どう――――あの、やめた方がいいです。私、この通り細いですし、ちっとも美味しくありませんから」
慌てて口をついて出た言葉で、ラヴルがおかしそうに声を殺して笑っている。
「やはりユリアは面白いな―――いいから、黙って従え」
どんどん近付いてくるのは、大きな大きなベッド。人が10人くらい寝られるんじゃないかと思える。よく見ると、シーツの上にはピンク色と赤色の花と花弁が惜しげもなく散りばめられているけれど、何故か真ん中のあたりだけ、花が乗っていない。
それが、何を意味しているのか考えるまでもない。その、真ん中のぽっかり空いた場所にゆっくりと下ろされた。
「コレはリリィが飾り付けたそうだ。ユリアが喜ぶと……。一生懸命飾ったそうだ―――どうだ?気に入ったか?」
―――リリィって、あのかわいい女の子……―――
ユリアの頭に、さっき見たニッコリと可愛い笑顔を向けるリリィの顔が思い浮かぶ。
「これを、リリィが?えぇ、とても素敵で綺麗だわ―――って、ちがっ―――あの……待って、ラヴル」
「駄目だ。待てない」
手脚をバタつかせて最後の抵抗を試みるも、何故か手が自然に動いてゆき、顔の両側に沈められていく。脚や体は動かせるものの、どうやったのか、両手首がベッドに縫いとめられたように封じられ、起き上がることも寝返りを打つことも出来ない。
無抵抗となったユリアの上に、覆い被さる様にラヴルの体が乗った。いつの間に脱いだのか、ラヴルの上半身はすでに何も身に纏っていない。
ユリアの目の前で、黒い髪がサラリと揺れた。
不安げに見上げるユリアの黒い瞳を、漆黒の瞳が妖艶な光を湛えて見下ろし、掌が紅潮した頬をそっと撫でた。
「怖いか……。緊張してるのか?ユリアのこんな顔もいいな」
「っ……そんなの……ちっとも良くありません」
「震えているな……」
「ラヴル、あの……緊張っていうか、まだ心の準備が……あの、私―――」
出す声が震えてしまうが、何とか思いとどまって欲しい、そう願いながらユリアはラヴルをじっと見つめた。
―――確かにオークションで売られたけど、確かにラヴルのモノかもしれないけど、まさか、こんなことになるなんて。せめてもう少し、待って欲しい……―――
そんな願いを見事に無視し、ラヴルの指が夜着の襟元にスッと添えられた。
「分かっている、大丈夫だ。心配するな、ユリア。力を抜いて私に身を任せろ。そうすれば、心地よい夢を見せてやる」
そう言うと、夜着を引き裂いた。露わになった汚れのない柔らかな白い肌。
体の線を確かめるように、撫でるように漆黒の瞳がゆっくりと、上から下に動いていく。
ユリアは顔をそむけてぎゅっと瞳を閉じた。
「ふむ、綺麗だ―――」
ユリアの綺麗な鎖骨にラヴルの唇が柔らかく甘く触れた。
何度も優しく触れるラヴルの唇。
それが徐々に、肌の上を下へと移動していく。
柔らかな膨らみを掌が優しく包み込み、唇がゆっくりと這っていく。
拒もうと何とか声を絞り出しても、言葉にならずに吐息となって掻き消えてしまった。
ラヴルの長い指が、唇が、白く柔らかな肌を優しく制していく。抗おうにも、意に反してラヴルの行為に甘く反応してしまう。
体の奥が熱い……。
唇から洩れるのは震える声と、甘い吐息。
ラヴルの優しい腕に包まれ、もう抵抗する意思も力も奪われてしまった。
「ユリア、もう少し力を抜け―――」
「……ぇ?ぁ……まっ――――――!……」
月明かりの差し込む部屋の中で、ユリアの体は強く優しく、幾度もラヴルに征服された。
どれほどの時間が経っただろう、ラヴルの体が漸くユリアの上から離れた。満足げに微笑みながら、薔薇色に染まった頬を長い指先がすぅっと撫でた。
ユリアの黒い瞳はしっかりと閉じられ、長い睫毛が少し濡れている。腕の中で力なく横たわる体から、規則的な寝息が耳に届いてくる。
「ユリア……疲れて眠ったのか」
乱れた長い髪を指先で整え、耳元の髪をすっと避けると、美しい白い首筋が月明かりに浮かび上がる。
ラヴルは指先で首筋をそっと撫でた後、柔らかな肌に唇を近付けた。
「ぅっ……ん……」
小さなうめき声とともに、ユリアの体がぴくんと動いた。が、一向に目覚める様子はない。
暫くの後、ラヴルは満足げに肌から唇を離し、指先が首筋をゆっくり撫でた。少し赤くなっていた肌が、すぅっと元に戻っていく。
薔薇色に染まっていたユリアの頬が、少しだけ白くなった。
「しまった。少し、無理をさせたか?ふむ、まだ加減がわからんな。これは―――カルティスに叱られてしまうな……」
ラヴルの脳裏に、眼鏡をぎらっと光らせて、自分を叱るカルティスの姿が思い浮かぶ。少し考え込んだ後、服を着こみ、眠るユリアの体を丁寧にシーツで包んだ。
「ユリア、少しの間我慢しろ」
包み込むように抱きかかえ、廊下をスタスタと歩いていく。すると、後ろから焦ったカルティスの声が聞こえてきた。
「ラヴル様、もうお帰りですか?」
「あぁ、屋敷に戻る」
「ですが、つい今しがた、コトを済まされたばかりで御座いましょう・・・それでは、ユリア様のお体が持ちません」
カルティスがラヴルの体の前に回り込み、手を広げて立ちはだかった。眼鏡がぎらっと光っている。
「せめてもう少し休ませてからにした方が宜しいです。ユリア様はか弱きお方で御座います」
「大丈夫だ、この通り、ユリアは眠っている。私がしっかり支えていくから、疲れないだろう」
「ですが……」
カルティスはユリアの顔色をチラッと見やった。さっきのコトのおかげで頬は薔薇色に染まっているが、全体的に疲れの色が見てとれる。こんな短時間でヴィーラで往復するなど、人間のユリアにはキツイに違いない。
「カルティス、此処よりルミナの屋敷の方が、今のユリアにも、この私にも都合がいいんだ。いいから、そこをどけ」
最後にはラヴルの威厳ある瞳がカルティスを睨み、広げられていた腕を下ろさせた。
「―――来い、ヴィーラ」
空に向かって放たれた静かな呼び声で、ヴィーラが何処からともなく現れ、ワッサワッサと翼を動かし、目の前の広場に着地した。
ラヴルはヴィーラの背中にひらりと乗ると、自分の上着を脱いでユリアの体にすっぽりと被せ、体が冷えないよう、膝の上にしっかりと抱え込んで支えた。
「カルティス、そう案ずるな。リリィに“ユリアが綺麗だと言って喜んでいた”と、そう伝えろ」
心配げなカルティスに笑顔を残し、ラヴルは屋敷へと飛び立った。




