プロローグ1
「―――様、このまま真っ直ぐ走ってお逃げ下さい!」
「嫌よ!皆を置いていけないわ!」
「駄目です!あなた様だけでも逃がすようにと、仰せつかっております!さぁ、お早く―――」
娘は武装した従者に手を引っ張られ、木に囲まれた夜の森の中、数人の者と一緒に逃げていた。
夜の森は月明かりも届かず暗くて足元がよく見えない。
逃げる身としては灯りを灯すこともできず、何度も転びそうになりながら必死に走った。
「見つけたぞ!逃がすか!おい、そっちにまわれ」
黒い服を着た男たちが娘たちを取り囲んだ。
従者たちは剣を手にし、娘を必死に庇った。
「良いですか?私が機会を作ります。合図したら走って下さい」
隣にいた者が小声で娘に言った。
その表情は真剣で、娘を守るためであれば死をも覚悟していた。
「嫌よ、それじゃあなたが―――」
「良いのです!さぁ、行きますよ」
ニコリと微笑んだあと、敵を見据えながら剣を構えた。
威圧するように敵を一人一人睨みつけ、不敵な笑みを浮かべて言い放った。
「貴様ら、我を国一番の剣士と知ってのことか!?」
敵が少し怯み、後退りをした。ジリジリと進んでいくと敵の一人が気勢を張って切りかかってきた。
すると他の者たちも次々に動きだし、従者たちと敵の切り合いが始まった。
「今です!行って下さい!」
「でも……」
「行ってください!」
娘は震える脚を何とか動かし、森の中を必死で走って逃げた。
瞳に涙があふれ、前がぼやけて視界を遮った。
木の根に足を取られ何度も転びながら走っていると、視界が急に開いた。
「これは……」
娘は呆然と立ちすくんだ。目の前には行く手を阻むように大きな川が流れていた。
「いたぞ!!逃がすな!」
数人の声が聞こえてきて、娘の顔が恐怖に歪んだ。
その声はどんどん近付いてくる。
娘は意を決して目の前の川に飛び込んだ。
「うっぷ……」
思ったより流れが速く、娘の体はずんずん下流に流されて行く。
川の水は冷たく、娘の体温を奪い、体の感覚を奪っていった。
―――泳がなくちゃ……逃がしてくれた皆のためにも……生き延びなくちゃ……。
娘は必死に手足を動かしたが、川の流れは速く対岸に辿り着こうにもどうにも、遠ざかるばかりだった。
必死にもがいていると、頭にガンッと強い衝撃を感じた。
娘の瞳が閉じられ、手足が動かなくなり、体は激流にのまれた。
***
激流の中を奇跡的に生き延び、岸辺に打ち上げられていた娘は、ずきずきする頭をさすりながら起き上がった。
兎に角逃げなければ……
娘は小さな街の中を彷徨っていた。
黒髪も服も濡れたまま、ふらふらと歩いていた。
「娘さん、どうしたんだい?ずぶぬれじゃないか」
気のよさそうな太った夫人が話しかけてきた。
娘はぼんやりとした瞳を夫人に向けた。
「分からないの……。ここはどこ?」
「まぁ……ちょっと待ってな。今拭くもの持って来るから」
夫人はそう言うと急いで家の中に入っていった。
娘は、夫人の背中を見送り、重い足を引きずりながらふらふらと歩きだした。
夫人がタオルを手に戻って来た時は、娘の姿は何処にも見えなかった。
娘が歩いていると、まばらだった家が徐々に増え始め、やがて大きな道を挟んで家々が立ち並ぶ街中に入っていた。
娘が道の真ん中を歩いていると、道を歩いている人や、商店の中にいる人たちが物珍しげにじろじろ見ていた。ヒソヒソと囁き合う者たちもいる。
その中でニヤニヤしながら見ている男が二人いた。
「おい、あれはもしかして―――」
「あぁ、間違いないな……」
「手ぶらで帰るところだったが、思わぬところで、良い手土産が出来たな」
「あぁ、そうだな」
二人は顔を見合わせてにやりと笑うと、ぼんやりと足を引きずる様に歩いている娘に近付いた。
一人は娘の前に、一人は娘の背後にまわり、ポケットからハンカチのようなものを取り出していた。
「娘さん、何処に行くんだ?この先は何もないぜ?」
娘は突然話しかけられ、ピタリと足を止めたが、無言で男を見た後、再び歩きだした。
放心した表情で、何やらずっとぶつぶつと独り言を言っている。
小さいが、それをよく聞いてみるとただひたすらに“逃げなくちゃ”と繰り返しているようだった。
男達はたがいに目配せをすると、後ろの男が娘の口にハンカチを押し当てた。
すると、一瞬驚いたように目が見開かれた後、静かに瞳が閉じられ、体がぐったりと動かなくなった。
崩れ落ちていく体をしっかりと支え、男はがっしりとした肩に娘を担ぎあげた。
「よし、連れて行こうぜ」
男の背で娘の細い手と髪がゆらゆらと揺れるのを、周りにいた住民は静かに眺めていた。