第9話 私が舞うと、世界が回る
巨大な氷の白鳥に突っ込んだ瞬間、私は自分の人生が終わる音を聞いた気がした。
ガゴンッ、と重たい衝撃が肩に走る。
私の全体重と、特殊ドレスの重量、そして靴のグリップによる加速。これら全てが運動エネルギーとなって白鳥に伝わった。
三メートルある氷の芸術品は、台座から外れ、まるで生き物のように滑り出した。
シャーッという不気味な音を立てて、白鳥が床を滑走していく。
その進路上にいるのは――にこやかに談笑している、隣国の特使ヴィクトル卿だ。
「嘘……っ!」
血の気が引く音が聞こえるようだった。
あれが直撃したら、骨折どころではない。国際問題だ。戦争だ。我が家の取り潰しだ。
止めなきゃ。
私は反射的に地面を蹴った。
特殊加工された靴底が、キュッと床を噛む。
「危ないっ!」
叫んだつもりだったが、喉が引きつって空気の漏れるような音しか出なかった。
私は滑っていく白鳥を追いかける。
しかし、焦りは最大の敵だ。
踏み出した右足が、ドレスの何重にも重なったペチコートに絡まる。
世界が反転した。
私は前方へダイブする形で宙を舞う。
私の身体は砲弾となって、白鳥よりも先にヴィクトル卿へと到達した。
特使が驚いたように振り返る。
その碧眼が、空から降ってくる私を捉えて見開かれる。
「え……?」
彼の言葉はそこまでだった。
ドサァッ!!
私はヴィクトル卿に真正面から抱きつくような形で激突し、そのまま勢いで彼を押し倒した。
背中の防護素材入りドレスが衝撃を吸収したのか、痛みは少ない。
だが、私の下には、国賓である特使様が敷かれている。
柔らかい絨毯の上とはいえ、大の男を押し倒し、馬乗りならぬ「ドレス乗り」になっている状態だ。
終わった。
今度こそ、本当に。
私は蒼白な顔で、目の前のヴィクトル卿を見下ろした。彼は目を白黒させ、口をパクパクとさせている。
「……君は、正気か?」
ヴィクトル卿が絞り出すように言った。
ごもっともだ。正気ではない。
私が弁解の言葉を探そうとした、その時。
ガシャァァァァァァン!!
凄まじい破砕音が会場を揺るがした。
私たちが倒れ込んだ場所のすぐ数メートル先――本来ならヴィクトル卿が立っていた場所を通り過ぎた氷像が、壁に激突して粉砕されたのだ。
無数の氷の礫が散弾のように飛び散る。
私は悲鳴を上げ、反射的にヴィクトル卿の頭を抱え込んで伏せた。
だが、恐怖はそれだけでは終わらなかった。
ボォォォォォォン!!
砕けた氷の山の中から、紅蓮の炎が噴き上がった。
爆発だ。
熱波が頬を撫で、衝撃で床が揺れる。
会場中から悲鳴が上がった。
「キャアァァッ!」「何だ!?」「爆発だ!」
私は震えながら顔を上げた。
壁の一部が焦げ、砕けた氷が溶けて蒸気となっている。
もし、あの氷像がここで止まっていたら?
もし、ヴィクトル卿がそこに立っていたら?
至近距離での爆発と、飛び散る氷の刃で、彼は間違いなく……。
「……な、なんだこれは」
腕の中で、ヴィクトル卿が呆然と呟いた。
彼は私のドレスの陰から、燃え上がる氷の残骸を見つめている。
私も理解が追いつかない。
私が氷像を倒したせいで、爆発したの? 私のドジはついに火薬まで生成するようになったの?
混乱する頭で周囲を見渡すと、騒然とする会場の中で、一人の人影がこちらへ向かって疾走してくるのが見えた。
銀色の髪。
リード様だ。
彼は鬼のような形相で――けれど、その目は恐怖ではなく、確信に満ちた光を宿して駆け寄ってきた。
「怪我はないか!」
リード様が私の肩を掴み、ヴィクトル卿の上から引き剥がすように立たせる。
私は腰が抜けていて、彼に支えられなければその場に崩れ落ちていただろう。
「り、リード様……私、また……」
失敗しました。特使様を押し倒して、爆発騒ぎを起こしました。
涙が溢れてくる。
しかし、リード様は私を強く抱き寄せると、大声で周囲に向かって叫んだ。
「衛兵! 残骸を確保しろ! 氷像の中に『発火石』が仕込まれていたぞ!」
発火石?
その言葉に、会場のざわめきが変わる。
リード様は私を支えたまま、地面に座り込んでいるヴィクトル卿に手を差し伸べた。
「ご無事ですか、ヴィクトル卿。……間一髪でしたな」
「……ああ。君のパートナーが、私を突き飛ばしてくれなければ、今頃私は丸焼きになっていた」
ヴィクトル卿がリード様の手を取り、立ち上がる。
彼はまだ信じられないといった顔で、燃える壁と、そして私を見た。
「まさか、氷の中に爆弾が……? 彼女はそれに気づいて?」
リード様が私を見る。
その蒼い瞳が、「よくやった」と語りかけていた。
「彼女の勘は鋭いのです。異常な熱源を察知し、身を挺して貴方を守った。……少々、荒っぽい手段ではありましたが」
違います。
私はただ転んで、貴方をクッションにしただけです。
でも、喉が張り付いて声が出ない。
リード様の腕の中で、私はガタガタと震えながら、燃える氷を見つめ続けた。
群衆のざわめきの中に、紛れ込んでいた「灰色のフードの男」が、舌打ちをして姿を消すのを、この時の私はまだ知る由もなかった。




