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残念令嬢ですが、毎日が楽しいので問題ありません  作者: 九葉(くずは)


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8/12

第8話 直立不動でも事件は起きる

 会場に入った瞬間に肌を刺した「殺気」は、シャンデリアの煌めきとオーケストラの演奏にかき消され、今はもう感じられない。あるいは、私の感覚が麻痺しているだけかもしれない。


 私は会場の隅、分厚いベルベットのカーテンの影に同化していた。

 背筋を伸ばし、両手を腹部で重ね、視線は四十五度下をキープ。

 いわゆる「壁の花」スタイルだ。ただし、今の私は花というより、コンクリート製の電柱に近い。


『いいか、ミレーネ。今夜だけは何もするな。動くな。息以外止めておけ』


 出発前、父様が私の両肩を掴んで言い聞かせた言葉が、呪文のように脳内でリピートされている。

 リード様は現在、会場の中央で隣国の外交官たちに囲まれている。

「少し離れるが、ここなら安全だ。……君のその『静止』も見事な擬態だ。気配を完全に消している」

 そう言って彼は去っていった。

 違うのです、リード様。これは擬態ではなく、重装備のドレスと靴のせいで、一ミリも動けないだけなのです。


 開始から一時間。

 私の膝は笑うのを通り越して、無言の悲鳴を上げ始めていた。

 特殊加工された靴のグリップは床を掴んで離さないが、その分、足首とふくらはぎにかかる負担が半端ではない。血流が止まっている気がする。

 動きたい。せめて重心を左右に入れ替えたい。

 だが、周囲の令嬢たちがチラチラとこちらを見ている。

「あれが噂の……」「ヴァーミリオン様のパートナーですって」「でも、随分と……硬い動きね」

 ささやき声が聞こえる。

 ここで私が動けば、ギギギという油切れのロボットのような音がして、嘲笑を買うだろう。

 耐えるのよ、ミレーネ。おやつまでの辛抱だと思えばいい。


 その時、会場の空気が変わった。

 入り口付近がざわめき、人の波が左右に割れる。

 ファンファーレと共に、隣国の特使団が入場してきたのだ。


 先頭を歩くのは、金髪碧眼の華やかな青年――特使のヴィクトル卿。

 その後ろに、数名の護衛と従者が続く。

 そして、その最後尾に。


 一際目立つ、灰色のローブを纏った人物がいた。

 フードを目深に被り、顔は見えない。

 馬車の中でリード様が言っていた「奇妙な人物」だ。

 私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。


 特使団が、主賓席へ向かうために私の目の前――壁沿いの通路を通る。

 ヴィクトル卿が優雅に手を振りながら通り過ぎる。

 続いて、護衛たち。

 そして、灰色のフードの男が、私の前を通過しようとした、その瞬間。


 キィィィィィィン……。


 耳の奥で、ガラスを爪で引っ掻いたような甲高い音が響いた。

 痛い。

 鼓膜ではなく、脳の芯が震えるような感覚。

 私は思わず顔をしかめ、耳を押さえそうになったが、ドレスの重みで手が上がらなかった。

 

 男が、一瞬だけ足を止めた気がした。

 フードの奥から、ねっとりとした視線が私を舐めたような悪寒。

 

「……ッ」

 息が詰まる。

 怖い。この人は何? 人間じゃないみたいな、冷たくてドロドロした何かが詰まっている。

 男はすぐに歩き出し、特使団の列に戻っていった。

 耳鳴りは遠ざかったが、私の身体には強烈な「拒絶反応」が残った。

 

 震えが来る。

 いつもの緊張による震えじゃない。本能的な逃避衝動だ。

 逃げなきゃ。ここから離れなきゃ。

 脳からの緊急指令が、限界を迎えていた足の筋肉に電流を流す。


「失礼いたします」

 不意に、すぐ横から声をかけられた。

 シャンパングラスを載せたトレイを持つ、若い給仕の少年だった。

「お嬢様、お顔色が優れませんが……お水をお持ちしましょうか?」

 彼の心配そうな顔が、視界の端で揺れる。


 本来なら「いいえ、大丈夫よ」と微笑んで断る場面だ。

 けれど、私の身体は極限状態にあった。

 フードの男への恐怖、長時間拘束の疲労、そして突然の接触による驚愕。

 これらが一気に化学反応を起こす。


「あ、いえ、だいじょ……」

 私は彼の方を向こうとして、右足を一歩踏み出した。

 しかし、感覚のない右足は、自分の左足の裾を踏みつけていた。

 さらに、靴の強力なグリップが災いし、足は床に固定されたまま、上体だけが慣性で回転する。


 物理法則が乱れる音がした。

 私の身体が、独楽のように回る。

 

「えっ、うわっ!?」

 給仕の少年が目を見開き、トレイを避けるように身を引く。

 彼の持っていたシャンパングラスの一つが、私のドレスの袖に当たって宙を舞った。

 黄金色の液体が弾ける。

 私はバランスを失い、タタタッと制御不能のステップを踏んで前へ飛び出した。


 目の前には、会場の装飾の目玉である、高さ三メートルほどの巨大な「氷の白鳥」が鎮座している。

 美しく透き通った翼を広げ、ライトを浴びて輝く芸術品。

 特使団を歓迎するために用意された、今夜のシンボルだ。


 止まれない。

 靴底が床を噛む音が、ブレーキ音のように響く。

 けれど、重いドレスの質量が私を前方へと押し出す。


「――っ!」

 声にならない悲鳴。

 スローモーションの中で、白鳥のつぶらな瞳と目が合った気がした。

 ごめんなさい。

 父様、リード様。

 息を止めるだけでは、駄目だったようです。


 私は両手を前に突き出し、白鳥の胸元へ向かって、全力のタックルをかましていた。

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