第5話 請求書の代わりに来たのは、悪魔の招待状
王宮で国宝級の壺を粉砕してから一日。
私の胃は、消化液の代わりに鉛を溜め込んでいるようだった。
応接間のソファに座らされた私は、膝の上で手を組み、死刑判決を待つ囚人のような心持ちでドアを見つめていた。
父様が隣で、ハンカチで額の汗を拭っている。
「ミレーネ。落ち着きなさい。……いや、無理か。呼吸だけは忘れるなよ」
「はい、お父様。吸って、吐く。それだけなら、きっと……」
言いかけた言葉は、重厚なノックの音にかき消された。
執事が扉を開ける。
現れたのは、今日も今日とて氷の彫刻のように美しい、リード・ヴァーミリオン公爵令息だった。
銀髪が揺れるたびに、室内の温度が二度ほど下がる気がする。
後ろには従者が一人。手には厚みのある封筒を持っている。
来た。
請求書だ。
あの厚み、きっと弁償金額のゼロの羅列だわ。あるいは、「示談条件:一生涯の強制労働」とか書かれた契約書かもしれない。
「突然の訪問、失礼する。アルトワ伯爵」
リード様が優雅に一礼する。その所作には一点の隙もない。
「い、いえ! ヴァーミリオン公爵家の方をお迎えできるなど、光栄の極みです!」
父様が裏返った声で応対し、私に目配せをした。挨拶しろ、という合図だ。
私はバネ仕掛けの人形のように立ち上がった。
「よ、ようこそおいでくださいました……!」
勢いよく頭を下げすぎて、テーブルの角におでこをぶつけそうになる。ギリギリで寸止めした。
冷や汗が背中を伝う。
リード様は、そんな私の挙動不審な動きを、じっと蒼い瞳で観察していた。
席に着き、メイドが紅茶を運んでくる。
カチャリ、とソーサーが置かれる音が、静寂な室内にやけに大きく響いた。
本題に入るまでの沈黙が怖い。
私は恐怖を紛らわそうと、ティーカップに手を伸ばした。
しかし、指先が小刻みに震えて止まらない。
カップを持ち上げると、ソーサーとカップがぶつかり合って、カタカタカタカタ……と細かくリズムを刻み始めた。
止まって。お願いだから止まって。
私は必死に両手でカップを押さえ込むが、振動はスプーンにまで伝播し、チリチリチリ……と金属音を奏でる。
まるで怯えた小動物だ。
淑女失格。これだけでマナー違反の切符を切られても文句は言えない。
「……なるほど」
リード様が、紅茶に口もつけずに呟いた。
その視線は、私の震える手元に注がれている。
「周囲への警戒、か」
「は、はい?」
私は震える手でカップを置いた(中身が少しこぼれた)。
彼は真顔で頷いた。
「この部屋には我々しかいないが、壁の向こうに誰がいるかは分からない。君はその震えの不規則なリズムで、何らかの合図を送っている……あるいは、室内の空気の振動から異変を察知しているのか?」
沈黙。
父様が口を開けてポカンとしている。
私も思考が停止した。
この人は、何を言っているの?
私がただ緊張でブルブル震えているだけなのを、どう解釈したら「高度なソナー能力」になるというの?
「あ、あの、リード様? これはただの……」
「謙遜は不要だ」
彼は片手を上げて私を制すと、従者から例の封筒を受け取った。
白い、上質な紙。中央には王家の紋章が入った蝋封。
あれ? 請求書にしては、やけに格式高い。
「本題に入ろう。ミレーネ嬢」
彼が封筒をテーブルに置く。滑るように私の前へ差し出された。
「来週の王家主催の夜会。君に、私のパートナーを務めてもらいたい」
時が止まった。
私の脳内で、理解を拒否したニューロンたちがストライキを起こす。
パートナー?
夜会の?
私が?
「……え?」
間抜けな声が出た。
「お、お待ちください、リード様!」
先に再起動したのは父様だった。
「娘を? ミレーネをですか? 本気で言っているのですか? この子は、その……歩く災害と言いますか、取扱注意の爆弾のようなものでして……!」
実の娘を爆弾呼ばわりする父様だが、全面的に同意するしかなかった。
公爵令息のパートナーなんて、失敗が許されない大舞台だ。
私が舞えば、ドレスが裂けるか、シャンパンタワーが倒れるか、あるいはその両方が起きる。
「承知している」
リード様は涼しい顔で言った。
「彼女のその特性こそが、必要なのだ」
「特性……?」
「そうだ。今回の夜会には、隣国の使節団も招かれている。表面上は友好ムードだが、水面下では様々な思惑が動いている」
彼は蒼い瞳を細めた。
「私の隣には、ただ着飾って微笑んでいるだけの人形はいらない。不測の事態に対応し、時には敵の意表を突いて場を撹乱できる……そんな『予測不能な要素』が必要なのだ」
撹乱。
意表を突く。
言葉はかっこいいけれど、要するに「お前のドジで敵を混乱させてくれ」ということだろうか?
いや、彼の真剣な眼差しを見る限り、もっと高尚な能力だと誤解している節がある。
「あの、お断りしたら……」
私が恐る恐る尋ねると、彼はふっと目を伏せた。
「先日の壺の件だが」
「行きます! 行かせていただきます!」
即答だった。
選択肢なんて最初からなかったのだ。
「よかった。君ならそう言ってくれると思っていた」
リード様は満足げに頷き、立ち上がった。
「ドレスや装飾品はこちらで用意する。君は当日まで、その鋭い感覚を研ぎ澄ませておいてくれ」
彼は私の震える手(まだ止まっていない)を一瞥し、ニヤリと笑った。
「その『擬態』も見事だ。誰が見ても、ただ緊張しているだけの凡庸な令嬢にしか見えない」
「……ありがとうございます」
もはや訂正する気力もなかった。
擬態じゃない。素だ。正真正銘、凡庸以下のポンコツなのだ。
リード様が帰った後、私はテーブルに突っ伏した。
白い封筒が、まるで重たい墓石のように目の前に鎮座している。
「お父様……どうしましょう」
「……まあ、なんだ。壺代を払うよりは、夜会で恥をかく方がマシだと思え」
父様は遠い目で私の肩を叩いた。慰めになっていない。
夜会まであと一週間。
逃げ場は塞がれた。
私は深いため息をつき、再び震えだした手で冷めた紅茶を啜った。
苦い。
まるで私の未来を暗示しているような味だった。




