第4話 差し出された手は、手錠の予感しかしない
数日前に聞き間違えたはずの『見事だ』という幻聴が、まだ耳の奥で燻っている。
私は王宮の長い廊下を、石像のように硬い動きで進んでいた。
カツ、カツ、と響く自分の足音が、処刑台へのカウントダウンに聞こえる。
抱えているのは父様から託された重要書類の入った革鞄。目的地は騎士団の事務室。
任務はシンプルだ。
届ける。帰る。それだけ。
テントを破壊した露店のおじさんには、翌日父様経由で謝罪と倍額の弁償をした。父様は「またか」と遠い目をしていたけれど、お小遣い半年分没収で許してくれた。
だから今日は、絶対に失敗できない。
目立たず、騒がず、空気のように。
「……よし」
角を曲がる手前で、一度立ち止まって呼吸を整える。
騎士団棟はもうすぐだ。そこには、あの人がいるかもしれない。
リード・ヴァーミリオン。
私のドジを「計算」だと勘違いしている、美しくも恐ろしい公爵令息。
会いたくない。絶対に会いたくない。もし会ったら、今度こそ「先日の件だが」と詰め寄られ、地下牢へ連行されるに違いない。
私はそっと壁から顔を出し、廊下の安全を確認する。
人影なし。
クリアだ。
私は鞄を胸に抱き直し、小走りで角を抜けた。
その時だった。
向こう側の扉が開き、長身の男性が現れたのは。
銀色の髪が、窓からの光を浴びて冷たく輝く。
整いすぎた眉目、氷のような蒼い瞳。
リード様だ。
しかも、私の方を見ている。
心臓が肋骨を蹴破りそうなほど跳ねた。
目が合った瞬間、彼の眉がわずかに動く。何かを認識した顔だ。
逃げなきゃ。
本能が警鐘を鳴らす。けれど、ここは王宮の一本道。隠れる場所なんてない。
私がフリーズしている間に、リード様がこちらへ歩き出した。
長い脚で、一歩、また一歩。
その距離が縮まるたびに、私の寿命が縮んでいく。
「……ミレーネ嬢」
名前を呼ばれた。
低く、落ち着いたバリトンボイス。それが私には、判決文を読み上げる裁判官の声に聞こえた。
「あ、う、はいっ!」
裏返った声で返事をする。
彼は私の目の前で立ち止まり、じっと私を見下ろした。その視線が、私の抱える鞄から、強張った肩、そして泳ぐ瞳へと移動する。
値踏みされている。
『こいつは今、何を壊そうとしているのか』と。
「先日は……」
彼が口を開いた。
来た。あのテントの話だ。
『君のせいで制服が埃まみれになった』とか『公務執行妨害で告発する』とか言われるんだ。
私の頭の中は大パニック状態に陥った。
謝らなきゃ。土下座? いや、ここで土下座したらスカートが裂けるかもしれない。それは別の罪になる。
リード様が、スッと右手を伸ばしてきた。
白手袋に包まれた、大きな手。
それが私の腕へと伸びる。
捕まる!
連行される!
「ひっ!」
私は短い悲鳴を上げ、反射的に身体を捻った。
伸ばされた手を全力で振り払う。
バシッ、と乾いた音がした。
私は勢い余ってよろめき、背後の壁際に設置されていた飾り台へと突っ込んだ。
「あっ」
私の肘が、飾り台の上の美しい壺――高さ一メートルはある、見るからに高価な東方の磁器――にクリーンヒットする感触。
スローモーションの世界が再来する。
壺が傾く。
リード様が目を見開く。
私は手を伸ばすが、指先は虚しく空を切った。
ガシャァァァン!!
王宮の静寂を切り裂く、盛大な破砕音。
粉々になった磁器の破片が、廊下いっぱいに散乱した。
終わった。
今度こそ、本当に終わった。
私は崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
テントどころじゃない。これは王宮の備品だ。国宝級かもしれない。
お小遣い何年分? いや、実家の領地の一部を売却?
涙がじわりと滲む。
どうして私は、こうなんだろう。ただ普通に、荷物を届けたかっただけなのに。
「……怪我は」
頭上から声がした。
怒鳴り声ではなかった。
恐る恐る顔を上げると、リード様が私の前に片膝をつき、散らばった破片を避けるようにして私を見ていた。
「怪我はないか?」
「は、はい……。ご、ごめんなさい……! 私、捕まると思って、つい……!」
震えながら謝罪する。
しかし、リード様は私の言葉を聞いていないようだった。
彼の視線は、私の足元――砕けた壺の底があったあたりに釘付けになっていた。
「……これは」
リード様の手が伸び、破片の山から何かを拾い上げる。
それは、親指大の黒く濁った石だった。
壺の底に二重底があり、その中に隠されていたらしい。
石の表面には、微細な魔術回路のような模様が刻まれている。
「盗聴石……しかも、かなり旧式で出力が高いタイプか」
リード様の声の温度が、氷点下まで下がった気がした。
彼はその石を指先で転がし、鋭い眼光で廊下の周囲を見回す。
「ここなら、騎士団の会議室の声も、廊下での立ち話も拾える。……なるほど」
そして、彼は私を見た。
その瞳には、以前露店で見た時と同じ、あの奇妙な熱と畏怖が宿っていた。
「君は、これを排除するために?」
「え?」
「私の接近を利用して、あえてパニックを装い、この壺を破壊したのか。普通に指摘すれば証拠隠滅される恐れがある。だから『事故』に見せかけて、物理的に破壊し露呈させた」
リード様が独り言のように早口で紡ぐ推理に、私は口をパクパクとさせた。
違います。
私はただ、あなたに捕まるのが怖くて暴れただけです。
壺の中にそんな怪しい石が入っているなんて、知るわけがありません。
「あの、リード様? 私はただ……」
「何も言うな」
彼は短く遮ると、立ち上がって私に手を差し出した。
今度は捕まえる手ではなく、エスコートの手として。
「君の懸念は理解した。この件は私が処理する。……この石が誰の差し金か、心当たりもある」
彼は私の手を取り、強引に立たせた。
その掌は温かく、けれど微かに震えているように感じた。武者震いだろうか。
「壺の弁償は心配するな。盗聴器の発見という功績の前では、こんな骨董品など安いものだ」
彼はニヤリと、獰猛な笑みを浮かべた。
「君のおかげで、鼠の尻尾が掴めそうだ。……感謝する、ミレーネ嬢」
私は呆然と、握られた自分の手を見つめた。
壺を割った。
なのに、また感謝された。
弁償もなし。
この人は、一体何を言っているのだろう?
私の失敗フィルターを通して、世界をどうねじ曲げて解釈しているのだろう?
「さあ、行こう。君の父上にも報告が必要だ」
リード様が歩き出す。私の手は握られたままだ。
廊下の向こうから、音を聞きつけた衛兵たちが走ってくるのが見える。
私は引きつった笑顔で、自分の運命がよく分からない方向へ転がっていく音を聞いた。
ただ一つ分かったのは、この人の手は、手錠よりも逃れられない「何か」だということだけだった。




