第3話 逃げ道は常に塞がれている
温室の生垣の向こうで煌めいた銀色の残像が、三日経っても瞼の裏に焼き付いて離れない。
あれは幻覚だったのだろうか。
私は王都の大通りを歩きながら、焼きたてのクレープを包んだ紙をギュッと握りしめた。指先に伝わる熱さと甘い香りが、ささくれ立った神経を少しだけ和らげてくれる。
今日は月に一度の外出許可日だ。
屋敷での失敗(コーヒー事件と温室破壊事件)を反省し、ほとぼりが冷めるまで外の空気を吸ってきなさいと父様に言われたのだ。実質的な厄介払いだけれど、私にとっては好都合だった。
ここでは誰も「残念令嬢」なんて呼ばない。ただの食いしん坊な町娘Aになれる。
「おじさん、これ、すごく美味しいわ!」
「おう、嬢ちゃん、いい食べっぷりだな!」
露店のおじさんが豪快に笑う。
私はクレープを頬張り、幸せに浸った。カスタードクリームの甘さが舌の上で溶ける。
ああ、平和だ。
ずっとこうしていたい。何も壊さず、誰にも見られず、ただ糖分を摂取するだけの存在になりたい。
けれど、神様は私に平穏を与える気がないらしい。
最後の一口を食べようと口を開けた瞬間、通りの向こうから歩いてくる「色」に、私の動きが凍りついた。
雑踏の中でも埋もれない、雪のような銀髪。
氷柱を削り出したような冷ややかな美貌。
そして何より、周囲の人間が自然と道を空けてしまうほどの、圧倒的な威圧感。
「……うそ」
喉の奥でカスタードが詰まりそうになる。
リード・ヴァーミリオン。
公爵家の次男にして、王宮騎士団の若きエース。そして、私の失敗を無表情で観察し続ける天敵。
なぜ彼がこんな下町に?
騎士団の制服ではなく、地味な外套を羽織っているけれど、その高貴なオーラは隠せていない。
目が合った。
間違いなく、合った。
群衆越しに、その蒼い瞳が私を射抜く。
心臓が早鐘を打ち、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
逃げなきゃ。
彼に見つかったら、過去の失敗リストを読み上げられた挙句、牢屋に連行されるかもしれない(被害妄想だとは分かっているけれど、身体がそう判断した)。
私は踵を返した。
挨拶? 無理だ。今の私の口周りにはクリームがついている。淑女として終わっている。
「し、失礼します!」
誰にともなく叫び、私は走り出した。
右へ。路地裏へ逃げ込もうとして、身体を捻る。
その時、極度の緊張で足がもつれた。
私の悪い癖だ。焦ると距離感がバグる。
「あっ」
目の前に、露店の日除けテントを支える木の柱があった。
避けられない。
私はクレープの包み紙を握りしめたまま、顔面から柱に突撃した。
ガガンッ!
鈍い音が頭蓋骨に響く。
痛みよりも先に、視界がぐらりと揺れた。
私のタックルを受けた柱が、メキメキと悲鳴を上げて折れる。
支えを失ったテントの布が、バサァッ! と音を立てて崩落を始めた。
「わあぁっ!?」
周囲の客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
私は尻餅をつき、崩れてくるキャンバス生地の屋根を見上げた。
ああ、またやった。
外出五分で、店を一軒破壊した。
私の平和な午後は、ここで終了だ。
だが、テントが完全に落ちきる寸前、私の耳は奇妙な音を拾った。
「――ぐあっ!?」
「な、なんだ!?」
男たちの低い呻き声。
テントの下敷きになった場所――そこは、私が柱にぶつかる直前まで、リード様が立っていた位置のすぐ脇だ。
砂煙が晴れる。
私は恐る恐る目を開けた。
崩れたテントの布が、何かをごもごもと動く塊を包み込んでいる。
まるで蜘蛛の巣にかかった獲物のように、三人の男たちが布と折れた骨組みに絡め取られていた。
そして、その手からこぼれ落ちたのか、地面にはギラリと光るナイフが転がっている。
「え……?」
状況が飲み込めない。
ただの露店の客じゃない。あんな物騒なナイフを持って、彼らは何を?
「……見事だ」
頭上から、冷たい声が降ってきた。
私はビクリと肩を震わせ、見上げる。
リード様だった。
崩落したテントの直撃を紙一重で回避した彼は、埃一つついていない完璧な立ち姿で私を見下ろしていた。
その視線が、捕獲された男たちと、私を交互に見る。
「あ、あの……リード、様?」
震える声で名前を呼ぶ。
リード様はゆっくりと瞬きをし、私の方へ一歩近づいた。
怒られる。器物損壊と公務執行妨害(?)で。
私は反射的に身を縮めた。
「計算通り、ということか」
彼が呟いた。
「は、はい?」
私は首を傾げる。計算? 今月の小遣いの残額のことだろうか。
リード様は無表情のまま、足元のナイフを爪先で軽く蹴った。
「こいつらは私の命を狙っていた暗殺者だ。人混みに紛れて近づいてきていたのは気づいていたが……まさか、君が先手を打つとは」
蒼い瞳に、微かな熱が灯る。
「柱を的確な角度で折り、テントの布で視界と動きを同時に封じるとはな。……君は、どこまで見えているんだ?」
問いかけられた言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
ええと。
つまり、私がドジで柱に激突したのを、彼は「暗殺者を捕まえるための高度なトラップ」だと解釈している?
「い、いえ! 違います!」
私はブンブンと首を横に振った。クリームのついた口元を隠すのも忘れて。
「ぐ、偶然です! 私、ただ逃げようとして、足がもつれて、それで……!」
「偶然」
リード様はオウム返しに言い、わずかに口角を上げた。本当に、数ミリだけ。
「そうか。君にとっては、これだけの芸当も『偶然』というレベルの話なのか」
通じてない。
全く通じていない。
彼の眼差しは、呆れや怒りではなく、まるで未知の兵器を発見した研究者のようだった。
「おい、大丈夫か嬢ちゃん!」
店の奥から店主のおじさんが飛び出してきた。
現実に引き戻される。
壊れたテント。拘束された不審者たち。そして、地面に落ちて無惨な姿になった私のクレープ。
私は立ち上がり、スカートの砂を払うと、財布を取り出した。
中身を確認するまでもない。今月のお小遣い、全額だ。
「ごめんなさい、おじさん! 弁償します! これで足りるか分かりませんが……!」
震える手で銀貨を数枚、おじさんの手に押し付ける。
おじさんは「えっ、いや、こいつらが……」と男たちを指差して何か言おうとしたが、私はもう限界だった。
恥ずかしさと情けなさで、顔から火が出そうだ。
「本当にごめんなさい! 失礼します!」
私は再び走り出した。
今度は柱がないことを確認して、全速力で。
背後で、リード様が何か言おうとして手を伸ばした気配がした。
けれど私は振り返らなかった。
振り返ったら、彼がどんな顔をしているか見るのが怖かったからだ。
路地裏に駆け込み、息を切らして膝に手をつく。
心臓が痛い。足も痛い。財布は軽い。
最悪だ。
でも。
『見事だ』
あの時、彼が呟いた言葉だけが、熱を持ったまま耳に残っていた。
誰も私を褒めたりしない。
失敗ばかりの私を、呆れずに真っ直ぐ見てくれたのは、家族以外では彼が初めてだった。
「……勘違いよ」
私は胸を押さえ、自分に言い聞かせる。
「あの方は、私が変な動きをしたから面白がっているだけ。……そうに決まってる」
そう呟いても、ドキドキという音はなかなか静まってはくれなかった。
空っぽになった胃袋が、情けなくグゥと鳴るまでは。




