第2話 温室の鍵と、落ちてきた黒い悪魔
父様の執務室から逃げ出して数時間。背中に貼り付いていた「誰かの視線」は、自室でクッションを抱えて震えているうちに薄らいだ気がする。
私は窓辺に立ち、大きく息を吐いた。
午後の日差しは穏やかで、小鳥がさえずっている。平和だ。
今のところ、今日の被害総額はコーヒーカップ一客と、父様の書類数枚(ただし結果オーライ)。
まだ挽回できる。
気分転換に庭の温室へ行こう。あそこなら誰もいないし、私が愛してやまないハーブティーの葉も摘める。植物は文句を言わないから好きだ。
庭に出ると、土の匂いが鼻をくすぐった。
私はスカートの裾を持ち上げ、慎重に石畳の上を歩く。つまずかないように、右足、左足。地面との対話は順調だ。
だが、温室の前に人影を見つけて、私の足がピタリと止まった。
「……おかしいな。回らないぞ」
庭師のトムが、温室のドアノブをガチャガチャと弄っている。
彼はこの道三十年のベテランで、私の数々の破壊工作を(涙を呑んで)修復してくれた恩人でもある。
その彼が困っている。
私の脳内で、二つの選択肢が点滅した。
一、見なかったことにして回れ右。
二、日頃の感謝を込めてお手伝い。
賢明な令嬢なら一を選ぶだろう。けれど、私の良心(とお節介な性格)は、いつだって二を選んでしまうのだ。
私は背筋を伸ばし、トムの背後に近づいた。
「トム、どうしたの?」
「うわっ!」
トムが飛び上がり、手に持っていた潤滑油の瓶を取り落としそうになる。
私は反射的に手を伸ばした――が、空中で止めた。偉い、私。ここで触れると瓶を叩き落とす未来が見えたからだ。
「お、お嬢様……。驚かせないでくださいよ」
トムが心臓を押さえながら、安堵の息を吐く。
「ごめんなさい。でも、何かお困り?」
「ええ、まあ。温室の鍵が回らなくて。錆びついてるわけじゃなさそうなんですが」
トムは困り顔で、真鍮製の古びた鍵を指差した。
鍵が開かない。
それはつまり、私が活躍できるチャンスではないだろうか?
力仕事や繊細な作業は苦手だが、「回す」だけなら私にもできる。以前、固くなったジャムの瓶を開けたことだってあるのだ(中身が飛び散ったことは記憶から消去する)。
「私に貸して。もしかしたら、角度の問題かもしれないわ」
「えっ、いや、お嬢様の手を煩わせるわけには……それに、万が一お怪我でもされたら」
トムが慌てて手を振る。
その言葉の裏にある「また何か壊すのでは」という懸念に、私の心臓がチクリとした。
信用されていない。当然だ。
だからこそ、ここでスマートに鍵を開けて、「ミレーネ様もたまには役に立つ」と証明しなければ。
「大丈夫よ。私、こういうの得意なの」
嘘をついた。舌が少し乾く。
私はトムが止める隙を与えず、ドアノブに刺さったままの鍵に手をかけた。
指先に伝わる真鍮の冷たさが、私の緊張を煽る。
カチャリ、と音がした。
回らない。確かに固い。
トムが後ろでおろおろしている気配を感じる。
「お嬢様、無理はなさらないでください。私が道具を取ってきますから」
「平気よ、あと少し……あと少しなの」
焦りが募る。
道具を取ってこられたら、私の出番は終わってしまう。
役に立ちたい。ただ鍵を開けるだけの、簡単な成功体験が欲しい。
その一心で、私は手に力を込めた。
その時だ。
チリッ、と首筋に悪寒が走った。
まただ。朝と同じ、あの得体の知れない気配。
誰かが見ている? どこから? 植え込みの陰? それとも屋根の上?
視線の圧迫感に、私の呼吸が浅くなる。
早くここを開けて、温室の中に隠れなきゃ。
恐怖が指先の力加減を狂わせた。
「えいっ!」
私は渾身の力で手首を捻った。
バキッ。
乾いた音が、静かな庭に響き渡る。
私の手の中には、鍵の持ち手部分だけが残されていた。
鍵穴には、折れた先端が埋まっている。
時が止まった。
トムが口をあんぐりと開けているのが、視界の端に見える。
「あ……」
やってしまった。
開けるどころか、二度と開かないように封印してしまった。
鍵の残骸を握る掌に、じわりと嫌な汗が滲む。
「ご、ごめんなさい! 私、ただ……!」
謝罪しようと振り返りかけた、その瞬間。
ドォン!!
頭上で何かが爆発したような音がした。
続いて、ドサドサドサッと重いものが落下してくる音。
私は悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。
「ひぃっ! ごめんなさいごめんなさい!」
頭を抱えて縮こまる。瓦礫が落ちてきたのかと思った。
けれど、痛みはない。
恐る恐る顔を上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
私の目の前、温室の入り口に、黒い塊が落ちている。
それは直径五十センチはある巨大なスズメバチの巣だった。
そして巣からは、怒り狂ったような羽音がブブブブと漏れ出している。
だが、巣は落下した衝撃で半壊し、中の蜂たちは土煙と瓦礫に埋もれて身動きが取れていないようだった。
「……え?」
私の声が裏返る。
「こ、これは……」
トムが顔面蒼白で、へたり込んだままその塊を指差した。
「お嬢様……扉の上の軒下に、こんなものが……」
見上げると、温室の入り口の上の木枠が、少し剥がれていた。
私が鍵をねじ切った勢いでドア全体に衝撃が走り、腐りかけていた軒下の板が外れ、そこに隠れていた巣が落ちてきたのだ。
もし。
もし私が鍵をスムーズに開けて、トムと一緒に中に入っていたら?
ドアを開閉した振動で、頭上からこの巣が直撃していただろう。
そうなれば、私とトムは今頃、怒れる蜂の大群に全身を刺されて……。
想像して、血の気が引いた。
「お、お嬢様……」
トムが震える声で私を呼ぶ。
「ありがとうございます……!」
「えっ?」
「気づいておられたんですね? だからわざと鍵を壊して、衝撃を与えて巣を落とした……。普通に開けていたら、俺たちは死んでましたよ!」
「あ、いえ、その」
違います。私はただの怪力馬鹿なだけです。
そう言おうとしたが、トムの瞳がキラキラと涙で潤んでいるのを見て、言葉が詰まった。
「……た、助かってよかったです」
私は引きつった笑顔で、精一杯の虚勢を張るしかなかった。
騒ぎを聞きつけた他の使用人たちが駆け寄ってくる中、私は逃げるようにその場を離れた。
手の中にはまだ、折れた鍵の持ち手が握りしめられている。
掌に食い込む金属の痛みが、今の出来事が夢ではないと教えていた。
屋敷の角を曲がったところで、私はふと足を止めて振り返る。
温室の屋根の向こう、高い生垣の隙間に、銀色の何かが煌めいた気がした。
風に揺れる銀髪のような、冷たくて綺麗な色。
けれど、目を凝らした時にはもう、そこには何もなかった。
あれは誰?
なぜ、私の失敗を見ているの?
不安と、ほんの少しの安堵が胸の中で混ざり合う。
誰かが見ていた。私の失敗を。
でも、その視線は不思議と、私を責めているようには感じられなかったのだ。
私は折れた鍵をポケットにしまい、汚れた靴を引きずって歩き出した。
とりあえず、今日のおやつは抜きになりそうだ。
それが、今回の「成功」に対する私の代償なのかもしれない。




