第12話 残念令嬢ですが、毎日が楽しいので問題ありません
泡だらけの廊下をペンギンのように歩いた記憶は、一週間経っても鮮明な恥ずかしさとして胸に残っている。
私は自室の窓辺で、穏やかな午後の日差しを浴びていた。
庭では小鳥がさえずり、風が木々を揺らしている。
平和だ。
あれだけの騒ぎがあったのが嘘のようだ。
「……はぁ」
ため息をつき、膝の上のクッションを抱きしめる。
あの日、王宮の裏口から脱出した後、私は泥と洗剤まみれのままリード様の馬車で送ってもらった。
翌日、父様からは三時間のお説教を受けた。
内容は「よくやった」が二割、「心臓に悪い」が八割だった。
コンコン、と軽やかなノックの音がする。
「お嬢様、お客様です。庭園でお待ちです」
マリーの声が弾んでいる。
客人の名前を聞くまでもない。この一週間、毎日のように顔を見せに来るあの人だ。
私は鏡の前で髪を整え、深呼吸を一つした。
大丈夫。今日の服は動きやすいコットンのドレスだ。靴も普通のローヒール。
何も壊さない。何もこぼさない。
そう自分に言い聞かせて、私は部屋を出た。
庭園の白いガゼボ(東屋)の下で、銀色の髪が輝いていた。
リード・ヴァーミリオン。
彼は紅茶のカップを片手に、優雅に脚を組んで本を読んでいる。絵になりすぎていて、直視するのが眩しい。
「お待たせいたしました、リード様」
私が近づくと、彼は本を閉じて微笑んだ。
「やあ、ミレーネ。顔色は良さそうだね」
その笑顔に向けられた瞬間、私の心臓がトクンと跳ねる。
私は向かいの席に座ろうとして――椅子の脚にスカートの裾が引っかかった。
「あ」
バランスが崩れる。
いつもの私なら、ここでテーブルクロスを巻き込んで大惨事になるところだ。
けれど。
スッ、とリード様の手が伸び、私の腕を支えた。
驚くほど自然な動作。まるで、私がつまずくことを最初から知っていたかのように。
「……っと。大丈夫かい?」
「は、はい……ありがとうございます」
私は赤面しながら着席する。
リード様は何事もなかったかのように手を戻し、ティーポットを持ち上げた。
「君の重心が右に傾いた時は、左足が何かに引っかかっている合図だ。学習済みだよ」
「学習……?」
私は首を傾げる。
彼は悪戯っぽく笑い、手元の本を指差した。
「これだよ」
革装丁の分厚い手帳。
表紙には『ミレーネ観察記録・第一巻』と金文字で刻まれている。
「えっ?」
私の声が裏返る。
彼は楽しげにページをめくった。
「君の失敗のパターン、発生条件、そしてそれが引き起こす物理的連鎖反応……すべて記録してある。昨日の『階段での三段飛ばし転落』も、実に興味深い軌道だった」
羞恥で顔から火が出そうだった。
観察日記。しかも第一巻。続きを書く気満々だ。
「そ、そんなもの、捨ててください! 恥ずかしいです!」
私が手を伸ばして奪おうとすると、彼はヒョイと避けた。
「駄目だ。これは貴重なデータなんだ」
彼は真顔になった。
「君の動きは予測不能だが、そこにはある種の法則がある。『悪意』や『危険』がある場所に、君は引力のように引き寄せられ、それを粉砕する。……この記録は、騎士団の防衛マニュアルの改訂にも役立っているんだよ」
防衛マニュアル。
私のドジが、国の守りに?
もはやツッコむ気力もない。この人のフィルターを通すと、私は『ドジっ子』ではなく『対厄災用決戦兵器』か何かに変換されているらしい。
「それに」
リード様は手帳を閉じ、その上に手を置いて私を見つめた。
蒼い瞳が、優しく細められる。
「これを見返していると、退屈しないんだ。……君がどれだけ一生懸命で、どれだけ世界を騒がしく彩ってくれているか、よく分かる」
胸の奥が温かくなる。
失敗ばかりの私。
迷惑ばかりかける私。
けれど、この人はそれを「彩り」だと言ってくれる。
「……本当に、これで問題ないのでしょうか?」
私はふと、不安を口にした。
「世間では、今回の爆破未遂も、私が特使様を守った英雄的行動だと報道されています。……全部、誤解なのに」
「誤解でいいじゃないか」
リード様はカップを口に運んだ。
「結果として誰も傷つかず、君の評価が上がり、私が君の隣にいる口実もできた。……誰も損をしていない」
隣にいる口実。
その言葉に、私はまた顔が熱くなるのを感じた。
「君は、そのままでいい」
彼はきっぱりと言った。
「失敗してもいい。転んでもいい。私が支えるし、君が壊したものは私が直す。……だから、安心して失敗しなさい」
安心して失敗しろなんて、プロポーズの言葉にしては変だ。
でも、私にとっては、どんな甘い言葉よりも嬉しい約束だった。
私はティーカップを手に取った。
やはり手は少し震えている。ソーサーがカチャカチャと小さな音を立てる。
でも、もう怖くはない。
「はい。……これからも、盛大にご迷惑をおかけします」
私が微笑むと、リード様も満足げに頷いた。
「望むところだ」
風が吹き、手帳のページがパラパラとめくれる。
そこには、私の失敗の数々が、きっと愛おしそうに書き連ねられているのだろう。
私はミレーネ・アルトワ。
何をやっても失敗ばかりの「残念令嬢」。
でも、毎日がこんなに楽しいのだから、何の問題もない――きっと。
私が紅茶を一口飲もうとした瞬間、カップの縁が歯に当たって「カチッ」と音がした。
リード様が吹き出し、私もつられて笑った。
私たちの騒がしくて愛おしい日々は、まだ始まったばかりだ。
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