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残念令嬢ですが、毎日が楽しいので問題ありません  作者: 九葉(くずは)


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第11話 退場ルートにも罠はある

 涙は止まったけれど、鼻の奥がツンとする感覚はまだ残っていた。

 私はリード様にエスコートされ、バルコニーから直接つながる細い通路を歩いていた。


「この先は使用人用の裏動線だ。君のその姿を、これ以上好奇の目に晒すわけにはいかないからな」

 リード様が私の背中を気遣うように支えてくれる。

 私のドレスは煤と埃で汚れ、もはや高級な雑巾のようだ。

 けれど、不思議と恥ずかしさはなかった。

『君は人を救う不発弾だ』

 あの言葉が、胸の奥で温かい灯火となって私を支えてくれている。


「ありがとうございます、リード様。……私、転ばないように気をつけます」

「無理はしなくていい。転んだら私が受け止める」

 彼は頼もしく微笑んだ。

 薄暗い廊下には、私たち二人の足音だけが響く。

 石造りの冷たい空気。所々に置かれた予備の椅子や、清掃用具のワゴン。

 王宮の裏側は、煌びやかな表舞台とは違う、生活感のある静けさに満ちていた。


 その静寂が、唐突に破られた。


 前方の角から、灰色の影が飛び出してきたのだ。

 フードを目深に被った男。

 あの時、会場で私に強烈な不快感を与えた、あの「気配」の主だ。


「……ッ、チッ! ここも塞がれているか!」

 男は私たちを見て舌打ちをし、懐から短剣を抜いた。

 その刃が、廊下のランタンの光を反射してギラリと光る。

 殺気。

 肌が粟立つような、本物の悪意。


「ミレーネ、下がっていろ!」

 リード様が瞬時に私を背後へ押しやり、剣の柄に手をかける。

 だが、彼は夜会用の儀礼剣しか帯びていない。対する男は、見るからに実戦慣れした動きで間合いを詰めてくる。


「公爵家の坊ちゃんが、邪魔をするな!」

 男が踏み込む。速い。

 リード様が剣を抜くよりも早く、男の短剣が突き出される。


「リード様!」

 私は叫んだ。

 守られるだけじゃ嫌だ。

 役に立ちたい。彼が言ってくれたように、私の行動が誰かを救えるなら。


 私は考えるよりも先に身体が動いていた。

 リード様の背中から飛び出し、彼の前に立ちはだかる。

 武器はない。あるのは、この重たいドレスと、私の「失敗」の実績だけ。

 何か、武器になるものは――。


 視界の端に、清掃用具を積んだワゴンが見えた。

 高い柄のついたモップ。バケツ。洗剤のボトル。

 あれだ。あれを盾にするしかない。


 私はワゴンに向かって手を伸ばし――そして、いつものように距離感を見誤った。

 私の手はワゴンの取っ手ではなく、一番上に積まれていた業務用の巨大な液体洗剤のボトルを鷲掴みにし、そのまま勢い余って放り投げてしまった。


「えいっ!」

 掛け声とともに、数キロあるボトルが宙を舞う。


「なっ……!?」

 突進してきていた男が、飛来する物体に気づいて反応する。

 彼は反射的に短剣でボトルを切り裂いた。

 流石の反射神経だ。

 だが、それが致命的なミスだった。


 バシャアァァッ!!


 切り裂かれたボトルから、高濃度のヌルヌルした洗剤が爆散した。

 廊下の石畳が一瞬にしてローションプールへと変貌する。

 さらに、男の顔面にも洗剤が直撃した。


「ぐあぁっ!? 目が、目がぁ!」

 男が悲鳴を上げて顔を覆う。

 そして、一歩踏み出そうとした足が、洗剤に塗れた床の上で美しく滑った。


 ツルッ。

 ドタンッ!!


 漫画のような効果音が聞こえてきそうな勢いで、男は後頭部から床に叩きつけられた。

 短剣が手から離れ、滑って私の足元まで飛んでくる。

 男は「うぐっ」と呻いたきり、ピクリとも動かなくなった。


 静寂が戻る。

 廊下には、甘い石鹸の香りが漂っていた。


「……」

 私は固まったまま、自分の手を見つめた。

 盾にしようとしたのに。投げちゃった。しかも、中身をぶちまけて。


「……ミレーネ」

 背後から、リード様の呆然とした声が聞こえる。

 私は恐る恐る振り返った。

 彼は、泡だらけになって失神している暗殺者と、私を交互に見つめていた。


「君は……どこまで……」

 リード様が震える声で呟く。

「敵の視界を奪うと同時に、足場を無効化し、さらに脳震盪を起こさせるとは。……あのボトルの軌道、そして敵が切り裂くタイミングまで計算していたのか?」


「い、いえ! 違います!」

 私は首を横に振った。

「ワゴンの陰に隠れようとしたら、手が滑って……!」


「手が滑った?」

 リード様は口元を手で覆い、肩を震わせた。

 怒っている? 呆れている?

 しかし、彼が顔を上げた時、そこにあったのは満面の笑みだった。

「手が滑って、最強の暗殺者を秒殺か。……やはり君には勝てないな」


 彼は足元の短剣を拾い上げ、倒れている男の元へ歩み寄った。

 男はまだ目を回している。フードが外れ、その素顔が露わになっていた。

 額には奇妙な刺青がある。


「う、うぅ……」

 男が呻き声を上げ、薄目を開けた。

 その目が、私を捉える。

 恐怖に歪んだ目だった。

「き、貴様……何者だ……」

 男が掠れた声で私を指差す。

「俺の『魔力視』でも、貴様の動きは読めなかった……。因果が、歪んでやがる……。貴様、一体どんな術を……」


 術なんて使っていません。

 強いて言うなら、「ドジっ子属性」という名の呪いなら持っていますが。


「彼女は私のパートナーだ」

 リード様が冷徹な声で告げ、男の胸倉を掴み上げた。

「そして、この国の平和を護る、最強の『不発弾』だ。……大人しくお縄につけ」


 駆けつけてきた衛兵たちに男が引き渡されるのを、私は呆然と見送った。

 廊下は泡だらけ。私のドレスもさらに汚れてしまった。

 でも。


「行きましょうか、ミレーネ」

 リード様が、汚れることも厭わず、再び私に手を差し出してくれた。

「君のおかげで、またしても誰も死なずに済んだ。……掃除の手配は、私がしておこう」


 私はその手を取った。

 私の手は少しベタベタしていたけれど、彼は強く握り返してくれた。


 失敗した。

 盛大にやらかした。

 でも、隣にいる人が笑ってくれているなら、これも「成功」と呼んでもいいのかもしれない。


 私は泡の海を、リード様に支えられながら、ペンギンのように慎重に歩いていった。

 今日一番の、軽い足取りで。

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