第10話 あなたの失敗が、僕を救った
爆風の熱が残る会場の喧騒を背に、私は重たいガラス戸を閉め切った。
夜のバルコニーに、不自然なほどの静寂が降りる。
私の腕の中には、小刻みに震える小さな身体があった。
ミレーネ・アルトワ。
つい先ほど、会場を吹き飛ばしかねなかった爆破テロを、たった一人の「舞い」で未然に防いだ英雄。
だが、今の彼女は英雄とは程遠い。
「……っ、うぅ……」
彼女は私の胸元を掴んだまま、押し殺したような嗚咽を漏らしていた。
ドレスは煤と埃で汚れ、髪も乱れている。
何より、その顔色は死人のように蒼白だった。
「ミレーネ嬢」
私は彼女の肩を支え、バルコニーの手すりに寄りかからせるようにして離れた。
彼女は顔を上げない。視線は足元のタイルに釘付けだ。
「申し訳、ありません……」
消え入りそうな声だった。
「私……父様の言いつけを守れなくて……動くなって言われたのに、勝手に転んで、特使様を押し倒して……」
「ミレーネ」
「もう駄目です。おしまいなんです。私のせいで、あんな爆発まで起きて……やっぱり私は、どこに行っても迷惑しかかけない、残念な……」
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは恐怖の涙ではない。深い諦めと、自分自身への絶望の涙だ。
胸が締め付けられるような痛みを感じた。
彼女は理解していない。
自分がどれほどの偉業を成し遂げたのかを。そして、私がどれほど彼女に救われているのかを。
私はポケットからハンカチを取り出し、彼女の涙を拭おうとした。
だが、彼女はそれを拒むように首を振った。
「慰めないでください! ……優しくしないで。余計に惨めになるから」
頑なな拒絶。
彼女にとって、私の称賛や感謝は「皮肉」か「買い被り」にしか聞こえていないのだ。
言葉だけでは届かない。
ならば、物理的な真実を突きつけるしかない。
「……これを見ろ」
私はもう片方の手を開いて見せた。
白い手袋の上に、黒く焦げた金属片が載っている。
先ほど、砕け散った氷像の残骸の中から密かに回収したものだ。
ミレーネが濡れた瞳でそれを覗き込む。
「……なんですか、これ」
「起爆式の魔導回路の一部だ。旧式の軍用モデルだな」
私は淡々と、しかし力強く告げた。
「仕掛けられていたのは遅延信管だ。あのまま氷像が鎮座していれば、特使がスピーチを始めた瞬間に爆発していた。……至近距離でだ」
ミレーネが息を呑む。
私は言葉を継ぐ。
「だが、君が氷像に衝突した。その衝撃で像は台座から外れ、安全な壁際まで滑走した。さらに君は、特使を押し倒すことで、彼を爆風の射線から物理的に遮断した」
私は一歩踏み出し、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
逃がさない。この真実から目を逸らさせない。
「君の行動のすべてが、結果として最悪の事態を回避させた。計算されたかのような完璧なタイミングで。……これが『失敗』か? いいや、これは『救済』だ」
ミレーネの唇が震える。
「……ぐ、偶然です」
彼女はまだ抵抗する。
「私は計算なんてしていません。ただ足がもつれただけで……たまたま、そうなっただけで……!」
「ああ、偶然だろう。君にとっては」
私は肯定した。
彼女が計算していないことなど、百も承知だ。彼女は嘘がつけない。
だが、だからこそ尊いのだ。
「一度なら偶然だ。だが、君は三度も私を驚かせた」
テントの下の暗殺者。王宮の廊下の盗聴器。そして今の爆弾。
「君が動くたびに、隠されていた悪意が暴かれ、破壊される。……まるで、世界が君の『失敗』に合わせて修正されているかのようだ」
私は彼女の手を取り、そっと握りしめた。
冷たい指先。
この小さな手が、私の知らないところでどれだけ震えていたのか。
「私はね、ミレーネ。退屈していたんだ」
本音が口をついて出た。
「この国も、貴族社会も、すべてが予定調和で動いている。誰もが仮面を被り、私の顔色を窺い、予測可能な言葉しか吐かない。……窒息しそうだった」
彼女が驚いたように私を見る。
氷の公爵令息が、こんな弱音を吐くとは思わなかったのだろう。
「だが、君は違う」
私は少しだけ笑った。
「君は予測できない。私の計算を軽々と飛び越え、常識を粉砕し、鮮やかに世界をひっくり返す。……君を見ていると、息ができるんだ」
君の失敗が、私の凍りついた日常にひびを入れ、外の空気を入れてくれる。
それがどれほどの救いか、君は知らないだろう。
「だから、自分を卑下するな」
私は彼女の手を強く握り返した。
「君が自分を『残念令嬢』と呼ぶなら、私はその『残念』を愛そう。君が失敗するたびに、私が必ずフォローする。だから――」
言葉を切る。
これ以上は、今の彼女には重すぎるかもしれない。
私は言葉を選び直し、最も伝えたかった事実だけを口にした。
「君は、人を殺す爆弾じゃない。人を救う、愛すべき『不発弾』だ。……ありがとう、ミレーネ。君のおかげで、今日も誰も死ななかった」
夜風が吹き抜け、彼女の乱れた髪を揺らす。
ミレーネは呆然と私を見つめていたが、やがてその瞳が再び揺らぎ、今度は静かに涙が溢れ出した。
嗚咽混じりの声ではない。
堰を切ったような、安堵の涙だった。
「……本当、ですか?」
彼女が掠れた声で問う。
「私が……役に、立ったんですか?」
「ああ。最大の功労者だ」
「……よかった」
彼女は膝から崩れ落ちそうになり、私が慌てて支える。
私の腕の中で、彼女は子供のように泣きじゃくった。
「怖かった……ずっと、怖かった……っ」
私は彼女の頭を撫でながら、バルコニーの向こう、騒がしい会場へと視線を向けた。
事件はまだ終わっていない。
犯人も捕まっていない。
だが、今だけは。この震える少女が、自分の足で再び立てるようになるまで、私が盾になろう。
彼女の「失敗」が世界を救うなら、私はその失敗を全力で肯定する共犯者になる。
そう決めた夜だった。




