第1話 残念令嬢の朝は早い
あけましておめでとうございます!
今年もよろしくお願いしますー!
目覚めた瞬間、天井のシミが笑っているように見えたのは、きっと昨日の失敗を引きずっているせいだ。
私はベッドから飛び起き、頬を両手でパンと叩く。痛い。よし、生きてる。
鏡に映る蜂蜜色の髪の少女――ミレーネ・アルトワ、一七歳。巷では『残念令嬢』なんて不名誉な二つ名で呼ばれているけれど、それは周囲が私のポテンシャルに追いついていないだけ。
今日の目標はシンプルだ。
何も壊さず、誰にも怒られず、三時のおやつにありつくこと。
これさえ達成できれば、私の勝ちなのだ。
着替えを済ませ、私は廊下に出た。
手には銀のトレイ。その上には、父様の執務室へ運ぶためのコーヒーカップが鎮座している。
湯気が揺れる。黒い水面が、私の心臓の鼓動に合わせて波紋を作っていた。
「大丈夫。私はできる子。カーペットの端には引っかからない」
一歩ずつ、足の裏で床の感触を確かめながら進む。
屋敷の廊下は長い。窓から差し込む朝日は爽やかだが、私の背中には冷や汗が流れていた。
父様――アルトワ伯爵は、今朝からピリピリしていると侍女から聞いた。なんでも、領地の帳簿に不審な点があるとかで、徹夜で書類と格闘しているらしい。
そんな時に、娘がドジを踏んで熱いコーヒーをぶちまけたら?
想像するだけで胃が縮む。修道院行きの馬車が脳裏をよぎる。
執務室の重厚な扉の前に到着した。
私は一度深呼吸をし、トレイを片手に持ち替える。
ノックを三回。
「入れ」
短く、低い声。
私はドアノブを回す。ここで勢い余ってドアを全開にし、壁に激突させたのは先週のことだ。今日は慎重に、静かに。
ドアが開く。成功だ。
私は心の中でガッツポーズをし、淑女の微笑みを浮かべて部屋に入った。
執務机の向こうで、父様が眉間に深い皺を刻んで書類を睨んでいる。
部屋の中はインクと古紙の匂いが充満していた。
「おはようございます、お父様。コーヒーをお持ちしました」
努めて明るい声を出す。
父様が顔を上げず、ペンを走らせたまま言った。
「ああ。そこに置いてくれ」
指し示されたのは、机の端。書類の山から唯一空いている、わずか十センチ四方のスペースだ。
難易度が高い。
だが、今の私は絶好調だ。ドアもスムーズに開けられた。この流れならいける。
私は机に歩み寄る。
カーペットの毛足が、妙にふかふかしている気がした。
トレイを持つ手に力が入る。
あと二歩。一歩。
「――それで、例の件はどうなった?」
不意に、父様が顔を上げて私を見た。
私の肩が跳ねる。
父様の鋭い視線と目が合った瞬間、頭の中が真っ白になった。
足が止まる。いや、止まろうとして、右足が左足の踵を踏んだ。
世界の均衡が崩れる。
視界が傾き、重力が私を前方へと引いた。
「あっ」
短い悲鳴とともに、私は前のめりに倒れ込む。
トレイから離れたカップが、スローモーションのように宙を舞った。
黒い液体が美しい放物線を描く。
その着地点は、父様が徹夜で精査していた重要書類の山、そのど真ん中だった。
バシャン、という絶望的な音。
続いて、ガチャンとカップが割れる音。
私は机の端に腹部を強打し、情けない姿勢で固まった。
熱い液体が机の上に広がり、白い紙を無慈悲に染め上げていく。
終わった。
私の人生、第一章・完。
沈黙が落ちた。
痛むお腹よりも、これから降ってくる雷への恐怖で震えが止まらない。
私はゆっくりと、錆びついた人形のような動きで顔を上げた。
父様は濡れた書類を凝視している。その顔は蒼白……いや、驚愕に見開かれていた。
弁解しなきゃ。わざとじゃないんです。重力が悪いんです。
「も、申し訳ありま……!」
「……ミレーネ」
父様の声が、震えていた。怒りで震えているのだ。
「お前、これは……」
父様の手が、コーヒーでびしょ濡れになった書類の一枚を掴む。
私は目を瞑った。
怒鳴られる。あるいは、即座に部屋からつまみ出される。
「文字が、浮いている……?」
「はい?」
予想外の言葉に、私は片目を開けた。
父様が持ち上げた書類。そこには確かに、コーヒーの茶色い染みとは別に、赤い文字がじわりと浮かび上がっていた。
元々の黒いインクの数字の下に、別の数字と取引先の名が赤く滲み出ている。
「これは……二重帳簿か? 特殊な魔術インクで隠蔽されていたのか……?」
父様が呆然と呟き、慌てて他の濡れた書類も確認し始める。
どれもこれも、コーヒーの水分と熱に反応したのか、隠されていた裏帳簿のデータが次々と露見していく。
私は瞬きをした。
あれ?
これ、もしかして。
「お父様、あの、その」
私は引きつった笑みを浮かべ、強張る指先を組んだ。
「私が……やりました?」
「……ああ。お前がやったな」
父様が私を見る。その目には怒りの色はなく、底知れない困惑と、奇妙な感心が宿っていた。
「普通の水分では反応しないはずだ。熱いコーヒー、そしてこの絶妙な飛散範囲……。まさか、お前は最初からこれを見抜いて?」
「い、いえ! まさか!」
全力で否定する。私はただ、自分の足に躓いただけだ。
「偶然です! 本当に、ただの失敗で……!」
「偶然、か」
父様は鼻を鳴らし、濡れた書類を丁寧に布で拭い始めた。
「まあいい。結果として、横領の証拠は挙がった。これなら奴らを追及できる」
父様はニヤリと笑うと、私に向かって手を振った。
「下がっていいぞ。……新しいコーヒーはいらん。また書類が増えると困る」
「は、はい! 失礼します!」
私は逃げるように執務室を飛び出した。
廊下に出た瞬間、壁に背中を預けてズルズルと座り込む。
心臓が早鐘を打っていた。
助かった。
なぜか助かった。
書類を台無しにしたはずが、なぜか感謝される結果になった。
「……意味が分からない」
私は膝に顔を埋める。
けれど、一つだけ確かなことがある。
今日も私は「失敗」した。けれど、修道院行きは免れた。
つまり、プラスマイナスで言えば、今日はまだギリギリ「勝ち」の範囲内だ。
私は立ち上がり、スカートの埃を払った。
濡れた袖口が少し冷たいけれど、おやつの時間まではまだ長い。
「よし、次こそは気をつければ問題ないわ」
私は拳を握りしめ、誰もいない廊下で宣言する。
その時、廊下の角から誰かが見ている気配がして、私はビクリと振り返った。
そこには誰もいない。ただ、開いた窓から風が吹き込み、カーテンが揺れているだけだった。
嫌な予感がする。
私はその予感を振り払うように、足早に自室へと戻っていった。
背後に、誰かの視線が張り付いているような錯覚を覚えながら。




