断層回想「雨より前のこと」
――「あなたは“いつ”のあなた?」
耳に落ちたその囁きは、まるで雨粒がこめかみを叩いたように、静かに過去の層を裂いた。
少女の視界が、一瞬だけ白く反転する。
そこは塔でも異界でもない、“どこかの現実に似た場所”だった。
覚えていないはずの記憶。だが身体だけは知っている懐かしさ。
*
雨は降っていなかった。
曇り空の下、地面は乾いていて、空気はどこか焦げたような匂いを含んでいた。
そこは工場跡のようでもあり、学校の裏庭のようでもあり、都市の廃区画のようでもあった。
少女は、まだ“名前”を持っていた頃の年齢をしていた。
傘もカッパもなく、手には黒いスニーカーと、小さなキーホルダー。
遠くで風鈴の音がする。
それはこの世界には存在しないはずの音色だった。
――その少し先に、“なにか”が立っていた。
輪郭が黒く滲んでいる。人影かシルエットか、あるいは自身の影か。
少女はそれに声をかけようとして、喉の奥がうまく動かないことに気づく。
(……話しかけたことがある気がする)
だが、“あの言葉”が何だったのかを思い出そうとした瞬間、影がこちらに顔を向けた。
顔は鏡だった。
割れていない、だが奥行きのない平面。
その鏡に映ったのは――現在の少女ではなかった。
少し年上の自分、あるいは少し年下の自分。
鏡の中で、唇だけが動く。
『あのときの雨は、まだ降っていなかったよね?』
その瞬間、「ここにいては戻れない」という感覚が胸を焼いた。
逃げ出そうとして、振り向いたその視界の端に、
――鳥居
錆びた赤色の鳥居が、なぜか一本だけ立っていた。
足元には、湿ってもいないはずのナスビと、眠るカマキリ。
ガラス片のようなダイヤモンドの欠片が、アスファルトの上で日差しもないのに光る。
さらにもう一つの影がいた。
ペストマスクでもガブリエルでもない。
ただ「マスクの男」という像だけがそこに立っていた。
その男が問いかける。
――「きみは、どの時間から来たの?」
答えようとしたが、言葉は霧散した。
*
少女は我に返る。
視界は再び「雨の都市」。足元には黒い傘。空はまだ降り続けている。
息が震えるほどの違和感。だが、誰もその異変に触れない。
ただ、彼女の影だけがわずかに形を変えている。
ペストマスクの男が、少女の目の奥を覗くように言う。
「思い出したか?」
少女は首を振る。
思い出してはいない。だが――忘れ切れてもいない。
鏡の男が言う。
「回想は呪いじゃない。“呼び水”だ。塔が君に何かを戻した」
遠くで雷鳴が響き、雨粒の落ちる速度が変わる。
観測者の声がまた降ってくる。
――《鍵の回収、確認》
――《問いの準備中》
――《次に名を呼ばれるのは、きみではない》
少女の胸の奥で、誰かの声が反響する。
――「まだ、あの傘は開いていないよ」
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