表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/19

断層回想「雨より前のこと」

――「あなたは“いつ”のあなた?」


 耳に落ちたその囁きは、まるで雨粒がこめかみを叩いたように、静かに過去の層を裂いた。


 少女の視界が、一瞬だけ白く反転する。


 そこは塔でも異界でもない、“どこかの現実に似た場所”だった。

 覚えていないはずの記憶。だが身体だけは知っている懐かしさ。


 *


 雨は降っていなかった。

 曇り空の下、地面は乾いていて、空気はどこか焦げたような匂いを含んでいた。

 そこは工場跡のようでもあり、学校の裏庭のようでもあり、都市の廃区画のようでもあった。


 少女は、まだ“名前”を持っていた頃の年齢をしていた。

 傘もカッパもなく、手には黒いスニーカーと、小さなキーホルダー。


 遠くで風鈴の音がする。

 それはこの世界には存在しないはずの音色だった。


 ――その少し先に、“なにか”が立っていた。


 輪郭が黒く滲んでいる。人影かシルエットか、あるいは自身の影か。

 少女はそれに声をかけようとして、喉の奥がうまく動かないことに気づく。


 (……話しかけたことがある気がする)


 だが、“あの言葉”が何だったのかを思い出そうとした瞬間、影がこちらに顔を向けた。


 顔は鏡だった。

 割れていない、だが奥行きのない平面。


 その鏡に映ったのは――現在の少女ではなかった。

 少し年上の自分、あるいは少し年下の自分。


 鏡の中で、唇だけが動く。


 『あのときの雨は、まだ降っていなかったよね?』


 その瞬間、「ここにいては戻れない」という感覚が胸を焼いた。

 逃げ出そうとして、振り向いたその視界の端に、


 ――鳥居


 錆びた赤色の鳥居が、なぜか一本だけ立っていた。


 足元には、湿ってもいないはずのナスビと、眠るカマキリ。


 ガラス片のようなダイヤモンドの欠片が、アスファルトの上で日差しもないのに光る。


 さらにもう一つの影がいた。

 ペストマスクでもガブリエルでもない。

 ただ「マスクの男」という像だけがそこに立っていた。


 その男が問いかける。


 ――「きみは、どの時間から来たの?」


 答えようとしたが、言葉は霧散した。


 *


 少女は我に返る。

 視界は再び「雨の都市」。足元には黒い傘。空はまだ降り続けている。


 息が震えるほどの違和感。だが、誰もその異変に触れない。

 ただ、彼女の影だけがわずかに形を変えている。


 ペストマスクの男が、少女の目の奥を覗くように言う。


 「思い出したか?」


 少女は首を振る。

 思い出してはいない。だが――忘れ切れてもいない。


 鏡の男が言う。


 「回想は呪いじゃない。“呼び水”だ。塔が君に何かを戻した」


 遠くで雷鳴が響き、雨粒の落ちる速度が変わる。


 観測者の声がまた降ってくる。


 ――《鍵の回収、確認》

 ――《問いの準備中》

 ――《次に名を呼ばれるのは、きみではない》


少女の胸の奥で、誰かの声が反響する。


 ――「まだ、あの傘は開いていないよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ