雨を抱く扉
黒く折れた傘が床に落ちると同時に、扉の先から湿った風が吹き込んだ。
匂いはどこか懐かしく、しかし同時にまだ知らない死の温度を孕んでいる。
ガブリエルが傘を拾い上げ、刻印に指を触れる。
読むというより、思念のように意味が脳へ入り込む。
――《誰?》
刻印は言葉ではなく、“問い”そのものを象っていた。
少女は雨音の響く扉へ近寄り、ひと呼吸おく。
足元の影は、さきほど引き裂かれた名残をまだ抱えているが、もう痛みはなかった。
代わりに、胸の奥で微かなざわめきが膨らむ。
「この傘、誰かの持ち物だよね?」
鏡を持つ男が肩越しに言う。
「あるいは“これから誰かのものになる”のかもしれない。時間の順番は崩壊してる」
ペストマスクの男が静かに扉の前へ立つ。
水滴が床を打つ音はあるが、天井から降っているわけではない。
扉の向こうの空間そのものが、こちら側へ押し出している。
扉の縁には無数の細いヒビが走っていた。
まるで“これは開けるための扉ではなく、そもそも誰かの存在を封じる蓋だった”かのように。
そこへ――パキン、と乾いた音。
ジャックナイフを携えた少年が一歩前に出た。
空気の裂け目を見つけたかのように刃を構える。
「この扉、放っておくと向こうから開く。だったら――」
ガブリエルが続ける。
「先にこちらから踏み込むしかないってことだな?」
その瞬間、傘の骨がひとりでに開いた。
黒い布地は水に濡れもしないのに、雨音だけが内部から響く。
誰かが傘をさしているような、誰かがその中にいるような感覚。
少女がぽつりと呟いた。
「“雨”って、きっと記憶なんだよ」
ペストマスクの男は彼女を見る。
「なぜそう思う?」
「夢の世界って、忘れることでしか続かないから」
その言葉に何かが呼応した。
扉の先が、音もなく――沈んだ。
水面に沈むように、扉が下へ沈降し、代わりにそこには“街”の輪郭が現れる。
歪んだアスファルト、傾いたビル群、雨に濡れた地面。
誰もいないのに足跡だけが残り続ける無人都市。
遠くで、鐘の音が鳴る。
時間を知らせるのではなく、“時間の記憶”だけを模して。
観測者の声が再び空間を震わせた。
――《階層移動を確認》
――《残存時空体:八名》
――《この雨域には「鍵」と「問い」が存在》
――《条件未提示・選択待機中》
鏡の男が眉をひそめる。
「鍵と問い……どちらかだけじゃ、開かない扉があるってことか」
少女は傘を握りしめた。
影が雨の地面に長く伸びる。
振り返れば、塔の中枢部はもう霧の向こうに沈みかけていた。
ペストマスクの男が言う。
「ここから先は、“自分が誰か”を思い出すことが、最大の危険になる」
だが、雨の音は止まらない。
この階層は、忘却を誘うのではなく――問い返してくる。
足を踏み入れた瞬間、少女の耳に囁きが届く。
――「あなたは“いつ”のあなた?」
振り返っても誰もいない。
ただ、闇が呼吸している。
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