「忘却の部屋」
十三人の渡航者たちは、再び階段をのぼり、次なる扉の前に立った。
その扉には、何の刻印もない。ただ、冷たく沈黙し、呼吸を拒むかのように佇んでいた。
ペストマスクの男が手を伸ばすと、扉は抵抗もなく開く。
中は、無数の紙片が漂う空間だった。
一枚一枚には言葉が書かれている。
「名前」「思い出」「約束」「夢」――それらは読まれるたび、紙ごと灰になって崩れ落ちた。
黄色いカッパの少女が紙片をつかむ。そこには、彼女が誰かと手を繋いで笑う記憶が描かれていた。
しかし、指先が紙に触れた瞬間、その映像は音もなく砕け散る。
少女は小さく笑った。
「忘れることでしか、先には進めないんだね」
カプチーノを啜る男が言う。
「これは試練か、それとも救済か?」
ガブリエルは震える声で叫んだ。
「忘れたら、僕は僕じゃなくなる!」
彼の握りしめるダイヤモンドの破片が、血で濡れていた。
その時、鏡が立ち上がる。
そこに映る「もうひとりの自分」が微笑みながら囁いた。
「記憶は檻。忘却こそが鍵。君はまだ自分を閉じ込めていたいの?」
渡航者たちは、ひとり、またひとりと紙片を手に取り、燃え尽きる言葉を見届けていった。
思い出を捨てる者、愛する人の名を消す者、己の罪を灰にする者。
少女だけが、紙を掴まず、ただその雨のような文字を見上げていた。
「私は、忘れない」
彼女の声は、部屋全体に響いた。
その瞬間、すべての紙片が一斉に燃え上がり、暗闇の中で光の渦となって消えた。
扉が再び現れ、塔の上へと続いていた。
だが渡航者の数は、いつのまにか減っていた。
最初にいた「十三人」ではなく、「八人」しか残っていなかったのだ。
ペストマスクの男が呟く。
「……観測されていない者は、存在すら忘れ去られる。ここはそういう場所だ」
少女はただ、黙って階段を見上げた。
そこから微かに、時計の針の音が聞こえていた。
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