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昨日の亡霊と今日の影

踏み込んだ瞬間、空気の温度が変わった。


 扉を抜けた13人は、見覚えのある「街並み」の中に立っていた。だがそれは、明らかに“過去”でありながら、“昨日”でも“今”でもない。建物の形は知っているのに、誰一人として名前を思い出せない。人影はなく、風も吹かない。ただ時間だけが沈殿している。


 最初に口を開いたのは、ガブリエルだった。


「ここ……僕の部屋があった場所かもしれない。でも……棚がない。机も違う。あれ?そもそも僕……どこに住んでたっけ?」


 その言葉に、周囲の数名が小さく息を呑む。


 記憶が削れている。


 それは全員に共通している事実でありながら、ようやく言語化された瞬間でもあった。

 鏡面の観測者が扉を開く前に言っていた。「忘却を踏め」と。


 ペストマスクの男は無言のまま一軒の建物に近づいた。窓ガラスは曇り、内側は暗闇に沈んでいる。彼はガラスに触れた。指先ではなく、仮面の嘴で。


 直後――ガラスの向こうに“自分自身”が立っていた。


 黒ずんだ影のような姿。瞳はなく、輪郭も曖昧だが、そのポーズも背格好も完璧に一致していた。

 だが、それはペストマスクの男だけの現象ではなかった。


 別の男が振り向けば、路地の奥に“自分”が立っていた。

 ガブリエルが目を伏せた瞬間、足元に小さな自分の骸が転がっていた。

 カプチーノの男はコートの内ポケットから旧式の懐中時計を取り出す。針が止まっているのに、「カチ、カチ」と音だけが鳴る。


「これは過去じゃない。“昨日”でもない。“見捨てられた選択肢”の成れの果てだ。」


 ポツリとその男が言った瞬間――雨が落ちた。


 空を見上げると、雨雲は存在しない。代わりに、巨大な“鏡の裏側”が空一面を覆っている。雨粒はそこから零れ落ち、街を濡らし始めた。


 ガブリエルが呟く。


「ねえ……空に映ってるあれ、誰?」


 誰も答えられなかった。

 なぜならその鏡面には、この場の誰とも違う“14人目”が映っていたからだ。



 その頃、群れの最後尾にいた少女――黄色いカッパの彼女だけは雨に濡れなかった。


 彼女は足元のナスビを拾い上げる。すると、ナスビの影からカマキリが這い出し、その触角を空へ向ける。


「まだ“さっき”のほうがマシだったね。ここはもう腐ってる」


 誰にともなくそう呟くと、少女は路地の奥へ駆けていった。まるで“何か知っている者”のように。


 一人、また一人と、13人の影が互いにずれていく。

この扉の先には、“昨日のようでいて、一度も選ばれなかった今日”が敷き詰められているのだと、誰もが気づき始めていた。



 そして、街角の鏡に映る“14人目”が微かに笑った瞬間――


 空間全体に、金管音が走った。


 世界が少しだけ“昨日”になる。

 そしてそれは、じわじわと侵食を始めた。


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