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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

アラサー美容師の片想いの理由

作者: 高橋淳

おしゃれな飲食店やハイブランドの路面店が建ち並ぶ東京の一等地。


街の中心を通る幹線道路から一方通行の狭い路地に入り込んだ坂の途中に、お世辞にもキレイとは言えない築60年ちかい5階建てのビルがある。

このビルの一階で白石景が一人で営んでいるのがヘアサロン『Hair K』である。


お客さんは、この店がシングルマザーになって出戻ってきた景の母親が実家のビルで始めた『美容室アイ』だったころから来てくれている近所に住むご年配の地権者や、地元で親の商売を継いだ幼馴染たちだけで回っている。

このヘアサロンの入っている白石ビルを親が遺してくれたおかげで、店も住まいも家賃は要らず、2階と3階はテナント貸しもしているのでそこまであくせく働かなくてもなんとかなっていた。


「おーい、ケイ! 桃持ってきたー」

日曜日の午前10時、開店前に店の掃除をしていると、開けっ放しの入り口から幼馴染で瀬野酒店の息子の孝太が自転車に乗ったまま声をかけてきた。

景が出て行くとずっしりと重たそうな白いレジ袋を掲げてみせる。

「あ、みっちゃんの実家から送ってくるヤツ? この桃うまいんだよなぁ」

みっちゃんというのは孝太の奥さんで、岡山の実家から送ってくる桃を毎年お裾分けしてくれるのだ。

袋を受け取って中を覗くと淡いピンクとクリーム色のグラデーションが目にも美しい大玉がゴロゴロ入っている。

「こんなにたくさん? いつも悪いな。お、萌香ちゃん、おはよ」

日曜日で子守を頼まれたのか孝太の5歳の娘も自転車の後ろのシートにちょこんと座らされていた。

「ケイくんおはよー」

「前髪ちょっと伸びてきたね。今チャチャッと切っちゃおう」

景は萌香のヘルメットを外して孝太に渡すと、腰のシザーケースからハサミと櫛を取り出してその場で前髪をチョンチョンとカットした。

「よし、可愛くなった」

ヘルメットを再び被せてやると

「ケイくんありがと♡」

萌香ははにかんで小首を傾げお礼を言う。

「なんだよ萌香、パパにもそういうかわいい声でお話ししてよぉ。ケイお前、年齢層関係なく女にモテるのになぁ」

「ははっ、上手くいかないもんだよね。桃ありがと。みっちゃんにもよろしく言っといて」


景はゲイである。そのことを別に隠してはいなかったので、店のお客さんや近所の人たちのほとんどが知っている。

都会というのもあるし美容師という職業のせいもあって、特にそれで嫌な思いをしたこともない。


最初のお客さんまでまだ時間があったので、景は5階の自宅へ桃を置きに行くことにした。

一度外に出て店の右側にある上半分だけガラスの嵌まったドアから入り階段を上がる。このビルにエレベーターは無い。


2階は『須藤デンタルクリニック』という歯医者で日曜は休診のため今日はシンとしている。


3階に上がると『pushback』と小さく社名の書かれたプレートの貼ってある全面ガラス張りのスタイリッシュな扉がある。ここはデザイン事務所だ。

日曜なのにフロアには電気が点いていて、代表の五十嵐が一人で仕事をしているようだった。

景が通り過ぎようとしたとき、五十嵐がフッと顔を上げてガラス越しに目が合ってしまった。

40代半ばの彼はセミロングのグレーへアを掻き上げてニコッと笑った。

なんの変哲もない無地の白いマルジェラのTシャツが日焼けした肌に憎らしいほど似合っている。

会釈だけで済ませてもよかったが、このタイミングで目が合ったのも縁だと思い、景は事務所のドアに手をかけた。

「おはようございます。日曜なのに大変ですね」

「おはよう。ちょっとやっておきたい仕事があってね」

「あの、ご近所から桃もらったんですけど、よかったらひとつどうぞ」

景がレジ袋から桃を取り出して差し出すと、五十嵐はデスクから立ち上がりこちらへやって来た。

「やぁ、すごい桃だね。千疋屋で一個二、三千円はしそう」

「毎年くれるんですけど、すごく美味しくて楽しみにしてるんです」

「美味そう。今すぐかぶりつきたいな」

五十嵐は桃を持つ景の手ごと両手で包んだ。

大学時代はアメフト部だったというガタイのいい五十嵐に上から見下ろされてなんだか落ち着かない。


入居者が同性愛者に嫌悪感を持つ人だった場合、後から何かで知ってトラブルになったら嫌なので、ゲイだということは五十嵐にも入居前に伝えた。

そのとき五十嵐は、ウソかホントか知らないが自分はバイでそれが原因で離婚したと教えてくれたのだった。

そのせいなのか、会うとたまにこういうセクハラまがいのことをしてくるので、景はファッション誌から抜け出て来たようなイケオジの五十嵐が少し苦手だった。

「この桃、上に住んでる下の歯医者さんにもあげるの?」

“上に住んでる下の歯医者さん” とは2階の須藤デンタルクリニックの須藤涼介のことで、彼は4階に住んでいるのだ。

「そうですね。日曜だけど起きてたらあげようかな」

「なーんだ。僕だけ特別じゃないのかぁ」


イケオジの拗ね顔、ちょっとかわいいかも


そう思ってしまった自分のチョロさに呆れながら、景は3階を後にした。


そして4階。須藤の部屋の前を通り過ぎようとしたとき、ガチャリとドアが開いて寝癖のついた頭にいつもの銀縁メガネをかけていない須藤が顔を出した。

「わっ、ビックリしたぁ。おはようございます。日曜なのに起きてるんですね」

「おはようございます。足音がしたから」

「すみません、うるさかったですか?」

「そうじゃなくて、挨拶しようと思って」

「それは……わざわざすみません。あの、例の桃を今年ももらいましたよ」

「お、やった!」


景は須藤に片想いしている。

3年前、入居希望者として不動産屋の嶋田が連れてきた須藤を初めて見たとき、めちゃくちゃタイプの顔に一目惚れしてしまったのだ。

最初は2階のクリニックだけを貸すはずだったが

「この4階ってなにかテナント入ってます?」

と訊かれたので

「昔、祖父母が住んでたんですけど今は物置きになってます」

と答えるとそこも借りたいと言い出した。

「職場の近くに住むところも探さなきゃって思ってたんでちょうどよかった」

須藤にも景はゲイだと伝えたのに全く気にしていないらしい。まさか自分が惚れられるとは思ってもないのだろう。渋る景に須藤は熱心に頼み込んできた。

聞けば彼は自他ともに認める効率厨で、職場と自宅が同じ建物にあるのは理想的なんだとか。

クリニックには助手も受付も置かず、徹底的に合理化しマシンやアプリを駆使して一人で切り盛りするのだと言っていた。今、須藤デンタルクリニックの受付にはpepperくんが立っていてチビっ子に大人気だ。

結局、須藤の熱意に押されて景は4階に詰め込んでいたガラクタを処分することになったのだった。


「桃食べるときDMください。今日、夜はずっと家に居るんでそっち行きます」

須藤は当然のように言う。

去年、この桃をお裾分けしようと思ったら包丁とか持ってないと言うので、それならうちに食べに来ますかと思い切って誘ったのだ。

だから今年も景の家で桃をいっしょに食べるのだと思っているらしい。


別にいいけどさ。警戒心とかないわけ?


とは言いたくても言えない。

「あの、夜はずっと家に居るって、夕飯はどうするんですか?」

「んー、まぁUberかな」

「それならゴハンもウチで食べません? たいしたものは作れないけど」

「え、いんですか?」

「7時ごろになりますけど」

「じゃあ何か白石さんの好きなものでも持っていかなきゃ。なにが好き?」


好きなもの、それはお前だ!


心で叫んで顔では微笑む。

「ちょっと多めに夕食作るだけなんでおかまいなく」


5階にたどり着いて部屋に入り、ダイニングテーブルに飾ってあるアレッシィ社製のフルーツボウルにレジ袋の桃を丁寧に移し替える。

滅多に果物が盛られることのないそのフルーツボウルをしばし満足げに眺めると、景は踵を返して店へと戻った。


店にはすでに今日最初のお客さんである嶋田不動産のところのおばあちゃんがシャンプー台に座って待っていた。

「すみません幸子さん、ちょっと上に行ってて」

「いいのよ。私が早く来ちゃったんだから」

70代でまだ家業の事務仕事を手伝っている幸子さんは、毎週日曜のこの時間にシャンプーとブローをしに来て、そのまま銀座へランチを食べに行くのが習慣なのだ。

「今日のワンピース、涼しげでいいですね。髪も軽い感じにブローしますね」

「あら、ありがと。景ちゃんに任せるわ」

ご年配のお客さんには肩と首のマッサージを特に入念にサービスしている。

「はぁ気持ちいい〜。愛ちゃんもマッサージ上手だったけど、景ちゃんはやっぱり男の子だから力強いわね」

幸子さんも『美容室アイ』だったころからのお客さんで、このセリフも毎週お決まりである。

「よし、キレイになった」

景が合わせ鏡で後ろ姿が見えるようにすると、幸子さんは少女のように嬉しそうに微笑んだ。

「いつもありがと。また来週お願いね」

そう言って上機嫌で出掛けて行った。

支払いはまとめて月末に嶋田不動産へ持っていく。地元のお客さんはほとんどがいわゆるツケ払いだ。


最後のお客さんを送り出したのが午後5時過ぎ。

それから急いで後片付けを終わらせると、いつもはあまり足を運ばない高級スーパーへと向かった。


気合が入りすぎてるのもなんだよな


とは思いつつも、いつもならスルーする量り売りの肉コーナーで足が止まったりしてしまう。


牛スネ肉のポトフなら野菜といっしょに電気圧力鍋にぶち込むだけだし、あとは美味しいパン買って、オシャレっぽいサラダでも作ればカッコつくか


景は肉と野菜を買ってスーパーを出ると、やたら店内にフランス人オーナーの顔写真が貼ってある長ったらしい名前のブーランジェリーにやって来た。

そこでバゲットを一本買い、そのまま手に持って歩く。


白石ビルの前でちょうど帰るところだった五十嵐と出くわした。あらためて外で会うとやっぱりスタイルの良さが際立っている。

「お仕事終わったんですか? お疲れ様でした」

「うん。さっきの桃、帰ったらいただくよ。そうやってバゲット持って歩いてるのが絵になるね。パリジャンみたい」

「近くだからしまうのが面倒だっただけで、そんなかっこいいもんじゃ」

「それにそのスーパーの紙袋、自炊してるんだ」

「割と好きなんです、料理」

「へぇ、食べてみたいなぁ」

「好きってだけで上手いわけじゃないですから」

景はグイグイくる五十嵐に居心地の悪さを感じはじめて

「ではお気をつけて」

と会釈して逃げるようにビルのドアをすり抜けた。


5階まで駆け上がり部屋に戻ると手を洗ってエプロンをつける。

料理するときにはエプロンをすると気持ちが切り替えられるのだ。

牛スネ肉を一度茹でこぼしてからニンジン、ジャガイモ、タマネギ、キャベツとともに圧力鍋に放り込み、コンソメ顆粒とローリエ、塩コショウを加えて蓋をガチッと閉めたらスイッチを入れる。

次はサラダだ。マッシュルームとカリフラワーを生のまま薄くスライスして刻んだクルミとオリーブオイル、レモン、塩コショウで和えたらベビーリーフを敷いたサラダボウルの上に盛り付けて完成。

カトラリーをセットしながらワイングラスを置くかどうか迷う。


ワイン、買ってくればよかったかな

うちに安物のテーブルワインしかないもんなぁ

でも、わざわざいいワイン用意するのもなんか違うよね

いっそ水だけでいいか、いやそれもなぁ


グズグズと迷っているうちに、ピロリロン♪ピロリロン♪と電子音がしてポトフが出来上がった。

景は急いで桃をふたつ冷蔵庫に入れると、スマホを手に取って須藤のアカウントを表示させた。

“ゴハンできました”

DMを送信した後で、変なメッセージだったと後悔したが遅かった。

すぐにバタンと下の階のドアが開く音がして数秒後に部屋のインターホンが鳴る。


「白石さんの好きな物わからないからワインにしちゃいました」

寝ぐせが直り銀縁のメガネをかけた須藤が、手に持ったニュージーランドワインのクラウディ・ベイを持ち上げてみせた。


高過ぎず安過ぎずオシャレ過ぎずダサくもない、完璧なセレクトかましてくるな

しかも意識しないでやってそう


景がそんなことを思いながらボトルを受け取ると、ちゃんとよく冷えていて表面に汗をかいている。

「座っててください。あ、ワイン開けるのお願いしていいですか」

「うわ、いい匂いだ」

「ポトフにしました。すいません、なんか冬っぽいんですけど」

「僕も夏に無性におでん食べたくなったりしますよ。自分で作れると好きなときに食べれていいですね」

景は、おでんくらいいつでも作りますよ、と言いそうになって飲み込んだ。そのせいで会話にヘンな間が空いてしまう。

すると唐突に須藤が

「そのお皿、買ったんですね」

と言った。

「え? お皿?」

なんのことか判らず聞き返す。

「去年言ってましたよね。その、桃を置いてる、ボウルっていうのかな」

「あ、ああ、そうなんです。あのあと買ったんです」

去年は急に須藤が部屋へ桃を食べに来ることになって、立派な桃を適当なザルに入れていたのがなんとなく恥ずかしく、この桃をもらう度にいい器を買おうと思ってて忘れてしまうのだと言い訳した。

須藤はそのことを憶えていたらしい。

「いいな。白石さんて、桃のために器買ったり、自分のためにちゃんと料理したり、料理するときはエプロンしたり、そういうの、なんかいいですよね」

たぶん褒められているんだろうが、なんと返していいかわからなくて景は曖昧に笑った。


エアコンの効いた部屋で熱々のポトフを食べ、ほどよくワインが進むうちに景の緊張も解けていく。

「桃、切りましょうか」

冷蔵庫に入れておいた桃にぐるりと包丁を入れて捻じるとキレイに種がはずれる。あとは大きめの櫛形に切って皮の端に包丁の刃を入れてゆっくり引くとスルスルと剥けた。

ふたつ分の桃をガラスの器に入れてテーブルに出すと須藤の目が輝いた。

「うまそ。いただきます」


目の前で桃を頬張っている好きな人は、髪の毛を一度も染めたこともパーマをしたこともない。

コンタクトは嫌いでメガネ派。

家に包丁がない。

夏に無性におでんが食べたくなることがある。

身長は僕より5センチ高い。

歯科医、30歳、独身。

それくらいしか知ってることがないけど、それくらいがちょうどいいのかもしれない。


「桃、あとふたつありますね」

フルーツボウルの桃を見ながら須藤が言った。

「明日も食べれるってこと?」

視線を景に移していたずらっぽい目をする。


なんだコイツ、確信犯なのか?


ほろ酔いも手伝って景の口が滑らかになった。

「須藤先生、僕がゲイだって知ってますよね。部屋に来たりするの平気なんですか?」

「ん? ああ、そっか。大丈夫、僕ちゃんとわかってます。危ない狙われちゃう〜とか言う男いるじゃないですか。お前なんか狙うか男なら誰でもいいって訳じゃねぇんだよって話ですよね」


いや、全然わかってねぇ!

いっそこの場で告白したろか!


しかし景の理性がそれを思いとどまらせた。

彼は店子で自分は大家。勢いで告って玉砕したりしたら今後の生活が気まずいことこの上ない。いや、気まずいくらいじゃ済まないだろう。


こうやって片思いの相手とドキドキするようなイベントがたまにあって、気心の知れた人たちに囲まれて穏やかに日常が過ぎていく。

この生活を景は気に入っていた。

だからこのままでいい。


オカズにされてるとも知らないで


そう考えたら可笑しくなって景は一人でクスクス笑い出した。

「なに? もしかして白石さんて酔うと笑上戸になるタイプ?」

「だって須藤先生、明日も来る気なんだもん」

「だって桃うまいんだもん」

二人で笑い合って、景はこれ以上は望まないのが幸せなんだとひっそり心に決めた夜だった。

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