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夏子

大学進学のため、高校卒業後は生まれ育ったこの島から出ていくのが通例で、夏子もそうだった。

馴染みの商店からもらってきた、湿気を含んだ頼りない段ボールに衣類や、小学生の時分から使っている筆記用具や友人たちとの写真、亡くなった父のネクタイとを一緒に詰めた。

一人娘のことを母は案じたが、実家最後の夜には、夏子の好きなものだけを食卓に並べた。

翌朝、駅までの道すがら、夏子は車窓に映るさとうきびの緑や海の青がこんなにも鮮やかだったとは知らなかった。道中、母は運転しながら、しきりに鼻をすすった。

駅へ着いて、改札まで一緒に向かおうとする母を、夏子は友人らが来ているから、と制した。母は夏子の手を握り、「体にだけは気をつけなさい」と、少し笑った。夏子は「もう行くね」とだけ告げ、改札を抜け、階段を下り、その背中が見えなくなるまで母は娘に手を振った。

夏子は振り返らず、駅のホームでひとり列車を待った。母がアイロンをかけてあったハンカチを握りしめて……。


——新生活は夏子を喜ばせた。自分好みのカーテンや食器を置くことが嬉しく、夏子の趣味は年齢より大人に見えるものを好んだ。

最初の生活費は母からのお金である為、すまなさから健気にやりくりした。少しすれば、アルバイトを始めるつもりでいる。

三月の京都は、通行人の紅潮した頬に冬のおもかげを、街路樹に春の気配を宿した。 

故郷にはない寒さと、街中で耳馴れない言葉を聴くたび、故郷では確として感じられた自分の存在感覚が小さくなっていくようで、街路樹の春を期待した新芽のどこか不安げなようすに同情した。……

     

夏子は烏丸にある弁当屋でアルバイトをはじめた。

母からの毎月の仕送り三万円は、母への後ろめたさで貯金し、午後五時から九時までの四時間、生活費は働いて賄った。

母は毎月のように手作りのおかずを数品、小分けにし、段ボールに詰めて送ってくれた。市販のお菓子も入っていたが、それにも愛着が湧いた。

二十年後、母が亡くなって遺品を整理しているとき、夏子はその愛着を懐かしんだ。実家に帰った際に見た、踵が消耗したサンダル、玄関に飾られてある陶器の小びと、壁に掛けられた帽子、向日葵の刺繍、……夏子はそれらに母よりも母を感じた。


授業を終え、アルバイトへ行くためバス停へ向かう。前日までの気温に合わせ、薄手のセーターを着たが、この日だけ暑く、軽く走っただけで汗ばんだ。信号待ちのあいだに、セーターの胸元をはためかせた。

『次は私の季節か——』

 夏子は七時の時間を気にした。平日の決まった時間にやってきて、彼は決まって唐揚げ弁当を注文する。

硝子の自動扉に映るのは、街路樹の桜である。夏子は胸を張った。鏡写しになった店名と営業時間とが書かれた硝子扉の向こうから、彼がやってくる。ピントを移せば、その硝子に自分が映るが、そんなことには気づかない。自動扉が開く。

「いらっしゃいませ」

「唐揚げ弁当ひとつ」


——入学して一ヶ月、夏子のまわりは賑やかになっていた。

誰と誰が付き合っただの、誰それが誰それのことを好んでいるだの、夏子は自分のことを話すことはできずに、友人たちの誰それに彼を当てはめたくはなかった。

彼の薬指のことは知っている。だが、罪は思念に留まるのならば罰することはできない。

そして、それは思いがけず起こった!

「なっちゃんって、綺麗だよね」

友人の一人が、彼女の美しさを夏子に伝えてしまったのだ! まわりもすぐに同調し、「綺麗。うん、すごくきれい」と誉めそやす。

「何もしないでこれなんだから、化粧したらもっと綺麗になれるのに」

次の授業のため、夏子は友人たちと別れた。一人で受ける授業では、頭の中でおしゃべりが続いていた。それが自分の言葉なのか、友人の言葉なのかわからなかった。ふと視線を窓にやった。おしゃべりを続ける横では、窓外の木々たちが沈黙している。

硝子越しのその景色の中に、ぼんやり映る何かがあった。そこにピントが移ったとき、夏子ははじめて自分と目が合ってしまった! その瞬間、恋に落ちてしまった……。


——この一件から、自分の美しさを知ってしまった夏子は鏡を覗き込むことが好きになった。

その美しい容姿を研究すると同時に、彼女の心にも化粧が施されていった。髪色は性格よりも明るく、そして、女は不具を許さなかった。

 夏子には八重歯があった。夏子はそれを唯一美しくないと思った。


二人の間に弁当屋のカウンターはもうなかった。

約束の時間前に、夏子の自宅下まで車で迎えに来た一桔は、すでに待ってくれていた夏子を、車から降り、走っていって、手すら握ったことのない夏子を強く抱きしめたいと思った。


——車から降り、ふたりは砂浜を歩いた。「なんて汚い海だろう」と、まわりに気遣うことをせず、夏子の故郷の海を想像して、夏子だけにおもねった言葉は、二人のまわりにいた人達の気を悪くさせた。ふたりは太陽が沈むまで砂浜に座った——。

ふたりはいま、同じ景色を見ていた。その景色は、退屈な現実よりも、灼熱で儚く確かな存在をしていた。確かめあうでもなく、ふたりはこのまま手を繋ぎ、この海に入ることさえできた。

自分に恐怖を感じた一桔は、先に立ち上がって、夏子へ手を差し伸べた。その左手の薬指にはもう環はかかっていない。夏子から、あなたの指が好きだということを言われてからは……。

「ありがとう」

はじめて夏子の手を握った瞬間、一桔にいつか見た夢の記憶が思い出された。決して覚めてはならない幸福な午睡のあとの、あの口腔のねばりのような不快……。あの不快は、いま、この瞬間を暗示していたのだ!

一桔は反射的に手を離した。それはなにか不吉を案ずる、夏子に対する一桔の最後の優しさだったかもしれない……。


「一桔さん、今度なにか食べたいものはありますか。作ってみます」

「一桔でいいよ。夏子が作ってくれるならなんでもいい」

一桔は、飼っている犬に顔をこすり合わす仕草を夏子にもした。もはや言葉は心を欺き、肉体だけが正直に語った。

「ダメです、まだ歯も磨いていないので」

一桔は夏子の羞恥をも抱いた。夏子は罪の代償として、誰もいない孤島に二人は流離されるべきだと思った。男は? 一瞬の刹那の幸福は過ぎれば肉欲になった。


「明日は会えないかもしれない」一桔は鏡に向かって言い訳のディンプルをつくる。

「大丈夫です。また……」

雨が降りだした。干してあった洗濯物を部屋の中へ移すとき、一桔が手を差し出していた。躊躇する。それも雨の後押しで恥じらいながら下着を渡した。

煙草を喫んでから一桔は帰った。

夏子は取り込んだ洗濯物をたたみながら、数分前の群青から灰色に変わった窓外を眺めた。雨は否応なく、物干し竿を濡らしていた。

物干し竿は幾何かの錆びを、その当初のなめらかな肌に纏った。季節はまた来るしつこい五月雨の兆し。……これから、ますます物干し竿は錆びていくだろうと夏子は思った。


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