第3話 雷の書
悟志の視界が急激に白く染まった。まるで霧が立ち込めるように、世界の輪郭がぼやけ、現実そのものが霞んでいく感覚に捉えられた。立っていた校庭の荒れた風景も、一瞬のうちに色を失い、静寂の中に消え去ったかのようだ。唯一、鮮明に存在していたのは、目の前に立つ文子だけだった。彼女が作り出した白い霧のようなものが、外界との繋がりを断ち切っていた。
「文子、これは一体…?」悟志は疑念と困惑を押し殺し、問いかけた。
文子は悟志の問いに静かに頷き、淡々と答えた。「この結界は私が張ったの。これで他の生徒たちが巻き込まれる心配はないわ。今は、私たちだけの空間よ。」
彼女の声は穏やかだが、その言葉には緊張感が漂っていた。悟志はその言葉を噛み締め、状況の重大さを改めて実感した。『精神の書』から流れ込む力が、彼の体を包み込み、筋肉の隅々にまで行き渡っているが、その力はまだ完全に覚醒していない。今の自分にできるのは、相手の精神を一時的に錯乱させる「錯乱」の言霊だけだ。だが、果たしてそれが雷の力を操る澤田に通用するのか、彼の胸中には不安が渦巻いていた。
「文子、俺はまだ10級の言霊師だ。こんな未熟な力で、あの澤田に勝てるのか?」悟志の声は焦りに満ち、疑念が浮かんでいた。
「俺の名前は、澤田。この隣に居るのは、俺の案内人である美雪だ」
澤田は8級の言霊師。澤田の隣には、黄色のワンピースを着た少女が静かに立っていた。彼女の落ち着いた瞳が悟志をじっと見つめている。雷鳴の如く轟くその力は、悟志に圧倒的な威圧感を与え、畏怖の念を呼び起こしていた。
「雷鳴!!」
悟志の肉体は雷撃によりビリビリと痛みを感じた。文子は一歩前に進み、静かな口調で語り始めた。「悟志、言霊師の階級は、普通の考え方とは少し違うの。階級の数字が小さいほど、実はその者の力が強いのよ。だから、君が10級というのは、君が最低位であり、最も弱小な素質を持っているという証なの。」
その言葉に悟志は動揺した。「えっ…それって、俺が澤田より弱いってことなのか?」彼の声には驚きと疑念が入り混じっていた。
文子は微笑みを浮かべながら、さらに説明を続けた。「そう、君はまだ若くて未熟だけれど、君の中には澤田を凌駕する可能性が秘められているわ。澤田が8級なのは、彼が長年の経験で熟練しているからに過ぎない。だが、君の10級という階級は、その潜在力の弱さを示しているの。君が自分の力を完全に引き出せれば、どんな強者にも対抗できるはずよ。」
悟志は文子の言葉を聞いても、まだ信じきれないでいた。目の前の澤田の雷の力、その恐怖を感じるたびに、自分がそんな存在だとはとても思えなかった。
「でも、あの雷の力にどうやって対抗すればいいんだ…?」悟志の視線は、澤田の握る『雷の書』へと向けられていた。
文子は彼の肩にそっと手を置き、優しい声で囁いた。「焦らないで、悟志。君の力はまだ未完成かもしれないけれど、階級が示すのは素質なの。君には『錯乱』の言霊がある。澤田のような強力な力を操る者ほど、精神が揺さぶられると隙が生まれるわ。澤田の心の隙を見極めて、その瞬間を狙うのよ。」
文子の言葉に、悟志の胸の中で一筋の希望が生まれた。「俺の言霊で、澤田に隙ができる…?」
「そうよ。澤田は力に自信を持ちすぎているから、心の中に隙があるの。君の言霊で彼を揺さぶれば、その隙を見つけ出すことができるはず。自分の力を信じて、彼の一瞬の油断を突くのよ。そして、最後に『雷の書』を燃やすのよ!」
その言葉に、悟志の心には新たな決意が芽生えた。彼は深く息を吸い込み、目の前に立つ澤田を再び見据えた。雷鳴のごとき圧力を放つ澤田の隣には、美雪が無表情で立っている。その冷たい存在が悟志を不安にさせたが、今は集中しなければならない。
「錯乱」悟志は全身の力を込めて言霊を放った。その瞬間、澤田に向かって目に見えない波動が放たれ、空気が振動する。
澤田の詠唱が終わるやいなや、雷光のような拳が悟志の顔面を直撃した。「雷撃肉体」。拳はまるで稲妻が駆け抜けるような速度と力を伴い、悟志の視界は真っ白になった。だが、悟志はその一撃に屈しなかった。彼の内に眠る「言霊」が、反撃の意志を燃え上がらせる。
「錯乱!」悟志の言霊が虚空を裂き、澤田に向かって放たれる。だが澤田は、微動だにしない。冷徹な笑みを浮かべた彼の口元が、ゆっくりと動く。「その程度か?」声は不気味に澄み渡り、悟志の耳に鈍く響く。「お前の言霊では俺を倒せない。未熟だな。」文子は、体内を電撃で覆われているので悟志の錯乱は効かないと悟った。文子もそれ気づいて、助言した。
「悟志!澤田には錯乱が効かない!!」
澤田の体から発せられる雷のエネルギーは、ますます強まる。悟志を守る霧の結界が振動を始め、その限界を感じさせる。悟志は焦る。「通用しない…どうすればいい?」澤田の圧倒的な力に打ちのめされそうになる悟志。だがその時、頭の中に文子の声が蘇る。
「澤田にも必ず弱点があるはずよ。」
悟志は息を整え、冷静さを取り戻すために思考を巡らせる。焦燥を抑え、周囲を観察する中で、ふと澤田の背後に立つ少女の姿が目に入った。冷たい無表情の中に、一瞬の微かな動揺が見て取れた。眉がかすかに動いた、その瞬間が悟志の目に焼き付く。
「彼女だ…」悟志の直感が告げる。澤田の圧倒的な力の背後には、何かが隠されている。その鍵を握っているのは、美雪ではないか。彼女の存在が澤田の心に影響を与えているに違いない。もし美雪の心を揺さぶることができれば、澤田の防御も崩れるかもしれない。
「次は…彼女だ。」悟志は決意を固める。
今度は、より深く精神に作用する言霊を準備する。再び「錯乱」を唱え、今度は美雪に狙いを定める。悟志は彼女に視線を送り、意識を集中させる。「次は君の番だ…」。
効果はすぐに現れた。美雪の体が一瞬だけ揺らめき、瞳に動揺が走る。彼女の視線が澤田に向けられた瞬間を、悟志は見逃さなかった。
「効いている…!」内心で確信を得た悟志は、さらに力を込める。美雪の心を揺さぶり、澤田の精神を崩すための次なる一手を練る。この戦いの鍵は、美雪の中にある。
だが、澤田は悟志の言霊の性質を見抜いている。