第20話 強欲
翔太の部屋に漂う緊張感は一層深まっていた。横たわる悟志の体は衰弱しきっており、呼吸も途切れがちだ。翔太は必死に彼の脈を確認するが、すでに鼓動はかすかなものとなっていた。
「このままじゃ、悟志が…!」翔太の声は震えていた。彼は目の前で友人が命を落とそうとしている現実に、どうすることもできずにいた。
「普通の医者じゃ無理だ…」五十嵐が低くつぶやいた。「これだけの傷、言霊に関わる力が影響してる。普通の手当てじゃ到底助けられない。」
翔太はその言葉に戦慄した。悟志の傷は、ただの物理的なものではなく、言霊の力によって深く刻まれている。医療技術が発達している現代でも、言霊に関する治療法は限られていた。
「言霊師の専門医を見つけなきゃ…でも、そんな医者が今どこにいるんだ?」翔太は焦燥感に駆られた。時間がない。悟志がいつまで持ちこたえられるのか、まるで分からない状況だ。
その時、五十嵐が急に思い出したように顔を上げた。「そうだ、横浜に一人、言霊の専門医がいた。女医だ、確か彼女なら…!」
「本当か!?今すぐ行こう!」翔太は光明が見えたような表情を浮かべたが、五十嵐の顔は曇ったままだった。
「でも…最近その女医は行方不明になってるって話だ。調べようとしたが、手がかりはまったくない…」五十嵐の声は沈んでいた。
翔太は頭を抱えた。手詰まりだ。このままでは、悟志を救う手段が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。しかし、絶望的な状況に沈んでいる暇はない。どうにかして、別の方法を見つけなければならない。
「くそっ…どうすれば…!」翔太は焦りのあまり、拳を壁に叩きつけた。その瞬間、不意に部屋の外から奇妙な音が聞こえた。
「なんだ…?」翔太は音のする方に目を向ける。音はベランダの方からだった。彼が近づくと、カーテンの隙間から何かがこちらを覗いているのが見えた。
「誰かいる!」翔太が叫び、カーテンを勢いよく引き開けた。そこには不気味な姿をした存在が立っていた。背の高い影のような姿、どこまでも黒く、そして異様に長い爪を持った手がゆらゆらと揺れている。
「お前は…!」五十嵐が驚愕の表情を浮かべた。
「久しいな、五十嵐。お前の苦しむ姿を見るのを楽しみにしていたよ。」その影はゆっくりと口を開いた。声は低く、嫌なほど耳に残るようなものだった。
「強欲の悪魔…!」翔太はその存在に気づき、全身が凍りついた。強欲の悪魔は、かつて言霊師たちの間で恐れられた存在だった。どんな願いも叶える代わりに、魂を奪う存在だという。
「何の用だ?」五十嵐が警戒しながら問うた。悪魔が現れるということは、必ず裏に何か目的があるはずだ。
「お前たちが今抱えている問題…その傷を癒す方法を教えてやってもいいぞ。」強欲の悪魔は冷笑を浮かべた。「ただし、それ相応の対価を払ってもらう」
翔太は息を呑んだ。悟志を救う手段が目の前にある。しかし、それが強欲の悪魔との取引である以上、何か大きな犠牲を払わなければならないことは明白だった。
「そんな取引、受けるわけにはいかない!」翔太は声を震わせながら叫んだ。「お前の望む対価が何かなんて、分かりきっている!」
「そうか?だが、このままではお前の友人は死ぬぞ。」悪魔は楽しげに言い放った。「選択肢は少ない。命か、魂か、どちらかを選べ。」
翔太は決断を迫られていた。悟志の命を救うために、自分や他の誰かの魂を差し出すのか。それとも、強欲の悪魔の手を借りずに悟志を見殺しにするのか。
「……くそっ、どうすればいいんだ…!」翔太の額には汗がにじみ、思考は追い詰められていく。
その時、五十嵐が静かに口を開いた。「翔太、俺に任せろ。」
「え?」翔太が驚いて五十嵐を見た。
「俺がこの悪魔を引き受ける。お前は悟志を連れて、安全な場所へ逃げるんだ。」五十嵐は鋭い眼差しを翔太に向けた。「これは俺の責任だ。俺がこの悪魔を呼び寄せたんだからな。」
「でも、そんな…!」翔太は言葉に詰まった。五十嵐が命を懸けようとしているのが分かったからだ。
「今は迷ってる時間はない。悟志を救うためには、お前が行動しなきゃならないんだ。」五十嵐の声は強く、そして揺るぎなかった。
翔太はその決意に圧倒され、黙って頷いた。そして、悟志を抱え上げると、部屋を後にしようとした。
「翔太…必ず生き延びろ。京子も、お前の手で救うんだ。」五十嵐の言葉が背中に響いた。
翔太は振り返らずに、その場を後にした。背後で、五十嵐と悪魔の戦いが始まる音が聞こえてきたが、翔太は振り向くことができなかった。
「絶対に…悟志も、京子も、救ってみせる…!」翔太は心の中で誓い、ただ前を見据えて走り続けた。




