番外編 二人の未来
少し時は遡り、愛理がマーガレットから業務の引き継ぎをはじめた頃のこと。
愛理とマーガレットは執務室で向き合っていた。
今は休憩中で、二人でお茶を飲んでいた。
マーガレットが尋ねる。
「あまり私生活に口を出すつもりはないのですが、エヴァンス侯爵と婚約してから随分と経ちますね。シスターアイリーンは結婚についてはどう考えているのですか?」
愛理は飲んでいたお茶を吹き出しそうになって堪えた。
マーガレットは笑う。
「ですから、そのように感情を顔に出すものではありません。差し出がましいことを申しますが、不要でしたら聞き流してくださいね。わたくしは教皇になってしばらくは忙しく、結婚する時間が取れませんでした。その経験から申し上げると、今のうちに籍を入れることをお勧めします」
「教皇様。御助言、ありがとうございます。検討してみます」
愛理は頭を下げた。
夜のお祈りが終わって、愛理は教会を出た。
辺りはもう暗くなりはじめている。
王都に家がある職員は実家から通うか、寮に住むかを選ぶことができるので、愛理はエヴァンス邸から通うことにした。
教会の外で愛理を待っていたイアンが声を掛けてきた。
「アイリーン、お疲れ様」
「イアン様、いつもありがとう」
イアンは暗くなったら危ないからと、毎日迎えに来てくれていた。二人でいられる唯一の時間だった。
愛理はイアンの腕に手を添えながら歩いている。ちらちらとイアンを見て、意を決し、言った。
「イアン様、教皇様から結婚について話があったの」
イアンは驚いた顔で愛理を見た。
「なんだって?」
「教皇様は教皇になってから結婚したらしいんだけど、時間がなかなかとれなかったから今のうちに籍を入れたらどうかって」
「そうか……」
イアンはそれだけ言って、会話は終わってしまった。
――そうかってどういうこと?
愛理は首を傾げた。
しばらく歩いていると、イアンが言った。
「週末に慰霊碑の広場に行こうか」
愛理はイアンを見上げる。
「いいよ」
――イアン様の両親の命日でも、シャーロットの命日でもないのに?
愛理は更に首を傾げた。
週末は四月下旬の散歩日和だった。
愛理とイアンは二人だけで慰霊碑の広場に来ていた。
広場は原っぱが広がっていて、散歩している人が何人か見受けられた。
二人は木陰のベンチに掛けて、愛理はイアンの腕に寄り添う。
しばらく会話はなく、ただ一緒にいた。
イアンが口を開いた。
「アイリは元居た場所に帰ることについて、今はどう考えているんだ?」
愛理はイアンを見た。
「結局、ララーシャ様が領主邸に戻られたという知らせもないし、次の教皇に選ばれたし……。もし戻れたとしても、またルイスフィールドに戻ってこられる保証もないし……」
それから、愛理は僅かに顔を赤らめた。
「それに、イアン様に会えなくなるのは嫌だなぁ」
イアンはふっと微笑んで、愛理の額にキスをする。
「これからも一緒にいてくれるのか?」
「そのつもり」
愛理はふわっと笑った。
イアンも微笑みを返して、愛理の左手を取る。
そして、ポケットから出した指輪を愛理の薬指につけた。
「結婚しよう。アイリ」
愛理は左手の指輪を見てしばらく呆然とした後、ぽろぽろと涙を流しはじめた。
イアンは愛理を抱きしめる。
「返事はくれないのか?」
「……はい。イアン様と結婚します」
イアンは愛理にキスをした。
愛理は涙を流しながら笑みを浮かべた。
二人は手をつないで帰路に就く。
「この間、教皇様からの助言を伝えた時、そっけなかったから、イアン様はまだその気がないのかと思っていた。だから、びっくりしちゃった」
イアンは愛理を見る。
「そっけなかったか?」
「うん!」
愛理は少しむくれて言った。
イアンは笑う。
「すまない。俺もそろそろと思っていた。準備を進めていた時だったから、アイリから言われて焦ったんだ。あんな道端でプロポーズしたくなかったし……」
愛理はイアンの気持ちが嬉しくて、ぎゅっと腕を掴んだ。
「好きです。イアン様」
「俺もアイリを愛しているよ」
愛理はイアンから大人な返し方をされて真っ赤になった。
イアンは帰宅して、マリアンヌ、メアリー、ジェームズに愛理と結婚することを報告した。
すると、マリアンヌは飛び跳ねる勢いで喜び、メアリーは泣いた。
ジェームズはただ頷いていたが、珍しく笑顔を浮かべている。
興奮しているマリアンヌが言う。
「おめでとう、二人とも! 二人で慰霊碑の広場に行くと言っていたから、もしかしたらとは思っていたけど、やるじゃない、お兄様」
イアンはマリアンヌに肘で突っつかれて咳払いした。
愛理は首を傾げる。
「マリアはどうしてそう思ったの?」
「アイリーンは知らなかったのね。慰霊碑の広場は、王都ではプロポーズの名所なのよ」
――そうだったんだ。知らなかった……。
愛理はイアンを見る。
イアンは赤い顔をして咳払いをした。
翌日。
愛理はマーガレットに報告した。
「そうですか。籍を入れる日が決まったら知らせなさい。教会で結婚式を行いましょう」
愛理はびっくりして言う。
「教会で結婚式が挙げられるんですか?」
「王と王太子、教皇は教会で式を挙げるのです。シスターアイリーンは教皇に内定しているので、適用されます」
愛理は嬉しいような、恥ずかしいような複雑な気持ちだった。
マーガレットが笑う。
「また顔に出ていますよ」
愛理はイアンと教会から帰りながら結婚式の話をした。
イアンも驚いたようで、しばらく返答がなかった。
「そうか。そういえばそんな話を聞いたことがある。滅多にないことだから、気にも留めていなかった……」
「籍を入れる日を決めたら言うように言われている」
イアンは顎をさする。
「そうだな。まずは、陛下に結婚の了承を得ないといけないから、入籍日はそのあとだな。準備も必要そうだ」
愛理は首を傾げる。
「陛下の了承がいるの?」
「貴族は陛下に結婚の了承を得なければならない。まぁ、形だけだ。謁見を申請する書状を出そう」
王のジャレッドからはすぐに返事がきて、週末に伺うことが決まった。
週末。
愛理は訪問用の深緑のドレスを来て、イアンは正装で王城にやってきた。
使用人に案内されて、愛理たちは謁見の間に通された。
大理石の床に赤い絨毯が敷かれていて、王のジャレッドは階段の上に置かれた椅子に座っていた。
愛理とイアンはお辞儀をした。
ジャレッドは上機嫌で言う。
「なかなか結婚の挨拶に来ないので、痺れを切らすところだった」
「アイリーンの卒業までは待とうと思っておりましたので……」
「それもそうだな。二人ともおめでとう」
愛理とイアンは一礼する。
「して、アイリーン。そなたは父はおるのか?」
愛理は首を傾げる。
「両親はおりません」
――ルイスフィールドには。
愛理は心の中でそう付け加えた。
「それでは、父親代わりはいないのか?」
愛理はジャレッドの言いたいことが分からなくて、更に首を傾げる。
「父親代わりですか? ……イアン様でしょうか?」
愛理の回答を聞いたイアンは苦笑する。
「兄代わりなら分かるが、父親代わりになった記憶はないぞ」
ジャレッドは少し身を乗り出す。
「では、父親の役をする者は決まっておるのか?」
愛理とイアンは顔を見合わせた。
やっとジャレッドが気にしていることが分かった。
式で父親の役をする人がいるのかと尋ねているのだ。
愛理は首を横に振る。
「そこまではまだ考えておりませんでした」
ジャレッドは頷いて、膝を叩いた。
「では、余がその役をやろう」
それに、愛理とイアンは慌てる。
イアンが言った。
「そんな! 陛下を煩わせるわけにはいきません」
「その余が良いと言っている。ルイスフィールドの聖女であり、次期教皇のアイリーンの父親代わりが務まるのは、この国では余くらいであろう」
王のジャレッドにそこまで言われては頷かないわけにはいかない。
イアンは頭を下げる。
「幸甚の至りでございます。陛下」
ジャレッドは更に言う。
「よいよい。頭を上げよ。エヴァンス侯爵。それから、披露宴は王城でやろう。聖女と魔王討伐の英雄の結婚式だ。祝いたい者も多いであろう」
話がどんどんと大きくなっていく。
愛理とイアンは顔を見合わせた。
愛理たちはエヴァンス邸に戻った。
リビングでマリアンヌと共にお茶を飲む。
イアンは苦笑気味に言った。
「陛下は祝い事が好きだからな。もう止められない」
愛理も苦笑しながら頷く。
マリアンヌは二人から話を聞いて真剣な顔で言った。
「式と披露宴を行うなら、ドレスは二着は必要ね。いいえ。披露宴で二着は必要かしら……」
愛理が額に手を当てて、手で制した。
「マリアまで話を大きくしないで……」
翌日。
愛理とイアンはマダムケリーのお店に来ていた。
式と披露宴で着るドレスとタキシードを作ってもらうためだ。
マダムケリーは嬉しそうに手を合わせている。
「まぁ、おめでとうございます、聖女様とエヴァンス侯爵様の結婚式と披露宴の衣装を仕立てられるなんて、わたくしはなんて幸運なのでしょう」
愛理たちは商談席に座り、ドレスの打ち合わせをする。
「アイリーンお嬢様は細くていらっしゃるから、それを生かしたドレスにしましょう」
マダムケリーは紙にドレスのデザインを描いていく。
愛理は目を輝かせて頷く。
「やっぱりマダムケリーに頼んでよかった」
マダムケリーはにっこりと笑う、
「ありがとうございます。光栄ですわ」
続いて、マダムケリーはカラードレスのデザインに取り掛かった。
「お色は決めていらっしゃいますか?」
「はい。エヴァンス家の緑でお願いします」
マダムケリーは頷いて、デザインを描いていく。
「式のドレスが大人っぽいので、披露宴は可愛らしいドレスにしましょう。せっかく若いのだからそれ相応のドレスも着なくては。結婚式用のドレスの作成など一生に一度の大仕事ですわ」
愛理はイアンに尋ねる。
「他の貴族の方たちは式を挙げないの?」
「ああ。普通は身内だけで祝うものだな。後日、結婚した報告が来る。アイリーンのところではどうだった?」
「私のいたところでは結婚式を挙げる人も多かったな。憧れていたから嬉しい」
イアンは笑って愛理の黒髪を撫でる。
「それはよかった」
マダムケリーはそのやり取りを見て、にっこりと微笑んだ。
「まぁ、まぁ。とっても甘いドレスができそうですわ」
愛理は、はっとマダムケリーを見てから顔を赤くして俯いた。
イアンも顔を赤くして咳払いした。
「失礼した。ところで、仕立てにはどのくらいかかりそうだ?」
マダムケリーはデザインを見ながら考える。
「二か月は頂きたいですが、いかがでしょうか?」
「そうか。なら、式は八月だな」
愛理はそれに同意して頷く。
「いいと思う。九月以降だと王城は豊穣祭の準備もあるだろうし」
「そうだな。それで調整しよう」
愛理とイアンは最後に採寸をしてからマダムケリーの店を出た。
結婚式の日程を王城と教会とやり取りして八月二十一日と決めた。
披露宴は王主催で行うことになり、招待状は王家から出されることになった。
いろいろと決めて、準備に追われているうちに、とうとう式の日付が近づいてきた。