第48話 水の精霊ウンディーネ
愛理は目を覚ました。
服が濡れて肌に張りつき、気持ち悪い。
そこで海に落ちたことを思い出して、愛理は体を起こした。
――息ができる。ここはどこ?
愛理は辺りを見回すと、平安時代をモチーフにした漫画で見るような和風の部屋だった。
「目が覚めたかの。娘よ」
愛理は女性の声がした方を見ると、一段高くなった場所に長い水色の髪をした女性が座っていた。
羽衣を身にまとい、天女のようだ。
――まるで竜宮城に来たみたい。
頭が回りはじめた愛理は、イアンが女性の膝に頭を乗せて横になっていることに気がついた。
「イアン様!」
愛理が駆け寄ろうとすると、女性は扇を愛理に向けて言った。
「これ、娘。それよりわらわに近づくでない。わらわは許してはおらぬ」
愛理はなにか壁に弾かれるようにして後ろに転んだ。
女性はイアンの頬を撫でながら言う。
「この男はイアンと言うのか。美しい顔をしておる」
「イアン様に触らないで!」
愛理は女性がイアンに触れるのが嫌で、見えない壁を何度か叩いた。
すると、見えない壁に少しひびが入って愛理の視界が歪んだ。
「ほう。わらわの結界にひびを入れたな。魔力を抑えよ、娘」
女性がそう言うと、見えない壁のひびは直った。
「イアン様は生きているの?」
「眠っているだけじゃ。安心せい。それより、そなたはこの男のなんなのだ」
「イアン様は私の護衛騎士です。返してください!」
「それだけか。なら、よいではないか。わらわにくりゃれ」
女性はイアンの顔にゆっくりと自分の顔を寄せていく。
「やだ! やめてよ!」
愛理は顔を歪めて、結界を何度も殴る。
女性はちらりと愛理に視線をやった。
「うるさい娘じゃ。なぜそんなにむきになる? ただの護衛騎士じゃろう。それとも、この男が好きなのか?」
愛理は結界を殴る手を止めた。
――私がイアン様を好き……?
「好き、ですよ? イアン様はいつも私を助けてくれたし、いつも優しくしてくれて、見守ってくれていた……」
女性は口元を扇で隠して笑った。
「なんじゃ、娘。恋はまだなのか? 初々しいのう」
――恋? 恋愛ってこと?
愛理は困惑した顔で女性を見た。
そして、愛理の脳裏に今までのことが蘇った。
ジュリアスがルイーズと踊ってもマリアンヌと踊っても何も感じなかったのに、豊穣祭でイアンがアンジェリカと踊っているのは見ていて気持ちいいものではなかった。
イアンがアンジェリカの騎士になるかもしれないとソフィーから聞いた時も複雑な気持ちが沸いた。
イアンが愛理を心配したり、優しくしたりしてくれるとすごく嬉しかったし、イアンに抱きしめられるとすごく安心して心地よかった。
――私はイアン様をそういう意味で好きなの……?
愛理はそう自覚した途端、耳まで真っ赤になった。
突然沸いた気持ちに追いつかなくて、愛理の瞳からは涙が溢れ出した。
「少しいじめすぎたかのう……。泣くな、娘。シルフとノームに怒られてしまう」
愛理は突然出たシルフとノームの名前に反応して顔を上げた。
「あまりにもむきになってこの男を取り返そうとするから、わらわもついそなたをからかいたくなってしまった。やめろと言うのに、セイレーンがわらわの婿候補に地上から男を連れてくるのじゃ。迷惑をかけたお詫びに、そなたに加護をやろう。名を名乗れ」
「もしかして水の精霊ウンディーネ?」
ウンディーネは頷いた。
「はよ、名前を申せ」
「井上愛理です……」
ウンディーネは扇を愛理に向ける。
「わらわは水の精霊ウンディーネ。井上愛理に加護を授ける」
すると、扇から水色の光が現れて、愛理の胸に吸い込まれた。
「わらわの加護はどんな怪我だろうが、病気であろうが三度だけ治癒できる力じゃ。同じ人間に二度は使えないので心得よ」
愛理は涙を拭いてからウンディーネに跪く。
「水の精霊ウンディーネ。ご加護を頂き、ありがとうございます」
ウンディーネは頷いた。
「ほれ。この男を返してやろう」
イアンの体は浮かび、愛理の元に近づいて行く。
愛理は座って、イアンの頭を膝に乗せた。
「イアン様! 目を覚まして、イアン様!」
「セイレーンの魔術がかかっておる。しばらくは目覚めん。セイレーンとは男の趣味が合わんのじゃ。いつも細っこい男ばかりを連れてくる。わらわはがっしりとした大きな男が好きなのじゃ」
それを聞いて、愛理はクレイグを思い浮かべた。
――攫われたのがクレイグ様だったら、返してもらえなかったかも……。
「さて、そなたらを地上に返してやろう」
ウンディーネは扇で愛理とイアンを差した。
すると、二人の体が浮いたかと思うと、気がついたら浜辺にいた。
愛理は膝の上で眠るイアンの頬を撫でて、ちゃんと息をしているのを確認した。
「アイリーン!」
ローナの声が聞こえて、愛理は顔を上げた。
視線の先にはローナ、クレイグ、ラウラ、アンジェリカがいて、こちらに向かって駆けてくるところだった。
「ローナ先生! みんな!」
愛理は手を振った。
ローナは愛理の前に膝をつき、イアンを見る。
「イアン様も無事? ……はぁ。三日も見つからないから、生きた心地がしなかった……」
「三日ですか?」
愛理はせいぜい数時間くらいかと思っていたのでそれを聞いて驚いた。
アンジェリカはイアンに声を掛ける。
「イアン様、目を覚ましてくださいませ」
愛理がアンジェリカに言う。
「セイレーンの魔術がかかっています。しばらくは目を覚まさないって、ウンディーネ様が言っていました」
ローナは目を丸くして驚いた。
「水の精霊ウンディーネに会ったの?」
愛理はローナを見て頷く。
「はい。一連の事件はセイレーンが起こしていたようで、ウンディーネ様の婿探しのためらしいです」
それを聞いてアンジェリカは少し呆れたように言う。
「セイレーンといえば、精霊の一種ですわね。まさか一連の事件は精霊が起こしていたことだなんて……。その婿探しとやらはまだ続くのかしら?」
愛理はアンジェリカに苦笑しながら答える。
「ウンディーネ様はセイレーンにやめるように言っているそうですが、なんでも男性の趣味が合わないらしくて……。しばらくは続くかもしれませんね」
アンジェリカは不思議そうな表情をして首を傾げる。
「まぁ。イアン様が返されたということは、好みではなかったということですか。ウンディーネ様はどのような殿方がお好きなのかしら?」
愛理はくすりと笑って、クレイグを見た。
「がっしりとした大きな男性が好きだそうです」
みんなの視線がクレイグに注がれる。
ローナはクレイグの肩を叩く。
「ねぇ、クレイグ様。一連の事件を解決するためにウンディーネ様の婿になる気はない?」
クレイグは真っ赤な顔でローナの手を振り払い叫んだ。
「ならん!」
愛理たちは宿屋の部屋に戻った。
クレイグは背負っていたイアンをベッドに寝かせる。
ローナはイアンの寝顔を眺めながら尋ねた。
「セイレーンの魔術はどのくらいで解けるんだろうね?」
アンジェリカは少し考えてから答える。
「今まで見つかった男性たちは浜辺で見つかった後、しばらくしたら目を覚ましていました。イアン様も、もうじき目覚めるはずですわ」
アンジェリカの言った通り、しばらく様子を見ていたらイアンは目を覚ました。
イアンはぼうっとした様子で天井を見ている。
ローナはイアンの頬を叩いた。
「イアン様、しっかり」
イアンは何度か頬を叩かれて、意識がはっきりしてきたようだ。
「俺は一体……」
イアンはゆっくりと体を起こす。
アンジェリカは怒っていた。
「だから言ったのです。イアン様は同船してはならぬと!」
それを聞いたイアンは顎をさすり、状況を理解した。
「つまり俺は攫われていたのか」
アンジェリカは愛理を指差す。
「そうですわ! しかも、アイリーンを道連れにしてです!」
イアンは愛理に視線を向けた。
愛理はイアンが目覚めて、ほっとして泣いていた。
イアンは愛理に手を差し出す。
「おいで、アイリーン」
愛理はイアンの手を取って、イアンに抱きついた。
「イアン様が目覚めてよかったよぉ」
イアンは涙を流す愛理の背を撫でる。
「心配かけてすまなかったな。アイリーンも一緒に攫われたのか? 怪我はなかったか?」
愛理は頷く。
「ウンディーネ様から加護を頂いた……」
それを聞いたイアンは笑った。
「やはりアイリーンには精霊を呼び寄せる力があるようだ」
愛理はむくれた顔で言う。
「笑い事じゃないよ。大変だったんだから! ウンディーネ様がイアン様にキ……をしようとして……」
愛理は顔を真っ赤にした。
イアンは途中が聞き取れなくて首を傾げる。
「キ? なんだって?」
愛理は真っ赤な顔でイアンを睨んだ。
「キスだよ! キス!」
愛理は恥ずかしくなって、耳まで真っ赤にして俯いた。
イアンたちは一瞬ぽかんとしていたが、くすくすと控えて笑っている。
「なんで笑うんですか!」
愛理は真っ赤な顔で怒った。
ローナは笑いを堪えて、目に溜まった涙を拭いながら言う。
「ごめん、ごめん。アイリーンがあまりにも可愛らしいから……」
みんなは頷いた。
イアンはむくれている愛理の頭を宥めるように撫でる。
「すまない、アイリーン。でも、アイリーンが俺を守ってくれたんだろう?」
愛理は首を横に振る。
「私はなにもできなかった。それに、ウンディーネ様にからかわれただけ……」
それから、愛理はウンディーネとの会話で自分の気持ちを自覚したことを思い出し、慌ててイアンから身を離した。真っ赤な顔をイアンから背ける。
イアンは愛理の様子に首を傾げた。
「なんだ? アイリーン。まだ機嫌は直らないか?」
「なんでもない!」
――ウンディーネ様のせいでイアン様の顔が見られない。
愛理は火照った顔を手で覆った。