第1話 異世界転移
「愛理、朝よ」
愛理はその声と、肩を揺すられたことで飛び起きた。
「わぁ!」
「うなされていたようだけど、悪い夢でも見た?」
そう尋ねたのは母親の寛子だった。心配そうに愛理の顔を覗き込んでいる。
愛理は夢だったことにほっとして表情を緩めた。
「ママ、また霧の夢を見た」
「ああ。愛理がたまに見る夢ね」
「うん。でも、今日は腕を掴まれそうになって怖かった……」
「不気味な夢ね。さぁ、そろそろ起きてご飯にしましょう」
「今、何時?」
「そろそろ9時になるわよ」
寛子は部屋のカーテンを開けたあと部屋を出て行った。
愛理はベッドから足を下ろし、腕を伸ばしながらあくびをした。
それから、夢の内容を思い出す。
子供の頃からたまに見る夢で、最初は真っ白な霧ばかりだった。
そのうち、なにかシルエットが浮かび上がるようになり、しばらくしたら女性のシルエットだろうということが分かった。
そして、今日は女性がウェーブがかかった長い金髪の緑の瞳をした人だと分かった。綺麗な白い肌、目鼻立ちはしっかりとしていてとても綺麗な人だった。
その人が愛理の腕を掴もうとして『今度こそ、お願い……』と言った。
――どういう意味だろう……。
愛理はしばらく考えてみたが、分かるわけもなく、考えても仕方のないことだと割り切った。
愛理はベッドから立ち上がり、一階のリビングへ向かった。
ダイニングテーブルでは父親の康一が新聞を読みながらコーヒーを飲んでいた。
康一は新聞から目線を愛理に移した。
「おはよう」
「おはよう、パパ」
愛理は康一の前の席に座る。
寛子が朝食をテーブルに並べてくれた。
朝食は目玉焼き、食パン、ヨーグルトだ。
今日はゴールデンウィークの連休中で、ゆっくりとした朝食を家族三人でとる。
康一が食べる手を止めた。
「愛理。今日は、予定はあるのか?」
愛理は首を横に振った。
「ない」
「じゃあ、昼ご飯を食べに行って、帰りに買い物に寄ろうか」
寛子は康一の提案を聞いて顔を綻ばせる。
「あら。いいわね。賛成」
愛理はすかさず康一におねだりをした。
「パパ。私、洋服がほしい!」
康一はそれに考える素振りをしてから答えた。
「う~ん。いいぞ」
「やったー!」
そのやり取りを見ていた寛子は愛理に言う。
「新しい洋服を買ってもらうなら、出かけるまでに着られなくなった洋服の整理をしてちょうだい」
「はぁい」
身支度を済ませた愛理は部屋のクローゼットを開けた。
クローゼットは二段に分かれている。
上段にはめったに使わないものが段ボールに入れて置いてあり、下段には洋服がかけられるようになっていた。
「これはサイズが小さくなったやつ、これは中学生の時に着ていたやつでもう着ない……」
一通り終えると、クローゼットの下段はすっきりとしたものだった。
その代わり、着ない洋服は床の上に山になっている。
愛理はそれを見ながら満足げに汗を拭った。
五月上旬とはいえ窓を開けていても動けば汗ばむくらいの気温だった。
愛理はついでにクローゼットの床を拭き掃除していると、手に何か当たった。
愛理はそれを探り出すと目を輝かせた。
それは愛理が幼い頃、お気に入りの小物を詰めていた缶だった。
「わぁ。懐かしいもの見つけた!」
愛理は缶を床に置き、蓋を開けた。
ビー玉やお菓子についていたアクセサリー、プラスチックの宝石を模ったものなどが入っていた。
その中に見覚えのない指先ほどの大きさの青い石が入っていた。
「もっと透明だったような……」
愛理がその石に触れた途端、ピリッと電流が流れたような激しい痛みが指先から体に走り、強く目を瞑った。
「いたっ」
痛みが落ち着いて、目を開けた愛理は言葉を失った。
目に映ったのが鬱蒼とした木々だったからだ。
風で葉が擦れる音も、木々の隙間から差す陽の光も本物だった。
愛理は眩暈がして地面に手をつくと、何か固いものが当たった。
先ほどと同じ青い石だったが形が違う。拳より少し小さい石だ。
辺りを見回してみると、どうやら森の中らしい。
背後は少し開けた場所になっていて草が茂っている。
人の気配は全く感じられなかった。
「ママ? パパ?」
試しに呼んでみるが返事はない。
愛理は自分を確認する。
手には青い石、半袖のTシャツ、ひざ丈のジーンズのスカート、足は靴下だけだった。
服装は部屋にいた時と変わっていない。
「なにが、どうなっているの……」
愛理は天を仰いだ。
外気は自室にいた時よりも少し涼しく感じる。
遠くで鳥の鳴き声がした。
それは突然起こった。
離れた場所で破裂音がして、森が騒めいたのだ。
愛理は咄嗟に立ち上がった。
「な、なに? 何の音?」
愛理は比較的見晴らしの良い開けた場所の真ん中あたりまで後ずさりした。
音がした方向は木々で視界が悪く、状況が分からない。
だが、断続的に破裂音は続き、こちらに近づいてきているようだった。
誰かが叫ぶ声が聞こえる。獣の咆哮も聞こえる。
愛理は手にあった青い石を両手で握り、体を強張らせた。
「そっちへ追い込め! 今度こそ仕留めよう!」
そうはっきりと男性の声がした時、木々の合間から飛び出てきたのは狼だった。
愛理が知っている狼よりも随分と大きい。
愛理は悲鳴を上げた。
その声に驚いた狼は、愛理の方へ殺気立って駆けてくる。
「こっちに来ないで!」
愛理は咄嗟に手に持っていた青い石を狼に投げつけた。
青い石は弧を描くように飛んでいき、狼の右前足に当たった。
それと同時に、青い石は大きな炎を上げた。
愛理はその炎に驚き、その場に立ち竦む。
「今だ!」
炎に怯んだ狼の後ろから鎧を着て剣を持った男性たちが十数人ほど現れた。
そのうちの一人が狼の横をすり抜けて愛理の方へ駆けてくる。
「大丈夫? こっちへ」
男性は愛理の腕を掴み、狼とは反対方向へ引っ張るように連れていく。
愛理は覚束ない足取りで転ばないようについていくので必死だった。
その背後でまた破裂音がして、狼は断末魔の叫びをあげて倒れた。
愛理が振り返ると、倒れた狼の周りを何人かが囲んでいた。
「ふぅ。これでやっと家に帰れる」
愛理の手を引いていた男性もそう言って立ち止まり、狼が倒されたのを確認したようだ。
愛理はどさっと倒れるように地面に座り込んだ。
血の匂いと、肉の焼けた匂いがここまで漂ってくる。
男性も座り込み、愛理の顔を心配そうに覗き込む。
「大丈夫?」
男性の瞳は緑で金髪の少年だった。
愛理は、はっと息を飲む。
一瞬、夢で見た女性の顔が脳裏をよぎったのだ。
それから、少年の外国人を思わせる風貌にも驚きを隠せない。
「顔色わるっ! そりゃそうだよね。ビックウルフと遭遇したんだもんね」
金髪の少年は愛理の背中を労うように優しく叩く。
「もう大丈夫だから安心して」
金髪の少年の後ろから男性が声を掛けた。
「ジュリアス、その子の様子はどうだ?」
ジュリアスと呼ばれた金髪の少年は振り返った。
「イアン様、大丈夫じゃなさそうです」
ジュリアスの横から、今度はイアンと呼ばれた茶髪の長身の男性が愛理の様子を伺う。
その横には前下がりボブの赤髪の女性と、ストレートの長い銀髪の女性が立っていた。
二人とも大きい白い襟が特徴的な黒いワンピースを着ている。
赤髪の女性がジュリアスの横に座り、愛理と目線を合わせた。
「立てる?」
赤髪の女性とジュリアスに支えてもらいながら愛理は立ち上がろうとするが、足が震えてしまって上手く立てなかった。
それを見かねたイアンが、外套を外しながら言う。
「仕方ない。失礼するよ」
イアンは愛理を自分の外套で包んだ後、横抱きで抱え上げた。
愛理は思わず小さく声を上げる。
「ひゃ!」
「血の匂いに魔獣や獣が集まってくる。早めにここから立ち去りたい。悪いが、少しの間だけ我慢してほしい」
イアンが申し訳なさそうに言うので、愛理は赤くなった顔で何度か頷いた。
ジュリアスは狼の周りで作業している人たちのところに駆け寄って、何やら話している。
しばらくしてジュリアスはこちらを向いて、両手で丸を作って合図をしてきた。
「野営地へ戻ろうか」
愛理を抱えたイアンはそう言って歩き出した。