10.貴方となら、どこへでも
そこにはエデンがいた。茶色い髪が乱れている。急いでここに来たことは明白だった。
咄嗟に彼は腕を掴み、聖女の額から指を離す。
魔法は行使されず、キュイの瞳もすうっと元の緋色に戻っていった。
「……ふー、ほんと焦ったわ。お前、俺のいないとこで魔法使おうとすんなよ。あぶねーだろ」
「エデン、どうしてお前がここに」
「お前たちの事を偶々見かけたら、聖女様と居たから。不味いなって思ってここにきた。聖女もそうだが、キュイもきっと何かやらかすだろうなって」
「……僕のこと、問題児みたいに言う」
いつもならばっさりと言い返すキュイの言葉は、少し歯切れが悪い。キュイはそれ以来、俯いて口をつぐんでしまった。
エデンは真剣な表情で語りかける。
「今、キュイが闇魔法を使うところを目撃してた奴がいた。そいつは慌てて校舎に走って戻っていった。キュイの闇魔法の力がバレるのは時間の問題だ」
さあっと血の気がひく。
最悪な未来を回避できなかったのか。後悔の念が生まれかけたその時、エデンは私に近づいて、優しく肩に手を置いた。
実直な藍色の瞳が、じっと私を見つめる。
「一つ聞きたい事がある。フィアナ、君は何があってもキュイの手を離さないと誓えるか?」
「勿論よ」
躊躇いなく答えた私を見て、エデンはふっと笑い、「お熱いねぇ」と軽口を叩いた。
「なら、今すぐキュイの腕を引いて、寮があるところまで走れ。女子寮の裏側に、外に通じる裏口がある。そこから右に出て暫く真っ直ぐ行ったところに宿がある。そこで俺の名前を出せば、一晩は泊めてくれるはずだ」
――ほら。
エデンがそっと私の背中を押す。私は立ち上がり、未だ茫然とするキュイの腕を取って、走り出した。
そうして学園を出て、無事例の宿まで辿り着いた。古めかしい老舗の宿の扉を開けば、宿主のお爺さんが出迎えてくれる。
お爺さんは何も言わずに、私たちに部屋の鍵を手渡す。有り難く受け取り、私たちはそのまま2階の部屋に入った。
6畳くらいの簡素な部屋だ。そこにはベッドが二つと、ちゃぶ台に似た机が一つ置いてあった。
今世は貴族令嬢とはいえ、前世は平民だ。なんとなくこの部屋に懐かしさを感じ、私は勢いよくベッドにぼふっと座る。
闇魔法がバレれば、これから追われる身だ。
状況は良くないというのに、寛ぎかけている私を見てキュイは驚いた様に目を丸め――ふっと可笑しそうに笑った。
そのままキュイを手招きすると、キュイは恐る恐るベッドに座った。
暫く沈黙が流れる。なんとなく居心地が悪く感じ、私はその沈黙を破る。
「キュイは、いつから自分が魔法を使えるって知ってたの?」
「……割と最近かな。あ、といっても2年くらい前だけど。学園に入学する少し前くらい」
「そうなのね」
キュイはますます目を伏せた。
私より広い背中が、どこか小さく見える。
そして、キュイは俯いていた顔をゆっくりとあげた。
私は息を呑む。緋色の瞳からは、ぼろぼろと大粒の涙が流れていた。そのままキュイは苦しそうに顔を歪める。
彼がここまで感情を表に出すのは、初めてだった。
「っ、ごめんね……フィアナ」
大丈夫よ、といつもの様に軽々しく声を掛けるのは躊躇われ、私はキュイの背中をそっと撫でた。
「フィアナを巻き込んだのは僕だ……闇魔法を使わないと決めていたのに、つい頭に血が昇って……僕、エデンにも言われていたけど、フィアナのことになると周りが見えなくなるらしいから」
そういって自嘲するキュイは酷く痛々しい。キュイは一呼吸起き、涙を流しながら言った。
「……好きなんだ」
――え。
私はキュイの顔を見る。とめどなく溢れる涙は、積年の想いが流れ落ちる様で。
「フィアナに黙ってた秘密が二つあった。一つは闇魔法を使えること。もう一つは、フィアナの事が好きだってこと。……勿論、家族としてじゃない。ずっとずっと、部屋に閉じ込められてた僕を助けてくれた時から、好きだったんだ」
大粒の涙が頬を滑り、ぽたぽたと服に落ちる。
苦しそうな顔に、私の胸はきゅっと痛む。
……でも、それよりも。
「ごめんね。フィアナはずっと兄様って呼んでくれてたのに……僕は、どうしても妹として見ることができなかった。最低な兄でごめん、本当に、ごめんね……」
「謝らないで、キュイ」
私はそう言って、キュイの背中に優しく腕を回す。キュイの温もりは安心すると同時に、心臓が早鐘を打つ。
「私も好きよ」
「……え?」
「一人の男の人として、私もキュイが好きなの」
最低なのは、私も一緒だから。
明確に気づいたのは、キュイが聖女様に迫られる様になってから。そこで嫉妬している自分に気がついて、私はキュイのことを好きなことに気がついた。
実際はもっと前から好きだったのかもしれないと思う。それに気づかなかっただけで。
体を離し、キュイの顔を見る。戸惑った様に忙しなく揺れる瞳に、泣きそうな私が映っている。
キュイの頬はほんのりと赤く染まっていた。
「え、本当に……?待って、僕の都合のいい妄想じゃなくて?」
「ふふ、本当よ」
笑えば、キュイは蕩けた瞳を向け、甘く微笑んだ。いつもよりも子供っぽくて無邪気な笑み。今までの、どこか距離のある笑みではない。それがすごく嬉しい。
やっと、キュイが私の事を見てくれたような気がした。
「僕も、フィアナが好きだよ。ずっと好き。
――これから先も、君を愛してる」
キュイは私を抱きしめる。その抱擁から感じるキュイの鼓動は、いつもより早い。温もりに包まれ、頰が緩む。
これからの事は分からない。……だけど。
今はもう少しだけ、この幸せに浸っても良いだろうか。
「私も愛してるわ」
私はそう呟かずにはいられなかった。