捨て猫にジンジャーエールを
2作目の投稿です。
絶対に猫にジンジャーエールを飲ませないでください。
お酒はなおさらです。
男はコンビニで酒を買い込んだ。51社目の面接の帰りだった。9月終わりの夜の風はぬるく、スーツのジャケットの扱いに迷う。
面接に、手ごたえがなかったわけではない。志望動機など想定通りの質問に、準備してきた通りに答えることができた。面接官も人のよい笑顔を浮かべていた。
酒を買おうと決めたのは、そんなそこそこの感触の面接を終えた後の電車の中。同じくそこそこの感触だった、47社目の最終面接のお祈りメールを読んだからだった。
四大、新卒。大学の評定であるGPAも平均ちょっと上。就活市場の落ちこぼれではない。だから、すぐに決まるだろうと高を括っていた。そんな幻想が打ち砕かれたのは10社目くらいのことだった。
47社目。既にぼっきりと折れたプライドはもうこれ以上折りようがない。就活初めのように、過剰に傷つくこともない。
しかし、周りが続々と内定を決めていく中で自分だけが取り残されている。それは、浅くて広い傷口からじわじわと出血しているような感覚だった。貧血のように、足元が危うくなっていく。
だから、充填のためと思って酒を買った。第三のビール、ワンカップなど、大学生御用達の典型的な安酒。それと、なんとなく血に似たような赤ワイン。
格好つけて買ったはいいものの、男は赤ワインが飲めない。だから割り材としてジンジャーエールを買った。
赤ワインには、わずかに高級感がある。最後の矜持を保ってくれる気がする。だから、そこまで落ち込んでいないときは安酒、本当に浮上できないときは赤ワインとジンジャーエール。そう使い分けていた。
今日は安酒もワインも両方買った。金のない中で矜持を保ちつつ、アルコールをたくさん摂取しつつ、考えることを先延ばしにしたいという欲張りな思いからだ。
親が就活のためにと買ってくれた革のカバンが、酒でずっしりと重くなった。母さんごめんと心の中で詫びる。
アパートとコンビニの中間地点で捨て猫に出会った。みかん箱の段ボールに、「拾ってください」と書いた紙が貼ってある。昭和から飛び出てきたような、模範的な捨て猫だった。
「でぶいなお前」
思わずそう声をかけた。捨て猫にしては貫禄のある出で立ち。黒々とした毛が蛍光灯に照らされて光っていた。
猫は男を見てにゃあ、と鳴いた。力強い声で、捨て猫のような悲壮感はない。
「なんか欲しいか?」
聞いてみる。猫は男の言葉がわかっているかのように、もう一度にゃあと鳴いた。
「そうか、欲しいか」
鞄をごそごそと漁る。つまみはスルメイカくらいしか入っていなかった。
猫はイカを食べると腰を抜かすと聞いたことがある。じゃあこれはダメだ。
「悪いな、なんも持ってないわ」
立ち去ろうとしたが、猫は期待を込めた目で男を見つめている。
一度カバンをがさごそしてしまったのが良くなかった。推測するに、こいつは人間からご飯を貰い慣れている。
「やらしいやつだな。ジンジャーエールでも飲むか?」
冗談で聞いてみた。猫はにゃあと鳴く。欲しいと言っているようだった。
男はワンカップのお酒をぐいと飲み干した。そのビンをジンジャーエールで一度洗い、中身を捨て、もう一度サイダーを入れた。昔に理科で習った共洗いを思い出した。
カップをミカン箱の中に入れる。猫は男が差し出したジンジャーエールを訝しむこともなく、ごくごくと飲んだ。
「痛くないのか?」
あげておいて、心配になって聞いてしまう。答えなんて期待していなかった。
「うん! ちょっと痛いけど、それがまたいいっていうか……美味しいよ。お兄さんありがとう!」
それなのに、猫が元気よく言うものだから、男は腰を抜かした。
小学生のような声。無邪気な少年を彷彿とさせる溌溂とした声が、目の前のでぶ猫から発されていた。
「人間っていいよね。こんなに美味しいものが飲めるんだもん。いいないいなー、ずるい。あ、イカちょうだい。さっきから、お兄さんのカバンの中、ずっといい匂いがしていると思っていたんだ」
そう言って、黄色く、らんらんと光る目を男に向ける。
「猫、イカ、ダメ」
男はなんとか三語文を発した。猫よりも人間語が拙い。
「なんで?」
「なんでって……。猫の身体によくないって言うだろ」
「僕のこと、普通の猫だと思っているのかい? 今こうやってジンジャーエールを飲んでお話ししているのに?」
「確かに」
自信満々に言われると、なんだか猫の方が正しいことを言っている気になってしまう。
「はー、美味しい」
結局あげてしまった。猫はイカを咀嚼してゆっくりと飲み込む。幸せそうだ。
「それで、お兄さん、なんかお悩み?」
猫はイカに向けていた視線を男に移して尋ねる。ひげが生ぬるい風にそよいでいた。前足を段ボールのふちにひっかけて、なんだか頬杖をつく人間みたいだ。
「その、まあ、就活がうまくいかないんだよな」
第三のビールを飲みながら答える。猫に向かって相談する自分は異常者だ。わかってはいたが、この奇妙な状況を男は受け入れつつあった。気を紛らわすためのいい相棒を見つけたと思った。
「なんで? お兄さん、気のいいやつなのに」
何より、この猫は無条件に男のことを肯定してくれるのだ。
「愚直にやってきたつもりなんだけどなー。いいやつだけじゃだめなんだろうな」
「そうなんだ。大人って、難しいね」
「難しいだろ? お前は猫でいいよなあ」
「うん。毎日楽しいよ。虫を取ったり、友達と遊んだり」
男には、猫の無邪気さが眩しく思えた。
男は、野球少年だった。真夏の暑い日に練習を終えた後、親から与えられるわずかな小遣いでジンジャーエールを買うのが好きだった。猫と話していると、その頃を思い出す。
「酒飲むか?」
なんで今の自分は、社会の歯車にすらなれずに苦しんでいるのだろう。ビールの苦みが口の中に広がった。
「飲むー」
そんな男の気も知らず、猫は無邪気に答える。
「何飲む?」
「お兄さんのお好きに」
「じゃあ、赤ワインだな」
言いながら、ジンジャーエールが半分残っているワンカップに注ぐ。
「知ってるか、これ……」
「キティでしょ? 猫だけに」
「お前、よく知っているな」
男は驚いた。赤ワインとジンジャーエールのカクテルはキティと呼ばれる。猫とひっかけて、結構面白いギャグのつもりでいた。それが、目の前の猫にも伝わると思っていなかった。
この猫と話すのが、ますます楽しく思えた。
「知っているよ。お兄さんが知っていることだもの」
そんな不可解なことを猫は言う。
そして、キティを一口飲むなり、
「就活がうまくいかないの、落ちた理由をちゃんと考えていないからじゃないの? 自分の欠点に向き合うことから逃げてばっかりで」
猫が変わったようなセリフを吐いた。男は固まった。
「反省は怖いかい? 自分が大したこと人間でもないことに気付いちゃうから」
なんで、この猫はそんなことを言うんだ。怒りと恐怖で視界が歪むのがわかった。
男はワインの瓶を乱暴に持ち、その場から逃げ去った。
翌日も、そのまた翌日も、ずっと猫はいた。
酒さえ飲まなければ猫はいいやつだった。だから、企業から断られるたびに、捨て猫にジンジャーエールを持って行った。猫は必ず男のことを肯定した。男の望む未来が手に入ることを、猫は無邪気に信じているようだった。
そしてある日、先客がいるのを発見した。飲み会帰りの陽気なおっちゃん。ども、と会釈をして通り過ぎようとした。そんな男をおっちゃんは引き留める。
「新規臭い顔してどうしたー! 人生の先輩が聞いてやるぞー!」
面倒くさいノリ。だけど楽しそう。
男は猫を見た。酒の入った猫に、何かうるさいことを言われたら嫌だった。
「僕も聞いちゃるぞー! 最近どうなの? 困ってない?」
そんな心配もなく、ちょっと面倒なだけのいい奴だった。
ビールに関しては、サークルの飲み会での印象が強い。男は考古学研究会に所属していた。それほど真面目な活動ではない。男自身も、さほど考古学に興味があったわけでもない。ただ、体育会系とは違う、落ち着いたメンバーがいるのが好きだった。
そんなメンバーたちの節度を持った飲み会。酒に強いこだわりを持つ人がいるわけではないため、とりあえず生中を人数分。
酒が入るとみんな多少テンションも上がる。普段は話さないような、あほな話題でゲラゲラと笑う。男だけのときは、女がいるときにはできない話もする。
そんな馬鹿みたいなひと時を、ビールは思い出させてくれた。
そこまで考えて、ふと男は思った。この猫は、飲み物に対して、その人間が持っている印象をそのまま反映しているのではないか。
ジンジャーエールは、少年時代の思い出。ビールは楽しい青春のひととき。そしてキティはうらぶれた自分自身。
猫と話したいお客さんは、どんどん増えていった。猫と本当に楽しそうに喋る人もいる。一方で、泣いて怒って走り去る人もいた。かつての男と同じだった。
男にはからくりがわかっていたから、悲しい酒を飲む人だなあと同情的な思いで眺めた。
男はなかなか就活が決まらなかった。焦っていた。どこでもいいから俺を採ってくれと思っていた。
ある日、男はバイト代からウイスキー代を捻出した。山﨑18年という、高級ウイスキー。3万円弱。
なぜ大枚をはたいてまで買ったかというと、将来の自分を知りたかったからだ。
きっとこんなウイスキーを買う頃には、ちゃんと社会人をうまくやって、それなりの地位にもついている。そんな立派になった自分を猫は反映してくれるのではないかと男は期待した。
ビールのおっちゃんが先客だった。会釈をして横に座り、ウイスキーを飲ませる。猫が口の中で転がし、嚥下する間、男の心臓は早鐘を打っていた。
猫は何も言わなかった。男の顔をじっと見つめたまま黙っていた。
どうして、と男は猫に尋ねる。なぜ何も言ってくれないんだ。
「おお、そうか、お前も苦労しているんだなあ」
このおっちゃんには話が通じているらしい。
おっちゃんの出で立ちをよく見てみる。地べたに座っていいのか不安になる程度には立派なスーツを着て、革靴はピカピカに磨かれている。このおっちゃんは、男が夢想した、社会人としてそれなりの地位についている人間だった。
男は恥ずかしくなって逃げだした。
それから男は、猫と話すことはなくなった。日課のように就活を続け、ギリギリで滑り込んだ。始めに志望していた分野とは異なるし、名前も聞いたことがないような中小企業だけれども、正社員だ。
就職が決まって、またあの猫に会いたいと思った。この内定先に納得しているのか自分でもわからないけれど、とにかく猫と話したかった。
老夫婦が猫を抱き上げていた。猫がミカン箱の中から出ているのを見るのは初めてだった。猫の口周りにはミルクが付いている。
「あら、こんにちは」
男の視線に気づき、おばあさんが挨拶をする。
「その猫、飼うんですか?」
「そうなの。可愛くってたまらなくって。私たちには子どもがいないからかしら、この子が私たちの子どもに思えてきたの」
「そうですか。可愛がってあげてください」
男が老夫婦に頼む筋合いはなかったが、つい口をついて出た。男は、この猫に愛着があったのだ。
「もちろん」
おじいさんが言い、顔のしわを深める。
「良かったなあ、お前」
男は猫に話しかける。猫はゴロゴロと喉を鳴らした。
「そうだ。……ジンジャーエールをあげてもいいですか」
変なことを頼んでいる自覚はあったけれど、言わずにはいられなかった。
「いいですよ」
おばあさんは拍子抜けするほど簡単に肯定した。この猫の不思議は、老夫婦も知っていたのかもしれない。
おばあさんはミカン箱の中に猫を下ろした。男は空き皿にジンジャーエールを注ぐ。
「お兄さん、頑張ったね、おめでとう」
相変わらず無邪気な少年の声だった。
「……俺、頑張ったのかな」
「もちろんだよ! ずっと諦めずにやってこれたんだもん。お兄さんは、これからも大丈夫だよ」
小学生のころの自分と同じような目をした猫の前で、男は泣き笑いをした。
初心者なので、アドバイス等頂けたら喜びます。