まずは、恋人から。
薄い壁を隔てた浴室から、シャワーの水音が聞こえてくる。窓の外でざあざあと音を立て、時折強風に煽られてガラスにぶつかる雨とは違う、人工の水音だ。
ふと、この部屋に住むようになってから、自分以外の誰かが浴びているシャワーの音を聞くのは初めてだなと思った。一人暮らしなんだから、当たり前だ──そんな寂しい結論を下して、訪ねてくるような友達一人作ることができない自分に、部屋の主は口許を歪める。
それにしても、妙な拾い物をしてしまった。今は浴室にいるとはいえ、この部屋に自分以外の誰かが入ったことに少なからず異物感を覚えてしまい、呆れたようにため息を吐く。
仕事帰りの電車から降りて、予報によれば明け方まで降るらしい雨の音を聞きながら、さっさと帰ろうとこのご時世には珍しい無人駅のホームを出たところに、それは居た。いつ交換されたのか、たまに危なっかしく明滅する駅の古びた蛍光灯が発する光から、ほんの少し外。道路に面した街路樹の傍に、誰かが立ち尽くしている。
元々終点の都市部より二つ手前という中途半端な場所で利用者も少なく、終電近い時間になれば滅多に人が通ることもない寂れた駅だ。幽霊、よりも不審者を思い浮かべてしまったのは、実家を出る時に女の一人暮らしは危ないから、と両親に散々脅かされたからだろうか。思わず鞄に入れっぱなしにしていた防犯グッズを取り出しかけて、気づいた。
そこに立っていたのは幽霊でも、帰宅途中の女性を狙うような暴漢でもない、ただの少女だ。傘もささず、雨宿りにも用を為さない冬の木の下で、まるでそれが義務であるかのように、彼女はただじっと雨に打たれていた。どこかの学校の制服を着て、元はもう少し明るい色なのだろう、夜の帳に半ば溶け込んでいる髪は額や頬にべったりと張りつき、染みこんだ雨を涙のように流している。
きっと、家出少女かなにかだろう。あるいは彼氏と喧嘩でもして自棄になったか。どちらにしろ、関わるべきではないと思った。どう考えても厄介事だ。
だが──近くには交番もなく、この時間に巡回している警官も見たことがない。この辺りで今までなにか事件があったとは聞いたことがなかったが、こうしてただぼんやりと佇む少女はあまりに頼りなく、現実感がなかった。例えばさっき自分が鞄を探ろうとしたようなことが実際に起きれば、新聞の片隅にすら載ることもなく、消えてしまいそうなほど。
特に正義感が強いわけでもなかった。少なくとも、自分ではそう思っていた。捨て犬や猫を見て、可哀想だと思っても拾ったことはないし、バスや電車でも席を譲るのが煩わしくて、よほど空いていない限りは最初からつり革に掴まるような性格だ。
だから、未成年を犯罪から護ろう──なんて、大層な使命感もなく。
「どうしたの?」
声をかけたのは、きっとただの気まぐれだった。
「風邪ひくわよ。傘、持ってないの?」
気休めにもならないことを承知の上で手持ちのハンカチを差し出し、自分の傘をかけてやりながらそう言って、間抜けな質問だったと後悔した。少女の両手はただだらりと垂れているだけで、学生服にはお約束の学生鞄やスポーツバッグの類は持っていない。そもそも目の前に──寂れているとはいえ──屋根のある駅があるのに、こんな場所に立っている時点で雨を避ける気がないのは明らかだった。
案の定、ぼんやりとこちらを見上げた少女は、首を横に振った。張り付いた髪の間から覗いた瞳は虚ろで、突然話しかけられたことに驚いている様子もない。
そこでやっと気づいたように、差し出されたハンカチに視線を落とすと、少しだけ迷うような間の後、受け取った。手渡した拍子に触れた指先は、冷え切っていた。
「そう。えっと……家は、近くなの?」
年下と話す機会なんて、社会人になってからはせいぜいが会社の新入社員くらいのものだった。どう話しかければいいのかわからず、結局普段通りの口調でした質問にも、少女はただ首を横に振る。
「ええっと……あ、もしかして、親を待っているとか?」
一縷の望みを託した問いに、三度目の否定を返される。誰かを、あるいはなにかを待つのにこんな場所に突っ立っている必要はない。
思いつく選択肢は、あと二つ。最寄りの交番まで送るか、もしくは──
「……よかったら、ウチ、来る? シャワーくらいなら、貸せるけど」
最初に声をかけた時点で、こうなるのはわかっていた。最寄りの交番なんて、知る限りではここから徒歩で向かうのは遠慮したい距離にしかない。それでも他の選択肢を試したのは、ほんの少しでも、声をかけたことを後悔していたのだろうか。
逡巡するような間のあと、少女は初めてうなづきを見せた。
*****
家に着くまでの十数分、二人はどちらからも口を開かなかった。同性とはいえ、見ず知らずの他人に唯々諾々とついてくる少女に、なにを話せば良いのかわからなかったのだ。今更無意味だと知りつつも一人用の傘の下に入れて、狭い思いをしながら自宅に着く頃には左肩がすっかり雨に濡れていた。
家賃の安さに釣られて選んだ、ワンルームの独身者向けアパート。どうやら最寄りの公共交通機関が例の無人駅という微妙な交通の便の悪さがその理由だったらしく、部屋自体は小奇麗でバストイレ別、防音性もそこそこと独り身にとってはありがたい物件だった。
その部屋に、まさか見ず知らずの少女を連れ込むことになるとは、夢にも思っていなかったが。
浴室の、当然のように一人用である湯舟に熱めの湯を張る。会った時点で濡れねずみだった彼女は歩くだけで床を水浸しにしてしまうから、板張りの廊下はともかく部屋にそのまま上げるわけにはいかなかった。本人もそれを理解しているようで、狭い玄関から動こうとしない少女に廊下は後で拭けばいいからと上がらせて、浴室へと通す。
「シャンプーはこれ。ボディソープはこっち。あと、シャツとか下着とか、脱いだらそこのカゴに入れておいて。あとで洗濯するから。ブレザーとスカートは──」
とりあえず、乾かしておくしかないだろう。どの道もう一度着る前に、クリーニングに出すべきだ。そう伝えると、少女はやはりこくんとうなづいただけだった。自分の家に帰ってきた安心感からか、ついあれこれと口出ししてしまっても、そのことごとくにただうなづくだけだ。あるいはその大人しく従順な態度自体が、感謝の表れなのかもしれない。
水分をたっぷりと吸い込んだブレザーを受け取ると、彼女はスカートのホックを外した。これもずいぶんと重みを増しているようで、浴室の床にべたりと重たげな音を立ててへばりついたスカートを拾おうと、半裸に近い恰好で少女はしゃがむ。
腿の半ばまで隠していたシャツの裾がめくれて、すらりと伸びた、細く、形の良い脚が露わになる。一体どれほどの時間雨に打たれていたのか、シャツの裾から見える下着すらぐっしょりと濡れて肌に張りつき、守るべき素肌を半ば透けさせていた。
他人の家で、あまりに無防備な彼女を守るのは、濡れたシャツと下着だけ──そんな考えが脳裏をよぎる。
「……?」
スカートを拾い上げ、見上げてきた少女の瞳と視線が絡んで、すんでのところで我に返った。
「それじゃごゆっくり。ちゃんと温まってね」
早口でそう告げて、ブレザーとスカートを抱えて逃げるように浴室を出る。どもらなかった自分を褒めてやりたいくらい、心臓がどくどくと脈打っているのが聞こえた。
女の子相手に、それもあんな若い娘に、一体なにを考えているのか。長い一人暮らしで──両親の抱擁くらいしか知らないとはいえ──人肌を恋しく思っていた自覚はあったが、まさか行きずりの、しかも恐らくはひと回り近く年下の同性相手に欲情しかけるなんて。
いや、きっとあれはなにかの間違いだ。今まで自分以外に誰も入ったことのない家に見ず知らずの他人を、しかも自分から招くという今までになかった状況に少しばかり混乱していただけだ。そう、確か吊り橋効果とかいうやつ。そうに違いない──自分で自分に言い訳をして、無理矢理納得しながら暖房のスイッチを入れた。
流れてくる温風に当たるよう、ハンガーに掛けたブレザーとスカートをカーテンレールに引っ掛ける。一晩で乾くかどうかは怪しかったが、なにもしないよりは良いはずだ。
あとは玄関から浴室までの濡れた廊下を拭いて──そう、洗濯も今夜のうちに済ませておこう。一晩泊めて明日帰らせるにしても、濡れて汚れたままの衣類を持たせるわけにはいかない。靴はひとまず水分を拭きとって、確か新聞紙を詰めてドライヤーを当てるんだったか。あとで調べてみよう──あれこれと頭を働かせていると、ようやく気分が落ち着いてきた。
あの娘には失礼かもしれないが、猫でも拾ったと考えればいい。お風呂に入れて、餌をやって──そんな世話をしているだけなのだ、と。
猫なんて、飼ったこともないけれど。
シャワーの水音が止んで半時ほど、暖房でようやく温まってきたワンルームのドアの向こうで、がちゃりと音がした。濡れた下着や衣類は既に洗濯機の中に放り込んで回してあるし──カゴの中身を見ないようにするのに、少しだけ苦労した──ドライヤーも出してある。温まって人心地ついたらさっさと寝かせて、明日になったら親と連絡を取らせるなりして帰らせよう。事情を聞く気も、ましてや説教する気もなかった。ただ一晩、雨宿りの場所を提供するだけ。一般的な大人として、最善ではないかもしれないけれど、最低限の行動ではあるはずだ。
やがて、部屋と廊下を繋ぐ唯一のドアが開いた。おずおずと入ってきた少女にとりあえず髪を乾かすよう勧めようとして──その姿に、開きかけた口が固まった。
広げたバスタオルを垂らし、前を辛うじて隠しただけの恰好で、開きっぱなしのドアの傍で心許なげに佇んでいる。つまり──ほとんど、裸の恰好で。
拭き損ねていたのか、タオルから覗く腿の内側を、水滴が伝い落ちた。
「え……あ」
どうしてそんな恰好で、と口にする寸前に思い当たった。
着替えだ──
「ごめん! ちょっと待ってて」
慌てて彼女に背を向けて、収納棚から服を引っ張り出す。
彼女が唯一着ていた衣服は、もう洗ってしまった後だ。そもそもあれだけびしょ濡れになったものをもう一度着せるわけにはいかなかった。なにか適当な服を貸すしかない。そんなこと、いつもなら考えるまでもなく気づいていたはずなのに──
あれでもない、これでもないと大して多くもない普段着をあさりながら、ほんの数秒間──しかし瞼に焼き付けてしまった彼女の姿が、脳裏を過ぎる。
湯で温まり、ほんのりと赤らんだきめ細やかな肌。板張りの床が冷たいのか、あるいは足跡でもつくことを気にしていたのか、踵を少しだけ浮かせていた素足。手で抑えたタオルの下から、しっかりと存在を主張していた胸。隠しきれず、晒された小さな肩と女性らしい丸みを帯びた腰は、成熟しつつあるその肢体の艶めかしさを際立たせていた。
浴室の時の比ではないほど、胸の鼓動が高鳴る。熱くなった顔はこめかみにじっとりと汗を浮かばせた。
どうして、女の子の裸を見たくらいでここまで動揺しなければならないのか。そもそも他人の裸を見る機会なんて、もう何年もなかったけれど──言い訳を求めて、思考が空回りを続ける。
とにかく、早く服を着せることだ。これと決めたものを引っ掴み、意を決して振り向いた。変わらず部屋の入口に佇んでいた少女に手招きして、理性を総動員してできる限りの平静を装う。
「ごめんね、さすがに下着を貸すのもなんだから……。悪いけど、今晩のところはこれで我慢してもらえるかしら」
薄手の肌着と、一番サイズの融通が利きそうで、なにより暖かいセーター。暖房はつけているし、幸い小柄な彼女なら下半身まで覆ってくれるはずだ──さすがに下着もつけずにズボンの類を穿かせるのはためらわれた。
「ありがとう……ございます」
ぽつり、と少女が礼を述べた。今頃になって初めて聞いたその声は、思っていたよりごく普通の──可愛らしい、女の子の声だった。
*****
大幅に余った袖から伸びた指先が、ぱちん、と一仕事終えたばかりのドライヤーのスイッチを切る。濡れっぱなしだった髪をすっかり乾かせて、ようやく人心地ついたように少女はほう、と小さくため息を吐いた。大人しめの色合いに染められた茶色の髪が、人工の光に照らされながらさらりと揺れる。非行少女、というわけでもなさそうだ。程度の差はあれ、今時全く髪を染めていない学生の方が珍しいし、穿いていたスカートも長すぎず、かといって教師の目に留まりそうなほど短いわけでもなかった。
きっと、普段はあんな寂れた駅の傍を通っても気にしないような、どこにでもいる普通の娘なのだろう──ようやく声を、しかも素直なお礼の言葉を聞いて、ずぶ濡れで虚脱したような状態からこうして年相応の様子が見られるようになって、そんな感想を抱いた。
恰好は──少々危険ではあるけれど。
辛うじて腿の付け根まで隠したセーターの裾から伸びる脚に目をやりそうになって、さり気なく逸らす。コードを几帳面に畳んだドライヤーを床に置いた彼女は、そんな視線に気づいた様子もない。
「ありがとう、ございました。……あの」
もう一度感謝の言葉を口にして、少女は何事か言いかけて、口を閉ざした。視線をさまよわせ、なにを言うべきか迷っているようだ。
湯上りでいまだ赤らんだ頬のせいか、そんな彼女の様子は年相応に可愛らしく見えた。
「どういたしまして。……私、サチって言うの。幸福の幸。古臭い名前でしょ? 幸せになりますように……なんて、ね」
緊張を解そうと飛ばした冗談のつもりだったが、彼女のぽかんとした表情に失敗だったと気づくのにそう時間はかからなかった。今日会ったばかりの人間に自分の名前で自虐されても困惑するか、あるいはせいぜい苦笑を浮かべるくらいしかないだろう。
こんなことだから、友人一人まともに作れないんだ──焦っても失言を重ねるだけだとわかっているのに、この醜態をなんとか取り消そうと口を開きかけた時。
「わたし、ジュンです。男の子、みたいでしょ?」
困惑からすぐに立ち直り、くすりと笑って、彼女──ジュンはそう名乗った。でも気に入ってるんです、と付け加えた彼女に慌てて同意する。
気を遣われてしまった──これはこれで恥ずかしかったが、助かった。自分では逆立ちしたってこんな気の利いた返しはできそうにない。安堵のため息を、お互いまだ少しだけぎこちない笑いに紛らわせて吐き出した。
「迷惑かけて、ごめんなさい。……サチさん、いい人、ですね」
ひとしきり笑って場の空気が落ち着くと、申し訳なさそうな表情で、ジュンはそう切り出した。不意に呼ばれた名前に、どきりとする。年に数回の里帰りで会う両親以外に下の名前で呼ばれるなんて、何年ぶりだろうか。
それにしても──いい人、なんて。会ったばかりの相手から恩を受けることに対しての負い目もあったのだろうが、思わず苦笑を浮かべる。年端もいかない少女とはいえ、見ず知らずの他人を何の警戒もなく家に招き入れるのは、サチの基準で言えばいい人というよりはお人好しだ。もちろん、悪い意味で。
「ありがと。……ねえ、ジュンちゃん。きっと事情があるんだろうしお説教するつもりはないけど、体は大事にしなきゃ駄目よ」
大人として、あるいは関わった人間として、これくらいは言うべきだと思った。寒空の下であのまま放っておけば、風邪をひく程度では済まなかったかもしれない。
笑みを収めてそう言うと、ジュンは表情を固くした。
「……はい。ごめん、なさい」
やはり慣れないことはするべきではなかったのか、せっかくさっきまで笑っていた少女は神妙な顔をしてうつむいてしまった。
また失敗した。叱りたかったわけじゃないのに──
「あのね、怒ってるわけじゃないの。ただ、ほら、夜になるとまだまだ寒いし雨も降ってたし、ね? 心配になっただけで……」
また空回りして失言を重ねそうだったが、そんなことに構っていられなかった。普段なら他人にどう思われようと気にするような性質ではないのに、目の前の、見ず知らずの少女を悲しませたくないと思ってしまうのは、あまりにも距離が近いからだろうか。どうせ気の利いたことなんて言えないし──なんて、いつもなら抱くはずの諦めも、今はなかった。
恐る恐るといった風に、ジュンが顔を上げて上目遣いでこちらを見る。その瞳はまるで驚いているように見開かれていて、本当に怒っていないらしいことを確認したのか、少しだけ表情が和らいだ。
ほっとしたのはこちらも同じだ。多少引きつっているかもしれないが構うものかと微笑んで見せると、余った袖で口許を隠して、ジュンはくすりと笑った。
「あはは……ええと。あ、疲れてるでしょ? 私ので悪いけど、そこの布団使っていいから。今日はもう休んで──」
「サチさん」
言いかけた言葉を、まるで別人のようにはっきりとした声で遮られて、畳んで部屋の隅に押しやられている布団を示そうと持ち上げた腕が、中途半端なところで止まる。
空中をさまよった挙げ句戻した視線を真っ向から受け止め、じっと見つめてくる彼女の瞳は、なにかを決意したようにも見えた。
「お願いが、あるんです」
「な……なに?」
両手を床について、ジュンが身を乗り出す。雨に濡れていた時とも、おずおずと礼を言った時とも違う、真剣な表情。ひと回り近く年下の少女に気圧されるように仰け反りながら答えると、その口許に微かな笑みが浮かんだ。
「わたし……寒いんです」
手をつき、膝をつき、四つん這いのような恰好で、彼女は一歩ずつ近づいてくる。
「え……あ、だ、暖房──」
考えなくてもその言葉が違う意味を示していることはわかっていた。それでも理解することを拒否するように、あるいは逃げ道を探すように空調のリモコンへ伸ばした手を、そっと押さえられる。
彼女の──ジュンの手は、自分のそれよりも少しだけ小さくて、柔らかくて、駅前で微かに触れた時の冷たさが嘘のように、熱を帯びていた。
半ば圧し掛かるように彼女の身体が触れる。もう逃げ場なんてどこにもなくて、それを探すことすら許されないほど、絡み合った視線を逸らすことができない。
「サチさん」
ささやくような小さな声で呼ばれた名前すら、聞き取ってしまう。鼓動がひと際高く飛び跳ねたのは名を呼ばれたせいなのか、ほど近くに迫った彼女のせいなのか、わからなかった。
「温めて、ほしいんです。サチさんに」
もう一方の手も掴まれて、両手がその身体を挟むように、セーターの裾へと近づいていく。
それはとてもゆっくりで、掴まれた手を振り払うことなんて簡単に思えた。それなのに、ただ荒い呼吸を繰り返す以外に、身体は動こうとしない。絡め取られた視線を逸らすことさえ、ひどく難しいことのように思えた。
見つめてくる彼女の頬はいまだ赤く、しかしそれが湯で温まったからではないことは明らかだ。そしてその瞳に映り込む自分も、きっと同じように見えているのだろう。
手が、セーターの裾の更に下──腿の外側に触れる。寒いなんて、きっと嘘だと思った。
「見て、ましたよね」
ひっ、と息が詰まる。絶対の優位を確信した、恍惚ささえ感じさせるような声。
「お風呂の時、見てましたよね。お風呂から上がって、この部屋に入った時も。私の身体、見てましたよね……?」
「あ、れは……っ」
辛うじて動いた口からかすれた声を出して、しかし言い訳は見つからない。気のせいじゃない、なんて誤魔化すことすらできなかった。隠せたと思っていた後ろめたさを晒されて、身体が強張っていくのが自分でもわかる。
肌に触れていた指先はいつしか手の平全体へと変わり、導かれるままになめらかなその感触を味わいながら、自らが貸し与えた服の下に潜り込んでいく。
「いいんです。見ても、いいんですよ……?」
怯える子供をあやすような、優しい声音。うっとりと笑みすら浮かべたその表情は、しかし嗜虐的な快感に打ち震えているようにも見えた。
手首に引っかかったセーターの裾はめくり上げられ、脚を、下腹部を、その肌を、晒していく。
「あぁ……っ」
やがて胸元までたくし上げられたセーターの内側で、導かれた手がいまだ直接見たことすらないその膨らみに触れると、ジュンは肩を震わせて悲鳴とも嬌声ともつかない吐息を漏らした。
密着した身体を擦りつけるように、耳元に顔が寄せられる。乾かしたばかりの髪から、ふわりとシャンプーの匂いがした。
「触って、ください……。お願い……」
切なげな、懇願の声。弱々しいその声に、不意に初めて見た彼女の姿を思い出した。雨に打たれ、今にも消えてしまいそうなほど頼りなく、儚げで。
そうだ。
あれは決して、気まぐれなんかじゃなく。
放っておけないと、思ったんだ──
*****
カーテンの隙間から漏れてくる陽の光が、目に痛い。滲む視界をこすりながら見た時計は、昼近くを指し示していた。
記憶が曖昧だった。昨日、あの後、なにをしたのか──なにをされたのか。思い出すのは断片的な記憶ばかりだった。成人してすぐの頃、加減がわからず泥酔してしまった時ですら、記憶が不確かになるようなことはなかったのに──つい重たげなため息を吐いてしまったのは、少なくともあれが夢や幻でないことは確かだからだ。
「おはようございます。……サチ」
なにをどうしてこうなったのかは全く覚えていないが、畳んだまま敷いた覚えのない布団にくるまっていて、隣に寝転びながらそう挨拶してきたのは、紛れもなく昨夜出会ったばかりの少女──ジュンだった。
「おはよう。……猫かぶりはもうおしまいってわけ?」
昨夜の気遣いを忘れてしまったように苦虫を噛み潰したような顔でそう言ってやると、ジュンはころころと笑った。あの夜とは違う、明るさを隠そうともしない笑み。
そのせいだろうか、年下の少女に呼び捨てにされても、不快どころか悪くないと感じてしまっているのが、忌々しかった。
「そんなのじゃないです。ただ……だって、あんなに可愛い声出されたら、もうサチさん、なんて言えないもん」
「うぐ……」
はっきりと覚えていないだけに、否定も出来なかった。確かあの後すぐ、服を脱がされて──
身体中を、彼女の手と──舌が、這いまわっていたような。それで私は、自分でも耳を疑うようなひどい声を上げたような。そしてそれは、明け方まで続いたような。そんな気がする。普段なら口にしないようなことも、たくさん言ってしまったかも。
はっきりと覚えているのは、終始彼女にリードされていたという不本意な事実だけだった。
やはり自分はいい人などではなく、お人好しの阿呆だったのだ。
ごほん、とわざとらしく咳ばらいを一つくれて、さり気なく隣の彼女と距離を取る。お互い昨夜のまま──つまり、服も下着も、なに一つ身につけていなかった。
「それで……この後は、どうするの?」
そう、このまま休日を一緒に寝て過ごすわけにはいかない。自分達は知り合いですらない、赤の他人──だった、のだ。彼女がどうしてあんな場所にいたのかすら、いまだにわからないままだった。
かと言って、今更家から放り出すわけにもいかない。そうするには、もはや遅すぎた。
顔だけは真面目に取り繕ってそう問うと、予想通り、ジュンは表情を曇らせた。うつむいて、ついには泣きそうな顔になって、上目遣いで見上げてくる。
「帰りたく……ない、です……」
それが一緒にいたいということなのか、それとも言葉通りただ帰りたくないだけで、もしかしたら昨夜のあれもただその口実にするためだったのか。言葉の駆け引きなんてしたことがなくて、その判断すらしかねる自分に呆れたようにため息を吐く。
「言っておくけど、私は誘拐犯になるのは御免よ」
相手は家出少女なのだ。下手をすれば、捜索願を出されているかもしれない。一応、形としては未成年を保護したことにはなるのだろうが、親にも警察にも連絡をしていないのは明らかにまずかった。相手がその気なら訴えられるかもしれない。
さっさと通報して、お帰り願うのが良識ある大人の判断なのだろう。そして、そんな気が毛頭ない自分は、どうやら良識のない駄目な大人らしい。
見上げてくる少女の顔が絶望と諦めに歪む。捨てられた子犬のようだ、と思って、苦笑した。
猫と同じだ。犬だって、飼ったこともなければ捨てたこともなかった。
「だから……ご両親にちゃんと連絡すること。私からも事情を話すから。それでもし、ここに居ていいって、了解が得られたら──」
惚けたような表情のジュンに、安心させるように微笑んで見せる。ぎこちなかったかもしれないが、今更構うものか。
「ご飯にしましょ。昨日からなにも食べてないし、ね」
今にも泣きそうな表情は変わらない。ただやはり、その理由が変わったことだけはわかった。ぐす、とすすり上げて目許を拭うと、瞳を潤ませたまま、ジュンは笑ってうなづいた。ただ言われるがまま、従順な態度で首を振っていた昨晩とは違う。
彼女の──ジュン本来の、心からの微笑みだった。
*****
「ええ、ですので今日と明日くらいは……私も休みですので。いえいえ……はい。なにかあったら、またご連絡差し上げますので。はい。では、失礼します」
スマホの画面にそっと触れて、通話を切る。電話に出た声は、思いの外若い──ジュンの、母親のものだった。父親は仕事で家を空けているとのことで、昨晩からの事情を──もちろん、都合の悪いことは伏せて──話すと、当然のように驚いたあと、こちらが恐縮するほど謝罪の言葉を繰り返された。
私のことはSNSで知り合った友人、ということにしておいた。多少怪しくはあるだろうが、赤の他人よりはマシだろう。家出をしたものの行く当てがなく──理由はいまだに聞いていない──、それを心配した友人が家に泊めてくれて、一夜明けて落ち着いたので連絡した──ということで口裏を合わせ、ジュンに自宅へ電話をかけさせたのだ。実際にその友人──つまり私の、同性の大人の声を聞いて、母親は幾分か安心したようだった。
ただ、電話に出た母親の声は──今にもため息を吐いてしまいそうな、疲れのにじんだ声だった。娘の行方を一晩中案じていたのかもしれないが、それにしてはジュンが話していた時も、怒ったり怒鳴ったりしている様子はなかった。もちろん、電話を替わった私に対しても、だ。
私が一人暮らしであること、SNSで知り合ったとはいえ大切な友人だと思っていること。それに多感な年頃ですから──と理由を並べた上で、彼女が落ち着くまで、週末の間だけでもこちらに泊めさせても良いかと聞いた時も、母親の返答はこうだった。
──ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。
こちらから提案したこととはいえ、あまりにもあっさりと承諾されて、逆に戸惑ってしまうほどだった。相変わらず事情は聞いていなかったが、万が一虐待やネグレクトのせいで家出を決行したのだとしたら──などと考えてもいたが、この反応を見る限りそうした心配も必要なさそうだった。
ただ、ほっとしたような雰囲気を感じた。夫には、私の方から伝えておきます──そう言う母親の声は、例えるなら夜泣きのひどい子供を祖父母に預けて、何日かぶりに布団の上に寝転んだ母親のような──いや、子供を育てた経験なんてないけれど。
ともあれこれで保護者の了承は得たのだ。念のため録音もしておいた。母親のことはひとまず置いておこう──ついつい深入りしそうになった思考をせき止めて、サチは傍らで自分の親と電話する様子を見ていたジュンに向き直った。
「……」
行儀よく正座をして、黙ったままうつむいているジュンを、サチは痛ましそうに見る。昨晩駅で出会った時を思い出させるようなその消沈ぶりは、つい先刻の、あれほど魅力的な笑顔を見せた少女とは別人のようだった。
理由はわかっている。家出をした原因である自宅に電話をかけさせたからだ。叱られたり罵られたりした様子はなかったが、こんな年端もいかない少女が家を出て、土砂降りの雨の中ぼうっと突っ立っていたのだ。彼女の家、あるいは両親やその環境に、そうさせるほどの理由があったはずだ。少なくとも、ジュンの中には。
本当はそんなこと、させたくなかった。でも、必要なことだったのだ。連絡をしないわけにもいかないし、知己でもない私だけが話をしても意味がない。ジュン本人の口から事情を説明し、その上で私が補足するというていが必要だったのだ。
それでも、彼女の様子にこんなにも胸が痛むのは、あんな形で一夜を共にしたせいだろうか。
「……ご飯にしましょうか。もうお昼だけど──」
「サチさん……」
そう言って立ち上がりかけた私を、また、ジュンが遮った。けれどそれは、昨晩と違ってあまりに弱々しい声だ。さん付けに戻されてしまったことも、どうしてだか悲しかった。
顔を上げたジュンは今にも泣きそうなのに、無理矢理笑顔を作っているような表情をしていて、胸が締め付けられるような感覚がする。
「迷惑かけて、ごめんなさい。……わたし、やっぱり、帰ります」
「……え?」
予想だにしていなかったその言葉に、間抜けな声で返事をしてしまった。
帰る?
どうして?
そうしないために、わざわざ両親の了解までとったのに?
「え……ど、どうして?」
混乱した声を精一杯絞り出した私に、ジュンは悲しげに微笑みかける。
「わたし、消えてしまいたいって思っていたんです。昨日、サチさんと会うまで」
なにかが吹っ切れた──吹っ切れてしまったような、不自然な笑顔だった。
「もう、なにもかもどうでもいいやって思ってて。だから、誰でもよかったんです。なんでもよかったんです。誰かが声をかけてきて、わたしをどこかに連れて行っても。本当は線路に飛び込んでもよかったんですけど、あの時間は本数が少なくて」
まるで昼食のメニューを選ぶようななんでもない口ぶりで、ぞっとするようなことを彼女は言う。
「でも、声をかけてくれたのはあなたでした。サチさん」
私はなにも答えなかった。答えられなかった。黙っているのが正解だと思ったわけじゃない。けれど、こんな時になにを言えばいいのかなんて、わかるわけがなかった。
構わず、ジュンは話し続ける。
「嬉しかったんです。ずぶ濡れのわたしにハンカチを差し出してくれたこと。自分だって濡れちゃうのに、傘をかけてくれたこと。見ず知らずのわたしを家にあげて、シャワーまで貸してくれて……ちょっと、不用心だなって思っちゃいましたけど」
「……一応言っておくけど。そんなことしたの初めてだし、たぶん二度としないわよ」
なんとかそう言い返す私に、ジュンはくすくすと笑う。
「だったら、嬉しいな。……その後、わたしの身体を見てるのに気づいた時、ああ、それが目当てだったのかなって思ったんです。それでもよかったんですけど。だからわざと、あんな恰好で部屋まで行ったんですよ?」
「……」
わざと。あれ、わざとだったんだ。いや、よく考えればわかりそうなことだ。少し大きな声を出せば、浴室から部屋まで声を届けることはできるだろう。ただ一言、着替えがない、と。
ひと回り近くも年下の少女に翻弄され切った上、今の今まで気づかなかった。情けないこと極まりない事実に脂汗が流れる。
「その時の反応で確信して、でも、すぐにわからなくなっちゃいました。服を貸してくれて、髪を乾かして。事情を聞くことも、お説教することもなくて。そのままなにもせず、わたしを寝かせようとして。ただ……心配だって、言ってくれたのが、嬉しくて。本当に……嬉しかったんです。だから……気がついたら、わたしの方が我慢できなくなってて」
あの時──私を押し倒したジュンの様子は、まるで豹変したようだった。でも、その直前に私が言った言葉──
『あのね、怒ってるわけじゃないの。ただ、ほら、夜になるとまだまだ寒いし雨も降ってたし、ね? 心配になっただけで……』
そう、あの時確かにそう言った。あなたが心配だった、と。あの時は咄嗟に口から出た言葉ではあったが、それは嘘ではなかった。心配だから、放っておけなかったのだから。
きっとそれが、あるいは出会ってからそこに至るまで、我ながら不用心にも程があるほどの対応が、彼女の中のなにかに触れたのかもしれない。
「無理矢理あんなことして、本当にごめんなさい」
ジュンは深々と頭を下げて、謝った。この年頃の娘ができる、精一杯の謝罪のように。
「たくさん迷惑かけて、ごめんなさい。サチさんは、優しくて、いい人だから……だから、これ以上甘えて、迷惑をかけてしまわないように──」
「……ちょっと待って」
今度は私が遮る番だった。彼女の境遇になにを言えばいいのか、今だってわからない。大人としてどう対応すれば正解なのかも、だ。
でも、"私"が言うべきことならわかる。
「確かにね、最初に声をかけたのは心配だったからよ。終電が走るような時間で、雨の中傘もささずにぼうっと突っ立ってる女の子を放っておけなかったからよ。でもね……そのあとのことも全部、私が優しかったから? それだけだと本当に思ってるの?」
喋っている間にふつふつと、腹の底から怒りのようなものがわいてくる。それはきっと、何もかも自分の中だけで思い悩んで結論づけてしまうジュンと、そんなことにも気づけなかった馬鹿で鈍感な自分に対しての、怒りだ。
「さっきも言ったけど、こんなことするのも初めてだし、もう二度と──あなた以外にはしないわ。お風呂の時も上がって部屋にきた時も、"そういう目"で見てたのも認める。だって凄く綺麗で、目を奪われるくらいだったんだから!」
もうなにを言っているのかわからなくなってきた。きっとしゃべり終えたあと、悶絶するほど後悔するようなことを口走っている。
でも、きっと、今言わなければ一生後悔するんだ。
「その後の、その……夜のことだって、すこしでも嫌なら抵抗してるわよ! 私をなんだと思ってるの!? 確かに初めてだったし終始リードされっぱなしだったのは年齢的にどうかと思うけど、無理矢理でも嫌でもなかったから!」
呆然とした表情で見つめてくるジュンの顔が、見る見る赤くなっていく。私の方は──言うまでもない。
「迷惑かけてごめんなさいってなに!? 確かにね、折り畳みの小さい傘で相々傘なんかしたおかげでスーツは濡れるし廊下もびしょびしょ、おまけにその……あれをしたせいで、夕飯どころか洗濯ものすらまだ洗濯機の中よ! あなたの下着だってまだ乾いてない!」
きっとあのままなにも言わずに見送っていたら、濡れたままの制服を着て出ていったんだろう。そんなこと、絶対にさせやしない。それは、心配だからじゃない。
「迷惑なんて……どうだっていいのよ。そんなの、いくらでもかけてくれればいい。そんなのどうだっていいって思えるくらい……あなたが、好きなの。一目惚れでもなんでもいい、なんでもいいから……ここに居てよ。帰るなんて……言わないでよ」
半分くらいを言い終えて、涙で視界がにじんだ。言葉にしてようやく、ああそうか、私はこの娘が好きなんだと、自覚したから。昨日会ったばかりで、今まで同性を好きになったことなんて一度もないのに、どうしようもなく愛しいこの少女を。
涙で詰まった情けない声で告白されて、彼女はどう思っただろう。
昨日から何度か、ジュンの今にも泣きそうな表情を見た。それは、もしかしたら寸でのところで我慢していたのかもしれない。
今度は──それが、我慢できなかったようだ。
「ずるい、です……」
両手で顔を覆い、ぼろぼろと涙を零しながら、嗚咽混じりの涙声で、ジュンはそう言った。
「昨日も、今日も……あなたは、わたしの欲しかったものを、全部くれて……。わたしも……わたしだって、好きなのに……だから、帰ろうとしたのに……っ」
私は目許も拭わずに、ジュンを、愛しい少女を抱きしめた。
「好きだから帰ろうとするって、なによ……? これで考えが変わるなら、何度でも言ってやるわ。あなたが好き。昨日会ったばかりで、なにも事情は知らないし、おまけに一人で思い詰めて帰るなんて言いだして。でも、そのおかげでこうして全部言えた。ジュン……あなたが、好き」
「本当に……?」
腕の中で、愛しい彼女が見上げてくる。涙が流れ落ちた跡がいくつも残って、今なお潤む瞳すら愛おしい。
「本当」
「……誘拐犯に、なっても?」
「ほかに手段がなかったら、最終的にはやるわ」
もちろん冗談だったけれど、それを躊躇なく言えるほど、私は本気だった。
それはジュンにも伝わったようで、涙で濡れてはいるけれど、ようやく笑顔を見せてくれた。
「こういうことって、友達から始まるものなんだって思ってました」
「まぁ……そういうものかもしれないけど。私たちは違うってだけよ」
夕べあんなことをしておいて、今更友達からなんて──と口にするのは、野暮というものだろう。
それに、これだけ好きだ好きだと言い合ったのだから、今更誰に恥じることがあるだろうか。
「まずは、恋人から……ね。さん付けなんて、もうしないでよ?」
「はい……。大好きです、サチ」
「私も。大好きよ、ジュン」
もう一度確かめ合うように言って、私たちは──恋人を、抱きしめた。