第一章 第一話『英雄への第一歩⑦』
6.
──賑やかな表通りから外れ、寂しげな裏通りを進む。
たった二つの足音を除いて、他は何も聞こえない。
照らす月の光も、雲に隠れて届かない。
数多の星屑の光が、今は唯一の灯火だ。
そんな中で、ニアロは黙々と進み続ける。
迷うことなどないように、足を前へに運び続ける。
「た、確かここら辺じゃったよな……」
「え、マジ──」
「じょ、冗談じゃ。安心せえ」
そう言って、ニアロは苦笑い。
それに一瞬で不安が増すのに、ハイドラは何処か落ち着いている。
この人について行けば大丈夫だ、という奇妙な感覚。
虎の威を借る狐、ではないが、宗教家というのは日頃からこんな感覚なのだろうか。
神が、或いはあの大精霊が言うのだから間違いない。
彼、或いは彼女に着いていけば、きっと正しい場所に辿り着ける。
そう言えるのがどれほど楽か。
決して否定の意味はないが、ハイドラはそれが素直に羨ましかった。
と、
「ほれ、着いたぞ」
そう言って、ニアロが足を止める。
歩いてちょうど、一時間くらいだろうか。
見た感じではあるが、どうやら王都の郊外らしい。
それもこの寂しさと荒れよう。
いわゆる貧民街では無いだろうか。
「そこ、ベンチあるじゃろ。坐りなさい」
ニアロがそう言って、暗闇の一つを指す。
目を凝らし、じっと見つめれば、そこには一つのベンチがあった。
荒んだベンチだ。
一体いつから、どれほどの時間ここに置かれていたのだろうか。
その脚は既に褐色化しており、触れれば折れてしまいそうだ。
しかし、
「ちゃんと、整備されてるし、坐れる」
腐りかけの脚には補強が、本来なら、苔が生えているはずの湿った影の部分にはそれがない。
坐ってみるとわかるが、その角度が絶妙だった。
ちょうど、自分の体に不可の掛かりにくい体勢。
且つ、月を見るのに最適な角度。
誰が作ったのか知らないが、制作主は随分月見が好きなようだ。
「どうじゃ? 若かりしき頃の儂の傑作。素晴らしいじゃろ」
そう言って、ニアロがベンチに坐る。
杖に両手で負担をかける形の着席。老人特有の、一挙一動への嘆息が聞こえる。
ハイドラのため息が零れた。
決して否定的な意味ではない。
もしかしたら、これはため息ではないのかもしれないが、ハイドラの乏しい語彙力ではそれしか言い表せなかった。
「確かに、良いですね。趣があります」
「それ、貶してるようにしか聞こえんから辞めた方がいいぞ」
「そう聞こえるのは自分でも薄々気付いてるからですよ」
「なっ!」
社交辞令の調子で嫌味を言い放った後、ハイドラは思わず噴き出す。
それにビックリ仰天するニアロ。
眉を上げ、目を丸くした老爺の姿に、ハイドラは何となく切なさを感じた。
もしかしたら、もう会えない誰かと重ねてしまったのかもしれない。
切なさの正体に当たりを付けながら、ハイドラは長い息を吐く。
「──あっ」
世界に、灯りが舞い戻る。
それはその存在を誇示するように白白と輝き、地面を照らしていく。
雲隠れしていた月の帰還。
その満月を見た途端、急に心がギュッとなる。
まるで切なさが体を支配してしまったかのように、ハイドラは暫く月を眺め続けていた。
「さて、雲も晴れたようじゃし、試験を始めるとするかの」
その空気を読んでいたニアロが、遂に口を開く。
一体どれほどの時間、月を眺めていたのだろうか。
長いようにも、短いようにも感じる。不思議だ。
「──ハイドラ・ガストリオ君。君がサープリテン大魔法学院を入学したい理由を聞かせてもらっても?」
こちらの心情は無視して、ニアロが質問を投げかけてくる。
それに遅れて気付いて、ハイドラは言った。
「そ、そんなの決まってますよ……。──英雄に、なる為です」
「ほう、英雄、か」
言ってしまった! と取り返しのつかなさを後悔。
英雄になる、と伝えて笑われた経験しかないハイドラは赤面。
最近で言えば、ルナの前で言い放って、かなりの嘲笑を受けた。
しかしニアロは、笑わない。ただひたすらに真剣な目をして、こちらを見てる。
「何故、英雄になんぞなろうと思ったのじゃ?」
そうして、数秘の間をもって、ニアロの質問が飛ぶ。
何故、英雄になろうと思ったのか。
思えば、これに似た問いを、ずっと頭の中で考え続けていたことがある。
自分は何故、英雄を志したのか。
始まりは絶対、あの夕焼けの誓いだ。
あの日に、マストに向けて言い放った言葉が、未だ心で燃え続けている。
けれど決して、それだけではなかった。
ハイドラが英雄を志した理由はきっともっと他に、もっと強いものがあったはずで。
けれどそれを思い出すよりも先に、口が動き出していた。
「俺は、一度──いや、二度、全部失ったことがあって。どっちの時も、俺は無力で、何も出来なかったんですよ。だから──」
「今度は絶対に何も失わない、か」
言葉を当てられ、一瞬の動揺。
しかし頭を振ると、ハイドラは頷いた。
ニアロの表情が何だか、気だるげに落ち込む。
一体何を思ってそんな表情をしているのか不思議だった。
と、
「はあ。一番じゃ」
「──? 何の?」
「英雄になろうとするものの一番の理由。それは自己犠牲じゃったよ。お前のようにな」
そう言って、ニアロは杖のバランスを崩しては戻す。よくわからない遊び方で、思考を回しているようだった。
「儂から言わせれば、英雄なんてものはなるだけ無駄じゃ。そんな自己犠牲、許容出来るのか? ああ、出来るんじゃろうな」
「────」
半ば諦めたような口調で、ニアロはため息を吐く。それにハイドラは黙ることしか出来ない。
──英雄になることが、無駄。
そんな言葉を、掛けられたことがなかった。
いや、もしかしたらあったのかもしれないけど、そんな物が見えないほど、走り抜けて来たのかもしれない。
どちらにしろ、ハイドラの心に何かしらの杭が刺さったのは事実だ。
きっと、これがニアロの目的なのだろう。
「いいか、ハイドラ・ガストリオ君。君が英雄を志した理由。それが自己犠牲である限りは、君は英雄にはなれん。周りからどれだけ崇められても、それは都合のいい何かじゃ」
「────」
「──お前は、自分がそうならないと誓えるか」
声のトーンが一気に落ち、染み込むようにして、言葉がハイドラに届く。
醒めたように目を開いて、ハイドラは息を飲んだ。
考えが、甘かった。それが、そのたった一言で認識させられた。
ニアロは、この老爺は本気でそれを問うているのだ。
違う。
初めからそうだった。
ハイドラが勝手に勘違いしていただけなのだ。
ニアロは初めから、ハイドラの覚悟を問うていた。
初め、ため息を吐いたのでさえ、こちらの心を開かせる手段だったのではないか。
そう考えてしまうと、ニアロの全てが恐ろしく思えた。
何もかも見透かされている気がして、耐えきれないほどの恐怖が、全身を襲った。
「お、俺は……」
言葉を詰まらせ、頭を回す。
ハイドラの求める答えは簡単だ。
自己犠牲を続けるようなものにならない自信があるかどうか。
その是か否か、それだけだ。
けれどそれを簡単に応えてしまうわけにはいかなかった。
自己犠牲とは、英雄である為の最低条件。
そんなふうに、親父に言い聞かされた。
違う。
自分がそう思っただけだったかもしれない。
自己犠牲──それを尊いと思えるのは、何故なのか。
三日前の魔獣騒動でも、ハイドラは自己犠牲を続けた。
世のため人のためと、身を粉にして避難所を飛び出した。
それを理解し難いと、ルナが言っていたのを思い出す。
あまりに軽い言葉遣いだったから、忘れてしまっていたけれど。
「も、もしも」
「なんじゃ」
「もしも自己犠牲をしないなら、英雄ってのは、一体何でそう決まるんですか」
ふと吐くように出た言葉。諦観と、淡い希望。
それらが入り混じったそれを、ニアロは噛み締めるように瞼を落とし、
「そんなの知らん」
そう言って、ハイドラの希望を地の底に落とした。
「いや、知らんって、そんなの──」
「ズルい、とでもいいのか? どうとでも言え。儂はただ、自己犠牲だけでは英雄になれんと、そう言ってるだけじゃ」
淡々と、ニアロは事実だけを言葉にしていく。
何故、自己犠牲を尊ぶ者は英雄になれないのか──その応えは既にニアロが言った。
確かに、他者から都合のいい者、とされるのはおかしな話だ。
それを英雄と、呼ぶことは出来ない──本当に、そうなのだろうか。
自分は何故、英雄になりたいと願ったのか。
自分は何故、英雄は自己犠牲を要すると思ったのか。
その根本は全部、親父が話たあの英雄像だ。
仲間達と共に強大な敵と戦い、人々から崇められ、英雄と呼ばれる──それの、何がいけないのだろうか。
ハイドラには解せなかった。
ニアロが言う、どれだけ崇められても、それは都合のいい何か、というのが、わかるようでわからない。
煙ったような香りが鼻をくすぐる。
ふと横を見ると、ニアロが煙草を吹かしていた。
「いいか、ハイドラ・ガストリオ君。儂は一度も、自己犠牲を許容しないとは言っておらん。ただ、自己犠牲が理由であることが駄目じゃと言っておるのだ」
煙ったさに顔を歪めながら、ハイドラは頭をかく。
考えてみれば、ニアロは一度だって、自己犠牲をすることを禁止していない。
特にいえば、自己犠牲『だけ』では英雄になれない、とも言っていた。
──だったら、ちゃんと心の底を叫べばいいだけいいだけじゃないか。
ストン、と納得がいく。
もしかすると、深く考え過ぎていたのかもしれない。
邪推、なんてものが働いていたのかもしれない。
物事を深刻に考え過ぎていたのかもしれない。
そんなふうに考えたら、自然と頬が綻んだ。
肩の荷がスルリと落ちていく感覚を味わう。
そうして、ハイドラは言った。
「わかりました。俺は、俺の為に──」
そうだ。三日前のあれだってそうだった。
あの感覚が、きっと英雄になりたいことへの全部だったのだ。
「──英雄をしてることが楽しい、って思える俺の為に、英雄になります。自己犠牲は、理由ではなく過程で。──英雄をしたいって思います」
一番始まり。
あの夕焼けの誓いに思った、誰かを救いたい、という想い。
いつしかそれは、ハイドラにとっての満足感となっていた。
人を救う度に、頭にクラりとするほどの快楽が走る。
その感覚を、理解出来るものがいてくれたらいいのに。
そう考え出してから、ハイドラにとって英雄は麻薬みたいなものになっていた。
口ではどれだけカッコつけていても、結局は自己満足。
自分がしたいから、自己犠牲もするし、戦うのだ。
──どうしてそれが、素直に出てこなかった。
「ほう、そうか。そう応えるか」
ニタリと笑って、ニアロは杖を叩く。
煙を吐き、月を見上げた。
それに釣られるようにしてハイドラも月を眺める。
「────」
美しい眺めだ。
心が洗われる。
けれど、今の心持ちなら、なんだって美しく見えてしまいそうだ。
ハイドラはその景色を、忘れぬように心に刻む。
始まりの日が、夕焼けなら、次はきっと夜──それも月夜がいい。
少し大人になったのだ、と思えるかもしれない。
そんなふうに考えて、ハイドラは息を吐く。
そうだ、この日をまた新たな誓いにしよう。名前はそう、月夜の誓い。こういうのは雰囲気が大事なのだ。
「──そろそろ、冷える。帰るぞ」
──そんな言葉をニアロが言ったのは、そこから数分後の事だった。
──
「──さて、ではまた来週を楽しみにしてる」
そんな言葉を往々しく言って、ニアロは扉を閉じた。
仰天させた目をする少年の姿が小気味がいい。
けれどたまに、知っている顔と重なってしまって心が痛む。
しかし──、
「──トンビが鷹を産む、とでも言うのかね」
少年の言葉を思い出し、少し頬をほころばす。
英雄をしたい、とただ純粋に英雄を志し、月を眺めていた少年。
自分が救わないと、とそれを口癖に抗っていたいつかの少年。
似たようで、非なる彼らを思い出しながら、ニアロは歩みを進める。
次の実技試験。
そこであの少年がどれだけの活躍をしてくれるか楽しみだ。
──当然のように、個人試験合格と、ニアロの書類には書かれていた。