第一章 第一話 『英雄への第一歩④』
──魔獣との戦闘において重要なのは、まず相手の特性を知ることだ。
「《氷結》!」
マストの語った、魔獣教本を思い出しながら、ハイドラな魔法を放つ。
まずは足元を狙え。
そんなマストの声を幻聴しながら、ハイドラは魔獣の足元を凍らしていく。
「《氷結》!」
後、二本。
「《氷結!》」
四足歩行だから、後一本。
凍らせる為に、掌を構える。しかし、何か不思議だ。
──牛とはここまで、鈍重な生物だったか。
「《氷結》!」
放たれた光は、真っ直ぐに魔獣の足元へと向かい──、
「嘘だろ!」
そして避けられた。
他の足は凍らしているはず。
なのに何故、と顔を上げる。
そこで、目を丸くした。
「──まじかよ気色悪ぃな!」
牛型魔獣は、先程、避けたのではなかった。
足を『ずらした』だけなのだ。
残されていた右後ろの足一本。
それは地面から浮き上がっている。
しかしその代償に、その背中から何やら生えている。
それはまるで、足のようで──否、実際そうなのだろう。
──この魔獣は、体を貫通して、足を自在『ずらせる』のだ。
まるで、木製の人形のようなその動きに、ハイドラは嫌悪感と嘔吐感を催す。
何とか堪え、魔獣から目を離さない。
「ちょっと待てよ。ってことならまさか!」
魔獣の姿を眺めていた一秒間。
その間に、脳がとある結論を導き出す。
それは最悪の想像だった。
魔獣の特性を知ることが、何よりも大事と言われたが、これなら知らなければ良かった。
「──っ!」
文字では表現出来ないような雄叫びを上げ、牛型魔獣の背中から棒が現れ出す。
ちょうど四本。
時差をもって。
ちょうど、足がある辺りに。
ギチギチと、何かの擦れる音が聞こえ出す。
魔獣の足元を見ると、足が浮き始めていた。
氷の拘束が、もう溶けかかっている。
──まずい、まずい、まずい、まずいぞ。
今、ハイドラは魔法を使うことが出来ない。
いわゆる冷却時間中だ。
無理をすれば、今後に触る。
それはつまり、この魔獣の動きを傍観することしか出来ないのと同じで。
「何か、考えないと」
辺りを見渡し、頭を回転させる。
まず、この大通りから逃げ出そう。
その後、荷台か何かの上に立つ──いや、そうすれば倒されてしまいだ。
ならば、どうする。
そんなふうに考えているうちにも、魔獣の拘束はとかれていく。
焦燥感だけが前へ前へと突き進み、ハイドラの頭は逆に鈍る。
──考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ、考えろ!
自分が今、何をすべきか。
何をどうすれば、この気色の悪い魔獣を倒せるか。
思考はその一点に集中する。
それ以外は、排除だ。
「くそ、こうなったら仕方ねえ!」
出した結論。
しかしそれ明らかな悪手だ。
今後、魔法が使えなくなる可能性も考慮に入れなくてはならない。
けれど、それで死んだらお終いだ。
決断すれば、行動は早い。
ハイドラは急ぎ、屋台と屋台の間、いわゆる裏路地へ向かう。
何の舗装もされていない地面を踏みしめながら、ハイドラは荷台の元へ向かう。
それらを、道の左右に並べる。
火事場の馬鹿力かどうかは知らないが、いつもより体の動きがいい。
普段なら、もう少し時間のかかる作業が、今は通常の半分の速度で終わる。
荷台を左右に並べ、中央に出来た細い道の幅を目測する。
──これならギリギリ、あの魔獣が通れるか通れないかの瀬戸際だろうか。
少年から貰った赤いマントを、前に掲げると、ハイドラは息を吸い込んだ。
ゆっくりと吐きながら、思考を回す。
牛型魔獣の拘束がとけるまで、あと数分。
こちらの冷却時間が終わるのも、後数分。
「どっちが先か、勝負だな」
最悪の最悪の場合、ハイドラは冷却時間中であっても、大魔法を使う心づもりでいる。
そうしたら、一体どうなるのか。
そんなことは分からない。
けれど、マストの忠告どおりなら、今後魔法を使えなくなる可能性すらある。
それは、やはり怖い。
自分が英雄になる為、研いてきた唯一の武器。
それが失われれば、ハイドラは途方に暮れてしまう。
伝手など何も無いこの都会で、一人。
それは何とも恐ろしいことだ。
武者震いだと、自己暗示した震えの正体は、もうわかり切っている。
けれど、
「──逃げるのだけは、嫌なんだ」
マストはよく言っていた。
逃げるのも戦略のうちだと。
逃げて逃げて諦めて、その後もう一度立ち向かえばいい。
そう、言っていた。
けれどそれを素直に肯定する気にはなれない。
それはささやかな反抗心だった。
しかし、それもいつしか、ハイドラの根底になり始めた。
──英雄は、逃げない。誰かの為に大義の為に、命をかけるものだ。
そんなふうに、ずっと考えてきた。きっと、今だってそうだ。
あの夕焼けに誓ったのだから。
あの日の自分を変えると、そう。
鼻から息を吸い、口から吐き出す。
その循環で、肺に酸素が行き渡るのを感じる。
牛型魔獣の拘束は、もう後一本。
「──心には芯を、体には甲を。名も知らぬ大精霊よ。我に加護を与えたまえ」
静かに、詠唱の第一段階を唱える。
途端、体の底から何かが奔流してくる。
それを、食い止める。
堤防を破らんとばかりに流れる川のように、それはハイドラの体を蝕む。
しかしそれも自分の一部なのだと念じ──、
「──助けて! 助けて!」
そんな折り、声が聞こえた。
方向は、大通り。
避難所の方角。
牛型魔獣の右肩。
そしてそれは、聞き覚えのあるもので──と言うより、さっき逃がしたはずの少年の声だ。
「──助けて! 助けて!」
焦燥を孕んだその呼び声。
咄嗟の判断で、ハイドラは詠唱を中止する。
そのまま荷台に乗っかり、声の方向に目を向ける。
そこには、
「──っ! おいおいまじかよ!」
──魔獣の大群に追いかけられる少年の姿があった。
──
荷台から飛び降り、ハイドラは大通りに向かう。
必然的に、牛型魔獣と対峙することになるが、
「足止めにしかならねえが……《氷結》」
魔獣の顔面に、氷結魔法を発動。
これで息が出来なくなる──と、安易な考えはできない。
これは普通の生物ではない。
魔獣なのだ。
魔から力を得る獣なのだ。
とマストの言葉を思い出す。
彼らを封じるには、全身を凍らせる必要がある。
先程のネズミのように。
顔面を凍らされ、五感のうち、四つを失った牛型魔獣はパニック状態に陥る。
そこまでは予期しておらず、咄嗟に足を凍らせ──として気付く。
ちょうど今、この魔獣は拘束されている一本でのみ、体重を支えている。
つまりは、
「おりゃ、よっと、《氷結》」
牛型魔獣のベタついた体を押し、地面に倒す。
そうして、地面と密着した部分を凍らせる。
手を打ち合わせ、ハイドラは振り返る。
ちょうど、涙目の少年と目が合った。
「──絶対、助けてやるからな」
小さく、少年には聞こえない程度の声でそう呟く。
牛型魔獣があれほど呆気なかったのだ、もしかすると、情報さえ揃えば、魔獣を倒すのは苦ではないのかもしれない。
「そうか、だからマストはあんなこと」
──魔獣との戦闘において重要なのは、まず相手の特性を知ることだ。
二度目の回想。
頬を綻ばせ、ハイドラは少年の元へと走り出す。
地面を蹴る度に、砂煙が舞う。
これももしかしたら使えるかもしれない。
そう思って頭に詰め込んでいく。
少年の体を捕まえると、急ぎ方向転換。
牛型魔獣の方に向かい、あの荷台の元へ向かう。
その移動時間に、先程見た光景を脳内で処理する。
──魔獣の大軍。あそこにはいた魔獣は、三種類程度しかいなかった。
まず、兎型魔獣。
これは森でマスト共に対峙したことがある。
特性としては、跳躍による攻撃。
また、その前歯が危険だ。
地域によっては毒を持っている。
とマストが言っていた。
二つ目が、蟹型魔獣。
これについては初見だが、見た感じ、その二つの鋏が絶対的な武器だろう。
しかし横向きだからか、あの大軍の中で、一番動きが遅かった。
三つ目は、狐型魔獣。
これも初見だ。
これが一番、動きが速い。
俊敏性は、恐らくその体の小ささ──本来の狐より、一回りほど小さいその体にあるのだろう。
三つのいずれも、予想した動物の型を持っていながら、独自の気色悪さを兼ね備えている。
それに対して、嘔吐感を催すのはもう慣れた。
だから迅速な対応が取れる。
「──心には芯を、体には甲を。名も知らぬ大精霊よ。我に加護を与えたまえ」
もう一度、詠唱を始める。
狐型魔獣がまず、裏路地に飛び込んでくるのが見えた。
怯える少年を庇いながら、カウントをとる。
取るべきカウントは二つ。
大魔法発動までの秒数と、大魔法の、限界数。
脳内で二つのカウンターを作り出し、ハイドラは息を吸う。
次、吐いた時に大魔法を発動する。
そう決めて、歯を食いしばった。
冷却時間解除のギリギリ、ほぼフライングに近い。
しかしそれでも、やらなくちゃいけない。
少年の体を背で隠し、息を吐く。
「──今一時眠りから醒めた大精霊よ。我が仮の名を拠り所に、炸裂せよ。──《大・氷・結》!」
掲げた掌から、光が奔流する。
それは顕現することに喜びを感じているように、キラキラと輝きながら、狐型魔獣の大軍の元へ向かう。
数は六匹。
これなら行ける。
確信して、しかし集中力は切らない。
「頼む、当たってくれ──!」
最後はもう、懇願だ。
ハイドラにとって、最強の魔法。
《大氷結》。
消費する魔力は、通常の《氷結》の五倍。
冷却時間をおいておいたおかげで、後三回は耐えられる。
とはいえ、全て使え切れば、魔法はきっともう使えない。
だから制限は二回とする。
ちょうど、魔獣の種類も三種類。
運、良いんじゃないだろうか。
こんな状況に陥っている時点で、運なんて最低レベルなのだが。
「──っ!」
文字にはならない、魔獣特有の鳴き声。
型は違えど、そこは共通なのだな、とハイドラは肩で息をする。
何とか、目標に当たったらしい。
展開された氷は、壁となり、他の魔獣達の侵入を拒んでいる。
これは計算外だったが、嬉しい誤算だ。
これで落ち着く時間が取れる。
「よし、少年。何があったかだいたいわかるが一応聞いとく。何があった?」
そう尋ね、頬を叩くと、少年が方針状態から戻ってくる。
驚いた様子で、
「ごめんなさいごめんなさい。言いつけ守れなくてごめんなさい……」
錯乱したように、「ごめんなさい」と言葉にし続ける。
これもある種のパニックだ、とハイドラは判断。
しゃがみ込むと、少年の瞳に目を合わせた。
綺麗な赤い瞳が、うるうると震えている。
加虐心が湧き上がってくるのを、何とか抑え込んだ。
「実は、避難所の前に、魔獣が沢山いて。皆戦ってたんです。そうしたら、魔獣が追い掛けてきて。それで、姉ちゃんも何処にいるかわからないから、そこに留まってたら、藍色の髪の女の人が助けてくれて。それで、逃げ出したら、魔獣達まだ追ってきて……昔から、魔獣を引き寄せやすいからって、お姉ちゃんに言われてたのに……」
言葉はたどたどしく、しかし事実だけは伝わる。
最後は泣き出してしまった。
けれど、一つ心に落ちるのは、藍色の髪の女の人だ。
藍色の髪なんて、どこにでもいる、さして特別な髪色ではないかもしれない。
けれどあの場所にいる彼女は、藍色の髪だった。
だからもしかしたら、彼女が──。
「あ、あの、あれそろそろ大変なんじゃ……」
「──? ──っ! まじかよ」
少年が指さす方向。
氷の壁が、今にも崩れ去りそうだ。
ひび割れがそこかしこに入ってみる。
透過して見れば、奥から兎型魔獣と蟹型魔獣が突進してきている。
また、そこに牛型魔獣が加わっている。
まさかもうとけたのか、と驚き。
何かしら、魔獣同士での連帯があったのかもしれない。
そうでなければ、あまりにも早すぎる。
まさか蟹の鋏でちょんぎったとか?
まさか、そこまでの威力はない──とは言いきれないのが魔獣の恐ろしい所だ。
「──心には芯を、体には甲を。名も知らぬ大精霊よ。我に再び加護を与えたまえ」
二度目の詠唱を開始。
ハイドラは揺らぐ心を何とか堪えながら、息を吸う。
次吐く時には詠唱だ。
体の底から奔流する、何かに耐える。
耐え続ける。
泣きそうだが、それも耐える。
歯を食いしばって、目の前を睨み付ける。
魔獣が氷を崩壊するまで、あと十数秒。
こちらの発動もそれに合わせる。
──そろそろ限界だと、心の底が叫び出していた。
──
大魔法の一日の限界数:三回(その内一回は活動に残す為、実質二回)
大魔法行使の代償:通常の《氷結》の五倍の魔力。+▪▪▪▪。