第一章 第一話 『英雄への第一歩③』
2.
──喉元の小さな痛み。それはどす黒い鈍赤色をしていた。
「くそ! ま、まじかよ!」
血反吐を吐く、なんて経験始めてだ。
喉が擦り切れ、肺が押し潰れたようにも感じる。
けれどそんな中でも魔獣は攻撃を辞めない。
「さすが、この世界の全てを恨んでる、とかなんとか言われてるだけあるぜ」
その執念には感動だ。
一つの目標の為に、ここまで真摯になれる動物を、ハイドラは魔獣以外に知らない。
──その目的が、人殺しでなければと、どうしようもない願いが頭を過ぎる。
「氷け……っ!」
右手を掲げ、詠唱する最中。
しかしそんな物知ったこっちゃないと、魔獣は猛突進してくる。
それを何とか避けて、ハイドラは肩で息をする。
せめてもの救いは、この魔獣が牛型であったことだろうか。
少年から貰った赤いマントが役立っているし、一度突進してくれば、中々小回りが効かないのだ。
これで避けることだけは出来る。
とはいえ、避けるだけだが。
「あの子、一人にしちまったけど、大丈夫か……」
連れて帰るつもりが、少年を一人で先行させてしまった。
それへの心配が一つ、頭を過ぎる。
それもこれも、全部この魔獣を倒せば済む話だ。
「──絶対死んでやるかよ」
ルナとの約束があるのだ。
シスターからの願いもあったのだ。
最後にした少年との約束もあるのだ。
それら全部、果たしてやらないと行けないのだ。
だから、
「かかってこいよ、くそデブ牛」
敢えて残忍に笑ってみせて、ハイドラはマントを自分の前でひらつかせる。
──そう、親父はこういうのを、死亡フラグなんて言ってたっけか。
そんなことを思い出して、ハッとなる。
心の底が震えるのを感じる。
大丈夫、立ち向かえる。
そんな自己暗示。
ハイドラは息をもう一度吸い込んだ。
──話は、数十分前に遡る。
──
──避難所から飛び出したハイドラは、屋台の間を縫って進んでいた。
左右に振り分けられた屋台により、中央には擬似的な大通りが出来上がっている。
何の舗装もされていない、その道を進む。
辺りを見渡しながら、声を出しながら進んでいく。
しかし、
「人っ子一人、いや魔獣一匹さえ見当たらねえ」
あれほどのパニックならば、もっと騒然とした状況が広がっていると思ったのだが、これでは拍子抜けだ。
やはり冒険者達がある程度は食い止めてくれているのか。
しかしそれにしては、何の音も聞こえてこない。
戦闘が起きているなら、魔法の爆裂音や剣の擦れる音くらい聞こえてもいいはず。
しかし今、わかる音というのは虫の鳴き声や風の吹く音ばかり。
自然音だけだ。
人工のものは一つだってない。
「嫌な予感が半端ないな……」
背筋を伝う悪寒に、身震い。
ハイドラはそれを堪えながら前へ進む。
「おーい。誰かいませんかー?」
恐る恐ると言った様子で、ハイドラは首を伸ばす。
屋台と屋台の間、荷台や荷物が積み重ねられたその場所へ足を向けながら、ハイドラは目的の少年を探し続ける。
と、
「──っ!」
「──ぬおっ!」
気味の悪い鳴き声と共に、何かが飛び付いてくる。
左手にまとわりついたそれを、何とかして引き剥がす。
「痛ってえ! 何だこれ!」
引き剥がし、それを地面に叩き付ける。
気味の悪い鳴き声が響き渡る狭い屋台の狭間。
そこに居たのは、ネズミのような形をした魔獣だった。
どす黒い血管が全身を這い、脈打つ姿は生物とは思えない。
その歪な程に尖った前歯もそうだ。
薄君の悪さに、ハイドラは嘔吐感を催す。
しかし何とかそれを耐えて、
「《氷結!》」
魔法を発動。
その閃光が直撃。
ネズミは悲鳴を上げる間もなく凍り付いた。
その最後の姿は、まるで生に執着していなかった。
ただこちらへの憎悪でいっぱいの瞳をしていた。
「こ、こんなのがいるのかよ……」
ハイドラの地元にも、魔獣はいた。
しかしその殆どがマストと飛龍により、無力化されていたし、その圧力を跳ね返すような者は、直ぐに殺されていた。
だからハイドラが、直接魔獣に襲われ、撃退したのはこれが初めて──否、三度目か。
どちらにしろ、その数が少ないことは確かで、対峙した魔獣の特性もしっかり把握出来ていないのも確か。
つまり、ハイドラの心にはトラウマがこびりついた。
たった一度で、反射条件を組み込まれた。
「くそ、もう金輪際こんな所には近寄らねえぞ」
と、荷台の裏側へ静かな恨み節。
苦々しく歯軋りして、凍らせたネズミに足をかける。
体重をかければ、潰れてしまうだろう。
けれど潰す気にはなれず、足をそこから離した。
「よし、次行こ。次」
独り言を呟いて、ハイドラは路地から脱出する。
今後は物陰にも警戒を怠れない。
視線の配り方に気を付ける。
しかし、そうなってくるとやはり不思議だ。
今なお、戦闘音が聞こえてこない。
今の魔獣みたく、打ち漏らしがいるのならば、まさか全滅してしまったのだろうか。
「まさか、そこまで弱くないと思いたいんだがな……」
頬をかき、最悪の想像を否定する。
もしもそんな状況に陥っているのならば、もっと悲惨な情景が広がっているはず。
もっと建物も崩壊されているだろうし、血腥い臭いがそこかしこから発せられているだろう。
と、
「──おい。そこに、誰かいるのか?」
先程の路地から二つ目の角。
荷台の裏側に、何かの動きを認識した。
ハイドラはそこを指し示すと、片目を閉じて言葉を吐く。
緊張感が手足の先にまで広がる。
あの大きさ、あの物音だ。
もしも魔獣ならば、相当の強さと俊敏さが予想される。
前歯の間がむず痒くなり、イライラが止まらない。
腹の底を撫でる嫌悪感でもって、ハイドラは声を荒らげる。
「おい! いるなら出てこい! 場合によっちゃ──」
「ご、ごめんなさい……い、命だけは……」
脅し文句に反応し、手をこちらに向けて来たのは一人の少年だ。
歳の頃は、おおよそ十二、三歳。
赤毛に赤の瞳。
赤いマントを背中に付けたその姿。
それはまさに──、
「おま、お前か! ようやく見つけた!」
「え、え? な、何を言って……」
「シスターさん……お前の姉ちゃんから、避難所に連れていくように言われてんだ」
「そ、そうなんですか……」
初めの脅しがいけなかったのだろうか。
震えて、ビビりながらの対応を続ける少年。
申し訳なさを全霊で感じながら、ハイドラは息を吐く。
しゃがみ、少年の身長に合わせる。
目を合わせ、微笑んだ。
「大丈夫だ」
「え……」
頭を撫で、一言呟く。
少年を落ち着かせる意図なんてない。
強いて言うなら、自己満足だ。
そもそもハイドラにとってこの少年を救出する、という行為はただの自己満足でしかない。
英雄願望だって、突き詰めていけばそうなってしまう。
そんなこと、もう既に悟っている。
悟らされた、というのが正しい言い方なのかもしれない。
マストが最期に言い残したあの言葉。
それを思い出して、心を落ち着かせる。
「──よし、少年、行くぞ」
「う、うん……」
なんだか、モジモジと堪えるような仕草をする少年。
それに不信感を抱きて、ハイドラは首を傾げる。
何を堪えているのか。まさか──、
「ごめん、なさい……おしっこ行きたいんですけど……」
「あ、ああ大丈夫だ。さっさと行ってこい」
予想通り。
しかしその恥じらう姿勢には理解が及ばず、ハイドラはぶっきらぼうに声を吐く。
その後、ハイドラは少年を荷台に連れていく。
その裏へ向かわせ、ハイドラは待つ。
小さく、排尿の音が聞こえてくる。
それを意識的に無視して、ハイドラは首を鳴らす。
もしも、を想定して警戒は怠らない。
視線・意識を、常に四方八方へ向けておく。
息の吸う感覚が、肺を焼く。
緊張感と焦燥感が喉元にまで上がってくる。
それらはハイドラの体を蝕み、痛みとなって侵食する。
それはつまり、
「あの、終わりました」
「──っ!」
今、完全に意識が遠のいていた。
少年の一声がなければ、確実にそのまま失神していた。
それに対する恐怖と、自分の不甲斐なさを感じながら、しかしそれを表面には出さない。
「よし、行くぞ」
「は、はい……」
やはり声が強ばるのは致し方ない。
とはいえ、何とかそれを和らげようと努力する。
ハイドラは少年の頭に触れて、心を落ち着かせる。
そうやって、自分の使命と立場を思い返し、平常心を取り戻すのだ。
「あ、あの……」
「なんだ?」
「お名前、聞いてもいいですか?」
大通りに出た辺りで、少年がそう訊ねてきた。
突然の事で、一瞬動揺。
とはいえ、さして悩むような問ではない。
ハイドラは一度欠伸をすると、
「俺の名前はハイ──っ! 危ない!」
「──え?」
そう言った瞬間に、衝撃が走る。
少年を抱きかかえ、何とか避けるも、足を掠った。
痛くて死にそうだ。
「大丈夫、か?」
「は、はい」
一応の確認を取り、振り返る。
そこには、屋台に衝突し、頭を突き刺した牛がいる。
否、牛に限りなく近い、魔獣がいた。
ハイドラは立ち上がると、少年の肩を持つ。
瞳を合わせて、息を吐く。
「いいか。今、かなりやばいのは見てわかると思う。だから、お前だけでも逃げろ。場所はあそこの辺り。きっと人の声がするはずだ。そこ目指していけ」
そう早口にまくし立て、避難所の方向を指さす。
すると少年が、「でも……」と迷いを見せ始めた。
しかしそんなことに構っていられる時間はない。
「でももすともねえ。とにかく逃げろ──ああ、その前に。──その赤のマントだけ貸してくれねえか」
少年の肩にぶら下がるそれを指さし、手を合わせる。
目的は簡単だ。
親父の言葉を、ここでは信じてみる。
闘牛やらなんやら言っていた親父の姿を思い出しながら、ハイドラは笑う。
それは自己暗示でしかなかった。
「いいか、少年。一目散に逃げろ。振り変えんじゃねえぞ」
敢えて強い言葉で、ハイドラは少年に伝える。
その思いが伝わったのか、少年の深い頷きが見て取れた。
「それなら、約束、してください。絶対帰ってきて、僕のそのマント返してください。それと──」
魔獣が、屋台から抜け出す寸前だ。
それへの焦燥感に駆られながら、ハイドラは少年の言葉に耳を傾ける。
「──絶対、名前教えてくださいね」
「当たり前だ! ほら、行け!」
少年の言葉が終わるのと、ほぼ同時。
食い気味で放った言葉で、少年の行動を促す。
その姿が遠くになるのを見届けるよりも前に、ハイドラは振り返った。
「よう。牛くん。──相手してやるぜ」
──
──そうして、始まりの場面に戻ってくる。
吸い込んだ息を、ふっと吐く。
全身が痛みで悲鳴を上げている。
けれど、それでも抗うのだ。
抗わなくてはならないのだ。
俺なら大丈夫。
絶対に勝てる。
絶対に、負けない。
そんな自己暗示を掛けて、ハイドラは心を落ち着かせる。
否、落ち着かせるふりをしているだけだ。
牛型魔獣と目が合う。
そのぎらついた赤目の標的は、完全にハイドラ。
もうハイドラしか見えていない。
しかしそれはこちらも同じだ。
ハイドラも、今はもうその牛しか見えない。
他に魔獣が現れれば終いだが、もしもそうならそれはそれで運命。
諦めるのも手のひとつだ。
けれど今は、彼らとの約束があるから。
「──絶対死んでやるかよ」
もう一度決意を込めて、腹から声を出す。
まだやれるはず。
まだ終わらないはず。
まだ終われないはずだから。
「──行くぞ」
親父のあの、死亡フラグなんてものは信じない。
全部自分の能力なのだから、そんな神頼みなんてことはしない。
ハイドラは、神を信じない。
自分しか信じない。
足に力を込めて、跳躍。
掌に魔力を溜めて、詠唱する。
「《氷結!》」
たった二種類しかない、ハイドラの魔法の一つが炸裂する。
──牛型魔獣の瞳が、ずっと、ずっと、こちらを見ていた。