第一章 第一話 『英雄への第一歩②』
──駆け込んだ避難所は、既に人でいっぱいの状態だった。
「はや、早く閉めろ!」
何とか開かれた扉が、また閉じていく。
ハイドラとルナは肩で息をしながら、何とか地面に座り込んだ。
端の壁までの距離は凡そ十五メートル。
縦横ともにそれの正方形型の部屋。
その中に、一体どれほどの人数が入り込んでいるのか。
他人の息遣いがすぐ側で聞こえる。
とはいえ、静かだ。
この状況で、怒号を挙げるものはいないのだろう。
ハイドラは呼吸を落ち着かせると、ルナの肩を叩く。
「さっき、魔獣がいたよな。あれが、どうしてさっきの話に繋がるんだ?」
「ふう、ちょ、ちょっと待って。なんの話?」
「だから、さっきの続きだよ。塔を攻略したから、今の状況に陥ってる、って話」
「ああそれね。簡単なことよ」
そう言って、ルナはハイドラを見つめる。
桃色に染まった自分の姿が見えて、その表情が強ばるのに気付く。
「塔を攻略する、っていう意味をそもそも理解してる?」
「……ごめんわからん」
「はいはい。なら、説明するけど、塔の攻略っていうのは二種類。──契約と消滅のふたつがある」
「契約と、消滅……」
ルナの言葉を反芻して、ハイドラは顎に手を添える。
隣の人の腹の肉に触れてしまって、嫌悪感が頭いっぱいに広がる。
服で拭い、思考を元に戻す。
「契約、っていうのは、塔を管理してる大精霊との契約って意味。本来の役職から引き剥がしてしまうから、塔は機能を失う」
「なるほど」
「それで、消滅っていうのは、その大精霊を完全に殺してしまうこと。存在自体が消えるから、塔は機能を失う」
「……それがどう繋がるんだ?」
「最後まで聞いて。──機能を停止した塔は、ただの遺物。魔法技術の発展に使えるものはあるらしいけど、それ以外は何の魔法的要素を持たない。たったひとつを除いて」
含みを込めて、ルナが人差し指を立てる。
唾を呑み、ハイドラは彼女の言葉を待つ。
妖艶にルナは人差し指で唇に触れると、
「──停止した塔は、魔獣の巣窟になる。それだけを除いてね」
「あ、そういう事ね」
つまり、この状況はその攻略されて停止し、魔獣の巣窟となった塔から魔獣が襲来してきている、という訳だ。
そしてこの近辺で攻略済みの塔と言えば──、
「あの凪の塔から、って訳か」
「そう納得した?」
「あ、ああ。でも……」
もしもそれが事実ならば、皆どうしてこんなにもパニック状態に陥っているのだろう。
詳しい事情を知らずとも、魔獣の襲来に関しては日常茶飯事になっていたはず。
しかし現状を見るに、そうは考えられない。
避難所だって、地面にむき出しのただの木造建築物だ。
本当に魔獣から身を守るのなら、地下にでも作るほかないというのに。
「これは厄介だな……」
状況が上手く呑み込めていない。
どうなることが最善なのか。
どうなることが最悪かさえもわからない。
だから何度もルナに尋ねているのだが、彼女も所詮地方民。
話し方・言い回しから察するに、相当の教育は受けてきたようだが、地理的な問題はあまり参考にならない。
──となれば、ハイドラ・ガストリオは何をすべきか。
「くそ、何も思いつかねえ」
英雄になる為、ハイドラはこの場所に来た。
王都に来れば何とかなる、なんて楽観的思考の下だった。
それが今、完全に崩されていく。
やはり問題は場所ではなかった。
自分の勇気と、行動力に尽きるのだ。
「くそ、なにか、なにか……」
擦り切れるほどに、頭を回す。
ルナももう話しかけてこない。
おかしなオーラでも発していたのだろうか。
彼女と目が合っても、直ぐに逸らされてしまう。
耐えきれないほどの重圧。
重々しい空気がそれを更に増し、ハイドラの心と体を押し潰してくる。
いっそ泣き出してしまいたい。
叫び出してしまいたい。
そんな弱音が、心から零れ始めた。
と、
「痛え! 痛えよ母ちゃん!」
「うるせえ、俺はお前の母ちゃんじゃねえ!」
扉が押し開かれ、外から二つの影が入り込む。
片方が片方を担ぐ姿勢だ。
担がれている方の足からは、かなりの出血。
その傷は、獣の歯形をしている。
「魔獣に、やられたんだ」
騒然と、腹の底が渇くのを感じる。
これがいわゆる心の底からの恐怖なのだろうか。
おそろしくて、声も出ない。
けれど、
「だ、大丈夫ですか?!」
扉が閉められ、負傷した方が地面に座りこまされるのと同じくして、ハイドラはそこに駆け寄る。
タイミングは完璧。
手を差し伸べて、「大丈夫だ」と嘘八百。
しかしそれだけでも安堵があるのか、負傷した少年は落ち着きを取り戻す。
「こんなとこで使うとは思わなかったぜ……」
と、徐ろに勿体ぶって、ハイドラは少年の傷口に手を添える。
意識を集中させ、魔力を腹から口へ、口から掌に移動させる。
「ちょっと痛いかもだけど、耐えてくれよ。──《部分氷結》」
「──っ!」
ハイドラの詠唱と、少年の小さな呻き声。
それとほぼ同時に、少年の傷口に変化が起こった。
ハイドラの手を起点に、傷口が凍り始める。
まるで冬場の薄氷のように、薄く薄く氷が貼られていく。
じんわりと広がっていくそれは、ものの数十秒で全体に至る。
──これで、一応の止血は完了のはずだ。
「とりあえず止血はした。けど、これは治癒魔法とはまた違うから、安静に」
「あ、ありがとう!」
淡々と、落ち着いた口調でそう言い、ハイドラはその場を後にする。
食い気味で放たれた感謝の言葉に、心の底から舞い上がる。
ルナの元に戻ると、耐えていた頬の緩みを完全に解除して笑う。
すると、
「ねえ、ちょっとそれ辞めて。本気でキモイ」
「さすがにそれは言い過ぎじゃね?」
「キモイものはキモイ。可愛いものは可愛い。これは盛者必衰の世の中で、唯一不変の事実なんですよ」
そう言って、ルナはサムズアップ。
死んだ目の彼女のそれに応え、ハイドラは小さく息を吐く。
その心にあったのは小さな達成感と、ほんの少しの万能感だった。
と、
「あ、あのすみません!」
一人の聖職衣を着た女性が──いわゆるシスターが近付いてくる。
彼女はこちらに一度頭を下げてから、
「先程、あなたの魔法を見ていました。どうか、魔法使い様なら、どうか、私の弟を助けてくださいまし!」
「弟……」
「はい。ここに来る途中、はぐれてしまったのです。どうかお願いします。お手を煩わせますが、どうか──」
「ようし」
何度も何度も頭を下げ、「どうかどうか」と連呼するシスター。
それにハイドラはニカリと笑い、そう応える。
これは、最高の展開だ。
バタフライ・エフェクトとやらだろうか。
あの少年を助けたことにより、また英雄となる道が開けた。
トントン拍子な現状に、ハイドラは内心ほくそ笑む。
数秒ためてから、シスターの肩に触れ、
「任せてくださいよ。俺は英雄になるんだからね」
白い歯を煌めかすよう意識し、ハイドラはセリフを放つ。感謝、とばかりシスターの柔らかい手で自分の手が包み込まれる。
緊張感と羞恥心でいっぱいになりながらも、何とか赤面は避けれた。
そのはずである。
「ふふ。魔法使い様と言えど、初心なものは初心なのですね」
「ちょ、ちょっと辞めて、恥ずいです……」
訂正、避けれてなかった。
シスターは妖艶に笑い、期待を込めるようにこちらを見つめる。
それで羞恥心を弾きとばし、ハイドラは何とか心を落ち着かせる。
否、切り替えて、その盛り上がりを別方向に変換する。
「じゃ、というわけで。──ちょっくら行ってくるわ」
にこやかに笑い、ハイドラはルナに手を振りかける。
唖然とした表情の彼女は、唐突にハイドラの手を掴み、
「駄目! 行っちゃ駄目! 今出ていけば、絶対死ぬよ!」
そう言った。
それは初めて見る、ルナの鋭い剣幕。
ハイドラはそれに驚きながらも、落ち着きを取り戻す。
ルナの胸が腕に当たり、その心音さえ聞こえる──だなんて、死んでも言えなかった。
「何? 心配してくれてるの?」
わざと半笑いで、ハイドラはルナの手に触れる。
柔らかさが愛おしくて、ずっとなでなでしていたかったが、そこは我慢。
それを芯があると取るか、ヘタレととるかは別として。
「大丈夫だって。ちょっと人一人連れてくるだけだし。それに……」
手を何度か握って見て、その手の甲を見つめる。
そこにはもちろん、徐ろな刻印なんてものは無い。
しかし、そこに宿る力は本物だ。
マストからも保証された、この《氷結魔法》。
一体これがどこまで通用するのか、試しておきたい。
「絶対、死なないでね。絶対……」
「大丈夫だって。それに俺、こういう窮地での生存率半端ないから。死神もビックリなレベルだから」
そうとも、良くも悪くも、ハイドラは運がいい。
それを死に損ない、と人は言うのかもしれないが。
「だから君が……ルナが思うようにはならないって。大丈夫大丈夫」
「ここまで信用ならない『大丈夫』なんて、何年ぶりかしら」
「はは、知らね」
片目を閉じ、そう笑った後、ハイドラはシスターに振り返る。
「それで?」と言葉を続ける。
「その弟さんの特徴とかあります?」
「特徴、ですか……そうですね。まず私と同じこの赤毛。それと……ああ、あの子、今日は赤いマントを付けてた」
「赤いマント、ですか?」
「ええ。何でも、『ひーろー』の真似なのだそうです」
「ふ、そう、ですか」
それだけ聞ければ、充分だ。ハイドラは敬礼すると、笑って、
「男、ハイドラ・ガストリオ。その少年を確実に捕まえてきます!」
わざとらしくそう言ってから、避難所の扉に手をかける。
ふと、視線を感じて振り返ると、ルナと目が合った。
潤んだ瞳に、頭がクラクラする。
一体何が、彼女をそうさせるのか。
「それもちゃんと、聞かないとな」
将来への楽しみと期待を胸に、ハイドラは避難所から飛び出した。
──こういうのを親父はなんて言ってたっけか。
ふと思い出して、ハイドラは疑問を抱く。
何だか、思い出すべき言葉のように感じていた。