第一章 プロローグ 『始まりの夕焼け』
──遠く遠くで、火の手が上がっている。
「────」
彼はただ、それを見つめることしか出来ない。
体は動かない。
逃げようとも思えない。
何よりも大事な、『心』が停止してしまっている。
悲鳴が聞こえる。
泣き声が聞こえる。
勇んだ声が聞こえる。
けれど全部、遠く遠く何処か彼方の世界のようだ。
それは水中の声を聞き分けるような感覚に近い。
現実味がない、と言えばそうなのだろう。
燃える世界。
赤い世界。
その中心──否、起点となるのは、一つの巨大な建物だ。
それは、彼らを延々と見下ろしてきた巨大な塔だ。
太古の時代からあるとされている塔だ。
それが今、燃え盛っている。
辺りの森を、集落を巻き込み、延々と燃え続けている。
「父、さん……」
父は既に、あそこに向かった。
母も既に、あそこに向かった。
なんの為に?
わからない。
けれど一つだけ言えるのは、彼らはそれが最善だと考えていた、ということだろう。
──自分の息子を放り出してまで、見知らぬ誰かを助けに行くのが、本当に最善なのだろうか。
ふと過ぎる疑問。
ふつふつと、頭の中でそれが反芻されていく。
応えは出ない。
けれど何となく、もうその答えが語られることは無いだろうことを悟っていた。
大きな、本当に大きな足音が聞こえる。
燃え盛っている塔の方向からだ。
巨大なシルエットがあるから、きっとそれなのだろう。
それは巨人、としか表現出来ないほどに巨大なものだった。
腹を大きく膨らませたそれは、こちらにむかってくる。
不自然な程に、大きな腹だと、少年は思った。
──そこには、一体何が、どれだけ詰め込まれているのだろうか。
「──っ!」
これ以上、考えるのは限界だった。
父親譲りの想像力が、最悪の場合を想像する。
恐怖が、悪寒となって襲い掛かる。
相変わらず、身動きは取れない。
このままなら、きっと自分は死んでしまうのだろう。
ああ、そうだ。
それでいい。
死んでしまうのがいいに決まっている。
硬直した全身。
身動きは取れない。
感覚もない。
暑さも寒さももう遠い世界の話だ。
けれど、涙は止まらない。
ポタポタと、涙が零れていく。
「ああくそ、なんて俺は弱いんだろう……」
それは、幼い少年の本心だった。
こんな状況を変えられない弱さへの悪態だった。
否、このまま死に行く自分への呪詛だった。
けれど彼は、運が良かった。
「──っ! な、何だ!?」
突然、世界が揺らぐ。
こちらへと向かってきていた巨人の動きが止まる。
と、同時に白い閃光が走った。
それは針の如く、巨人の体へ突き刺さる。
「うおおおおぉ!」
巨人の呻き声が、この距離でも肌に感じる。
やけに人間味のある声に、彼は恐怖を感じた。
しかしそれも、一抹の感情に終わる。
何故なら、
「大丈夫かい、少年?」
優しげな声が、空より降りかかる。
飛龍の翼が振るう音に、彼は思わず空を見上げた。
そこには、赤い皮膚の飛龍と、それに乗った青年がいた。
その表情は爽やかなものだった。
そこには確かな余裕があった。
「大英雄が立ち向かったはずなんだけど……相手が悪すぎたみたいだね」
言葉もなく、彼はその青年を見つめる。
青年は苦笑いを浮かべると、飛龍の腹を蹴った。
途端、飛龍が巨大な巨人へと飛んでいく。
青年の手から白い閃光が放たれた。
「──っ!」
かの巨人の叫び声と、遅れてやってくる閃光音。
それらが重なり合う。
何回も何発も、閃光が巨人に突き刺さる。
突き刺さって、喰い込んで、これでもかとばかりに肉を抉りとる。
そして、どれくらいたった頃だろうか。
唖然としたまま、時間が無為に過ぎていったのだけ覚えている。
その間も、白い閃光は打ち込まれ続け──、今はもう巨人の叫び声は聞こえない。
倒された、ということなのだろうか。
あの青年が、倒してしまった、ということなのだろうか。
「やあ、少年。僕はマスト。大丈夫かい?」
状況の理解が追いつかない彼に、飛龍から飛び降りた青年が手を差し出す。
その茨のような腕を見つめて、彼はやっと理解する。
──この青年こそが、英雄その人なのだ。
父親が昔からよく言っていた。
お前は英雄になれ、と。
そしてその条件を何度も何度も叩き込まれた。
目の前の青年は、その全てを満たしている。
「ど、どうして、そんなにも強いんですか……?」
「そんなの決まってるじゃん。──僕が英雄だからだよ」
「────」
そう言って、青年は彼の頭を撫でる。
その言葉に、彼は圧巻していた。
「で?君の名前は?」
「お、俺はハイドラ。ハイドラ・ガストリオ」
「そうか。いい名前だな」
名乗り、彼は差し出された手を握る。
その大きく暖かい手に、ハイドラは涙を流す。
汚い涙と鼻水を、ただひたすらに流し続ける。
流して流して、心に決めた。
前を向き、マストと名乗った青年の瞳を見つめる。
自分の弱さが嫌だった。
もう誰も失いたくなかった。
圧倒的な強さが欲しかった。
誰も彼も、救い出したかった。
悲しみも絶望も諦観も全部、拭いさってしまいたかった。
だから、幼い少年の決意は固まる。
夕焼けが、遠くて眩しい。
「──俺を、英雄にして下さい」
この言葉が、少年の──ハイドラ・ガストリオの波乱万丈な人生の幕開けとなる。
──眩しく煌めく夕暮の誓が、ハイドラの心に絡みついた。