2-2 悪魔の種子を刈り取る者
「くっ、流石にこのままじゃジリ貧だな……」
狼のアニマス族であるラーガンは背後から迫り来る風の刃を天性の勘と耳に届く風を切り裂く音、そしてこれまで培われてきた経験で、紙一重で避けながら全速力で逃走する。
自分でも気にしている堀が深く、やや濃い顔には焦りの表情が滲んでいた。
彼はドラゴンズネスト内でもドラグーンのマスターに次ぐエリートである実戦部隊“ディアーブハンター”のメンバーの1人だった。
ディアーブとは“悪魔の刻印”を刻まれた、ディアボルスと融合する巨大化する前の異形体の事を言う。
ディアーブの状態ならドラグーンの力を借りなくても数人掛かりでなら倒す事も可能な場合が殆どなのだが、今回は相手が悪かった。
風から生み出された見えない刃によって奇襲を受け、あっと言う間に彼の率いる部隊員の多くは倒されてしまったのだ。
隊員がその身を犠牲にしてディアーブの攻撃方法が風刃である事を見つけ出した時には既に部隊は壊滅状態。生き残っているのは隊長であるラーガンと先日配属されたばかりの新人の女性隊員――レンナだけ。しかも敵は遠距離から攻撃してきているらしく、その姿を視認出来ていない。
故に逃げる事しか出来ない。
不意に彼の茶色の髪が風に揺れる。
「来るぞっ!屈めっ!!」
そう叫び咄嗟に2人が身を屈めると、その頭上を暴風が通り過ぎる。正面にあったコンクリート製のビルの壁面に鋭利な刃物で切り付けられたような傷跡が残る。直撃すれば、いとも簡単に真っ二つに切り離されてしまうだろう。
事前にアニマス族の鋭敏な感覚のおかげで弱い風圧が感じられ風斬り音が聞こえるからこそ、なんとか回避し続けていられるが、このままでは体力的にいつ限界が訪れてもおかしくない。
特にレンナは人間族でアニマス族であるラーガンに比べて体力が劣るので、彼より限界は早いだろう。
幸いな事はたった今逃げ込んだ先が入り組んだ路地裏であり、障害物が多く人の気配も少ないので被害があまり広がらずに逃げ果せる確率が高まったという事くらいだろうか。
立て続けに放たれた風の刃が身体を掠め、腕から、足から流血するが、そんな掠り傷に構っている余裕は無い。ただひたすらに直撃を避けながら逃走を続ける。
右へ左へと路地裏を駆け抜け、なるべく遮蔽物が多くて狭い路地を選びながら逃走を続ける。
もし袋小路に迷い込めば、逃げ場を失って切り刻まれてしまうのがオチだ。だからそうならないように自身の幸運と直感を頼りに路地裏を駆け抜ける。
流石にそろそろ体力の限界が訪れ、膝が笑い出しそうになった頃、ようやく背後から迫って来ていた悪意ある気配が感じられない事に気付く。
「はぁはぁはぁ……なんとか逃げ切ったか……」
地面にへたり込み、安堵の息を吐きだすと共に呼吸を整える。
「…はぁはぁ……怪我は…ないか?」
隣で今も辛そうに息を整えているレンナに声を掛けると、彼女は声を出すのも辛いらしくなんとか首を縦に振って答えるのみ。
それを確認したラーガンは隊長として1人でも部下を守れたことに少しだけ心が軽くなる。
なんとか逃げ果せる事は出来た。だが、根本的な解決には至っていない。
「ちっ。あの強さ……どうやら俺達が刺激したせいで、いつディアボルスになってもおかしくない段階にまで成長しちまったようだ……悔しいが、ここは応援を要請するしかない…か……」
疲労した身体に鞭を打ち、彼がドラゴンズネスト本部へ連絡する為に立ち上がり掛けた所で、猛烈な悪意と共に微風を感じる。
「くそったれめ!!」
未だ荒い息で肩を上下させているレンナを突き飛ばしつつ、ラーガンもその勢いで逆側に飛ぶ。
直後、地面が切り裂かれる。
「奴は俺が引きつける!お前は本部に応援を要請しに行けっ!!」
その言葉に一瞬だけ躊躇した後にヨロヨロと路地の奥へと消えていくレンナに頷きながら、姿の見えない敵に向けて神経を最大限に尖らせる。
「さぁて、俺の集中力と体力が続く限り、てめぇを足止めしてやるから、覚悟しておけよ!」
向かってきた風刃を紙一重で避けながら、ラーガンは力強く吼えた。
* * * * * * * * * * *
アルシュがドラゴンズネストに来てから1ヶ月。
検査やら能力測定やら訓練やらで忙しい日々を過ごしていた彼に、遂にマスターとしての初めての仕事がマザーから言い渡され、早速現地に向かっていた。
「ドランノーグ軍に居たのでしたら、アルシュさんはコルツ地区は知っていますよね?」
メイの操縦する竜翔機の中でソウランが尋ねてくる。
「ああ。別名“犯罪都市”と言われる帝国領の中でも一番治安の悪いって言われてる街のある砂漠地帯だな」
元々はコルツという山賊が未開拓だった砂漠の中にあるオアシスの1つに勝手に興したアジトなのだが、いつしかそこにコルツを信望する犯罪者らが集まり、大きくなって街にまで発展した。
帝国に多大な税金という名の賄賂が送られており、国内では大きな犯罪騒ぎを起こしていない上に砂漠の真ん中という立地条件の為に、手を出す事が躊躇われている不干渉地域となっている地区である。
交易の通り道でもなく、肥沃な土地でもなく、帝都から遠く離れた帝国領の中でもあまり重要ではない場所である為に放置されているのが現状だった。
帝国としては自治権も市民権も与えてはいないが、不干渉を貫いている時点でコルツに自治を任せているようなものなので、その事を知る者はその周囲一帯をコルツ地区と呼んでいるのだった。
コルツ自治区と呼ばないのはせめてもの抵抗と言う所だろうか。
「はい。犯罪者の巣窟とも言われる場所で1週間前ほど前にディアーブが出現したそうです。恐怖と欲望、それに疑心が渦巻く場所ですのでその温床はあったと言えますが、ドラゴンズネストではそこまで危険とは判断せずにディアーブハンターで対処出来ると踏んでいました」
圧倒的な力を持っているとはいえ、ドラグーンはアルシュ達を含めて世界に5機しか存在しない。
しかもその内1機は現状最強の力を誇るが、マスターが病気を患っている為、脅威度が最高位の悪魔の際にしか出動させられず、更にもう1機は機人と共に数十年前に行方不明となっている。内蔵されているオーガニク・リンケージ・システムの稼動は確認されているのだが、居場所は見つかっていないらしい。
つまり現状で実稼動しているのは実質3機だけ。
いくら高速飛行可能な竜翔機があっても、たった3機ではその全てに対処出来るわけではない。
ディアーブにはドラゴンズネストが定めた危険段階というものがあり、悪魔の刻印を刻まれても、普通に生活出来ている状態を第1段階。
感情が爆発して周囲が見えなくなり、周りの声も聞こえなくなる状態を第2段階。
本来持ちえない異能の力を行使する状態を第3段階。
人である事をやめ、悪魔の如き異形の姿へと変化――つまりディアーブ化した状態を第4段階。
どこからともなく巨大なディアボルスを呼び出し、融合を果たした状態を第5段階。
これら5つの危険段階を定め、第4段階まではディアーブハンターで対処可能とされている。
ディアーブハンターの殆どはドラゴンズネストで訓練を受けたマスターに選ばれなかった候補達で構成されている為、その実力は折り紙付き。これまで多くのディアーブがディアボルスになる前に葬られてきた。
もし彼らがいなければ、ドラグーンだけでは対処が追いつかず悪魔による被害はもっと増えている事だろう。
しかし何事にも例外は存在する。
たとえ第4段階でも調査等により、すぐにでもディアボルスと融合する可能性が高いと判断されたり、異常に強力な個体であれば、ドラグーンが派遣される事となるのだ。
そして今回はその例外に当て嵌まってしまった。
「結果は討伐に失敗。それで俺達にお鉢が回ってきた訳だな」
「はい。ハンターでも倒せない強さとなれば、もう私達以外には太刀打ちは出来ませんからね。ここ最近、どうにもディアボルスの活動が活発になって、力を増しているようですし、忙しくなるかもしれませんね」
「何か原因があるのか?」
「はい。マザーの力が弱まっているのが原因だと思われますね。アルシュさんも実際に会ってお気付きになったかと思いますが、今のマザーはまだ生まれて間もないのです。今から10年程前に転生したばかりで孵化する前の幼体なんです」
言われてアルシュは思い出す。
竜皇室の中心にあった堕円形の石のようなもの。あれは竜の卵だったのだ。
母なる竜と呼ばれていながら、現れた幻像が幼い少女の姿だったのも、未だ孵化していない幼体だったのであれば頷ける。
そして竜皇室があれほど巨大な空間だったのも、孵化し成体になって成長したらあれくらいの空間が必要なほど巨大な姿になるからだ。
ドラゴン族はこの世界のどんな生物よりも遥かに長命ではあるが不死の存在では無い。
厳密に言えば精神的には不滅の存在であり、肉体的寿命が終わる瞬間に自らの記憶と力の全てを封じた卵を生み出し、新たな若い身体へと転生するのだ。
卵の中で新たな肉体に記憶と力が馴染むまで過ごすのだが、完全に馴染むまでには50年という時を要する。長命の竜にとっては僅かな時間かもしれないが、その50年の間は竜本来の力を発揮する事は出来ない。
悪魔はその隙に勢力を伸ばし、弱体化している内にマザーを亡き者にしようとしているのだろうと、ドラゴンズネストで悪魔について研究している学者は提言している。
それを証明するかのように近年、ディアーブとディアボルスの出現頻度は上がっている。
マザーが転生する前まではディアボルスの出現は数年に一度あるかないかという頻度だった。だが転生直後の10年前辺りから数ヶ月に1度の頻度で出現するようになっており、年々出現間隔は短くなっていっている。
ここ最近で言えば、ソウランが襲撃されてからまだ1ヶ月程しか経過していない。
「ですが、悪魔の思い通りにはさせません。その為にまだ稼動していなかったドラグーンを私が起動させたのですから!」
ソウランが決意を込める。アルシュにも十分にその熱意が伝わる。
「アルシュさん。世界を護る為、共に頑張りましょう」
「ああ。任せておけ!」
アルシュとソウラン。
同じ目的を持つ事で互いの絆が深まった事が感じられた頃、竜翔機の正面モニターが犯罪都市の全景を捉える。
「アルシュ様、ソウラン様。目的地付近に到着しました。周囲が砂漠で見通しが良過ぎる為、これ以上先へは竜翔機では近寄る事が出来ません。少々遠いですが、ここで着陸させて頂きます」
竜翔機が街から遠く離れた砂漠の真ん中にゆっくりと着陸する。
ドラゴンズネストの存在が完全に公にされていない以上、直接街に着陸する事は出来ない。人目の少ない場所や森などの身を隠す場所であれば夜闇に紛れて近付く事は出来るが、周囲に何も無い砂漠では空を飛ぶ乗り物というだけで目立ち過ぎるのだ。
「メイちゃんはここで待機していて下さい。毎日、朝晩の1回ずつ定時連絡しますので、もし定時連絡が無かった場合は私達に何かがあったと思って本部に応援要請を行って下さい」
「分かりました、ソウラン様」
こんな砂漠のど真ん中で待機しているだけというのは辛く退屈なのではないかとアルシュは思ったが、竜翔機内は温度湿度共に快適に保たれ、食料も1週間分の備蓄を蓄えているとメイは答える。1人遊び用の娯楽設備や風呂などの生活設備も完備されているので、逆に快適らしい。
本人が大丈夫というのだから他人がとやかく言う話では無い。なので、アルシュは納得するしかなかった。
「それでは行ってらっしゃいま…うわきゃっ!」
相変わらず深く頭を下げ過ぎて、頭から砂の中に突っ込んで相変わらずスカートの中身を晒すメイに見送られながら、防熱防寒用のマントを羽織ったアルシュとソウランは熱でぼやける犯罪都市に向かうのだった。
* * * * * * * * * * *
酒場の隅のテーブルでレンナは燻っていた。
ディアーブから逃げ出して2日。
ドラゴンズネスト本部にドラグーンの支援要請の連絡を入れた後、拠点で隊長であるラーガンを待っていたが戻って来ず、代わりにディアーブに襲われ、拠点の1つを失った。
その事から彼女は自分以外は全員ディアーブに殺されてしまったのだろうと思った。
この街では殺人など日常茶飯事だ。誰が何処で死んだなんていう情報は当たり前過ぎて、誰も気にせず、話題にも上がらない。故に仲間が死んでも彼女の耳には入ってこない。
そして恐らくは今もディアーブによる被害は増え続けている筈だろうが、自分に危害が及ばなければ気にも留めないのがこの街なのだ。
この街の住人の殆どが犯罪者だというのも理由だろう。
レンナもそいつらがどうなろうと気にもしないが、仲間を、そして隊長を殺された事に関しては許せるものではない。
しかしディアボルスと融合しつつある敵を相手に自分一人では逃げるのが精一杯で、仲間も居ない以上もう敵わない事も理解している。だからこそここで逸る気持ちを抑えながら、ディアーブに見つからないようにドラグーンのマスターが来るのを待っているのだ。
「くっ…だが、まさかあの男の手を借りなくてはいけないとは……」
本来なら自分が居たであろう場所に居る青年の顔を思い浮かべ、更に機嫌が悪くなり一気に酒を呷る。
「おやおや?荒れているねぇ、お姉さん」
悔しさという苦みしか感じられない酒を飲み干した頃、この場末の酒場には場違いの、汚れ1つない純白のフードマントを纏った人物が声を掛けてくる。
レンナが顔を上げると、そこには色素の無い真っ白な肌と髪の少年が唯一色のついた赤い瞳で彼を見下ろしていた。
まるでそこだけスポットライトを浴びているかのように浮いているのに、周囲はそんな純白の存在に気が付いていないかのように普通に酒を飲んでいる。
気が付けば周囲の喧騒も彼女の耳からは消え失せ、純白の少年の声だけが朗々と響く。
「お仲間が殺られたのにその仇を自分の手で取れないのは辛いし悔しい事だね。しかも敵討ちを頼む相手が嫉妬の対象なんだから、尚更に悔しいよね」
何故、目の前に居る純白の少年がそこまで自分の事情を知っているのかという疑問を抱くレンナ。だがすぐにそんな事はどうでも良いという気持ちになる。
純白の少年が言っている事は全て事実であり、彼女の中で燻り、声に出して言えなかった事だから。少年が代弁してくれた事で少しだけ気持ちが楽になったような気がしたから。
「キミはもっと強くなりたいと、もっと力を得たいと思わないかい?そいつより強くなりたいと思わないかい?」
レンナは幼い頃からマスターになる為の訓練を受けて来て、ソウランのマスターになるまで後一歩の所まで来ていた。
だが1ヶ月前にその座をアルシュに奪われてしまった。
八つ当たり的に彼に敵意を向けた事もあったが、ソウランが決めたマスターであり、彼女がアルシュを紹介する際にとても嬉しそうだったので、彼女の意思を尊重してその事実を受け入れることにしたのだ。
そしてレンナはせめて少しでもソウランの助けになれるようにとディアーブハンターに志願した。
だが結果はこの有様である。彼女を助けようとした結果、彼女に迷惑を掛けている。
その悔しさと情けなさでレンナの心は折れ掛かっていた。
酒に溺れていたのもその事を考えないように、考え過ぎて心がポッキリと折れてしまわないようにする為であった。
「ボクならキミに悪魔も、いや竜をも越える力を与える事が出来るよ。キミにはその素質があるんだ。さぁ、望みを言ってごらん?ボクがそれを叶えてあげるから」
頭の、いや心の奥底まで響く少年の声。
誘われるようなその声を聞いて、レンナは自身の心の奥底に燻っていた決意の種火をその瞳の内に燃やすのだった。
次回、5/3(金)0時更新です