1-4 希望の光 ~蒼藍の意思と覚悟
黒く焼け爛れた大地を1組の男女が走る。
まだ夏には早いのに2人とも水着のような格好だが、それを訝しる者は今、この場には誰も居ない。
そしてそんな格好の2人だが、バカンスを楽しんでいる訳ではない。彼らは夜の闇の中を必死になって走る。
背後から迫る溶岩石を身に纏った巨大な悪魔から少しでも遠ざかるように。
だが人の5倍程の大きさを持つ巨人はその歩幅の違いにより、ゆったりとした動きにも関わらず、徐々にその差を詰めてきていた。
「くそっ!一体、なにがどうなってやがんだよっ!!」
理解の範疇を越えた事が立て続けに起こり、アルシュの頭の中はもうグチャグチャだ。
「詳しく説明している暇は無いですが、彼女はディアボルスに魅入られてしまったんです」
アルシュの先を走る蒼い髪の美女がそれに答える。
濡れた彼女の身体を拭く為に服を脱がせた所、右の鎖骨辺りに淡く光る幾何学模様の“悪魔の刻印”を見つけてしまったのだった。
その刻印は悪魔の生贄となった事を意味する。
「ディアボルスとは負の感情を糧とする悪魔の事。刻印を刻まれて魅入られてしまった者は超常なる力を手にする反面、その魂を捕えられて異形の怪物になってしまい、命が続く限り世界を破壊して人々に絶望を与える存在へと変わってしまうんです」
にわかには信じられない話だが、実際にリリィはその面影を残しつつも人とは思えない姿になっていたし、ほんの僅かな時間で地面を溶かす程に高熱の火球を生み出している。
それを目の当たりにして信じない訳にはいかない。
「あいつを救う方法は?」
「彼女の魂をディアボルスから解放する方法は1つだけあります。ですがそれはあなた次第です」
「どういう事だ?」
「私にはディアボルスに抗する力がありますが、それを十全に使用するにはマスターとなる人物が必要となります。あなた次第というのは、あなたに私と契約してマスターになる覚悟があるかどうかという事です」
「あいつを助けられるってんなら、そのマスターとやらでも何でも――」
「話は最後まで聞いて下さい!」
美女はやや強い語調でアルシュの言葉を遮る。
「私のマスターになるという事は、今後、その命が尽きるまでディアボルスと戦う運命を課せられるという事です。過酷な運命を背負う事となるのです。逃げる事も辞める事も出来なくなります。そして――」
美女は眉根を潜め、一度逡巡してから、再び口を開く。
「今回、あなたの居た村を焼き、多くの命を奪う事となった責任の一旦は私にもあります。私の力不足が彼女をディアボルスにしたと言ってもいいかもしれません。そんな私を信じて、共に戦う覚悟がありますか?」
美女のそんな問い掛けにアルシュは一瞬も逡巡する事無く答える。
「ああ、覚悟なら出来ているさ。それと君は信じられる人だと俺は思ってるよ。だって俺の事を助けてくれたじゃないか。俺の事を逃がそうとしてくれたじゃないか。それにもし村を燃やしたのが君だとしても、やりたくてやった訳じゃないんだろ?そんな辛そうな顔をしてたら誰だって気付くさ」
アルシュの言葉に美女の顔はクシャリと歪み、その目に涙が溢れる。
「もしこのまま俺が何もしなければ、リリィは俺達を殺した後、この世界を壊すんだろ?そんな事、あいつにさせられるかよ!俺があいつを止めてやる!いや、俺がやらなきゃ駄目なんだっ!!」
アルシュにとってリリィは、血は繋がっていないがただ一人残った家族であり、この世で最も大切な存在であり、最も愛する女性だ。
そして心優しい彼女がアルシュの事を殺したり、世界を壊したりすれば、きっと酷く苦しい思いをするはずであり、そんな事は絶対にさせてはいけない。
その彼女を救う手段が目の前にあるのに手を伸ばさないなんてありえない。
そして自分も危険な状況で、本来ならメリットだけを伝えて無理矢理にでも契約しても良かった所を、わざわざ自分に不利になるようなデメリットまで伝えて選択の余地を与えた目の前の女性の、アルシュやリリィを思いやるその純粋で優しい心にも報いたかった。
「さぁ、俺と契約してくれ!!」
アルシュの強い想いと覚悟が伝わったのだろう。美女は涙を拭いて頷くとその足を止め、アルシュと向かい合う。
「あなたの強い覚悟を受け取りました。お名前を聞かせて下さい」
背後からズシンと巨大な悪魔が足を踏み鳴らす轟音が轟く。だが2人はもう逃げない。
「俺の名はアルシュだ」
力強くそう答えると美女は彼の名を復唱した後、早口でアルシュには意味の分からない言葉を紡ぐ。
「…オーガニク・リンケージ・システム――起動。マスター名“アルシュ”を新規登録――登録完了。生体認証――準備完了」
美女が一度、言葉を切った後、ゆっくりとその顔をアルシュに近付ける。
「もし初めてだったら申し訳ございません。私の方も初めてですので、それでお相子という事にして下さい」
そう謝ってから美女は頬を赤らめながら、アルシュの唇に自身の唇を重ねる。
突然の出来事に驚くアルシュだったが、すぐに更なる驚きに襲われる。まるで流し込まれるように彼の頭の中に、見た事も聞いた事もない知識が溢れる。
再び地響きが轟いた頃、美女が唇を離し、再び早口で言葉を紡ぐ。
「――生体認証登録完了。知識同期も同時完了。オーガニク・リンケージ・システム――正常域にて稼働確認。登録名“アルシュ”をマスターとして認定」
足を止めて動かない2人の頭上に迫った溶岩の巨人がその拳を振り上げる。
「アルシュさん…いえ、マスター。私の名を呼んで下さい」
「ああ。覚醒めの刻だ!行くぜ、蒼藍!!」
「イエス、マイマスター!!」
振り下ろされる巨腕の前に叩き潰されると思われた瞬間、2人の周囲を青く光る水流が覆い、巨腕を弾き返す。
やがて光る水流は水の竜に姿を変え、アルシュの周囲をぐるぐると回り始める。
水竜は腕に、足に、胴に絡まり、一瞬にして彼の顔以外の全身を青銀色の体にフィットしたスーツで包み込む。
水竜はそこからアルシュをその口の中に飲み込むと、更なる蒼い光を放って、徐々にその姿を人の形に変化させ始める。
全身を蒼い鱗で覆われた、竜の角と尾を持ち、人の四肢を持った巨人が蒼い光の中で生み出されていく。
だが変化はそれだけでは終わらない。
そこから尾は更に伸びて倍以上になり、側頭部と頭頂部の角も背後に大きく伸びていく。四肢は一回り太くなり、滑らかだった全身の鱗は逆立って鎧のようになり、肘や膝からは衝角が生える。
女性的だった顔は左右に分かれて、その奥から男性的な顔が姿を現し、その口元をフェイスガードが覆う。
子供から大人へ、幼体から成体へと一気に変わったかのような劇的な変化。
『これこそが私の真の姿――“Dragoon Eques Machina”蒼藍です』
周囲を流れる滝で覆われた泡の中にいるアルシュの耳に何処からともなく嬉しそうな声が届く。姿は見えないが、彼には彼女の存在はすぐ身近に感じていた。なぜならこの空間そのものが彼女なのだから。
ソウランという名の、人の姿と心を持った機械仕掛けの竜にして、ドラグーンの心臓部として生み出されたのが彼女だった。
「まさか実際に稼働してるドラグーンが現存していたなんて初めて知ったぜ」
騎士を目指す者ならばその名を知らない者はいない。
ドラグーンとはミーレスの基礎となった、伝説とも言われている機巧鎧である。
その性能はミーレスを遥かに凌駕し、その名と姿の通り、正に竜の如き力を発する。
機巧鎧開発者の最大にして最高の喜びは、ドラグーンを造り出す、あるいはそれと同等の力を持つミーレスを造り出す事とまで言われている程だ。
『ゆっくり感動に浸っている場合ではありません。ディアボルスが来ます!!』
その声と共に目の前の滝に外部の様子が映し出され、アルシュの視界と同期する
。
見詰める先にはドラグーンの倍近い体積を持った、溶岩で全身を覆った悪魔が迫って来ていた。
だがもう先程までのように逃げ回る必要は無い。
アルシュが右手を上げる。それに合わせるようにドラグーンの右手も上がる。青銀色のスーツによって、今、ドラグーンの腕も脚も何もかもが完全にアルシュと一体となっていた。
「セット、アクアバレット」
アルシュの意思に反応して、掲げた右手の前に青い光を伴った水流が渦を巻き、球状に変化する。
「リリィ……今からお前の魂をディアボルスから解放してやるからな」
強い想いと共に水の弾を撃ち放つ。
水弾が溶岩のディアボルスの胸部に直撃して弾き飛ばす。
「セット、アクアアコース」
続いて左手を掲げ、細い水の針を生み出すと、起き上がろうとしていたディアボルスの四肢を貫き、地面に縫い付ける。
『凄いです……私の力と炎とでは相性が悪いはずなのに圧倒しています!』
ドラグーンは元々、ディアボルスと戦う為に造られたものだ。だがその性能はほぼ互角。相性差によって左右される。
蒼藍は水を操る力を持ったドラグーンであり、本来であれば炎を扱う溶岩のディアボルスとは相性が悪い。焼け石に水という諺がある通り、高熱に対した時、水では蒸発してしまうからだ。
だがアルシュはその相性差を覆した。
圧縮した水流を何層も重ね、表層が蒸発しても中心の水弾が残るようにしたのだ。しかも中央にある水弾は最も圧縮率を高めてあるので、たとえどんな巨体であっても、直撃すれば先程のように弾き飛ばす事くらいの事は出来る。
縫い付けている水の針も原理は同様だ。ただ1点違うのは、いくら蒸発しても消えてしまわないよう内側に継続的に水流を発生させ続けているという点だった。
力の消耗は激しいがそれは効果的で、水針は楔のように固定されて、溶岩のディアボルスがどんなに暴れようとピクリとも動かない。
「もう終わりにしよう。リリィ……」
ゆっくりと溶岩のディアボルスの元まで歩いていくと、アルシュは悲しげな表情を浮かべて、元はリリィであったディアボルスを見下ろす。
「…セット……メイルシュトローム…ランス………」
辛そうな表情を浮かべながら、その右手に穂先が渦潮のように渦巻いている突撃槍を生み出す。
後はこれを突き刺せば終わりだ。
「アっくん、やめてっ!!」
槍を振りかぶると、ディアボルスの胸部の溶岩石が割れ、そこから裸身のリリィが姿を現す。その姿はさっきまでのような異形の姿では無く、彼の愛したそのままの人間の姿であった。
「ねぇ、アっくんは私を愛してるんだよね?」
「俺はリリィの事を愛している」
「だったらその右手に持っている物騒なものは消してよ。そのまま振り下ろしちゃったら私が死んじゃうよ。この子はもう私と1つになったんだから。アっくんはそんな事しないよね?愛している私を自分の手で殺したりなんかしないって分かってるよ」
リリィは祈るように手を胸の前で組み、瞳に涙を溜めて懇願する。
彼女の言う通り、既にリリィとディアボルスは完全に一体となっている。リリィが命を落とす時がディアボルスの最後の時であり、ディアボルスが破壊された時、リリィの命も尽きる。
ソウランから知識を流し込まれた時点でアルシュはその事実は知った。
いや、その前から、ソウランが“彼女を救う”ではなく“彼女の魂を救う”という言い方をしていた時点で、何となく察していた。
だから既にその覚悟は出来ている。その覚悟を持って契約を交わしたのだ。
「だからお願い殺さないでぇ~!!!アっくんの言う事なら何でも聞くからっ!!アっくんが望むなら何でもするからぁ~!!!どんな事でもするからぁぁぁ~~~~!!!!本当に私を愛しているなら殺さないでぇぇぇぇ~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!」
リリィは大粒の涙を流し、縋るように泣き喚く。
アルシュから見えるその姿はリリィ本人だ。それは幼い頃から一緒だったので間違いが無い。
だからアルシュは優しく答える。
「言っただろ、俺はリリィを愛してるって。お前を必ず救い出すって。だから安心してくれ」
「アっくん……。やっぱりアっくんはアっくんだね。そんな優しい所もワタシハ好キダヨ!ダカラズット一緒ニ居ラレルヨウニ殺シテアゲ――――ヘァッ?!」
アルシュの言葉を聞いて泣き顔から一瞬で笑みに変わり、身震いするほどに残虐な表情に変化していったリリィの顔が、そのすぐ直後に、驚きの表情を浮かべて、引き裂かれる。
「ガアアァァァァァアアアアアアッッッッッ!!!!!!ナニヲ…ナニヲシテイルノォォォ……あっクーーーン!!!!!」
その声は突き下ろした水の槍で貫かれて引き裂かれたリリィの口ではなく、溶岩の悪魔の口から洩れてきた。
「ちゃんと俺は言ったじゃないか。俺が愛したのはリリィだって。それはお前なんかの事じゃない!それにリリィはな、あんなみっともない姿を見せたりしない。そういう奴なんだよ」
静かだが怒りの篭った言葉を放ちながらアルシュが手に力を込めると、渦を巻いた槍の先端がディアボルスの胸を削るように穿ち、そして貫く。
「リリィ。お前の魂を悪魔から救い出す事は出来たぞ。けど俺が不甲斐無いばかりに命を助ける事までは出来なくて…済まなかった……」
真っ白な灰になってサラサラと崩れてゆくディアボルスを見詰めながら、アルシュは泣き出しそうなほどに辛そうな表情を浮かべる。
不意に耳元を風が通り、その瞬間、リリィの声で「ありがとう」と聞こえたような気がした。
それは彼の願望から生み出された幻聴だったかもしれない。
しかしそれが耳に届いた瞬間、アルシュは膝から崩れ落ち、零れるままに涙を流し、愛する者の名を叫び続けた。
それを咎める者はこの場には誰も居ない。