魔性の瞳-03◆「要請」
■ヴェルボボンク子爵領/子爵館/子爵自室
ヴェルボボンク子爵ウィルフリックは、自室で礼装を纏った。濃い緑色の上着に、ぴったりと線が入った薄緑のズボン。ショートブーツを履くと、銀の拍車を付ける。マントは薄い茶色で、大きな樫の紋章が縫い取られている。自由都市、ヴェルボボンク子爵領の紋章だ。これに、黄色の肩章を掛け、円筒形の緑の帽子をかぶれば身支度完了である。鏡で姿を確認すると、愛剣を腰に下げる。礼装用の剣ではなく、実剣だ。礼装の中にも、実用性を重視する──これは、辺境に生きるヴェルボボンク子爵家の伝統的な風習だった。
ふと表を見ると、庭園を母屋に向かってレムリアが歩いてくるのが目に入った。白いドレスを纏ったレムリアは、朝日の煌めきの中で、まるで妖精の姫君の様にみえる。だが、その表情には葛藤の色が濃く刻まれ、深い影をその躰にまとっていた。暗い輝き――奈落の縁に立つ危うさ、見る者に、何処かそう思わせる印象を与える。
「ふむ・・・」
思わず嘆息を漏らしてしまう己に、ウィルフリックは苦笑した。レムリア姫をこのヴェルボボンクで預かるようになって1年が過ぎた。当初の悲惨な精神状態から目覚ましく回復はしたが、まだその精神は不安定だった。
「まだ、明らかに時期尚早なのだが・・・」
ウィルフリックは、机の上に置かれた書状に視線を振った。重々しい封蝋がなされたその書状は、シェンドルのアーサー王からのものだった。北の魔国を撃退した事を記念し、延期していたアン・コーデリア姫との正式な婚姻式を行うので、唯一の肉親であるレムリアも出席してくれないか・・・そんな問いかけだった。
独立領とはいえ、ヴェロンディ連合王国と密接に結びついているヴェルボボンクに、ヴェロンディ国王の要請をはね除ける権限も力もない。
「要請は受けねばならん。せめてラルフに同道して貰い、姫のことを配慮して貰うくらいが関の山か・・・」
珍しくも再び嘆息すると、書状を眺めるウィルフリックだった。
ウィルフリック・オフ・ヴェルボボンクは、ヴェロンディ連合王国の東部地域である、旧フリヨンディ王国の八公家の一つ、ヴェルボボンク子爵家の現当主です。王国最南端にある子爵領は、その自由な気風もあって、常に商人や冒険者で賑わっています。