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月の神子が住まう天界と、人の世を繋ぐは、雲の階。
旅装束の緋魅呼は、黒髪を風に靡かせながら、背後を振り返った。
「なんて高さ……!」
今さらながらに、足がすくむ。
故郷を出て百日、月の女神を祀る村を出て、さらに三日。
女神が住まう月の社へ行くには、この不思議なる雲の階段を登り切らねばならない。
雲掛かる山々の頂をも、遥か足元に見下ろして。
海を隔て、遠く異境の陸地まで見渡せる、月界への入り口。
緋魅呼は気を取り直して、歩みを再開するが……その足取りは重かった。
未だ脳裏に去来するは、故郷を出る夜、別れを惜しむ姉の泣き顔と……唇。
『ちゅ……んん。ふぅ、んくぅ……』
『ね、姉さま……!? ん、ふぷぅ……』
なぜこんなこと、と言い掛けて、息を飲む。
潤んだ姉の瞳と、接吻の熱さが、語る。
(どうか息災で。辛くなったら、いつでも帰って来なさい?)
そんな、姉の願いを。そして、
(貴女を、愛している)
触れ合う唇が、物語っている。
緋魅呼もまた、姉への感謝と想いを唇に乗せ、
『ちゅっ……ん』
夜が明けるまで唇を求め合ったのを、今思い出して。
空の階段の上で、ひとり赤くなった。
「……でも、そうよね。口づけなんて、大切な人とするものだわ」
日に百の乙女の唇を、貢ぎ物として求めるという女神、月海輝夜之比売。
汚れなき乙女の精気が、女神の生きる糧であることは、聞かされている。
聞かされている、けど。
「冗談じゃないわ。女神様だろうと何だろうと、生意気な子だったら、く、接吻なんて、してやらないんだから」
生贄のような扱いとはいえ、人の子にも矜持というものがある。
頬を染めながら、緋魅呼は拳を握り、決意を固めた。
「そうよ。神様だからって、気安く唇を許したりなんか、しないんだからね」
※ ※ ※
一方その頃、月面より下界を見下ろす、天の社では。
「ちゅっ……んむぅ。む……ふぅ……ん」
銀の髪に紅の瞳、童女の姿をした女神、月海輝夜之比売が、この日九十九人目の巫女の、唇と精気を吸っていた。
「んっ……だ、だめぇっ。み、神子さま、もう、お許しをぉ……」
唾液の糸を零しながら、巫女が哀願する。
もう、意識が持たないようだ。
「……こ、これ以上は、死んでしまいます」
「……むぅ。予は、まだまだ足りんぞっ」
唇の端から八重歯を覗かせながら、不満の声を漏らす女神。
そうしていると、神のひと柱とは思えない……ただの幼子のようだ。
「そなたたち人の子が、すぐにへばりよるから。日に百人などでは、ちーっとも足りぬ。これでも、我慢しておるのだぞ」
月の社に集められた巫女たちは、人の身としては優れた霊力の持ち主だが……それも女神に精気を吸われては、数分と持たぬ。
ゆえに百を超える人数で交代しながら、女神へ唇を捧げているのだが……、
「予は、いつも腹ペコじゃっ!」
神子には、満足いかないようだ。
(唇。心ゆくまで唇を吸えたら……どうなるのじゃろうか)
女神にとっては食事行為でも、接吻が人の子には、情愛の行為であることは……理解している。
数分ごとに代わる代わる、では芽生えない感情が、ひとりと長く唇を吸い合ったら?
とはいえ贄たちに死なれても困るので、結局試すことは適わないのだが。
「……とにかく。予は、腹が減ったぞ」
今はただ、唇を吸いたい。渇きを癒し、飢えを充たしたい。
誰ぞ回復している巫女はいないか。
そう社の中を探していると、
「神子様。下界から、新しい娘が参ったようですわ」
報告を聞くや否や、すぐさま外へ飛び出していた。
唇の渇きを充たす。
この時は本当に、ただそれだけのために。
※ ※ ※
……そして。
突然の接吻に、緋魅呼は混乱した。
(な、なに? 月に着いた途端に……。こ、この子は何なの!?)
「ちゅ、ちゅぷぅ……にゅるぅ、んん……っ」
息もできないほど唇を密着させ、舌を挿れてくる少女。
こんなに激しく求められる接吻は初めてで、緋魅呼は、
(あ、頭が……痺れて、きたぁ……)
胸が妖しく疼き出すのを感じ、戸惑いながらも。
唇を吸ってくる、銀の髪の少女を見ながら、ぼんやり残った理性で、考える。
(も、もしかして、この子が月の神子様? い、いきなり何なのよっ)
けれど、女神も戸惑っていた。
「ちゅ……んむ。ずぷぅ、ぢゅぷ……んっ」
新しい巫女……さらさらの黒髪で、自分よりだいぶ背が高くて、抱き付くのに少し胸が邪魔な、焔色の瞳の少女。
飢えのままに唇を吸って、はや十数分。されど、
(な、なんじゃ、この娘は? 精気が……尽きぬ?)
女神の方が先に息苦しくなって……唇を離してしまう。
こんなことは……太陽と月が産まれてからの永劫に等しい時の中でも、初めてのことだ。
初めて、空腹が充たされて。
接吻の甘さを、ゆっくり噛み締めることができて。
「……っ」
女神は、恥ずかしい、という感情を知り、真っ赤になった。
緋魅呼も、また。
鼻孔をくすぐる芙蓉の匂いと、羞じらう銀髪の童女の愛らしさに。
思い返せばそれは、母性とか、保護欲というものだったろうか。
今となっては些末なこと……。
その童女へ、生涯を捧げることとなる女神へ、もう一度唇を重ねたくなって。
「……ちゅっ」
緋魅呼と月海輝夜比売……ツクミ。
人間の娘と、神の娘。
接吻の、唾液の糸とともに、運命の糸は、ここに絡まった。