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月花 百合神楽  作者: 百合宮 伯爵
壱の神楽
3/10

3

 月の神子みこが住まう天界と、人の世を繋ぐは、雲のきざはし

 旅装束の緋魅呼ひみこは、黒髪を風になびかせながら、背後を振り返った。


「なんて高さ……!」


 今さらながらに、足がすくむ。

 故郷を出て百日、月の女神を祀る村を出て、さらに三日。


 女神が住まう月のやしろへ行くには、この不思議なる雲の階段を登り切らねばならない。


 雲掛かる山々の頂をも、遥か足元に見下ろして。

 海を隔て、遠く異境の陸地まで見渡せる、月界への入り口。


 緋魅呼ヒミコは気を取り直して、歩みを再開するが……その足取りは重かった。

 未だ脳裏に去来するは、故郷を出る夜、別れを惜しむ姉の泣き顔と……唇。


『ちゅ……んん。ふぅ、んくぅ……』


『ね、姉さま……!? ん、ふぷぅ……』


 なぜこんなこと、と言い掛けて、息を飲む。

 潤んだ姉の瞳と、接吻の熱さが、語る。


(どうか息災で。辛くなったら、いつでも帰って来なさい?)


 そんな、姉の願いを。そして、


(貴女を、愛している)


 触れ合う唇が、物語っている。

 緋魅呼ヒミコもまた、姉への感謝と想いを唇に乗せ、


『ちゅっ……ん』


 夜が明けるまで唇を求め合ったのを、今思い出して。

 空の階段の上で、ひとり赤くなった。


「……でも、そうよね。口づけなんて、大切な人とするものだわ」


 日に百の乙女の唇を、貢ぎ物として求めるという女神、月海輝夜之比売ツクミカグヤノヒメ

 汚れなき乙女の精気が、女神の生きる糧であることは、聞かされている。

 聞かされている、けど。


「冗談じゃないわ。女神様だろうと何だろうと、生意気な子だったら、く、接吻くちづけなんて、してやらないんだから」


 生贄いけにえのような扱いとはいえ、人の子にも矜持きょうじというものがある。

 頬を染めながら、緋魅呼ヒミコは拳を握り、決意を固めた。


「そうよ。神様だからって、気安く唇を許したりなんか、しないんだからね」


 ※ ※ ※


 一方その頃、月面より下界を見下ろす、天のやしろでは。


「ちゅっ……んむぅ。む……ふぅ……ん」


 銀の髪に紅の瞳、童女の姿をした女神、月海輝夜之比売ツクミカグヤノヒメが、この日九十九人目の巫女の、唇と精気を吸っていた。


「んっ……だ、だめぇっ。み、神子みこさま、もう、お許しをぉ……」


 唾液の糸を零しながら、巫女が哀願する。

 もう、意識が持たないようだ。


「……こ、これ以上は、死んでしまいます」


「……むぅ。は、まだまだ足りんぞっ」


 唇の端から八重歯を覗かせながら、不満の声を漏らす女神。

 そうしていると、神のひと柱とは思えない……ただの幼子のようだ。


「そなたたち人の子が、すぐにへばりよるから。日に百人などでは、ちーっとも足りぬ。これでも、我慢しておるのだぞ」


 月のやしろに集められた巫女たちは、人の身としては優れた霊力の持ち主だが……それも女神に精気を吸われては、数分と持たぬ。

 ゆえに百を超える人数で交代しながら、女神へ唇を捧げているのだが……、


「予は、いつも腹ペコじゃっ!」


 神子みこには、満足いかないようだ。


(唇。心ゆくまで唇を吸えたら……どうなるのじゃろうか)


 女神にとっては食事行為でも、接吻これが人の子には、情愛の行為であることは……理解している。

 数分ごとに代わる代わる、では芽生えない感情が、ひとりと長く唇を吸い合ったら?


 とはいえにえたちに死なれても困るので、結局試すことは適わないのだが。


「……とにかく。予は、腹が減ったぞ」


 今はただ、唇を吸いたい。渇きを癒し、飢えを充たしたい。

 誰ぞ回復している巫女はいないか。

 そうやしろの中を探していると、


神子みこ様。下界から、新しい娘が参ったようですわ」


 報告を聞くや否や、すぐさま外へ飛び出していた。

 唇の渇きを充たす。

 この時は本当に、ただそれだけのために。


 ※ ※ ※


 ……そして。

 突然の接吻くちづけに、緋魅呼ヒミコは混乱した。


(な、なに? 月に着いた途端に……。こ、この子は何なの!?)


「ちゅ、ちゅぷぅ……にゅるぅ、んん……っ」


 息もできないほど唇を密着させ、舌を挿れてくる少女。

 こんなに激しく求められる接吻は初めてで、緋魅呼ヒミコは、


(あ、頭が……痺れて、きたぁ……)


 胸が妖しく疼き出すのを感じ、戸惑いながらも。

 唇を吸ってくる、銀の髪の少女を見ながら、ぼんやり残った理性で、考える。


(も、もしかして、この子が月の神子みこ様? い、いきなり何なのよっ)


 けれど、女神も戸惑っていた。


「ちゅ……んむ。ずぷぅ、ぢゅぷ……んっ」


 新しい巫女……さらさらの黒髪で、自分よりだいぶ背が高くて、抱き付くのに少し胸が邪魔な、焔色の瞳の少女。

 飢えのままに唇を吸って、はや十数分。されど、


(な、なんじゃ、この娘は? 精気が……尽きぬ?)


 女神の方が先に息苦しくなって……唇を離してしまう。

 こんなことは……太陽と月が産まれてからの永劫に等しい時の中でも、初めてのことだ。


 初めて、空腹が充たされて。

 接吻くちづけの甘さを、ゆっくり噛み締めることができて。


「……っ」


 女神は、恥ずかしい、という感情を知り、真っ赤になった。


 緋魅呼ヒミコも、また。

 鼻孔をくすぐる芙蓉の匂いと、羞じらう銀髪の童女の愛らしさに。


 思い返せばそれは、母性とか、保護欲というものだったろうか。

 今となっては些末なこと……。


 その童女へ、生涯を捧げることとなる女神へ、もう一度唇を重ねたくなって。


「……ちゅっ」


 緋魅呼ヒミコ月海輝夜比売ツクミカグヤノヒメ……ツクミ。

 人間の娘と、神の娘。

 接吻の、唾液の糸とともに、運命の糸は、ここに絡まった。

 

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