第四十一話 亜世界の終わり
イシマちゃんの言うとおり、マナの2重人格は1時間でおさまった。
「何か色々言っていた気がするけれど、忘れて下さいね♪」なんて言っていた
けれど、あれは…いや、もう何も言うまい。
とにかく、もうこの世界に居るのはここまでだ。元の世界に戻る出口は
1度に2人までしか入れないので、2人ペアで順番に飛んでいる。面倒くさいレ
イヴンは、渋い顔のファーザス君が首に縄をつけて無理矢理引きずってこの世
界から追い出した。マナの脅しの洗礼で、全くの無抵抗だったのが救いだろ
う。
今ここにいるのは僕とスティルの二人だけ。スティルがこの世界を形作って
いるので、崩壊の可能性を見越して最後まで残っていたのだ。もちろん彼女一
人をさせたくなかったので、僕もここにて居残りだ。
出口に近づいたとき、かすかな気配を感じて立ち止まった。すぐ脇にあった
柱に目を向けると、光の粒子の残りかすが僅かに溜まり、大天使長ルフナだっ
た顔を形作っていた。半ば透明で人魂のようにも見えるのだが、恐怖感は全く
感じられない、怨念に劣る存在になってしまったのだろう。
スティルも残骸の視線に気づき、不安げな表情を見せていたが、逃げずに僕
の隣でかつての主人を見つめていた。
「畜生…!なんで私がこうなるのだ!アンジュ…貴様は天使にあるまじき…恩
知らず…!」
「恩知らずですって?」
「そうだ!堕天使だろうと闇の天使だろうと…お前は天使なのだぞ。この私へ
…恩を忘れたか?この恩知らずが、恩を寄越せ!寛大な私も…これ以上は我慢
が出来ん!」
言葉遣いが崩れたルフトの話に僕とスティルは顔を見合わせた。本当にこんな
事言う奴がいるんだな。家族に例えたら、日常的に酷い虐待していた年老いた
親が子供に『親子の縁だからで献身的に面倒を見ろ』と偉そうに言っているよ
うなものだ。
「わかりました。それじゃあもう貴方を大天使様と呼びません。ルフトと呼ば
せて貰うわよ」
スティルの言葉に僕は頷いた。こいつはもう遠慮なく斬り捨てるか、現実を突
きつけて見捨てて構わない。
「こ、このヒナ野郎…」
「はい。もうあなたに用はありません。さようならルフト」
聞くべき事は聞いたとして、スティルはそれ以上何も言わなかった。
少しの間、言葉にならない悪態のようなものが聞こえたが、やがて隣にいる僕
へと声を掛けてきた。
「私をここまで追い詰めた貴様の目的は一体何だ?正義を貫いたつもりか?そ
れとも中立守るつもりでなのか?お前はまだ若いからまだ知らないんだ!きれ
い事も自分の正義に苦悩して、やがて私のように…」
「正義?中立?笑わせないで下さい!」
話を遮り一呼吸置いて言ってやった。
「僕は悪竜ですよ」
大天使の残骸が揺らめいた。表情が残っていたら驚愕した顔が見れただろう
「イグウィル様、そんなことはないです!」とスティルは否定してくれたけれ
ど、僕の気持ちは変わらない。
「だってそうでしょう。王子の権限で好き勝手して、その責任から逃れて自由
に生きているのですよ?王政も学問も、商売だって同様です」
「ふざけるな!王族の義務を忘れただと!私は誇りある大天使長として国のタ
メにツクシテ…、そして民を導いているのだぞ!」
低い声が周囲に響く。口も声帯が崩れたみたいだけれど辛うじて持ち直したら
しい。それにしてもルフトの主張は現在形か。今の状況を忘れてしまっている
のだろうか。
「そんな考えがばれたら、国のために王族は不要と見なされるぞ、そうなった
らお前はどうするんだ?」
「さっさと特権と王権を手放して旅に出ました。無論、スティルを連れてね」
再び残骸が揺らめいた。彼には予想しなかった答えだろう。正当性に執着する
彼には信じられない言葉だったはずだ。
「なんて野郎だ…王族の役目を放棄しているお前がなんでその報いを受けない
んだ!このヒナ野郎!!」
「何とでも言って下さい。 何を言おうと、貴方は負け翼です。もう、残され
た時間は少ないみたいですしね」
「なっ!?」
彼の口調には恐怖が混ざっていた。実際、ルフトの声は先ほどより明らかに
小さくなっている。辛うじて形を保っていた光の粒子も発光が弱まっている
な、トーラスの旅じゃ「権力とプライドを持ちすぎればは、いつでも最後には
霧となって滅びる」だったかな。その曲型にはまってしまったな、ルフト。
「なぁ、私を助けることができないのか?」
「何をしたいのです?」
「私は今回ので失敗から私は学べだんだ!その知識を元にして国民を導いてみ
せる!そうすれば何もかもうまくいくはずだ!」
僕は何も言わなかった。目も崩れて既に残骸は口だけ、背後の床も再び透けて
見え始めている。
「消える…!!!頼む命令だ、私を助けろ! 死にたくない…しにた…いや
……だ…!」
それがルフトの最期の言葉だった。口を形作っていた粒子がさらさらと風に流
され声を奪った。程なくして風が強まり、残骸すべてがバラバラになって消え
去っていった。
「完全に気配が無くなりました。もう彼はいません…」
傍らでスティルがぽつりとつぶやいた。
「馬鹿野郎…。最後まで間違えたまま消滅だなんて、もう過ちは永久に直せな
いじゃ無いか」
消え去った所では一つの鞄が残されていた。その口が開いており、嗜好品に
ノート、愛読書らしい本がいくつかに転がっていた。恐らく、大天使がここに
逃げ込んだときに持ち込んだ数少ない私物だったのだろう。その全てを拾い上
げてると、僕は鞄に詰めこんだ。
「ルフト、やっぱり僕は悪竜だよ。アナタを断罪して残した物、そして残した
者を全て奪ったのですからね」
僕のつぶやきは、もう大天使に届くことは無かった。
転移ゲートが起動するまでまだ僅かに時間がある。ゲートの中で起動を待つ
間、僕は鞄に詰めた本のいくつかをぱらぱらとめくっていた。
「全部見覚えがある。この『異世界機械物語』なんて本は僕らの世界のベスト
セラーだけれど、この世界でも伝わっていたのか…」
冒険小説から政治学、こっちは軍事関係の本か…、殆どが僕の本棚に置かれて
いる本ばかりだった。閉鎖された天使の社会でも、本の交易か口伝で物語の伝
搬がなされていたのだろう。それにしてもなんだよ、愛読している本まで僕と
似ていたのか…。
「イグウィル様、泣いてるの?」
「えっ?」
伝う涙に全然気がつかなかった。強引に袖でぬぐい取ったけれど、本の文字は
ぼやけて見えたまま。溜飲が下がる思いだけれど片翼も失った、今はそんな気
持ちだった。スティルを虐めたルフトに怒りを覚えつつも、心の何処かで彼を
世界を隔てた自分の分身のように思っていたのかもしれない。
「イグウィル様、もしかしてよく似ていたはずの貴方とルフトでどうして運命
が別れてたのか…って思って居るかしら?」
「うん、その通りさ」
スティルの問いかけに僕は頷いた。僕の事になると鋭いなこの子は。
「二人を近くで見ていた私から言わせて貰うけれど、確かにイグウィル様とル
フトの外見も好みはよく似ています。でも二人は違うって言い切れるわ」
「えっ?雰囲気とかそういうので分かるのかい」
「それだけじゃ無いわ、王族としての立ち回りでもそうだったわ。イグウィル
様もルフトも住民との距離を近づけようとしていたのは一緒よ。でもね、その
アプローチが違っていた。イグウィル様はみんなと翼を並べようとしていたけ
れど、ルフトはみんなの翼の上を舞って先導しようとしていたのだから」
「翼の上…?そうか、「大天使長として天使を導く者だ」という先導者という
ことだね?」
「そうよ、その気持ちを抱えたまま大天使の地位を自分の力で掴み取れてしま
ったせいでしょうね」
スティルの言うとおり、あの大天使には喜怒哀楽を見せられる友人もブレーキ
役もアドバイス役もいなかった。強い実権を持っていたのだから政策も似たよ
うなものだろう。一人だけの政策作りなんて道を目隠しをして歩き出すのと一
緒だ。どんなにまっすぐに進むよう教わり送り出されても、愚か者なら最初か
ら、優秀な者でも道しるべとなる先導役が居なければ月日を経て道を踏み外す
ことになるだろう。「先生を教えてくれるヒトは居ない」先生が口にしていた
言葉が思い浮かんだ。このときの彼もきっと同じ境遇だった筈だ。
このことに彼は最後まで気がつくことが出来なかった。失敗から学んだと言っ
ていたが、仮に時間を巻き戻せても、また別の所で似た過ちを繰り返して終わ
るだろう。
「僕も選択を誤れば、この大天使長のようになっていたのだろうか…」
「大丈夫よ。心を閉ざした天使と一緒に夜景を眺めてくれた王子様は、ルフト
みたいに決してならないわ」
ああ、やっぱりあのことを覚えていてくれたんだな。
「私たちは今から未来に向かっているのよ。独りよがりの生き方を歩んだかも
しれない過去にはもう戻れないのよ。それにイグウィル様の身近には翼を並べ
たヒト達が沢山いるんだから。王様になっても先生やお友達が沢山居ると思う
わよ。あ、もちろん私はその中でも隣にいるわ、絶対にね」
そう言うと、スティルが僕に腕を絡めて身を寄せていた。
この子が隣に居て本当に良かった。それにしても、いつの間にこうすることが
自然になったのだろう。
不意に彼女の背中に違和感を感じて目を向けてみた。よく見ると背中の羽根
から堕天使特有の青白い光が消えてゆき…。いや、それだけじゃない、翼の形
をした光の輪郭が動いているじゃないか。
「スティル、君の翼の形が…!?」
「大丈夫、分かっているわ。イグウィル、元の世界に戻ったら…驚かずに私か
らの祝福を受け取ってくださいね…絶対に!」
「え、それってどういう…?」
言い終わる前に、ゲートの光が強まり、空間を白く包みはじめた。とうとう元
の世界に戻る時がやってきたのだ。今の気持ちは…なんだろう。題名を付ける
なら終わりまで見れた夢からの目覚め、という所だろうか。この世界自体がス
ティルの夢世界みたいなものなのだから。
白い光が視界と音を溶かし込む。そんな空間で僕が最後に見えたのは、首へ
と飛びつく笑顔のスティルの姿だった。
亜世界編終了です。




