第三章 その1
過去編です。ある人物の一生を語るお話です。
安藤を安藤にした、とある人物の。
十歳の時、ワタシは大きな事故に巻き込まれた。
瓦礫に囲まれた暗闇の中、ワタシは数時間後には確実にやってくるであろう「死」に怯えていた。
ワタシのうちは代々のクリスチャン。もしもワタシの両親がその時のワタシと同じ状況になったとしたら、彼らは十字架をきって祈り続けただろう。
しかしワタシは十歳の子供。日曜日に教会に行きはするけど、それは両親について行っているだけ。ワタシに信仰なんてモノはなかった。
だからワタシは延々と両親のことを呼び続けた。いつも優しいおじいちゃんとおばあちゃんを呼び続けた。友達を呼び続けた。
『かかっ。助けてやろうか?』
祈りもしないワタシではあったけど、そんな声が聞こえた時は純粋に神の存在が頭をよぎった。
耳ではなく、頭の中に直接響く声。その主は神なのか……悪魔なのか。
けど、そんな困惑は数秒で終わり、ワタシは助けてほしいと叫んだ。
気づくとワタシは日の光を浴びて立っていた。
救出されたのではない。自力で脱出したのだ。
重たい瓦礫をどうやってどけたかは覚えていないけど、自分で出たことは確かだった。
ワタシを見つけ、駆け寄ってきた両親は神に感謝をささげた。そんな両親を見て、その時のワタシは声の主が神だったのだと思い、感謝した。
今思えば、あの瞬間がワタシの中で神が最も輝いていた時だった。
数日後、声の主に出会うまでは。
ワタシを助けた奴は、神でも悪魔でもなかった。
それから十五年、ワタシの日々はまさにバラ色。最高だった。
運動も勉強も常に一番。何をやっても天才と呼ばれた。
父親の仕事が急に良い方向に走り出し、わずか数年でワタシの家は世界で十本の指に入るお金持ちになった。
能力、経験、物。欲しい物は全て手に入った。空だって飛べたし、思い描いただけでその場所に移動することもできた。
それらをワタシに与えたのは、ワタシを助けた奴だった。
もしも、ワタシを助けたのが神や悪魔だったなら思わなかっただろうけど。
ワタシは、そいつに恩を返したいと思ったのだった。
「家族には……手を出すな。」
ワタシの前で横たわる男がそんなことを言った。
「家族……あなたには奥さんと娘さんがいたわね。」
「そうだ! もしも手を出したら!」
「ごめんなさいね。リーダーからの命令は家族全員抹殺だから。」
「! なんでだ! 妻も娘も、《お医者さん》ではないんだぞ!」
「そうね。ワタシもそう思うのだけどね。リーダーがそう言うのだからそこには必ず意味があるのよね。」
「!! 《パンデミッカー》め! 異常者が!」
「一応言っておくけど、ワタシは《パンデミッカー》であってもその心は《パンデミッカー》にないのよね。単に、リーダーがワタシに協力してくれているからその代わりというだけな――」
どこから取り出したのやら、男は拳銃をワタシに向けて発砲した。
「んな!?」
銃弾はワタシの横を通過して壁にめり込んだ。
「こ、この距離で外すわけが……よけたのか……」
「そうね。発射された後でよけるのは人間離れしているけれど、発射される前によけるなら充分に人間技よね?」
「化け物め!」
「失礼ね。ちょっと目がいいだけなのに。」
ワタシはゆっくりと息を吸う。
「くそ! 頼む、妻と娘には――」
「おやすみなさい。」
ワタシのその一言で、男は絶命した。
「ご苦労だった。」
いつもの部屋に入ると車いすに座った男がそう呟いた。
正面に大きな窓があり、その近くに小さなテーブルが一つ。そして部屋の両脇にはソファ。無駄に広く、舞踏会でも開けそうな空間だけど内装はシンプルな部屋だ。
ワタシの定位置は向かって右のソファ。車いすの男は小さなテーブルの近く。左のソファには……今はいないがもう一人が座る。
個室はあるから……まぁ待機する部屋というところね。
《パンデミッカー》のトップ三人が待機する……部屋。
「ねぎらいは別にいらないわ。それより……」
「わかっている。」
車いすの男が紙を一枚ワタシによこす。
「そこに可能性が少しある。」
「……行ってくるわね。」
さっき帰ってきたばかりだけど、ワタシは紙に示された場所を頭に思い浮かべる。
「……まだ続けるのか?」
車いすの男がぼそりと呟いた。
「前にも言ったが、かなり確率の低い――」
「ゼロでないならそれでいいわ。」
十五年間の絶頂期。それを終わらせたのは他でもないワタシだった。
二十五歳になったワタシは飽きていた。贅沢なことだけど、なってしまったのだから仕方がない。逆に言えば、たかが十五年の全能で人間は人生に飽きることができるらしい。
そして思い至ったのはワタシを助けた奴への恩返し。楽しい人生を……十五年前に終わっていたはずのワタシの人生を素晴らしいモノに変えてくれた恩……今こそそれを返そうとワタシは思った。
『かかっ。もういいのか? 五百年くらいは待てるんだがな。まさかたった十五年とは。お前が恩を返す人間だということは初めから知っていたことだが……ここまで早いと逆にびっくりで心配だ。』
事故から数日経ったその日、ワタシが自分の部屋に戻ると変な生き物が机の上に立っていた。
身長は三十センチくらい。人型だけど凹凸のない真っ白な身体で顔もない。唯一の特徴は頭の左右にある角のような耳のような部分だけ。
その生き物は特に何も言わず、ワタシの人生をバラ色にしていった。そのバラ色に惹かれ、ワタシは今までその生き物のことを真剣に考えてこなかった。だから、「恩返しをしたい」と言ったことがワタシとその生き物の初めての会話だったと言っていい。
『かかっ。お前にして欲しい恩返しはただ一つ。我の力をもってしても見つけることのできない我の家を探してほしい。』
全能の力を持っているのになぜかそれだけは容易に叶わず、地道に探すしか方法がない。その生き物はそう言った。
『かかっ。実のところ、お前を見つけたのも一つの奇跡なのだ。我の家の条件、五つのうちの二つを満たしている。ここ数百年で一番の進展だ。』
ワタシとなら見つけられる可能性が一人で探すよりも高いのだとか。ワタシはその生き物の家探しを手伝うことで恩返しをしようと考えた。
『かかっ。必要な知識は全て与えよう。方法などは相談しよう。共に我の家を探してほしい。』
「わかったわ。……あなたの名前はなに?」
『かかっ。名前か。特に決めてないんだが……ああ、そういえば昔会った人間が我の能力から我のことを《イクシード》と呼んだな。ふむ、それでいい。我の名前は《イクシード》だ。』
「そう。ワタシは……まぁ知ってるでしょうけどね。一応名乗るわね。」
その瞬間がワタシの人生、一つ目のターニングポイント。ワタシと《イクシード》の旅の始まりと、彼との出会いの運命を決定した時。
「ワタシの名前は、キャメロン・グラント。」
この世界には、ヴァンドロームと呼ばれる生き物がいる。そこらの動物と変わらず、えさを食べて成長し、交配して子孫を作り、そして寿命を迎えて死んでいく。
ただ、この生き物が普通かと問われれば、ワタシは否と答える。
彼らのえさは他の生物の『元気』だ。正確に言えばなんらかの化学物質……ということになるのだろうけど、そこまでは判明していない。
生き物の「元気がなくなる」という状態は『元気』という物質が体外に放出されるということと等しい。ヴァンドロームはそれを食べる。
しかし、だからと言って他の生物の「元気がなくなる」のを待っていては餓死してしまう。だからヴァンドロームは進化した。強制的に生物から『元気』を放出させるという能力を手に入れた。
強制的に病気にする。それがヴァンドロームの能力だ。正しくは病気になった際の症状を強制的に引き起こす。
ヴァンドロームは他の生物にとりつき、特定の症状を引き起こし、それによって放出される『元気』を食べる。そういう生き方をしているのだ。
ヴァンドロームには多くの種類があり、それぞれが異なった症状を引き起こす。しかし『元気』を食べるゆえに、とりつかれた生き物が最終的に辿り着くのは「死」だ。『元気』とは即ち生きる気力のようなモノだから、食べつくされると廃人のようになって死ぬ。
しかも厄介なことにヴァンドロームは普段見ることができない。こっそり近づいてこっそり『元気』を食べる。そういう風に進化してしまった為にとりつかれる前に見つけることは至難の業。
では、とりつかれた生き物は黙って「死」を待つのか。少なくとも、人間はそうはならなかった。
ヴァンドロームを専門に扱い、彼らを退治する者。《お医者さん》が現れるのに、そう時間はかからなかった。
人間にもとりつくヴァンドロームと、ヴァンドロームと戦う《お医者さん》。両者の歴史はかなり長い。世間一般にはあまり知られていない、この世界のちょっとした秘密だ。
まぁ秘密と言っても、実は誰もが一度は触れたことのある世界だ。
世間的にはオカルトとされる錬金術や魔術は、大抵が《お医者さん》の技術だ。そして、ネッシーとかビックフットみたいな未確認生物は奇跡に近い偶然で見ることができたヴァンドロームだと言われている。
ヴァンドローム……そう、何を隠そう、《イクシード》はヴァンドロームだ。ただし、そこらのヴァンドロームとはわけがちがう。
《お医者さん》の間で、ヴァンドロームは六段階のランクに分けられる。AからEとS。Sはもちろんスペシャルの意味だ。
Bランクを超えた辺りから人語を理解し、Aランクは強敵中の強敵となる。Aランクを退治できるとなれば、《お医者さん》として一流と言えるだろう。
そして、Aランクのさらに上。Sランクに分類されるヴァンドロームは数える程しか存在しない。というのも、Sランクの連中はヴァンドロームが突然変異して生まれた、言わば規格外の存在なのだ。
Sランクのヴァンドロームには生殖能力がなく、その個体で完結する。ただし、その能力は地球上のいかなる生物をも凌駕する。表現するなら、神か悪魔だ。
人間の理解の及ばない超常的な能力を使うSランクは、どんな《お医者さん》でも退治不可能とされる。核爆弾を使っても傷一つ与えられないと言われるほどだ。
驚異的な生命力のおかげでもはや不老不死。そんな永遠を生きる化け物であるSランクのヴァンドロームの内の一体が《イクシード》なのだ。
『かかっ。我ら……《お医者さん》が言うところのSランクは完全存在。圧倒的な力と頭脳。全てを超えている存在。だからこそ……全てのSランクが最終的に望むモノは安住なのだ。』
全てのヴァンドロームには最適な住処というモノが存在する。動物が巣を作るように、ワタシたちが家を持つように、彼らにもくつろげる空間を欲するという考えがあるのだ。
ヴァンドロームにとっての住処とは即ち他の生き物の身体なのだそうだ。ヴァンドロームの種類によって何を最適な住処の条件とするかは異なるけど、とにかくそれは他の生き物の身体。
『かかっ。我の家は条件が厳しいのだ。一体どれほどの確率で存在するのやら。』
《イクシード》は何百年……何千年という時間を家探しに費やしてきたらしい。そして完全とは言わないけど、ワタシはその条件とやらをいくつかは満たしているのだ。
「……日本ね。」
紙に示されていた場所に移動し、辺りを見回す。日本の……どこかの住宅街。その真ん中にある公園にワタシは立っていた。俗に言う瞬間移動なわけだけど、ワタシの出現に驚く人間はいない。そういう風に《イクシード》がしている。
『かかっ。毎度のことながら、あの男の予測の方法は意味がわからないな。』
「あなたがわからないんじゃ誰もわからないわね。」
『かかっ。我よりも賢いSランクはいるぞ?』
他に人には聞こえない《イクシード》の声に呟くように答えながら、ワタシはベンチに腰掛けた。
時刻は夕方。公園には小さな子供がたくさんいる。
……いつもならワタシは白衣を羽織っているんだけど……家探しの時は色々と面倒なので脱いでいる。今のワタシはワンサイズ大きいシャツにロングスカート。そしてサンダル。髪にはあんまり興味がないから伸ばしっぱなしの手入れなし。年齢は三十だけど《イクシード》の影響なのか、マイナス五歳くらいは若く見えるから……近所の大学生か何かに見えるだろう。
「……さて、どの人がそうなのかしらね。」
ワタシは渡された紙を見た。
ワタシに紙をよこした車いすの男はアウシュヴィッツという。彼は《パンデミッカー》のリーダーだ。
《パンデミッカー》とは《お医者さん》と逆の立場でヴァンドロームに触れる連中だ。ヴァンドロームを神の使いだなんだと言って崇めている。そして連中の最終的な目標は……「神」を復活させることだ。
アウシュヴィッツによると「神」とは、その昔に《お医者さん》によって封印されてしまったとあるSランクなのだそうだ。その封印を解くため、ヴァンドロームを人にとりつかせて『元気』を収集している。それが、今のワタシが所属する《パンデミッカー》という組織だ。
……ワタシは五年前に《パンデミッカー》のメンバーになった。でも「神」の復活なんてものに興味はない。ただ、アウシュヴィッツという男の能力を借りる目的で入った。アウシュヴィッツはワタシの願いを聞き入れ、代わりに《パンデミッカー》として「ある仕事」を要求した。
《パンデミッカー》にとって不利益な《お医者さん》の抹殺。
そう……ワタシは人殺しだ。
……十五年間の絶頂期がワタシの価値観を変えたのか、元々ワタシはこういう性格なのか。はっきりとはわからないけど、ワタシは後悔していない。ワタシはワタシの恩人に恩を返す。それだけを目指している。どうせあの時死んでいた命なのだ。今更どんな罪を被ろうと別にどうでもいい。
《イクシード》の力とワタシ自身の能力により、ワタシは《パンデミッカー》最強の称号を得ている。今や組織のナンバーツーだ。
アウシュヴィッツから仕事を頼まれれば、要求通りに人を殺す。殺すたびに他の《パンデミッカー》から賞賛と尊敬を受ける。そして仕事以外はアウシュヴィッツの能力を頼りに《イクシード》の家探し。
これが今のワタシだ。
「うわあああん。」
ぼうっとベンチに座っていたら子供の泣き声がした。
「あー、またないたー。」
「だからやなんだよなー。」
公園の真ん中あたりに小さな子供が集まっている。小学生……いや、幼稚園くらいか。
「うわあああん。」
子供たちが文句を言いながら囲んでいるのは一人の男の子だった。
「あらあら……」
そう言いながら一人の女性が男の子に近づく。たぶん、母親だろう。
「大丈夫? どこが痛いの?」
母親に抱きかかえられる男の子。他の子供たちはぶつぶつ言いながら、遊びを再開する。
「うわあああん。」
……あまりにわんわん泣くので、ワタシはどんな怪我をしたのか気になった。どうせ膝を擦りむいたとかその程度だろうけど……
「……? あら?」
《イクシード》の力で男の子の身体を軽く分析した。だけど傷一つない。
……強いていえば……手の平にちょっとしたダメージ。机を軽く叩いた程度の痛みが手の平に広がっているのが見える。
でも……その程度の痛みであんな大泣きしているの?
「……!! まさかあの子!」
『かかっ……ついに当たりか?』
《イクシード》の興奮が伝わってくる。もしかしたら……
「……ちょっと調べてみましょうか……」
本音を言えば問答無用であの子をさらって行きたかった。けれど、もしもあの子が《イクシード》の家の条件を満たしているなら、相当慎重に動かなくてはならない。強引な方法をとれば、最悪あの子は死ぬ。
ワタシはあの子を抱えて公園をあとにする母親を追いかけ、家を特定した。家の場所と苗字がわかれば大抵のことが判明する。ワタシは表札に目をやった。漢字には詳しくないけど、日本ではよくある苗字だったから読むことができた。
「アンドウ……か。」
ワタシは今の住居……《パンデミッカー》の本拠地に戻り、自分の部屋に入った。
「アンドウ……それで住所が……」
パソコンを起動して情報を入力。すると家族構成やあの子が通う幼稚園などが画面に表示された。
《パンデミッカー》が使うパソコンは全てアウシュヴィッツが作った物。パソコン初心者でも国の機密にハッキングできてしまうという化け物みたいなパソコンだ。
「名前は……アンドウキョーマ。現在五歳……やっぱり、病院に行ってる回数が半端ないわね。」
『かかっ。何系だ?』
「そうねぇ……眼科、耳鼻科、皮膚科……きてるわね、これは。」
『かかっ。健康診断の記録とかはないのか?』
「あるけど……意味ないわね。」
『かかっ。そうだったな。これは直接調べてみないといけないな。』
「そうね……怪しまれないようにするには……」
ワタシと《イクシード》は綿密に計画をたてた。
「なに? 見つかった?」
ワタシの報告を聞き、アウシュヴィッツは驚いた。いや……驚いたと思う。
「ええ。まだ確信は得てないけどね。」
「そうか……」
アウシュヴィッツは車いすを動かし、窓の外を見る。
「――けだったか。」
「? 何か言った?」
「いや……部屋に戻る。」
そう言ってアウシュヴィッツは部屋から出て行った。
『かかっ。あんまり嬉しそうじゃないな。』
「そりゃあね。ワタシは《パンデミッカー》の思想に賛成してここにいるわけじゃないからね。目的を果たしたらここにいる必要はないものね。」
『かかっ。大幅な戦力ダウンというわけだ。』
「心配ないと思うわ。ワタシの代わりはすぐに見つけてしまうわよ。それに、そもそもそんな存在もいらないと思うわね。」
『かかっ。そうか?』
「アウシュヴィッツは……パーフェクトマッチなのよ?」
『かかっ。』
《イクシード》はいつにも増して楽しそうだった。まぁ、それもそうよね。何せ、自分がそうなるかもしれないのだから。
ヴァンドロームを研究している勢力は《お医者さん》と《パンデミッカー》の二つだけど、研究内容はかなり異なる。《お医者さん》はヴァンドロームを倒すための研究で、《パンデミッカー》は使うための研究だ。
ヴァンドロームは神の使い。その力は神復活のために使用される。それが《パンデミッカー》の考えだ。力とはすなわち症状のこと。《パンデミッカー》だけが知っている方法でヴァンドロームを操って指定した生物にとりつかせる。そして症状を発症させるのだ。
これは『元気』の収集という目的の他に、相反する勢力である《お医者さん》と戦うための力として使われる。
ヴァンドロームはとりつくと症状を引き起こすけど、その症状そのものでとりついた生き物が死んでしまわないよう、力を制御している。これを《パンデミッカー》ではリミッターと呼んでいる。このリミッターを解除すると、発症する症状は普通のそれを遥かに超えるモノとなり、Sランクを彷彿とさせる、もはや超能力と呼べるレベルの代物になる。
これを利用し、《パンデミッカー》はリミッターを解除したヴァンドロームを自分にとりつかせて強大な力を得るのだ。もちろん、元が症状なだけに身体に負荷はかかる。
ヴァンドロームのリミッターを解除し、自身にとりつかせるという戦法で《お医者さん》と戦ってきた《パンデミッカー》。そんな中、一人のメンバーがこんなことを考えた。
『ヴァンドロームが発症させる症状を元から発症している人に対してとりつかせるとどうなるのだろうか。』
つまり、『発熱』という症状を引き起こすヴァンドロームがすでに『発熱』している人間にとりついた時。そして、そのヴァンドロームのリミッターが解除されている時、一体何が起こるのか。《パンデミッカー》はその状態をパーフェクトマッチと呼び、これについての研究を長い間行ってきた。
リミッターを解除した際に得られる力というのはランクが上のヴァンドロームほど強い。だからパーフェクトマッチも上位ランクのヴァンドロームで試したいところだった。だけど、ランクが上のヴァンドロームが引き起こす症状というのはかなり珍しいモノが多く、それをすでに発症している人間を探すというのは非常に困難だった。
そんな中誕生した一つの成功例。それがアウシュヴィッツだ。
アウシュヴィッツにとりついているヴァンドロームはAランクの《パウリーネ》。こいつが引き起こす症状を、アウシュヴィッツはすでに発症していた。
その症状の名は『サヴァン症候群』。
サヴァン症候群とは、ある特定の分野においてのみ天才的な能力を発揮する症状のことだ。自閉症という、他者とのコミュニケーションに支障をきたす病気と関連があるとされているけど、実のところ、原因も何もわかっていない症状だ。
この症状を持つと、例えば膨大な桁の計算を一瞬でしてしまったり、一度見ただけで風景を記憶してしまったりという能力が発現する。ただし、本当に特定の分野のみに発揮されるモノであり、風景を覚えるにしても、写真では記憶できなかったりする。
どのような能力が発現するかはまったくわからず、同じ能力を持つ者は存在しないとさえ言われている。
《パウリーネ》にとりつかれた者がどんな能力を得て、逆にどんなマイナスが起きるのかはランダムだ。また、アウシュヴィッツが元々どんな能力を持っていて、どんなマイナスを持っていたのか、ワタシは知らない。
ただ言えることは、リミッターが解除された《パウリーネ》がとりついたアウシュヴィッツは天才であるということだ。
スーパーコンピューターで何年もかかる情報処理を数秒でできてしまい、情報を渡せばアウシュヴィッツに予測できないことはない。
さらに、特殊な機械を一切使わずにインターネットに接続できてしまうらしい。脳の波形と周囲の電磁波がどうたらこうたらという難しい説明を受けたことがあるけど、ちんぷんかんぷんだった。
ネット上の無限とも言える情報と、それを処理する能力を持った脳。特定の分野どころではない。全ての分野においてアウシュヴィッツは天才を名乗れるのだ。
パーフェクトマッチがどのような結果を出すのかを証明し、かつその頭脳が認められ、アウシュヴィッツは今、《パンデミッカー》のトップとなっている。
……まぁ……その代償として、《パウリーネ》がとりついている間は両脚がまったく動かず、また顔面の筋肉があまり動かない。
要するに、顔は常に無表情で車いす生活というわけだ。もう六十近いおじいちゃんで髪もだいぶ少ないのだけど、その頭脳と表情で完全に悪の親玉みたいな風貌となっている。
そして……《イクシード》の家の条件というのもずばり、パーフェクトマッチであることなのだ。Sランクである彼が発症させる症状はレア中のレアで……そもそも病気でもない。加えて、《イクシード》は人間をご所望ときている。会話できる家がいいとかなんとか言ってるわけだけど……そんな人間、存在するのかどうかも怪しいところ。
……《イクシード》が引き起こす症状は『異常五感』なのだ。
異常五感……そんな病気は存在しない。だけど、その内容は別段理解不能なモノではない。
目がいい人間というのがいる。視力検査というのは基本的にマックスが二・〇だけど、厳密に測定すれば五・〇や一〇・〇という数値をたたき出す人間がいることは確かだ。
耳がいい人間というのがいる。ほんの小さなささやき声、壁の向こうの会話を特別な機械を用いなくても知覚できてしまう人間がいることは確かだ。
皮膚の感覚がいい人間というのがいる。実際、健常者にはなんのことやらさっぱりわからないのに、点字というのを読める人間がいることは確かだ。
舌がいい人間というのがいる。食べた料理に使われている食材、調味料を全て当ててしまう人間がいることは確かだ。
鼻がいい人間というのがいる。優秀なソムリエは、味わわずとも、香りだけでそのワインの銘柄を当ててしまう。そんな人間がいることは確かだ。
視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。人間にはこの五感があり、その内の一つが突出している人間はざらにいるわけだ。
だけど《イクシード》は一つだけではなく、五つ全てを「いい」という言葉では表現し切れない……まさに「異常」と呼べる段階まで引き上げてしまう。それが『異常五感』だ。
宙に舞う細菌、カーペットのダニなどがハッキリと見えてしまう。数キロ先の車の音、町の騒音、周囲の人間の呼吸音、心臓の鼓動が聞こえてしまう。肌にほこりが触れる感触、蚊が自分の血を吸う感覚をはっきりと認識できてしまう。料理に使われた器具から出たわずかな鉄分などの味がわかってしまう。マンホールの遥か下を流れる下水の臭いを嗅ぎ取ってしまう。
さらに、異常に高められた五感に脳がついていけず、ちょっとしたショックで死に至る。例えばカメラのフラッシュ、車のクラクション、デコピンなどで死ねてしまう。
そんな、五感全てが異常な人間を探す。それが《イクシード》の家探しだ。
家の条件五つの内の二つ……ワタシは視覚と聴覚に異常を持っている。まぁ、異常とは呼べないか。視力は六・〇で聴力は「かなりいい」と分類される程度だ。
《イクシード》によると、ワタシの身体にとりついているとなんだか力がみなぎる感覚を覚えるのだそうだ。どういう仕組みか知らないけど、もしも『異常五感』の人間にとりついたら、《イクシード》の力は今の数倍に跳ね上がるらしい。
もともと無敵なSランクなのにさらに強くなってどうするのやら……
後日、ワタシはあの公園にやってきた。目的はもちろん、アンドウキョーマとの接触だ。調べたところ、彼の両親は《医者》だったので、その知り合いという感じで近づこうと思う。よって、今日のワタシは白衣を着ている。子供にはわかりやすいだろう。
休日の午後。幼稚園児とはいえ、来年には小学生になる年齢だ。休日なら子供だけで遊んでいるだろうというワタシの読みは当たったようだった。
「はやくー。」
「ま、まってよー。」
公園には何人かの子供がいるが、ワタシが注目したのは一人の男の子と一人の女の子。
男の子の方は目標のアンドウキョーマ。女の子の方はアンドウ一家と仲良くしている、これまた《医者》一家の娘……フジキルル。どうやらこの二人は本当に小さい時から一緒に育ったようだ。このまま行けばなんだか恋愛感情も芽生えそうな二人だけど……まぁ、それは置いておこう。
「じゃーきょーまくんがかいじゅうね。あたしがまじかるつくねちゃん。」
「うん……あとでこうたいだよ、るるちゃん。」
どうやら女の子の方……フジキルルの方がアンドウキョーマを引っ張っていく関係のようだ。普通なら逆にもなりそうだけど……仮にアンドウキョーマが『異常五感』なら、消極的な性格になるのはわかる。程度にもよるけど、普通の大きさの声にびくびくしてしまうのだから。
それはそうとアンドウキョーマ……交代ということは「まじかるつくねちゃん」とやらになるのかしら?
二人がごっこ遊びを始めたので、ワタシも準備する。取り出したのは小瓶。中にはとある液体が入っている。芳香剤にも使われる、かなりいい匂いの液体だ。だけど、この小瓶の口に鼻を近づけないとそれはわからない。
……普通はね。
「さて……どうなるか。」
ワタシは小瓶のふたをあけた。
「まじかるふぁいあー!」
「や、やられたー。つ、つぎこそは――あれ?」
「? どーしたの?」
「なんかいいにおいする。」
! ビンゴ! この距離で嗅ぎ取るなんて相当なモノだわ。いえ、「異常」と言っていいわね!
『かかっ。しかもある程度制御できてるな。』
「制御?」
『かかっ。実はこの公園の……あの辺りに犬のふんがあるのだ。』
「……なるほど。その臭いは遮断している?」
『かかっ。あまりに良すぎる嗅覚だということを脳が理解している。だから臭いを嗅いだという事実を認識しても良いモノと悪いモノを区別している。』
「……すごいわね。」
『かかっ。後天的ならともかく、生まれつきなら身体も対応もするさ。』
「嗅覚は合格でいいわね?」
『かかっ。もちろんだ。残るは四つ。』
「そうね。でも……ある程度制御できているなら、残りの四つは直接話さないとダメね。」
『かかっ。頑張れよ。』
ワタシは立ち上がり、二人に近づく。
「こんにちは。」
ワタシがそう言うと二人はきょとんとした。
「えっと……アンドウキョーマくんとフジキルルちゃんよね?」
「そうだよー。おねえさんだれ?」
「るるちゃん……しらないひととはなしちゃだめって……」
アンドウキョーマが不安気な顔をする。
「あ、大丈夫よ。ワタシはアンドウ先生とフジキ先生にお世話になってる……お医者さんよ。名前はキャメロン。」
「きゃめろん? すごーい! がいじんさんみたいななまえー!」
「るるちゃん……たぶんこのおねえさんはがいじんさんだよ……かみのけが……」
? 髪の毛?
「ほんとだ! きんぱつだよ、きょーまくん!」
……金髪? ああ、そういえばワタシはブロンドだった。この前は大学生に見えるかと思っていたけど……全然そうは見えないじゃない。
「ママとパパのおともだちなの?」
「そうよ。それで……キョーマくんのことを聞いてね。」
ワタシはしゃがみこみ、おどおどしているアンドウキョーマの方を向く。
「お父さんから聞いたわ……あなたの……病気っていうのかしら?」
アンドウキョーマがビクッとする。そして同時にフジキルルがワタシとアンドウキョーマの間に入る。
「きょーまくんはびょうきじゃないもん!」
ワタシは少し面食らう。でも……当然の反応かもしれないわね。自分の友達が病気だなんだと言われていい思いをする人間はいないわね。
「え、ええ。そうね。わかってるわ。ごめんなさいね。」
ワタシはコホンと咳払いする。
「実はワタシはキョーマくんが困っていることに関しての専門家でね。キョーマくんの手助けができればいいなーって思ったのよ。」
「え……」
アンドウキョーマが反応した。
「そ、それじゃあ……おねえさんはめとかみみにくわしいの?」
目とか耳。視覚と聴覚。これはいよいよ……
「そうね。だから、今のキョーマくんがどれくらいの……目とか耳を持っているのか知りたいのだけど……いいかしら?」
「う、うん。」
アンドウキョーマが頷くとフジキルルがなぜか誇らしげにこう言った。
「きょーまくんはすごいんだからねー。みんななきむしっていうけどぜんぜんちがうんだよ!」
……泣き虫? まぁ調べればわかるわね。
「それじゃ……まずは目からね。」
ワタシはポケットから数枚のカードを取り出した。
「あー、それしってる! めのけんさでつかう「C」でしょ!」
「ええ。ランドルト環っていうんだけどね。キョーマくん、これのやり方は知ってるね?」
「うん……あなのあいてるほうをゆびさすんでしょ?」
アンドウキョーマをベンチから十メートルほど離れた場所に移動させ、ワタシはカードを見せた。ランドルト環の大きさは五ミリ程度で、本来の視力検査の際の距離を軽く超える遠さなのだけど……
「これは?」
「うえ。」
「これは?」
「した。」
アンドウキョーマは迷うことも、目を細めることもなく答えていく。結果、全問正解した。試しに公園の端から端までの距離をとってみたけど、これまた全問正解してみせた。ざっと四十メートルはあるんだけどね……
『かかっ。お前より視力いいんじゃないか?』
《イクシード》の嬉しそうな声がする。
「なるほどね。それじゃあ、次は耳ね。」
アンドウキョーマと公園の端から端の距離を取り、ワタシはイヤホンに音量最小で音楽を流す。
「なんのきょくなのー?」
ワタシの隣にいるフジキルルには聞こえていない。
「キョーマくん、聞こえるかなー?」
ワタシが手を振りながらそう言うとアンドウキョーマは両手で大きな丸を描いた。ワタシはアンドウキョーマに戻るように言い、何の曲かを尋ねた。
「えっと……うんどうかいできいたことあるきょくだった。」
地獄のオルフェ。オッフェンバック作曲のオペレッタ。日本だと……天国と地獄。
「正解だね。」
「すごーい。きょーまくんはなんでもきこえるんだねー。うさぎさんみたい。」
「うん……」
「次は……触覚ね。」
ワタシはランドルト環のカードの裏を見せる。
「ここにね、丸とか三角みたいな形が描いてあるの。」
「えー? なにもみえないよー?」
「目では見えないの。触ってわかる……点字ね。キョーマくん、触ってみて。」
アンドウキョーマはカードを受け取り、その裏を指でなぞる。
「……ほんとだ。なにかかいてある……」
しばらく触って何が描いてあるかをじっくりと調べたアンドウキョーマは地面にその形を描いた。
「こんなかんじのかたち……かな。」
「あ、おほしさまだ。」
その通り。カードの裏には星が描いてある。ただし……顕微鏡でやっとわかるほどに小さい物質で描かれた星。点字を読み取れる人間でも……いえ、点字が読める程度では決して知覚できない凹凸。
「すごいね、キョーマくん。」
ワタシは……というかワタシと《イクシード》は興奮を隠せない。あと一つ。
「最後は味覚。これ、なめてみて。」
ワタシはさっき使った小瓶とは違うモノを取り出し、その中の液体をアンドウキョーマに舐めさせた。フジキルルも舐めてみるといって舐めた。
「? おみず? なんのあじもしないよ?」
そう……普通はそういう反応だ。
「どう? キョーマくん。」
そう尋ねると、アンドウキョーマは嬉しそうな顔をしてこう言った。
「あまい……」
公園のベンチで二人の子供がワタシが買ってあげたジュースを飲んでいる。
「なんだかたのしかったねー、きょーまくん。」
「るるちゃんはなにもしてないけどね……」
ワタシはそんな二人を横に座って眺めている。こころなしか、少し手が震えている。
『かかっ……かかっ!』
《イクシード》が歓喜している。
簡単な検査だから具体的な数値はわからないけど……アンドウキョーマの五感は「異常」と呼べるそれだった。
「これでころんでもなかなければきょーまくんはすーぱーまんだね!」
「むりだよぅ……いたいもん……」
「? 痛い?」
ワタシは二人の会話に入る。
「きょーまくんはね、みんなから「なきむしきょーま」っていわれてるの。ころぶとすぐなくから。」
「だっていたいんだもん……」
そうか……この前大泣きしていたのもやっぱり異常な触覚のせいだったのね。ということは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚はある程度制御できているのに対して触覚だけはできてないってことね。
この前見た……手の平に広がっていたあの痛み。もしかしたらアンドウキョーマには手の皮を全部はがされるくらいの痛みが走っていたのかもしれないわね。
「……アンドウ先生は今おうちにいるかしら?」
「いないよ……よるになったらかえってくるけど。」
「そう……」
その後、アンドウキョーマとフジキルルとしばらく色々な話をして、ワタシは二人と別れた。
『かかっ。どうするんだ?』
「それはワタシのセリフね。」
ワタシは再び自分の部屋に戻っていた。アンドウキョーマの親は夜になれば帰ってくる。アンドウキョーマを手に入れるために両親を説得するなり殺すなり……どちらにしても夜までは待つことになる。
ベッドに横になり、ワタシはワタシの中に住む恩人と会話をする。
「今、あなたはワタシの身体に住んでいる。でも住んでいるだけで主導権は常にワタシにある。……どうするの? あなたはあの自分に最適な家を支配したいの? それとも今のワタシみたいな状況にしたいの?」
『かかっ。もうちょい前だったら支配と答えただろうな。だが……会話がないのはなかなか寂しいモノなんじゃないかと、お前との生活で思った。できれば、今のお前との関係をあの子供と築きたいものだ。』
「そう……そうなると、あの子にはヴァンドロームのことを話さないといけないわね。《お医者さん》とか……《パンデミッカー》とか。」
どうしたものかしらね。ワタシが《お医者さん》だったら何の問題もなかっただろうけど……ワタシは《パンデミッカー》。こんなこと言うとアウシュヴィッツに怒られそうだけど、明らかに《パンデミッカー》が悪者だものね。上手に説明できるかしらね……
『かかっ。一つ……提案なんだが。』
「? 改まっちゃって。なに?」
『かかっ。アンドウキョーマを我の安住の地とするとならば、あの子供には触覚もキッチリ制御できるようになってもらいたいわけだ。』
「そんなの……あなたが色々指導すればいいじゃない。五感に関して、あなたの右に出る者はいないわ。」
『かかっ。何百、何千年と生きて人間を見てきたが、どこまで行こうと我は人間ではない。人間にモノを教えるのならそれは人間であるべきだ。』
「……ワタシにやれって言うのね。別に構わないけど……」
『かかっ。そのついでにやって欲しいことが我の提案だ。』
なんだか歯切れが悪いわね。《イクシード》らしくないわ……
「なんなのよ。」
この問いの答えを聞いた時、それがワタシの人生の二つ目のターニングポイント。
『かかっ。キャメロン、あの子供に《お医者さん》を教えてやってくれないか?』
「は?」
《お医者さん》を教える? 《お医者さん》でもないワタシにそれを頼むというの?
『かかっ。困惑はわかる。だが少し、我の話を聞け。』
ワタシは口を開きかけたけど、すぐに閉じて目をつぶった。
「……どういうこと?」
『かかっ。お前は十五年間の絶頂期で人生に満足し、この五年間を我への恩返しに費やしてきたな? そしてお前はこの先全ての人生を我に捧げようとしているな?』
「ええ。」
人生に飽きてしまったワタシが自分の意志で行えることはそれくらいだ。
『かかっ。前にも言ったが、我は五百年は待つ予定だったのだ。仮に五百年後であったなら、我はお前の恩返しにケチをつけなかっただろう。だがお前は短すぎた。この先を我の為に使うことは別に否定しない。しかし、そうであるなら……お前には何かを残して欲しいと思ったのだ。』
「残す?」
『かかっ。欲を言えば、お前には子孫の一人も残して欲しいと思っている。』
「ちょ……」
『かかっ。だがそれ以上に残して欲しいモノがある。我とお前が作り上げた……あの技術をな。』
ワタシは目を見開いた。
「まさか……あれを? 人を殺す技術を?」
『かかっ。勘違いはいけないな、キャメロン。あれは人を殺す技術ではない。人を殺せる技術だ。』
「……使い方次第って言いたいのね……」
『かかっ。街を一つ消し飛ばす技術もひっくり返せば膨大な電力を生む技術。核と同じだ。気づいてはいるだろう? あの技術を……《お医者さん》の立場で使用した時、どれほどの奇跡になるのかを。』
「……ええ、そうね。あれを使えば……《お医者さん》最大のネックたる切り離しを行わずにヴァンドロームを倒せるわね。加えてどんなランクでどんな特殊能力を持っているヴァンドロームだろうと戦える。」
『かかっ。その通りだ。そしてお前は、《パンデミッカー》として敵である《お医者さん》のことは知り尽くしている。加えてヴァンドロームやその症状にも詳しい。お前はやろうと思えばすぐにでも《お医者さん》になれる。』
「馬鹿を言わないで。一人も治療したことないのよ?」
『かかっ。だがあの技術を使えば術式だなんだという面倒なことは学ぶ必要がない。やったことがないだけだ。できないわけではない。』
ワタシは起き上がり、少しイライラしながら恩人としゃべる。
「……五年……五年よ? 五年間も人を殺し続けたワタシが? 何も知らない子供に何食わぬ顔で人を救う技術を教えろって言うの?」
『かかっ。だがお前……人を殺すことに何の感情も抱いてないだろう?』
「ワタシがやる分にはね……他人が入れば話は別よ……」
ワタシは意味もなく部屋の中を歩き回る。
『かかっ。我とて、食べもしないのに他の生き物の命を奪う事を良い事とは思わんさ。だが、お前がこの世に残すモノがそんな事実のみというのはな……できればよい方面の何かを残して欲しいのだ。』
身体に不思議な衝撃が走った。気づくと、《イクシード》が机の上に立っていた。ワタシの身体から外に出たのだ。
……一体何年振りだろうか。この白い生き物を見るのは。
『かかっ。お前は《パンデミッカー》という悪に身を置き、悪い事を行ってきた。だがそれが目的ではない。我への恩返しこそが目的。ならばいいではないか。お前は《お医者さん》を名乗っても可笑しくない知識と技術を持っている。あの《ヤブ医者》に名を連ねても遜色ない程の。なんの問題がある。』
「ワタシは……」
問題だらけのはずだ。別にワタシは人殺しを認めているわけじゃない。ただ、その罪を被っても構わないと思っているだけだ。恩返しをするために必要な行為だから行っているだけだ。
悪い事をしてきた人間が何も知らない子供に何かを教える。しかも……一度もやったことのないモノを。普通に考えておかしな話。
……本人が言ったように、《イクシード》は人間じゃない。人語を理解し、会話も可能な存在だけど……人間の倫理観を同様に持っているわけじゃない。実際、ワタシが何人殺そうと責めることはしなかった。「それ自体が目的でないなら、何をしたっていいじゃないか。」これが《イクシード》の考えなのね……
『かかっ。それに、これは我の望みも重なっている。』
難しい顔をするワタシにそんな事を言う《イクシード》は……顔はないけどいつになく真剣な表情になった気がした。
『かかっ。我らSランクは全ての種を超える力を手にした。だがな、とある願いを叶えることができなくなったのだ。』
「願い?」
『かかっ。何かを「残す」という事だ。』
ワタシは聞いたことのない《イクシード》のさみしげな声に目を丸くする。
『かかっ。我らには生殖能力がない。同じ形をした同種も存在しない。子を残すことはできぬし、意思や考えを残そうにも我は死なぬ。だがな……あの技術は……我とお前がいて初めて生まれたモノなのだ。二人がそろって初めて成立する。どちらか片方が死を迎えたなら、それは……その技術は「残す」ことにならないか? あの技術について誰かに尋ねられた時、二人がそろっていないのなら答えられないのではないか? あの技術を生んだ者はもういないということにならないか? 《イクシード》とキャメロン・グラントの組み合わせがもういないのなら……あの技術は二人が二人で残した技術にならないか? 我でも……何かを残せるのではないか?』
真っ白な顔で目も口もない《イクシード》だけど、今の彼に顔があったなら……きっと涙を浮かべているんだろう。「残す」ことへの切望で。
『かかっ……かかっ! そしてお前は残せるのに……残すことができるのに残そうとしない。我にはそれがもったいなく思うし許せんのだ。キャメロン、残りの人生を我に捧げても良いから……あの技術をアンドウキョーマに残せ。』
不思議なお願いだった。許可と命令がどっちも自分のためだ。
でも……まぁいいか。十五年間の絶頂期には経験できなかったことが経験できるかもしれない。今になってそれを望むのはどうかしているけど……
恩人の頼みであるなら、仕方がないわね。
夜。ワタシはアンドウキョーマの家を訪ねた。
「……誰だ、あんた。」
玄関に現れた男はアンドウキョーマの父親だ。渋い髭をはやした頑固そうな男だった。
「ワタシは……そうね。あなたの子供を治せる人というところかしらね。」
父親の表情が変わった。
「……どこの誰だか知らないが気安く言ってくれるな。享守は――」
「あ、きゃめろん。」
父親の後ろにアンドウキョーマがやってきた。
「享守、知っているのか?」
父親と知り合いであるということをワタシが言っていたので、アンドウキョーマは今の質問に首をかしげた。面倒なことになるのはごめんだわね。
「キョーマくん、ちょっとおいで。」
ワタシが手招きをするとアンドウキョーマは父親の横まで来た。ワタシは彼の頭の上に手をのせる。
『かかっ!』
一時的に《イクシード》をアンドウキョーマにとりつかせた。
「キョーマくんは泣き虫……そうよね?」
ワタシは手をあげる。そしてアンドウキョーマのほっぺを弱めにパチンと叩いた。
「! あんた!」
父親が鬼のような形相になる。この父親は理解している。アンドウキョーマの触覚が異常であることを。そして、今の軽いビンタが彼にとってどれほどの痛みになってしまうのかを。
ワタシに掴みかかろうとする父親を止めたのはアンドウキョーマだった。
「あ……れ……? 痛くない……」
その発言に驚愕し、父親はワタシを化け物を見るかのような目で見た。
「……何をした……」
これまでこの父親がしてきたことを考えれば、ワタシは奇跡を起こす聖人か化け物に見えるだろう。ワタシは予想通りの展開に満足し、父親に告げた。
「あなたの知らない世界を教えてあげるわ。」
極々一般的な家庭のリビング。四人掛けのテーブルでワタシとアンドウキョーマの両親は相対した。アンドウキョーマはテレビの前のソファからワタシたちを眺めている。
アンドウキョーマの両親は《医者》だ。
父親の専門は内臓の移植。その筋ではなかなか有名らしい。
母親の専門も移植。ただしこっちは身体の外、皮膚なんかの移植の専門家だ。最近は人工の耳や鼻も扱っているらしい。
要するに、二人ともアンドウキョーマが抱える問題とはあまり関係のない専門家。
仮に移植技術で何とかなるのなら、この二人は自分の持つ技術を総動員してアンドウキョーマを治そうとしただろう。だけどそうじゃなかった。
《パンデミッカー》の怪物パソコンで調べたところ、この二人はアンドウキョーマを連れてあちこちの病院に行っている。その数は軽く五十を超える。
……それだけの病院を渡り歩いて《お医者さん》の関係者に出会わないというのはかなりの確率だけど、《お医者さん》を名乗って接しているワタシには都合がいい。
そう……この二人は《お医者さん》の世界を知らない。
ワタシは一時間近くかけて《お医者さん》とヴァンドロームのことを話した。そして、ワタシが持つ特殊な技術を使えばアンドウキョーマを治せる……いえ、治せはしないけど制御可能にすることができると告げた。
「そんな……そんな話が信じられるわけが……」
「ならどう説明するの? 今、彼の触覚が正常値に抑えられていることを。」
父親と母親がアンドウキョーマを見る。アンドウキョーマは生まれて初めての普通の触覚に興味津々だ。自分のほっぺをつねったりしている。
「言っておくけどあれは一時的なモノ……永続させるにはきちんとした指導が必要。」
父親は難しい顔で深呼吸する。
「……あんたが享守を助けられることは認めよう……《お医者さん》という話も……百歩譲って認めるとして……あんたが享守を助けようとするのはなぜなんだ?」
「見ず知らずの少年を救う理由? 《医者》であるあなたにはわかるかと思うのだけどね。」
「……!」
思ってもいないそれらしいセリフ。だけど、突然知った不可思議な世界の中で聞くと、それは少しの安心感をもたらすモノ。
「時間が必要と言うなら待つわ。」
ワタシは立ち上がり、アンドウキョーマのもとに移動する。
「あなたに医術を教えた人間、もしくはあなた以上の地位にいる《医者》とかに聞けば……たぶん《お医者さん》について話が聞けるわ。時間をかけて知らなかった事実を受け入れなさい。」
ワタシは《パンデミッカー》に入る際にアウシュヴィッツから連絡用に持っておけと言われたケータイの電話番号を紙に書く。
「一応言っておくけど、全ての《お医者さん》がこの子を救う力を持っているわけじゃないわ。ワタシがこの子に出会ったのは奇跡と言っていい。」
アンドウキョーマの頭に手を置き、《イクシード》を戻す。
「ワタシにこの子を任せたいと……そう思ったなら連絡をちょうだい。」
ワタシは、アンドウキョーマの家をあとにした。
『かかっ! かかっ! あれが我の家! かかっ!』
「テンションが高いわね。」
自室に戻り、ワタシはシャワーを浴びる。手入れも何もしていない髪の毛がまっすぐになり、背中にはりつく。前に切ったのはいつだったか……
……《イクシード》は声色としゃべり方からすれば男。だから前にワタシがシャワーに入る時どんな気分なのか聞いてみたことがある。すると『かかっ。我には裸が恥ずかしい……いや、そもそも裸という概念がわからん。人間の概念で言えば我なんぞ常日頃素っ裸ではないか。服を着るのは人間だけだぞ?』と言われた。
《イクシード》はワタシの中でアンドウキョーマの身体の素晴らしさを延々と語っている。
『かかっ! 全能感というのであろうな。自分の五感が洗練されるのを感じた。』
「はいはい、もうわかったわ……」
『かかっ。しかしあれでうまくいくのか? あの父親が連絡してくるかどうかはわからんだろう。』
「どちらでもいいわ。連絡がある方が穏便に済むというだけね。それよりも……」
『かかっ。何かあるのか?』
「アンドウキョーマを見つけた時点で、ワタシがここ……《パンデミッカー》にいる理由がなくなったわ。加えて……アンドウキョーマの父親が連絡をしてきたなら、ワタシはこれから《お医者さん》として行動することになるわ。《パンデミッカー》なんて連中とつながりがあっちゃダメよね。」
『かかっ。そうだな。』
《パンデミッカー》として活動する以上、ワタシは《パンデミッカー》であり続けた。だけどこれからは《お医者さん》。なら、《パンデミッカー》は敵。
『かかっ。それが目的ではなく手段であるなら、そこに善悪は存在しない。ただ客観的に俯瞰するのであれば、《パンデミッカー》は悪であろう。さらに、我があの子供の身体に住む上でこの組織は障害となりかねない。我とお前の技術を受け継ぐのであれば尚のこと。』
《イクシード》も私も、この組織に対して何の思い入れもなかった。
『かかっ。潰すぞ、キャメロン。』
「……新しい寝床がいるわね。」
『かかっ。あの子供の家の近くに診療所でも建てるか。かかっ!』
シャワーを浴びたあと、少ない手荷物を鞄につめ、ワタシは部屋を出た。服はシャツとロングスカートとサンダルに白衣。ワタシ的には白衣は別にいらないんだけど……《イクシード》がなぜかそれだけは譲らない。いわく、『かかっ。我と同じ色でコーディネートしたいのだ。仮住まいとはいえ、我の家なのだからな。』
《イクシード》はあんな外見でおしゃれさんらしい。
《パンデミッカー》の本拠地。とある国のとある山奥にひっそりと建っていて、迷ってうっかり辿り着くようなおまぬけさんくらいしか見つけられない。本拠地と言っても別に支部があるわけじゃない。全てのメンバーがここで暮らし、ここから世界へ移動して仕事をこなしていく。
アウシュヴィッツの天才的頭脳により、任務をこなす絶好のタイミングが知らされるから出かけても最長二日で帰ってくる。加えて今は夜。ほとんどのメンバーが建物内にいるはずだ。
「《イクシード》。今ここにいないのは誰?」
『かかっ。ランカーではアリベルトだけいないな。あとは下っ端が数人。合計で十人にも満たない。』
「そう。」
ランカーというのは《パンデミッカー》内の序列で上から数えて十人のこと。なんだか漫画みたいな設定だけど、実際トップの十人というのは侮れない。ランクの高いヴァンドロームを従え、より戦闘向きの症状を扱い、それらを使いこなす。
ヴァンドロームの力を使う以上、《お医者さん》とはもれなく戦闘になる。なぜなら《お医者さん》の技術というのはヴァンドロームと戦う技術なのだから。そういう場面において「強い」と評される十人。
ま、ワタシはそれの二番目なわけだけど。しかも一番のアウシュヴィッツが実質戦闘向けじゃない頭脳担当であることを考慮すれば……ワタシが最強だ。仮に他のランカーと出会う事になっても問題はないだろうけど、いざ戦うとなれば面倒ね。
「アリベルト……厄介な使い手がいないのは……今はいいけど後々嫌ね。」
アリベルト・ヘイム。上から数えて四番目の《パンデミッカー》。従えるヴァンドロームは《ゼロスピード》。症状は『運動盲』。
運動盲……人間がヴァンドローム無しで発症するとすれば、かなりレアな症状ね。脳の中の視覚に関する部位に損傷が起こると発症する。
視覚と一口に言っても、脳の中では色んな役割分担をしている。かなり大雑把だけど、止まっているモノ担当の脳細胞と動いているモノ担当の脳細胞。この、動いているモノ担当の方に何らかの障害が起きた時、動いているモノが見えなくなる。
例えば止まっている車。止まっている分には見えるのだけど、いざ動き出すと視界から消えてしまう。それが運動盲。
アリベルトはその『運動盲』を応用して視界に入ったモノの動きを完全に停止させることができる。どういう理屈なのやら意味が分からないのだけど、あいつは《パンデミッカー》の中で最もヘンテコな症状の使い方をしている。
確か……《ゼロスピード》がとりつく前と後で、動いてるモノが見えなくなるという差があるわけだけど……先天的ならともかく、後天的であるならそんな現象はあり得ない。『運動盲』の世界というのは健常者には異常。だからそんな異常な世界を見ることを頭が拒否する。ゆえに……対象に動くことを許さない……とかなんとか。
アリベルトは……アウシュヴィッツの思想……《パンデミッカー》の思想に心酔している。たぶん、アウシュヴィッツからしたら最も信頼できる部下。
……あのアウシュヴィッツのことだからワタシの今の行動を予測したのかもしれないわね。それでわざと……今夜、アリベルトをここから遠ざけたのかもしれない……
『かかっ。さてどうするんだ? メンバーを一人一人殺していくのか?』
「まさか。」
ワタシは建物内のとある部屋……放送室に向かう。
『かかっ。なるほどな。よっぽど用心深くなければそれで終わる。』
ワタシと《イクシード》、二人で作り上げた技術は二つあって、その内の一つをワタシは使おうとしている。
その名も『強制異常』。……厳密には技術でもなんでもないのだけどね。
視覚と聴覚が異常。そんなワタシの身体に入った《イクシード》は、視覚と聴覚に関する力が跳ね上がっている。結果、とりつくことなく対象の五感……視覚と聴覚を「異常」にできる。
引き金はワタシの声。それが耳に入り、脳が認識した瞬間、そいつの目と耳はワタシと《イクシード》の制御下に入る。
《パンデミッカー》として人を殺すために考えたやり方で、主に対象の聴覚を「異常」にしてしゃべるなり指を鳴らすなりする。それで相手はショック死する。
大きな音でショック死するなんて本当にあるのかと、他の《パンデミッカー》のメンバーにたまに言われるけど……それは少し違う。
ワタシが操作しているのは聴覚であって音じゃない。ほんの数秒前まで正常な聴覚であり、脳もそれを理解している状態で突然異常値にされることがショック死につながるのだ。大きな音にびっくりするとかそういう話ではなく、脳がパニックになるのだ。
それならば気絶するだけだろうという奴もいた。だけど気絶というのも脳の指令の一つ。その現象をこれ以上経験すると危険だと脳が判断するから、意識を遮断する。その指令を出す脳が正常に動かなくなるのだから、呼吸も心臓の鼓動もうまくできなくなって……死ぬ。
放送室に入り、建物内全体への放送に設定してマイクのスイッチを入れた。
『かかっ。人によっては、もしくは態勢によってはお前の声がうまく耳に入らんだろうがな。』
「それでも……半分は殺せるでしょ。」
ワタシはマイクの前で息を吸い、一言告げた。
「さようなら。」
ただそれだけ。爆発が起きるわけでも何でもない。夜の静けさは保たれたまま。
「どう?」
『かかっ。九割は眠るように死んだな。』
「生き残ってるのは……」
『かかっ。ランカーが三人と……下っ端が数人。』
……どんな対策をとっていたのか、偶然なのか。ランカーが三人もね……一人はアウシュヴィッツでしょうけど。
『かかっ。しかも全員お前の声で……死んではいないが起きた。』
「そう。」
放送室を出て少し歩く。ランカーは上の階にいる。
「キャメロンさん!」
誰かがワタシを呼んだ。
「なんですかさっきの放送! 頭の中で爆弾が爆発したみたいな……一体何をし――」
「おやすみ。」
バタリと倒れるワタシを呼んだ誰かさん。かれこれ五年もここにいるけど、ワタシが名前を憶えているのはランカーの……上位だけね。
『かかっ。あと何人かこっちに来るな。』
「そう。」
エレベーターに向かう途中に一人。
エレベーターのボタンを押して待っている時に一人。
ランカーの階についた時に一人。
ワタシは一度も仲間と感じたことのない……けれどワタシを尊敬していた面々を殺していく。
そして――
「キャメロン……」
目当ての人物の内の一人と出会った。《パンデミッカー》、上から数えて六番目の男。名前は……なんだっけ。
「おはよう。」
『強制異常』をするけどその男は死なない。
「何を考えてる……何を!」
「……ワタシ、この組織を抜けることにしたの。」
「な……」
「日本のことわざを知らないのね。立つ鳥跡を濁さず……よね?」
「ふざけ――」
ワタシは普段のワタシでは考えられない速度で男の背後に回り、首をつかんだ。
「! よせ!」
「断るわ。」
ワタシは、男の心臓を停止させた。
ワタシと《イクシード》が作ったもう一つの技術。その名も『身体支配』。これは正真正銘、ワタシと《イクシード》が作り上げた技術だ。
《パンデミッカー》にはいろんな奴がいる。その症状の使い方や応用の仕方はとても参考になった。だから、これは《パンデミッカー》に入ったからこそ生まれた技術。
鼻の穴を膨らませることのできる人がいる。中には耳を動かせる人もいる。できない人からすれば、彼らはすごい人になる。だけど、別に彼らが特別というわけじゃない。何かのキッカケで「動かし方」を知ったに過ぎない。
自身に『異常五感』を起こし、五感全てを使って自分の身体の隅々までを認識し、把握する。そうすることで筋肉の一本一本、細胞の一つ一つ、全ての「動かし方」を理解する。つまり、身体を構成する全ての要素を支配下に置く。
一時的に筋力を上昇させる、痛覚を遮断する。もしくは、長い修行をつんだ人間にしかできないようなことを一瞬でできるようにする。人間の身体が持つ可能性を全て引き出す、それが『身体支配』。
ただし、これの真骨頂は自身の強化じゃない。
対象に触れ、自分の神経を毛穴や細胞の隙間から侵入させて対象と接続することで『異常五感』による身体の認識、把握を行う……『身体支配』は他人の身体でも可能なのだ。
脳に命令を出し、心臓を止めさせるなんて朝飯前。
……他人に行う『身体支配』は悪く使えばそんな感じだけど、よく使えば《お医者さん》の治療に使える。ヴァンドロームは患者の身体にくっついているわけだから、見えず触れない相手でも患者の身体を経由すればその身体にアクセスすることは可能。
無理やり切り離すのではなく、自分から離れるようにヴァンドロームの身体を動かす。そうすれば痛みは生じないし、アクセスできた時点でそのヴァンドロームに負けることはない。
《イクシード》がワタシに《お医者さん》になれると言ったのはそういうわけだ。
「……どーゆーこったーこりゃー。」
ワタシとアウシュヴィッツがいつもいる部屋に入れるもう一人の人物に遭遇した。
上から数えて三番目の男。名前はモロー。
「おーれはよ。前からお前のことが気に入らなかった。同じ部屋にいることが多かったせーかな。お前がこの組織に心を置いてねーことに気づいてた。だから毎日毎晩、耳をふさいで寝るよーにしてた。おかげでいつでもぐっすりさ。だが……こんな形で有効的に働く対策なんぞ……まったくもーだ。」
「よくしゃべるわね。あなたの目の前の女はあなたを殺そうとしているのよ。」
ちなみに、今のワタシの一言は『強制異常』だったのだけどね。全然効いてないわね。
「そーだな。……おーれがこうして生きてるってことは、天才のアウシュヴィッツも余裕で生きてるだろー。でも、おーれがお前を倒さないと終わりってわけだ。まさかまさかの、お前とのガチバトルか。」
モローは、服の前後ろを間違えたみたいに、背中が大きく開いている変な服を着ている。初めて会ったときは面白いセンスだと思ったけど、彼の使う症状を見た時に納得した。
「《マルママン》、最強とのバトルだぜ。」
モローの背後に何かがゆらめく。そして……
『かかっ。相変わらずだな。』
モローの背中から腕が生えてきた。比喩でもなんでもない……ワタシたち人間が等しく二つ持っている器官が背中から生えてきたのだ。全部で四本……合計六本の腕。
《マルママン》の症状は『奇形』。
世の中には手の指が六本ある人間がいる。他にも色々、所謂普通とは違う身体を持つ人間というのがいて、彼らは奇形と呼ばれる。遺伝や妊娠中のウイルス感染……原因は様々。生じた奇形が生活に支障をきたすかどうかも奇形とその人次第。病気ではない……ちょっとしたうっかりだ。
《マルママン》にとりつかれると何かしらの奇形を生じる。ま、指が増えるくらいが関の山なんだけど……リミッター解除すると腕が増えたりするらしい。
ただ……いきなり腕が増えたところで邪魔にしかならない。なぜなら、動かし方がわからないからだ。生まれつきなら動かせるだろうけど、突然増えたモノを動かせるわけがない。だというのに、モローは四本もの腕を自在に制御できてしまう。かなりの訓練を積んだはず。そしてそれゆえの……上から三番目。
加えて、モローの腕の先……爪があるべきところはいつの間にかナイフのような「歯」が生えている。人体最高硬度を誇る、口の中にあるべきモノが指の先に、わざわざナイフ状になって存在しているわけだ。
引き起こす奇形の場所や種類も思いのまま。モローは完璧に症状を使いこなしている。
「いつ見てもすごいわね。」
「そりゃどーも。お前の超人的な身体能力と、触れられただけでチェックメイトの能力。対抗するには化け物にならねーとなぁ?」
化け物……ね。
正直、この男に出会ったことで手に入れた力もある。あまり使い道がない力ではあるけど、いざという時に万能に働く恐ろしい力……
『身体支配』の技術が可能にするのは、俗に言うところの火事場の馬鹿力を引き出すことや触れるだけで対象を殺すことだけじゃない。細胞を操るこの技術を使うことで、ワタシは新しい生体器官を作ることが出来る。
細胞というのは言わば身体の全てを作る部品。ブロックのように組み合わせることで様々な生体器官を作り出す。自然界を見渡すと、翼を持ったモノ、複数の手足を持ったモノを見ることが出来る。細胞の可能性は計り知れない。
ただ、何かを作るには細胞という部品が必要なわけだけど、その部品は無限ではない。
細胞の数は、細胞分裂という現象で増減を繰り返す。生まれた細胞は役割を終えると消え、新たな細胞がどこかで誕生する。そんな繰り返しで生き物は生きている。
細胞分裂が永遠なら、無限に新しい細胞が作られ、いつまでも若々しい身体を保てるだろう。けれど、細胞の分裂回数には上限がある。だから生き物は、年を取ると身体が弱くなる。新しい細胞が生まれなくなり、身体の機能に支障が出始める。それが老い。
いくら自由に細胞を操れて組み合わせることができても、数に限りのある細胞をやたらめったら使っては寿命を縮める。
この使い方はダメだと、そう考えていたとき、モローがこんなことを言ったのだった。
『なら、細胞分裂を無限にできる細胞を作ったらどうだ?』
細胞分裂を無限に行う細胞。そういう細胞は、すでに存在していた。
必要な時に生まれ、そうでなくなったら死滅する。そういうプログラムで細胞は動いている。だけど、特定の遺伝子に変異が生じた場合、細胞は死ぬことなく増え続ける。そしてそのイレギュラー的細胞は正常な細胞を侵し、身体に害を与える。
その細胞の名は悪性新生物。要するに、ガン細胞。
……《医者》は人間の治し方を知っていると同時に、壊し方も知っている。ワタシも、細胞の制御の仕方を知っていると同時に暴走のさせ方も知っている。ワタシは、故意にガン細胞を生み出せるわけだ。
ただ、いくら無限に増えると言ってもそのスピードは所詮、細胞分裂。遅い事この上ない。だけど《イクシード》の超常的な力をかりることで、ワタシは……故意に生み出したガン細胞を高速で細胞分裂させ、無限増殖するその細胞を使って新しい生体器官を瞬時に作り出すことが出来るようになったのだった。
「……あなたのおかげで、ワタシはとんでもない力を手に入れた……いくら手を増やしたところで勝ち目はない……わかってるわよね。」
「お前のとんでもなさはわーってる。だが勝ち目がないとは思ってない。」
「そう。」
ワタシは右手をモローの方に伸ばす。そして……
「あなたは強いからね。この『身体支配』の極みで相手するわ。」
ワタシの腕が変形する。正確には膨らむ。ボコボコと不快な音をたてて変形していき、最終的には熊の腕のような……けれど毛のはいていない真っ黒な怪物の腕となった。
ワタシの意のままに動く巨大な腕。暴走するガン細胞の制御はかなり疲れるし、ワタシの正常な細胞にもかなり悪影響。そんなに長くできないけど……
「妖怪クモ男を殺すには充分な力ね。」
「おいおい、おーれはかろーじて人間の身体だ。増えた腕だって人間の腕。だがお前は……完全に化け物じゃねーか。」
「ひどいわね。あなたがこんなにしたのに。」
「変なアドバイスするんじゃなかったな。」
モローが身を屈める。
ワタシはサンダルを脱いで一歩前に出る。
「……なるほどな……お前がいつもサンダルなのはそーゆー理由か。お前、足が触れても相手の身体を支配できるんだろ。とゆーか、どこが触れても……か。」
ワタシは建物の廊下を駆ける。そのスピードは矢のごとく、二メートルを超える腕を振り回す。
「まったくもーだ!」
モローは六本の腕を器用に使って壁を登り、三次元的に移動してワタシを跳び越し、背後に回る。さすがに戦い慣れているわね。
「引き裂く!」
ワタシの背中にその鋭い爪……歯を突き立てようとする。
「……残念ね。」
ワタシの白衣の下から超速で伸びたそれは、モローの脚を捉えた。
「!? 尻尾だぁっ!?」
壁に二、三回叩きつけたあと、モローを正面に放り投げる。空中で態勢を整えて、モローは綺麗に着地する。
……叩きつけは六本の腕で器用に防いだみたいね……
「でかい腕に尻尾? お次は羽でも生えるか?」
「お望みとあればね。」
「だが……それ、絶対身体に悪いだろー?」
「死ぬほどの激痛が走ってはいるんだけどね。痛覚は遮断しているわ。」
「……それでも、痛みが走るってことは良くないってこったー。長くはできねーと見たが……そんなお前と長期戦はしたくねーな……だが一つわかった。」
「?」
「お前、その……ガン細胞で作った器官じゃ『身体支配』できねーだろ。でなけりゃ、おーれの脚を掴んだ瞬間に終わってたはず。」
「そうね。でも……別に『身体支配』しなくても人間は殺せるわ。」
「おっかねーな。」
モローの六本の腕、それぞれの肘あたりからさらに腕が生えてきた。合計十二本……
「仏像?」
「うっさいなー。」
「なかなかすごいけど……腕を丸々一本作るのって結構大変なはずよね。その質量はどこから来ているのかしら?」
「死ぬほど腹ペコだ。だからさっさと殺す。」
十二本の腕がしなり、音をたてて振るわれる。飛来する五かける十二、計六十本の鋭い爪……じゃなくて歯。今のワタシの右腕は二メートルで尻尾は五メートルくらい。そんな姿で狭い廊下に立っているワタシには避けるスペースがない。
「ふぅ。」
右腕を盾に全力疾走。ガン細胞も元は普通の細胞だし、ワタシという人間の細胞。人体最高硬度の歯を防げる硬さは生み出せない。痛みはないけど食い込む歯の感触。数本は脚に刺さる。
「痛覚遮断……便利なものね。」
あと八本で千手観音になれるモローに肉薄する。ここまで接近すると腕も尻尾も使えない。だからワタシは左脚をモローに突きだす。
「!!」
ワタシの脚が腕の一本にでも触れれば、それでワタシはモローを殺せる。そして、超人的身体能力状態のワタシの蹴りを防ぐには十二本の腕が必要。内心、終わったと思ったのだけど、戦い慣れているモローは数本の腕で自分のシャツを引きちぎり、自分とワタシの脚の間に挟み込んだ。
「馬鹿力め!」
そう叫びながら後ろに蹴り飛ばされるモロー。危機を逃れたことでニヤリといい笑顔になるけど……
「!?」
十二本の腕を貫き、ワタシの左腕が数メートル先の空中にいるモローの胸を貫いた。
「歯よりは硬度落ちるけどね。爪もそれなりの体積と密度ならそこそこ……ね?」
「く……っそ……」
黒くしなり、鋭い爪が槍のようになったワタシの左腕がモローの血液をまき散らしながら戻る。
モローの意識が途絶えたことで、背中から生えていた腕は一瞬で消える。この場合、《マルママン》はどうなるのか……ま、どうでもいいわね。それよりも……
「……人殺しで血を浴びたのは久しぶりね。」
槍からいつもの腕に戻る血まみれの左腕を見てそう呟いた。両足に刺さった爪……歯はモローが死ぬと同時に消えている。痛みはないけど痛々しい脚を見るのは嫌なモノね。
『かかっ。熟練の殺し屋のようなセリフだな。』
「実際そうよ……」
右腕と尻尾も元に戻して深呼吸。『異常五感』で自分の身体の状態を確認する。
「……両腕はしばらく使えないわね。」
『かかっ。二時間くらいはな。アウシュヴィッツは脚で踏むか?』
「……変な事考えてるわね?」
見慣れた廊下を進み、見慣れた扉を開ける。
「……来たな。」
車いすに座ったアウシュヴィッツはいつもの場所でいつもの口調で話しかけてきた。
「……どこまで予測していたのかしらね。」
「…………最悪な展開として予測はしていた。全てな。」
アウシュヴィッツがゆっくりと車いすを動かして窓の方に移動する。ワタシは両腕をだらんとさせてアウシュヴィッツに近づく。
「……『異常五感』。そんな状態の人間が一世紀以内に出現する可能性は小数点の後ろにゼロが二十個並ぶくらいの確率だった。そして《パンデミッカー》の目的が達成されるのは……キャメロンがいる状態であと六年。」
「六年? それで神とやらが復活したの?」
「そうだ。だがキャメロンがいなくなると二十年はかかる。そろそろ天から迎えが来る頃だ。」
……ああ。自分のことを言ってるのね。どうもアウシュヴィッツは一人称というのを使わないから時々何を言ってるのかわからなくなる。
そういえばアリベルトも変なしゃべり方だった……《パンデミッカー》教に熱心だと言語がおかしくなるのかしらね。
「加えて、キャメロンが『異常五感』を見つけたとき、《パンデミッカー》は九十パーセント以上の確率で壊滅する。」
「……やっぱりアリベルトがここにいないのは……」
「避難させた。アリベルトは《パンデミッカー》をほぼ確実に復活させてくれる。同時に……Sランクを止められないアリベルトはランカーの中で唯一、キャメロンに勝ち目がない。」
「他はあったってこと?」
「実際、モローはキャメロンに血を流させているだろう?」
「まぁそうだけど。」
サンダルを脱いでいる状態で血がダラダラ。床にワタシの足跡がついている。ホラー映画のようね。痛みは遮断してるからいいけど……あとで《イクシード》に何とかしてもらうとする。
「……キャメロンの最初の一撃を切り抜ける確率はかなり低かったのだがな。モローは対策をとっていたようで何より。」
「死んだ奴に何よりとは不思議な言い様ね。」
アウシュヴィッツはくっくと笑ってこっちを向いた。
……え? 笑った?
「今は死んでいるが、生き残った時点では生きていた。その時のモローは、やはり「何より」だ。」
夜。月をバックに車いすに座っている髪の少ない還暦目前のおじいちゃん。だけど、アンドウキョーマやフジキルルだったら見ただけで大泣きしそうな圧力。無表情な分、目が語る感情は壮絶だ。どんな事を言われるのやらと少し身構えていると、アウシュヴィッツは軽い口調でこう言った。
「このまま死ぬのも少し悔しいのでな。一つ教えてやろう。」
「?」
死を目前にした人間とは思えないし、いつものアウシュヴィッツからは想像できない対応。
……まさか……
「あなた、《パウリーネ》は?」
「離れて頂いた。リミッターも元に戻し、今はどこにいるか……」
初めて見る《パウリーネ》がとりついていない状態のアウシュヴィッツは頬杖をつき、脚を組んだ。
「今夜壊滅する《パンデミッカー》だが……次に復活する時はそう遠くない。そして、その時キャメロンはこの世にいない。」
「……予言、予測、未来予知……あなたが言うとシャレにならないわね。」
ワタシは血だらけの脚をあげ、車いすに座るアウシュヴィッツの頬杖としていない方の手に乗せる。
「おかしな死に方……殺され方もあったものだ。」
妙に悟った……年を取った者特有の「やれやれ」間を顔一杯に表現するアウシュヴィッツ。
ワタシはこの男の表情というのを初めて見た。
「こうして見ると、ただのおじいちゃんね。」
身体を震わせることなく、一瞬の痙攣もなく、アウシュヴィッツの心臓は止まった。
「……今までで一番止めやすかったわね。」
『かかっ。』
建物内に生存者がいないことを《イクシード》に確認してもらい、火を放つ。
夜ではあるけど……ここは奥地過ぎて下手すれば火事が起きたことに誰も気づかず数年経つ可能性があるほど。問題はない。
「戻ってきたアリベルトの顔が目に浮かぶわね……」
アンドウキョーマの父親からはびっくりするほど早く連絡が来た。五年を過ごした組織を壊滅させた夜が明けるとすぐに電話が鳴ったのだ。
『正直、あんたに任せるのは不安だ。しかし、《お医者さん》の話の裏が……とれてしまった。』
アンドウキョーマの父親は、ワタシが帰ったその後、知り合いの《医者》や自分の先生に連絡をとりまくって事実の確認を行ったらしい。おそろしい行動力だ。
そして困ったことを言いだした。
『息子の詳しい状態、今後のこと、色々話したい。あんたがいる病院はどこだ?』
もちろん、ワタシはどこにも所属していない。だからワタシはこんなことを言ってしまった。
「最近近くに越してきたばかりよ。そして街を探検してたらキョーマくんに出会った。だからワタシは奇跡に近いと言ったのよ。」
『なら、これからどこかの病院に入るのか?』
とんでもない。ワタシの今後が《お医者さん》だとしても、ワタシはアンドウキョーマの教育に全力を注ぐ。病院なんかに入っては面倒極まりない。
「いいえ。ワタシは……診療所を開く予定よ。」
『わかった。越してきたばかりということであれば、今はまだバタバタしているのだろう。落ち着いたら連絡してくれ。ここに越してきて開くという事は、この街でやっていくということだろう? 近くて良かった。』
確かに……アンドウキョーマの父親からすれば、これからお世話になる相手が自分の家の近くに住んでいるとあれば息子をあずけたりなんなりということに安心できる。
だけど……
『かかっ。あの街に診療所を建てなきゃいけなくなったな。』
……普通に考えて、医師が引っ越してきたというのであれば、当然、引っ越す前に引っ越した後の職場が決まっていると思う。当然だ、引っ越してから探すなんてバカすぎる。
アンドウキョーマの父親も自然にそう考えたはず。だから「今はまだバタバタしている」と言った。そう……この街のどこかにワタシの診療所がすでにあり、ワタシは引っ越した後の整理なんかに追われていると、そう考えたのだ。
「……なんとかならないの、《イクシード》。」
『かかっ。言っておくがいくら我でも何もない空き地にポンと診療所を出せはしないぞ。だが……元があれば改装ならできるな。』
「……なんでもいいから廃墟でもあればいいってことね……」
『かかっ。そうだな。』
「どうやって探そうかしらね。」
『かかっ。とりあえず街で一番高いところに行ってみたらどうだ? 上から見ればもしかしたら。』
「適当ねぇ……」
アンドウキョーマが住んでいる街。一体どこの何を区切りにして「この街」と「となり街」を分けているのかわからないけど、アンドウキョーマの住んでいる街は「町」ではなく「街」であり、そこそこ大きな駅を中心に栄えている。
駅から離れれば離れるほど、大きな建物がなくなって住宅街となっていく、どこにでもある街。特徴と言えば、街の中……駅からは少し離れたところに晴明病院という大きな病院がある。加えて電車で三つくらい隣の駅に行けば白樺病院というところにも行ける。
調べたわけじゃないけど、今まで殺してきた《お医者さん》が働いていた所を思い出すに、大きな病院には大抵一人か二人の《お医者さん》がいる。
「この街の人間は《医者》にも《お医者さん》にも困らなそうね。」
『かかっ。幸先の悪いことだ。』
ワタシは《イクシード》の提案通り、街で一番高いところに来てみた。
まぁ、ズバリ駅ビルなのだけど。生意気にある展望室からワタシは街を見下ろす。
『かかっ。いい廃墟は見えるか?』
「見えるわけないでしょ……」
困ったわね。ワタシのこれまでの人生の中で一番困ったかもしれない。なんてことかしらね。
「もし、そこのお嬢さん。」
ワタシ以外に人のいない展望室……そう思っていたのだけど誰かに話しかけられた。
「……ワタシのことを言っているのよね?」
振り向きながら、軽く冗談を言うワタシ。
『異常五感』を探すときは、本当に世界中あちこちに行ったから……場合によっては白衣で面倒事になる可能性があった。だからワタシは《イクシード》が文句を言ってもその時だけは白衣を着なかった。けど今はそんなことを考えなくていい。よってワタシは白衣を羽織っている。
無人の展望室に白衣を着て突っ立っている女に話しかけるモノ好きがいようとはね。
「ええ。あなたのことですよ。」
ワタシの後ろに初老の男が姿勢よく立っていた。やわらかな笑みを浮かべた「紳士」という言葉が似合うその男性は、年齢に合った落ち着きと地味なジャケットをまとっている。
……この男からしたらワタシはまだまだ若いのかもしれないけど……三十になってお嬢さんって呼ばれるなんてね。ま、外見は二十代半ばだけど……
「もしかして、あなたは家を探しているのではありませんか?」
ワタシは目を丸くする。
「……この街では家を探す人間は展望室に集まるのかしら?」
「いえいえ。ただ、今日この日この場所で自分の居場所を探す人物に遭うはずでしたので。」
ワタシはふとアウシュヴィッツを思い浮かべた。
「……未来予知かしら?」
「ふふ、ただの占いですよ。」
男は内ポケットから名刺を取り出す。
「わたし、この街の病院で院長をやっております、卜部相命と申します。」
「ウラベソーメー……?」
名刺を見たけど、この漢字でそう読むのかどうかよくわからない。だけど病院の名前だけは読めた。
「晴明病院? あの大きな病院の院長?」
「ええ。」
つまり……《医者》か《お医者さん》ということね。《パンデミッカー》の追手とかそういうモノではなさそうだけど……
「ワタシを雇おうってことかしら?」
「? もしやあなたは《医者》ですか。それとも《お医者さん》ですか。」
当然のごとく、この男は《お医者さん》の世界を知っているようね。
「……驚いたわね。ワタシの格好から《医者》か《お医者さん》と判断したから話しかけたのではないの?」
ワタシのその答えに、この男もまた、ワタシが「知っている」と理解したようだった。
「いえ。先ほども申しましたが、占いでそう出たのでここに来て、話しかけたのです。」
「随分占いを信じてるのね……」
「ふふ、わたしの治療法の一部ですからね。しかし……そうですか。となると恐らく、あなたは《お医者さん》ですね。」
治療法の一部。つまりこの男は……《お医者さん》か。
ワタシは一瞬ためらい、ため息をつきながら答える。
「ええ。《お医者さん》よ。名乗り遅れたけど、名前はキャメロン・グラント。」
「なるほど。合点が行きました。すると……診療所を探しているのですね。なるほど……あれはこのための……ふふ。」
「一人で納得しないで欲しいわね。」
「ふふ。少々長くなります。あなたに提供する診療所へ向かいながら話しましょう。さ、こちらへ。」
男……卜部は全てに納得したようなすっきりした顔で歩き出す。何が何やら。
『かかっ。面白い展開だな。』
ワタシは卜部についていき、街へ出た。出たと言っても、駅ビルから出ると車が用意されていて、卜部がそれに乗り込んだのでワタシも乗った。
……ワタシが言うのもあれだけど、院長と名乗っているだけでなんの確証もない男についていくなんて、危機感がないとかなんとか言われてしまいそうね。だけど残念なことに、ワタシは《パンデミッカー》で五年過ごしたことで、自分がどれだけ強いのかを理解している。それに、世界最強の生物がワタシの中にいて、そいつはワタシの味方。何を怖がる必要があるというのか。
「ふふ。これほどまでに素直についてきてくださるとは、よほど自分の力に自身がおありなのですね。」
ワタシのこころを見透かしたように、卜部がそう呟いた。車はどこにでもあるような普通の車で、ワタシと卜部は後部座席に並んでいる。運転しているのは卜部の病院の人間だろう。
「ワタシのことはどうでもいいわ。それより、説明してくれる?」
「ええ。」
卜部は首を傾け、外を見る。
「わたしは……見ての通り老人です。」
「……老人と呼ぶにはまだ早い気がするわね。」
「ああ……いえ、現役でなくなるという意味です。」
「そう。」
「弟子にはわたしの持つ全ての知識を教え込みました。今では、彼とわたしは……ある分野を除けば同等の実力です。病院の経営などもきちんと引き継ぎましたし、次世代の教育も……わたし抜きで充分に成せています。すべきことは全て行い、あとは去るだけ。しかし……まだ何かできることがあるのではないか。そんな不安を覚えまして、気づくとわたしは自分の病院の将来を占っていました。」
「ふぅん。それで何か出たのね?」
「ええ。今日、あの場所で、居場所を探している人を助けてあげる。それが病院の発展につながると。」
「大した予言ね。」
特に考えもせずにそう言うと、卜部は真面目な顔でワタシの方を見た。
「違います。占いです。予言ではありません。」
「? イマイチ違いがわからないわね。」
「予言やあなたが先ほど言っていた未来予知。あれは『先の事を告げる』という行為です。未来にこういう事が起きると、良くも悪くも変えることのできない事実を伝えるモノです。ですが占いは違います。『こうすればこういう事になる』……つまり、やってもやらなくても良いのです。良い事なら実行し、悪い事ならやらない。占いは選択できるのです。加えて、実行するにしてもそれが必ず実行可能というわけではない。今日で言えば、展望室に何十人もいたらわたしはあなたを見つけられなかったかもしれません。」
「……分かれ道のない一本道と、その道にたどり着けるかも曖昧だけど分かれ道が用意されている道。そういう違いね。」
「ええ。……とにかく、わたしは占いを行い、あなたを見つけた。あなたが《お医者さん》という話を聞き、こう思いました。ああ、つまりはわたしの病院の《お医者さん》関連の何かが、あなたに出会うことでより良くなるのだと。」
……もしもそれが……ワタシがアンドウキョーマに教え込もうとしている技術を言っているのなら、それは正解ね。
「ただ、あなたが何かを与えてくれるのか。それともあなたの関係者が何かを持ってくるのか。そこまではわかりませんがね。」
「……占いの話はわかったわ。それで……ワタシに診療所を与えるというのは?」
「……この街に晴明病院を建てた時の話です。元々この街には一人の《お医者さん》がいましてね。診療所を開いていたのですが……わたしが病院を建てた際にその《お医者さん》を迎え入れたのです。彼も大きな病院で仕事ができると喜んでいました。すると……彼が使っていた診療所が残りますよね?」
「そうね。」
「彼は取り壊そうとしていました。しかしせっかくの診療所ですから……一応占ってみたのです。すると、診療所を残すことがわたしの病院の発展につながると出たのです。それがいつのことなのか、どうしてそうなるのか……それはわかりませんでしたが、わたしは診療所を残すことにしたのです。」
「……そして今、診療所を探している人間がやってきた。」
「そうです。あの時の占いは、あなたを指していたのです。あ、着きましたよ。」
駅ビルから車で数十分。住宅街を抜けて、辺りに建物が少なくなってきたところで車は止まった。
空き地……というのかどうか。住宅街を抜けて少しのところに広い駐車場を持った診療所がポツンと出現した。
「居住スペースと駐車場があり、近くのスーパーまでは徒歩二十分。定期的に掃除もしていたのでそれなりにキレイです。どうですか?」
「どうもなにも……ワタシからすれば願ったり叶ったりね。けれどいいの? 本当に。」
「ふふ。占い任せで行動するわたしは変ですかね。」
「かなりね。」
「では、念のためにもう一度。」
そう言うと、卜部はポケットから小さいケースを取り出す。そして中からチョークを取り出した。
「……術式……」
「ああ……そういえば占いというだけで何かは言ってませんでしたね。わたしは日本系の術式を専門にしています。」
そう言いながら、卜部は駐車場にさらさらと何かを描いていく。
《お医者さん》はヴァンドロームと戦うわけだけど、その方法は大きく分けて二種類ある。
一つは術式。大昔から、錬金術師や魔法使いと呼ばれた《お医者さん》たちが作り上げてきた対ヴァンドロームの技術。人によってどんな術式をどんな風に使うのか違いが生じるから結構色んな種類がある。《お医者さん》と呼ばれる人間のほとんどはこの方法で治療する。
もう一つはオリジナル。ヴァンドロームには術式しか通用しないってわけじゃないから、殴るなり爆破させるなり、戦う方法は色々ある。つまり、術式を使わないで別の方法を模索した連中もいるわけだ。
卜部は術式で戦う《お医者さん》で、中でも日本で生まれた術式に詳しい……ということね。
術式というのはその性質上、どうしても宗教が影響する。悪い何かを倒そうと思うなら、神様に祈るのは自然なこと。だから術式の種類は宗教の数だけあると言ってもいい。
大雑把に西洋系と東洋系で分けられるけど……とりわけ日本の術式は特殊らしい。宗教は大抵、一神教と多神教で分類できて、日本のは多神教になる……のだけど、それが異常なのだ。
はっぴゃくまんの神々……だったかしら。なんで八百万なのかわからないけど、なんにでも神様がいると考える。トイレにさえいるのだそうだ。
そんな不思議な宗教観のせいなのか……大方の術式が『対象の殲滅』目的に対し、日本のそれはもっと搦め手……動けなくしたり、弱くしたり、逆に《お医者さん》自身を回復させたり……変な方向に特化している。
《パンデミッカー》内でも、日本の《お医者さん》を相手にするのは面倒くさいと有名だった。
「よし、完成です。」
卜部が腰をググッと伸ばしながら立ち上がる。地面には理解不能な文字と模様の羅列。
「ヴァンドローム無しで発動できるの?」
「もちろん。ただの占いですから。」
「それじゃあ……雑誌にあるような占いと変わらないじゃない。」
「違いますよ。ああいうのはやり方が間違っているのです。だから当たらない。ですがこれは正しいやり方です。だから当たる。」
「そういうもの?」
「占いに対して良くない先入観をお持ちのようですね。占いだって一つの学問です。人の動きや自然の変化、そこに法則性を見出して先の事を考える。それが占いです。一+一を三とするようなやり方ではどんな計算も正解にならないのと同じように、占いだって間違ったやり方では間違った答えにしか辿り着きませんよ。」
言いながら、卜部は腕時計を見つめる。そして頃合いを見計らって手にしたチョークを地面に描いた陣の中心に落とした。チョークは砕け、破片がバラバラに散る。
「ふむ。」
チョークの散り方をじっくりと観察し、新たなチョークを取り出して破片と破片を線で結んでいく。
「ふふ。やはり、この診療所をあなたに譲ることはわたしの病院の発展につながるようです。」
「……そう……」
さっぱりわからないわね。
後日書類とかを持ってくると言って、卜部は帰って行った。ワタシはもらった鍵で扉を開ける。卜部が言ったようにぼちぼちキレイね。
『かかっ。何が起きるかわからんな、人生は。』
「何を悟ったようなことを言ってるのよ……」
ワタシは診療所の中をぐるぐる歩き回る。さすがに机やベッドはないけど、診察室らしき空間があって、畳の部屋があって、個室が二、三個あって、お風呂とトイレもきちんとある。
「……いいところね。」
『かかっ。名前をつけないといけないな。』
「? なんの。」
『かかっ。診療所のだ。日本だから漢字を使わないとな。』
「漢字? でも大抵……ヤマダ内科とかサトー眼科みたいに名前を使うじゃない。ワタシの名前は漢字じゃないわ。」
『かかっ。キャメロン・グラントをどうにか漢字にできないのか?』
「そうねぇ……」
ワタシは畳にベタッと腰を下ろす。そういえば日本風の部屋はここだけね……
「名前もそうだけど、せっかく日本なのだから、日本風の建物にしたいわね。」
『かかっ。瓦屋根にでもするのか?』
「それもありね。日本と言えばあとは……なにかしら。」
『かかっ。スシとかサムライとか……ニンジャか?』
「ニンジャ……いいわね、ニンジャ。」
『かかっ。ニンジャ風の診療所にするのか?』
しばらくの間と長々会話をし、おなかが鳴る音を合図に、ワタシはご飯を食べに外に出た。
翌日、ワタシは家具や家電を買いに出かけた。お金は有り余っているから適当に選んで全部送ってもらうようにした。三日もすれば診療所で快適に住める状態になるだろう。
そしてついでに……いえ、どちらかと言えばこっちが本命だけど、ワタシは晴明病院を訪ねた。受付で卜部を呼ぶように言うと、受付の人間はかなり戸惑いながらも卜部を呼んでくれた。
「えぇっと……エレベーターで五階におあがりください……」
言われてワタシはエレベーターを目指す。途中、フロアの案内版があったからちらりと見たのだけど、一階から四階までは普通の《医者》関係らしい。五階は……なんか適当な言葉が書いてあるけど、要するに《お医者さん》関係ね。
? 六階の案内がないわね……確かこの建物、六階建てのはず。
「そちらから来て下さるとは。」
五階で降りるとエレベーターの前に卜部が立っていた。昨日とは違い、白衣を着ている。
「後日来るなんて言われてもね。具体的にいつか聞かなかったから。これじゃあ、ワタシはいつもあそこにいなきゃならなくなるわ。だから来た。」
「おっと。わたしとしたことが。そうですよね。これは失礼を。」
「それに、ここも見ておきたかったのよね。」
実際、《お医者さん》なんてやったことのないワタシは現役の《お医者さん》の仕事を見てみたかったのだ。何人も殺しに行ったから、《お医者さん》の仕事場には何が必要かという事は知っているけど、仕事風景は見たことがない。
「そうですね。あなたが今後この病院の発展につながるのであれば……紹介しておくことは無駄にならないでしょう。では、わたしが案内しますよ。」
「あら、いいの? 院長自ら。」
「昨日言ったように、やるべきことはやり終えたのですよ。」
そう言いながら、卜部はエレベーターに乗り込み、一階を押した。
「書類などはわたしの部屋ですので……下から上へ案内した方が最終的に丁度よいかと。」
「わかったわ。」
晴明病院の一階。卜部とワタシは待合室を眺めながら話す。
「……診療所は一次治療、病院は二次治療。」
「いきなりなに?」
「本来の形です。病気なりケガなりをしたら、まずは診療所で診察していただき、必要とあれば病院へ。昔はかかりつけの医師などがいたものですがね。最近は……病気に優劣をつけるのはあれですが、かるい風邪でも病院に来る患者様が多いのです。」
「大変ね。」
ワタシは特に興味もなくそんな返事をする。でも……確かに、待合室を眺めると元気そうな患者もいる。んま、住んでる街にこんな大きな病院があれば、とりあえずそこに行けば安心という考えもあるわよね。
「あら? あれはなに?」
受付の横に『相談窓口』と書いてあった。
「基本的に患者様は自分が何科を受診するべきなのか調べて来るのですが……それがわからないという方もいるので、「あなたは何科ですよ。」と案内するところです。先ほど申し上げた最近の傾向の影響もあるのですが……あれは《お医者さん》にとって良い仕組みとなりました。」
「どういうこと?」
「ヴァンドロームが引き起こす症状というのはなかなか特殊なモノが多いですからね。日頃聞き及ばない症状が出たとなると、患者様は何科か迷うことが多く、あの窓口を利用することになるのです。あの窓口には各科に通じている《医者》と《お医者さん》を待機させています。無論、窓口を利用せずに各科に行った患者様のために、どの《医者》にも注意を呼び掛けています。」
「注意? 注意すれば何とかなるもんなの?」
「ええ。普通の病気の場合はその症状に至る様々な経緯がありますが、ヴァンドロームの場合はヴァンドロームがとりつくという原因のみですからね。患者様の話を聞いていると、「その経緯でその症状が出ることはない」ということに気づくというものです。」
「なるほどね。《お医者さん》が大きな病院と契約を結ぶ理由がわかるわね。患者の絶対数はそのままヴァンドロームとの遭遇確率よね。」
「? ずいぶん他人事のように話しますが……あなたは提携を結ばないのですか?」
しまった。つい最近まで他人事だったからついそういう話し方をしてしまった。
「加えて……自分で言うのもなんですが、大きな病院の院長とこうして話す機会を得ているのに、提携の話を出さないのですね。」
「……ちょっと専念したいことがあるのよ。」
《お医者さん》が診療所を開く際、病院と提携を結ぶことは珍しくない。普通の開業医……《医者》もやっていることだ。だけどワタシの場合、流れで《お医者さん》として開業せざるを得なくなっただけで……多くの人を救いたいとかいう面白い思想はない。アンドウキョーマの教育に全力を注ぐのみ。
「そうですか。まぁどちらにせよ、うちは提携をしませんがね。」
「あら、そうなの?」
「うちには……わたしを除いて三人いますからね。《お医者さん》が。」
「それでも全体的に数の少ない《お医者さん》、一人でも多く手にしたいのが病院だと思っていたんだけどね。」
「ふふ。普通の病気ならば、必要な機材の有無で別の病院に任せたりしますが、ヴァンドロームは違います。道具は必要なく、《お医者さん》の実力のみが問われるのです。病院に一人も《お医者さん》がいないのならともかく、いるのに他の診療所の《お医者さん》と提携を結ぶなんて……自分の病院の《お医者さん》に自信がないと言っているに等しい。」
「ふぅん。つまり、あなたは自信があるのね?」
「もちろんです。紹介しましょうか。」
「別にいいわ……ただ、一回あなたかその三人の治療風景をみたいわね。」
「? 構いませんがなぜ?」
「ワタシは術式を使わない《お医者さん》なのよ。だから見てみたいの。」
「なるほど。」
卜部は胸ポケットから小さなメモ帳を取り出し、パラパラとめくる。
「今日は……ああ、彼か。運がいいですね。一人、治療の予定がありますよ。」
「おかしな話ね。予定があるだなんて。」
《医者》と《お医者さん》の違いは多々あるけど、患者からすると決定的に違うのはたぶん、治療の早さだ。
軽いケガとかならともかく、それなりの症状ならそれなりに通院が求められる。だけどヴァンドロームの起こす症状なら、それがなんであろうと一日で片が付く。
「珍しいケースでしてね。患者様自身が……ヴァンドロームにとりつかれたと言ったのですよ。以前にも経験がおありだったようで。」
「ふぅん……患者の方がそういうことを言うようになる時代は来るのかしらね?」
ワタシの問いの意味を卜部は理解しており、難しい顔をした。
「なかなか……少なくとも、わたしが生きている間にというのは無理でしょうね……」
《お医者さん》は秘密組織でもなんでもない。隠されている職業でもない。ただ、あまり知られていないというだけだ。ま、そんな職業はごまんとあるわけだけど、《お医者さん》はそうも言ってられない。
《医者》が普通の病気と診断し、薬を与えたそれがヴァンドロームの仕業だった場合……その薬は何の効果もなく、患者は死ぬことになる。《医者》の中には《お医者さん》の存在を知るとその可能性を考えてしまって心が折れる奴もいるとか。
命に関わることなのだから、もっと公の場で発表してしまえと誰もが思うが、そうもいかない。今じゃオカルトとされる魔法とか魔術とかを主に使う職業を誰が素直に受け入れるだろうか。《お医者さん》に救われたことのある人が訴えようと、その数はそうでない人間の数百分の一に満たない。
それでも……命に関わるモノであることは変わらないのだから、初めの数年は不遇の時代だとしてもいつかは世間に認められる。しかし……《お医者さん》にとってはその数年が命取りになってしまう。
ただでさえ人数の少ない《お医者さん》。その性質上、世間から白い目で見られがちだというのに、より嫌われるような時期が年単位で続いたなら……制度が整う頃には《お医者さん》は全滅している。
だから、長い時間をかけてゆっくりと浸透させていく……というのが《お医者さん》の方針だ。
「《お医者さん》の治療に対する保険の制度はなんとかなりましたが……例えばどこにどんな治療法の《お医者さん》がいるかということすらあいまいです。まだまだこれからですよ。」
そこまで言って、卜部はふと思いついたようにワタシに尋ねた。
「グラントさんは……『半円卓会議』をご存じで?」
「キャメロンでいいわよ……《ヤブ医者》が出席する会議でしょう?」
《ヤブ医者》。《お医者さん》の中でも特に……変な治療法を行う連中のこと。誰もが、「そんな方法で治療できるわけない」、「それが有効だということはわかるが、それを実現するのは無理だ」と言うモノをやってしまう《お医者さん》をそう呼ぶ。
《お医者さん》は人によって色んな治療法をするから優劣がつけられないのだけど、《ヤブ医者》だけは……誰もが「すごい」と認める……らしい。
《パンデミッカー》で五年間過ごした身として言わせてもらえば、《ヤブ医者》は対最強の戦闘集団だ。
あまりに独特な治療法ゆえに戦闘となると対策を立て辛い上に……誰もが考えはするけどやりはしないとんでもない治療方法を極めてしまっている変態共は純粋に強い。
前に《ヤブ医者》の一人をターゲットにしたことがあったけど……それはワタシにとって唯一の任務失敗となった。『強制異常』は当たり前のように通用せず、『身体支配』によるワタシの超人的動きにも軽々とついて来た。いえ、むしろワタシを超えた動きをしたと思う。
仕方なくガン細胞による攻撃を仕掛けようとしたら、勝てないと感じたらしくそそくさと逃げてしまった。あの場慣れした動きというかなんというか……長年の修行を積んだ格闘家のようだった。
「どうやらその会議にはいるらしいのですよ。」
「誰が?」
「どこにどんな治療法の《お医者さん》がいるかを全て把握している人物が。」
「ああ……人物じゃないわ。ヴァンドロームよ。」
「!? ご存じなのですか! もしやキャメロンさんは《ヤブ医者》の一人で!?」
「呼び捨てでいいわよ。違うわ。人づてに聞いただけ。」
正確にはアウシュヴィッツに。
『半円卓会議』は《医者》の重鎮と《ヤブ医者》が出席し、双方の色々なことを話し合う会議だ。まぁ、その会議自体は別にどうでもいいのだけど……その会議の司会者が重要ね。
《医者》の決め事というのは医学界とかそういうのが決めるのだろうけど、《お医者さん》にはそういう会はない。だから大抵のことは『半円卓会議』で決定される。つまり、現在二十一人いる《ヤブ医者》が決める……と言いたいところだけど、実際は違う。
《お医者さん》側の大事な決め事を行うのはとある存在……それが会議の司会者だ。
「名前は《デアウルス》。Sランクのヴァンドロームで、《お医者さん》側についている……ヴァンドロームの裏切り者よ。」
「なんと……Sランクの……そうでしたか。」
数秒、一人で考え込んだあと、卜部は腕時計を見ながらエレベーターを指さした。
「……今日、治療を行う《お医者さん》を紹介します。」
もう少し話を聞きたそうではあるけど、たぶん予約の時間が近いんだろう。卜部はワタシを連れて五階へ行き、一つの部屋に入った。
「うわ。なんすか。」
部屋にいたのは一人の男。髪をオールバックにし、そこにメガネをのっけている。真っ赤っかのシャツの上に白衣を羽織った三十代くらいのその男は、卜部とワタシの突然の入室に驚く。
「気にしなくていいですよ。わたしとこの女性は見学です。」
「いや、気にするっつーの! あ、いや気にします。誰っすか、その女。」
「《お医者さん》ですよ。」
「……! そうすか。まーいいっすけど……いや、ホント言えばよくないんすけど。緊張するじゃないすか。」
なかなか騒がしい男だ。そして、ワタシが《お医者さん》であると知った時の表情を見て、ワタシは不思議に思った。
そういえば、なぜ卜部はワタシが《お医者さん》と知った時に同じ顔にならなかったのか。
女性は《お医者さん》に向かない。これは常識だ。ヴァンドロームは傾向として、若い女性にとりつくことが多い。「若い」理由は、単純に年寄より『元気』があって美味しいから。そして「女性」である理由は……男性より女性の方が美味しいからだ。
正しく言えばオスよりメス。子孫を生むメスはオスよりも質の良い『元気』を持っている。だから、もしも女性が《お医者さん》になって治療すると、場合によっては切り離したヴァンドロームにとりつかれるというミイラ取り状態になるのだ。
『かかっ。そう不思議がることもないだろう。』
頭の中で《イクシード》がささやく。
『かかっ。今から結構前だが……《ヤブ医者》に女が一人選ばれただろう? しかもそいつは、そろそろ六十ってのに今でも現役。女を一様にダメとも言えないんじゃないか?』
どこの世界でも性別の差ってのはあるものだけど、これまたどこの世界でもその差を物ともしない異端者がいるものよね。
「ちなみに……院長、名前は聞いてもいいんすよね? 院長の愛人ってわけじゃないんすよね?」
男はにやにやしてそう言った。すると卜部は一瞬ムッとし、そしていたずらっ子のように笑う。
「ふふ。彼女はキャメロン・グラント。キャメロンさん、かれはSMくんです。」
「呼び捨てでいいって言ったじゃない……って、え? SM?」
それを聞いた男は驚く。
「まさか院長にそう呼ばれるなんて……おれはショックですよ……」
「なに? イニシャルかなにか?」
「ええまぁ……確かに彼の名前のイニシャルはSMですが、そういう理由でそう呼ばれるのではありません。」
卜部はふふっと笑いながら部屋の壁を指さした。そこにはまるで漁師が使うような縄が様々な太さで並んでいた。
「彼はわたしの弟子の一人でしてね。日本系の術式を使うのですが、中でも縄を使った拘束系術式が得意なんですよ。自分や患者様に縄を巻き付けて発動させるので「SM」と呼ばれているのです。実際、患者様からは白い目で見られますからね。」
「仕方ないじゃないすか。拘束系で最強なのは縄を使ったモノなんすから。でもねー、院長。おれはおれの技術を受け継ぐ奴のためにも、縄なしで縄ありの時と同等のパワーを出す術式を作ってみせますよ!」
ふぅん。そういえば、神社だかお寺だかにはシメナワとかいう縄があるらしい。日本系の術式においては、縄って大きな意味を持つのかしらね。
SMの部屋に来てから三十分ほど経ったとき、一人のナースがやってきた。
「先生。」
「ん、来たか。」
ナースの後ろから現れたのは四十ぐらいの女性だった。
SMが診察を始めたので、ワタシと卜部は部屋の隅っこに移動する。卜部が言っていたように、女性はヴァンドロームのことや《お医者さん》のことを知っている感じでSMの話を聞いていた。
「よかったわね。事情を知っているなら、縛りやすいんじゃないの?」
「ふふ。そうですね。」
SMは女性の手首足首に縄を結んだ。そして事前に描いておいた陣の中心に椅子を置き、そこに座らせる。
「……縛るっていっても、SMと呼ばれるほどじゃないわね。」
「今回は、というだけですよ。昔、中学生の女の子を亀甲縛りしたこともありました。患者様も本人も顔を真っ赤にしていましたね。いやぁ、懐かしい。」
「キッコーシバリ? 聞いたことあるけど……それ、日本の術式に関係あるの?」
「もちろん。亀甲とはつまり亀の甲羅の文様のことです。亀の文様は吉祥文様ですからね。縁起物として、日本では大きな意味を持ちます。」
卜部が言ってることの半分もわからないけど……まぁ、無意味な縛りではないということね。
そうこう言っている内に診察は進み、SMがサーモグラフィーを取り出した。患者の背中を見てとりついている位置を特定。そしてヴァンドロームが嫌がる物質、『エイメル』をそこに振りかけた。
仕組みや手順は知っていたけど……こうやって見るのは初めてね。
そういえば……アウシュヴィッツは『エイメル』を作っている所を潰そうと試みたことがあったらしい。それが成功したなら、全ての《お医者さん》は仕事ができなくなったでしょうけど……失敗したそうだ。何故なら、アウシュヴィッツの頭脳をもってしてもその場所を特定できなかったのだ。《ヤブ医者》のとんでも技術か、《デアウルス》の能力か。とにかく何らかの妨害を受けて見つけられなかったそうだ。
「あ、出ますよ。」
卜部がそう言うのと同時に、患者の背中付近に変な形の生き物が出現した。……《パンデミッカー》じゃヴァンドロームを見ることはかなりよくあることだから珍しくもない光景ね。
「○▽×◇☆」
SMが何か言った気がしたけどよくわからなかった。だけどその言葉を受けて、患者に結び付けていた縄が勝手にほどけて勝手に移動し、ヴァンドロームを縛り上げた。
「あの状態を五分ほど続けるのです。」
「五分? ずいぶん長いのね。術式による治療ってそんなもんなの?」
「いえ、西洋の術式ならもっと早く倒せますよ。日本系のはあまり攻撃力がないのです。特殊な方面に特化した代わり……ですかね。」
「ふぅん。」
卜部が言った通り、五分ほどでヴァンドロームが灰になった。これも、知ってはいたけど初めて見る光景だった。
晴明病院で《お医者さん》のやり方のようなモノを知り、卜部から書類を受け取り、ワタシは診療所に戻る。
『かかっ。それで、名前は考えたのか? ここの。』
「考えたわ。キャメロンもグラントも漢字にはできないけど、一部分ならできることに気づいたわ。」
『かかっ。一部分?』
「スペルは違うんだけどね。カタカナで書くとキャメロンの中にメロンがあるのよね。」
『かかっ。メロンというとあのメロンか? 果物の?』
「そうよ。それで少し調べてみたら、メロンは漢字で書けるのよ。」
メモ帳も何もないから、ワタシは窓ガラスを息で曇らせて「甜瓜」と書いた。
「これでメロンと読むのよ。」
『かかっ。甜瓜診療所か。いいじゃないか。』
「名前は決まったし、荷物もその内届く。アンドウキョーマの教育は近いうちに始められるわね。」
『かかっ。楽しみだ。』
それから数日後。届いた荷物を適当に配置し、《イクシード》の力で建物をちょこっとニンジャ屋敷みたいにして、ワタシはアンドウキョーマとその父親を招いた。
「私の恩師に尋ねた。」
アンドウキョーマの父親は、ワタシが通した和室にアンドウキョーマと一緒に座るなりそんなことを言った。
「すると彼はこう言った。『おまえは真面目な性格だから、知った時に考えてしまう一つの疑問に縛られてしまうのではないかと心配でな。教えられなかった。今のおまえが何を思っているかはわからないが、しかし知ってしまったのなら受け入れるしかない。ようこそ、《お医者さん》の世界へ。これでおまえは本当の意味で《医者》になった。』」
「なかなか面白い事を言う恩師ね。」
《お医者さん》を知らない《医者》はただの医者。言葉遊びのようだけど、これは大きな意味を持っているわ。
「《お医者さん》のことはこれからもっと調べて理解していこうと思うが、今は享守だ。この子が自分で自分の五感を制御できるようにする。あんたはそう言ったな。」
「ええ。」
「いまいちイメージがつかない。《お医者さん》としての技術もあるのだろう、そこを無理に理解しようとは今は思わない。だが一つ聞きたい。それを実現するにはどれくらいの時間が必要なんだ?」
「時間ねぇ。」
アンドウキョーマが五感をコントロールできるようになるまでにかかる時間。
「具体的にこれくらいというのはわからないわ。その子の才能も大いに影響する事柄だからね。ただ……数か月とか一年程度の通院で治るような病気と一緒にはできないモノであることは確か。十年単位も覚悟しておく必要があるわね。」
「……! そうか……そんなに。……だが……そうかもしれんな。病気やケガを治すのではないのだからな……」
理解が早くて助かるわね。結局のところ、アンドウキョーマはワタシという先生が教える塾に通って勉強と訓練を重ねて、一つの技術を身に着けるのだからね。
「まぁ、その子がワタシと一緒にしばらくここで暮らすとかなれば話は変わってくるけどね。まだそんなことができる年齢じゃないでしょう? 親としても快く許可できることじゃない。」
「ああ……そうだな。」
「最終的には今言った形がベストだけど……そうね。とりあえず週一から始めてみようかしら? それならあなたも顔を出せるんじゃないの?」
「! 同伴していいのか?」
……同伴する気満々だと思っていたのだけどね。言わなきゃよかったわね。
でもまぁ、最初の方にやることは本当に「五感の制御」のための訓練。《イクシード》が出てくるのは相当先の話。父親に堂々とヴァンドロームたる《イクシード》を紹介するのはちょっと抵抗がある。
だから、早めに父親の信頼を得て本題に入れるように整えておかないとね。
こうして、《イクシード》が勝手に家とし、ワタシたちが勝手にワタシたちの技術を引き継ぐ者としたアンドウキョーマという、現在五歳の男の子は週一のペースで甜瓜診療所にやってくることとなった。
ワタシ三十歳、アンドウキョーマ五歳。
初日。
「ぐらんとせんせい、よろしくおねがいします。」
父親が見守る中、アンドウキョーマがくすぐったくなる呼び方で恭しくお辞儀した。
「……とりあえず呼び方を変えましょうか。」
「よびかた?」
「ワタシのことは呼び捨てでいいわ。ワタシもあなたを呼び捨てにするから。」
「でも……おとなのひとをよびすてはいけないってせんせいがいってた。」
「そうね。基本的にはね。でもワタシは特別。なんにでも例外はあるのよ。あなたのようにね。」
「じゃ、じゃあ……ぐらんと?」
「キャメロンでいいわ。」
「きゃ、きゃめろん?」
「そうよ、キョーマ。それじゃあ、訓練を始めようかしらね。」
ワタシはアンドウ……いえ、キョーマの頭に手を置いた。
「はい、終わり。」
「……?」
「でこピン!」
普段の感覚のせいか、たかだかでこピンで泣きそうな顔になるキョーマ。だけどすぐに気づく。
「あれ、いたくないよ!」
「そうね。それじゃあ外に遊びに行きましょうか。」
「うん!」
普通の感覚に喜ぶキョーマが玄関に走っていくのを見送り、父親がワタシを見た。
「……専門外のことだから口出しはしないつもりだが……どういうことだ?」
「普通の感覚を知ること。これが初めの一歩よ。ものすごく痛い触角でも、キョーマには当たり前。そう考えている状態じゃちょっと難しいのよね。わかっているとは思うけど、「異常」を「異常」だと理解するには「正常」を知る必要があるのよ。」
「まずは、普通の五感に慣れさせるということか。」
「前にも言ったけど、今キョーマにやったことは応急処置のようなモノ。半日続けばいい方よ。でも繰り返していけば理解するわ。自分が他の人とは違うってことに。自分が「異常」ってことに。」
親の心配そうな顔や周りの友人の態度から、なんとなく感じ取ってはいると思う。自分の異常性を。でもやっぱり、真に理解するには「正常」を知る必要がある。五歳の男の子には少し荷が重い現実のぶつけ方だけど……これをやらないと始まらないのよね。
キョーマを公園に連れて行き、一緒に遊ぶ。ワタシだって十歳までは普通の人生を送っていたのだから、子供の遊びくらい知っている。
「きゃめろん、ぶらんこしよう!」
ワタシの知っているそれとまったく変わらないのだけど……やっぱり子供はすごい。たかだかブランコに全力を注いでいるのよね。一回転するんじゃないかってくらいの勢いだわ……
五歳の男の子と並んでブランコをこぐワタシ。子供の時はブランコと言ったら立ちこぎだけど、大人になると頭を柱にぶつけるわね。仕方なく座ってこぐ。
「あ、きょーまくん!」
いつの間にかブランコの横にフジキルルがいた。
「るるちゃん。」
「あそぼー。」
軽やかにブランコから飛び降りてフジキルルと遊びだすキョーマ。二人は本当に仲がいい。ワタシはベンチに座っているキョーマの父親のところに行く。
「あの子、キョーマと仲がいいのね。」
名前もどういう家の子供なのかも知っているけど、ワタシはそう呟く。
「藤木るるちゃんだ。藤木とは……まぁ同期でもなんでもないんだが気が合ってな。家族単位で仲良くさせてもらっている。」
「そう。」
「……そう言えば藤木は《お医者さん》のことを知っているのか……? いや、知らないだろうな……」
「どうしてそう言えるの?」
「私と藤木は同じ病院にいるんだ。その病院に《お医者さん》はいないし、それなりに長くあそこにいるが《お医者さん》という単語は聞かなかった。なら藤木も知らないだろう。」
「となると、あなたの恩師というのは別の病院にいるのね。」
「もう引退した。」
「ふぅん。」
正直な所どうでもいい会話を延々と続けた。そうして感じたことは、キョーマの父親が見た目通りの堅物らしいということだけだった。
週一と言ったから、次にキョーマに会うのは一週間後。
「ひまね。」
キョーマと公園で遊んだ翌日、ワタシは和室に寝転がっていた。
『かかっ。これは困ったな。そういえばお前には打ち込める趣味がなかったな。』
「そうね……一週間も何をして過ごそうかしらね。」
『かかっ。《お医者さん》を練習しておくか?』
「患者がいなきゃ話にならないじゃない。ワタシにはすでに技術があるんだから、残すは実践だけ。」
『かかっ。なら丁度良いな。』
「何がよ。」
「す、すみませーん。」
お昼前。のんびり起きてごろごろしていたワタシの耳に誰かの声が届いた。
「……誰かしら……」
ワタシは部屋着として着ていたジャージの上に白衣を羽織り、サンダルをひっかけて玄関へ向かった。
「どなた?」
玄関にいたのは女性。まだ二十という年齢に届かない感じだから……高校生くらいかしらね。
「え、えっと……ここは《お医者さん》……ですよね? い、《医者》じゃなくて……」
「……そうよ。」
「あの、これを……」
女性から封筒を受け取る。中に入っていたのは手紙だった。
「わ、わたしの病気は少し珍しいらしくて……専門家がここの診療所の人だと……」
手紙の差出人はなんとキョーマの父親だった。読みなれない敬語やらなんやらが並ぶ日本語の手紙だったから、キョーマの父親がワタシにはらった敬意は受け取れなかったけど、内容はこんな感じだった。
うちの病院に明らかに症状の出方がおかしい患者が来た。今まで出会わなかっただけなのか、《お医者さん》のことを知ったから変だと思えたのか、あまり考えたくないのだが、とにかくヴァンドローム絡みの患者だと思う。
昨日言った通り、うちの病院には《お医者さん》がいない。
本来なら、他の病院に患者を任せる際には様々な手順があることは知っている。だが、私にはヴァンドロームの進行度が診察できない。もしもこの患者が進行度レッドだったら、手遅れになりかねない。そこであんたに任せたい。
「……いきなりだけど……いいタイミングね。」
『かかっ。色々と、我らのために世界が動くな。後が怖い。』
卜部から受け取った資料に色々とサインしたりなんなりして、すでにここは立派な診療所。まぁ、本来ならもっと時間がかかる手続きだろうけど、今まで卜部がしっかりと管理していたおかげでスムースだった。
要するに、いつでも治療できる状態になっていた。
「あの……えっと……」
ずいぶんオドオドした女性がワタシを上目遣いで見る。
「あ、ごめんなさい。どうぞ中へ。すぐにでも治療を始めましょう。」
……ぶっつけ本番だけどね。
一度も使ったことのない診察室に通し、一度も座ったことのない椅子に座り、一度も座らせたことのない椅子に女性を座らせた。
……玄関からこの診察室までの短い距離だけで、この女性の症状がなんとなくわかった。彼女はなぜか……怯えている。ワタシと身長は変わらないけど肩を抱き、身体を丸めて歩いているからワタシを見上げる感じになっている。それはいい。問題はそれ以外の物を見る時もそうだということ。
自分と同じ目線の高さにあるモノまで見上げている。まるで周囲全てが恐怖の対象であるかのように、身を小さくしている。
「うん。《アリス》ね。」
「へ? い、いえ、わたしは岡島ですけど……」
「そうじゃないわ。えっと……ヴァンドロームとか《お医者さん》については一通り聞いたかしら?」
「は、はい。安藤先生から……」
「なら話は早いわね。あなたにとりついているヴァンドロームはCランクの《アリス》っていう奴よ。症状は『不思議の国のアリス症候群』ね。」
不思議の国のアリス症候群。アリスインワンダーランドシンドロームで略してAIWS。正常に見えているはずの目なのに、本人からすると周りのモノが普通より大きく見えたり、小さく見えたり、あるいは近かったり遠かったりする症状。不思議の国のアリスが作中で大きくなったり小さくなったりすることが名前の由来。
とあるウイルスに感染した時に起こる中枢神経系の炎症が原因としてはあげられるわね。中には時間感覚まで狂うこともあるけど、大体は一過性のもので、しかも子供のころにかかることが大多数。そのせいもあってか、認知度は低めね。
人によって何がどういう風に見えるかは差がある。人の顔だけが大きく見えるとか、視界の右側だけとか。《アリス》がとりついた場合もどうなるかはランダムなわけだけど、どうもこのオカジマという娘は周囲が大きく見えるみたいね。
「あなた……今周りがどういう風に見えてるのかしら?」
「えっと……大きいです。つ、潰されそうで……建物の中は怖いです。外にいる時はなんともないんですけど……」
……進行度はグリーンね。
《お医者さん》はヴァンドロームにとりつかれた患者に進行度というモノをつける。グリーン、イエロー、レッド。順にやばくなる。ヴァンドロームにとりつかれたらどんな症状であれ、最後は死ぬ。その死ぬまでの残り時間を示している感じね。グリーンからレッドまでを一週間で駆け抜ける奴もいれば数年で渡りきる奴もいる。ヴァンドロームの種類によりけりなわけね。
ちなみに、《アリス》の進行度レッドは、立っていられない。
「そう。それじゃ、とっとと治療してしまいましょうね。」
「は、はい……」
えぇっと……ワタシが今からするのは、『身体支配』でワタシ自身の神経系をこの娘の体内に侵入させること。そしてこの娘をハブとしてとりついているヴァンドロームの中に侵入し、ヴァンドロームをワタシの支配下に置く。
要するに、この娘を通じてヴァンドロームに対しての『身体支配』を行うってこと。
「はい、それじゃ背中出してね。」
普通の《お医者さん》ならここで取り出すのはサーモグラフィー。だけどワタシはこの手の平だけで事足りる。
「始めるわね。」
背中に手を当てるワタシ。そして『異常五感』を発症させて、自分の身体の『身体支配』を行う。
『かかっ。初めてだからな。ゆっくりやれよ。あんまり急いで神経系を引きずり出すと痛いぞ。』
指先の神経系をゆっくりと動かし、オカジマの背中にふれさせる。背中を形成する細胞と細胞の隙間に神経を挿入、オカジマの神経とつながる。
瞬間、このオカジマという人間の身体の全情報が流れ込む。
『かかっ。いらない情報まで来るな。あんまり深くつながると自分自身というのが希薄になる。情報を限定して引き出せるようにならないとな。』
たくさんの情報の中でも、ひときわ目立つ……人外の情報。これがヴァンドローム、《アリス》がいる場所ね。
オカジマの神経を通じて《アリス》に、同じ方法で侵入する。
まったく、直接触れることができるなら、こんな面倒なことをしないで触れた瞬間に殺せるのにね。間に患者を挟むというのは疲れるわね。
「……命令……」
《アリス》の『身体支配』を行い、《アリス》の身体に命令を送る。
一つ、『食眠』をとき、とりつくのをやめる。
一つ、自分の心臓を停止させる。
背中を向けているオカジマには見えないだろうけど、今ワタシの目の前に《アリス》が姿を現した。そしてそれと同時に、灰になって消滅した。
「……!? 治りました!」
「そうね。」
オカジマが嬉しそうに帰った後、ワタシは変な感覚に襲われる。
「……なんだか、世界史が頭の中を駆け巡っているわ。」
『かかっ。学生みたいだったからな。あの人間の記憶が流れてきたんだろう。』
「神経をハブにしただけで記憶がのぞけるの……」
『かかっ。他人の神経を使うんだ。完全に支配する必要がある。となれば、神経の元締めたる脳に無意識でもアクセスすることになる。その結果だな。』
「好きな人は隣のクラスのオオゼキくん……ああ、しょうもない記憶ね。」
『かかっ。プライバシーも何もないな。』
その日の夜にキョーマの父親から電話がきた。内容はオカジマの件だったのだけど、そこから派生して提携の話になった。ワタシはどこかと提携する気はないということを伝え、《お医者さん》のことをもっと知りたいならという感じで晴明病院を教えておいた。
『かかっ。こっちに来てから……いや、キョーマを見つけてからと言った方が良いな。実に運がいい。』
「そうね……」
《お医者さん》として生活を始めようとしたその時に一つの病院の長であり《お医者さん》である卜部と出会い、診療所まで手に入れた。
キョーマの父親は優秀な《医者》であり、なんとワタシに治療の練習台を送ってくれた。本人にそんな気はないけどね。
ともあれ、ワタシは必要な時に必要な人と物を手に入れている。日本のヨジジュクゴで言えばジュンプウマンパンという奴ね。
一週間後、キョーマと会い、また遊ぶ。次の週もその次も。何度か一緒に遊んだことでキョーマとワタシは仲良くなった。そしてキョーマは、自分が「正常」からどれだけズレているのかを、なんとなく理解したようだった。
第一歩の次は第二歩。そもそも五感とは何なのか。まだ小学生にもなっていない子供にそんなことを教えるのは中々難しいと思ったけど、キョーマは真剣だった。
要するに興味を持つか持たないか。それだけで子供が持つ最強の記憶力が働くか否かは決まる。好きなアニメだとか漫画のキャラクター、必殺技を全て覚えてしまうのは興味があるから。
今、キョーマは自分の「異常」さに気づき、「正常」を求めている。特に日本人というのは周囲と一緒じゃないと気が済まない性質。しかも子供時代というのはそれが最も強い。普通になれる……いえ、ワタシがしてあげると言った。だからキョーマは真剣にワタシの話を聞いている。
もしかすると、出会った年齢も丁度良かったのかもしれないわね。
キョーマが甜瓜診療所にやってきた回数が十回を超えた辺りから、キョーマの父親は送り迎えだけをするようになった。ワタシにある一定の信頼を置いてくれたらしい。
そして、キョーマがワタシの所にいる間、キョーマの父親は《お医者さん》について学んでいた。卜部をつてとして色々な《お医者さん》を訪ねて話を聞いているそうだ。《お医者さん》に転職するのかと聞くと、キョーマの父親はこう言った。
「似た名前で呼ばれてはいるが、《医者》と《お医者さん》は違う。それは確かなのだが……向き合う相手は同じ、困っている人、苦しんでいる人だ。そんな人たちを患者と呼び、持てる技術を尽くして問題を解決する。その点だけは同じであり、その点だけが同じであれば何を迷うことがあるだろうか。私が《お医者さん》について詳しくなる。それは良い事だ。」
堅物だけど、キョーマの父親は根っからの《医者》のようだった。
……こんな風に褒めておいてなんだけど、ワタシはこれ幸いとキョーマの父親がいない間に、キョーマに《イクシード》を紹介した。
本音を言えば、これを機にキョーマに《お医者さん》のことを全て教えたかったのだけど……さすがに詰め込みすぎかなと思った。
五感はキョーマ自身が経験していることだから理解もしやすい話だったでしょうけど、《お医者さん》やヴァンドロームというのはキョーマにとってまったく新しい知識。すんなり理解できるものかとワタシは心配した。小さい頃の間違った理解というのはなかなかに治らないものだから、正しく理解してほしいのよね。
だからとりあえず、キョーマに五感の制御について指導するもう一人の先生……みたいな感じで《イクシード》を紹介した。
「よろしくね、《イクシード》さん。」
『かかっ。呼び捨てで構わない。』
……子供の、《常識》の無さ故の純粋さというのは恐ろしいものね。《イクシード》を何か不思議な生き物程度にしか思っていないようだわ。
『かかっ。キョーマよ、我は珍しい生き物なのでな、あんまり人に知られたくないのだ。我のことを秘密にできるか? 我とお主、そしてキャメロンだけの秘密だ。』
「わ、わかったよ。ひみつにするよ。」
こうして、ある程度の土台を積み上げて、ワタシと《イクシード》はキョーマの教育に本腰を入れ始めた。五感の専門家たる《イクシード》が基礎を教え、ワタシはそれを実践している身として指導する。
同時に、ワタシは《お医者さん》としての経験を積んでいった。提携はしないと言ったはずなのだけど、キョーマの父親はヴァンドローム絡みの患者に出会うたびにワタシの方にお願いしてくる。《お医者さん》という職がずいぶんやり辛いということを知ったらしく、自分の息子をみてもらっている礼だとか言って患者をこっちによこしてくる。
お金には困っていないけど、キョーマに教える時にワタシ自身の経験が薄っぺらじゃ格好がつかない。正直助かるのだけどね。
ワタシ三十一歳、キョーマ六歳。
キョーマがランドセルとやらを背負った。
キョーマの父親に時間指定で呼び出されたワタシは、テカテカの洋服を着たちびっこが群がる場所にやってきた。
「小学校ね。キョーマの父親は教師になったのかしら。」
『かかっ。キョーマが小学生になったのだ。』
「知ってるわよ。ここ最近、会うたびにその話題だったじゃない。問題はワタシが呼び出された理由よ。」
『かかっ。あそこで手を振っているキョーマが答えだろうな。』
見ると、校門の横に立てかけてある看板……入学式って書いてあるそれの横にアンドウ一家がそろっていた。
「……なぜ白衣を着ているんだ。」
キョーマの父親が怪訝な顔でワタシを見る。
「あなたが理由を言わなかったからよ。知っていればそれなりの格好だったわ。」
「……まぁいいか。こっちに。」
キョーマの父親にしては寛容ね。見たところ晴れ舞台というか、節目な感じだけど……ワタシの服装を許せるくらいに嬉しいのかしらね。キョーマが小学生になったことが。
「……看板の横に立って何をするのよ……」
「しゃしんだよ、キャメロン。」
写真をお願いされた誰かさんが不思議そうな顔をする中、ワタシはアンドウ一家と一緒にキョーマの入学式の写真に写り込んだ。
キョーマがフジキルルとはしゃいでいるのと、キョーマの母親がフジキルルの両親と話しているのを横目に、ワタシはキョーマの父親に尋ねる。
「よかったのかしら?」
ワタシの質問の意味は伝わったらしく、キョーマの父親はキョーマを見ながら答える。
「今日は享守の記念日だ。その享守があんたと一緒に写真を撮りたいと言った。享守にとってはもう、あんたは家族なんだ。」
そして咳払いをして付け加える。
「……家族とまではいかずとも、私や家内も、この場にあんたがいてもおかしくないと思っている。それくらいの恩を……感じている。」
「……そう。」
キョーマの甜瓜診療所通いが始まってそろそろ一年。とりあえず、一番の問題だった触覚の制御はある程度できるようになった。一般人と比べればまだまだ過剰だけど、以前と比べればだいぶマシ。何かあるたびに大泣きということはない。
この一年の成果はキョーマの両親にとっての心配の種たる小学校デビューを不安なく行えるようにしたらしい。
「小学生ともなれば勉強に遊びと、これまでに無いことが多々ある。あんたの所に行く日を調節せねばな……」
「……ワタシ自身は急いでるわけじゃないし、そっちの都合に合わせるわ。」
キョーマの入学式の後、ワタシはフジキ一家に紹介された。フジキルルとはしょっちゅう会うから、フジキルルの両親もワタシという人物に興味があったようだ。
そして、アンドウ一家とフジキ一家にはさまれて食事をして帰った。
「疲れたわね。」
ワタシは万年床になりつつある布団にダイビングする。床に寝るっていうのは、これはこれで気持ちがいい。どこまでも転がっていけてしまう開放感はなかなかね。
『かかっ。思い出すな。お前もあんな感じだったな。』
「出会ったときは……小学校で言えばワタシはすでに四年生だったわけだけどね。」
『かかっ。そう言えばお前はランドセルを背負ってなかったな。』
「ランドセル……初めて見たけど、なかなかいいモノね。素材も構造も丈夫そうね。」
やんちゃ無邪気暴れん坊の一年生にはピッタリじゃないかしら。
『かかっ。元々軍用の物だからな。あれが定番となっているのは日本くらいだが、ヨーロッパの方ではオシャレの一つになっている。』
「良く知ってるわね。」
『かかっ。この国は面白いからな。』
「島国だものね。」
『かかっ。イギリスもそうだろう?』
「そうね。でもイギリスは外にイケイケで、日本は内側でなかよしこよし。国民性って奴かしらね。」
『かかっ。』
小学校が始まったものの、キョーマの父親が心配したようなことは起きなかった。逆にキョーマは週に二回はやって来るようになった。ガラにもなく、小学校がつまらないのかしらと心配してみると、キョーマはこんな事を言った。
「キャメロンのところにくるのもがっこうもおなじくらいたのしいんだよ。」
五感の勉強が楽しいだなんて変わった子供ね。
週二回の時間があるとはいえ、その時間をフルに使って教えていてはキョーマの頭がパンクしかねない。小学校の勉強もあるのだからね。だから気持ちのんびり教える。だけどそうすると、キョーマが診療所に来てその日の分の勉強を終えても時間があまることが多くなった。
そこでワタシはその時間を漢字の勉強をする時間にした。
キョーマは学校で漢字ドリルなるものをもらったそうなので、ワタシはそれを元にしてキョーマから漢字を教わった。キョーマも復習になるからイッセキニチョウというやつね。
ワタシ三十四歳、キョーマ九歳。
キョーマが将来を語りだした。
「キャメロン。」
「なに?」
「ぼく、お医者さんになるよ。」
小学校三年生になったキョーマは嗅覚の訓練の為に花の匂いを嗅ぎながらそう言った。
ワタシは《お医者さん》について教えていないけど……キョーマの父親が教えた可能性もあると言えばある。だからワタシはこう聞いた。
「お父さん……みたいな?」
「? お父さんやキャメロンみたいな。」
ああ……ならさっきの「お医者さん」は《お医者さん》ではないのね。
「るるちゃんもお父さん……あ、えっと、藤木のおじさんみたいなお医者さんになるって言ってた。」
「そう。……親がそういう仕事だと子供はそういうのを目指すものなのかしらね。」
『かかっ。どうかな。』
「……ねぇ、《イクシード》。」
キョーマの隣にぬいぐるみみたいに座っている《イクシード》にキョーマが話しかける。三年生になっても全く《イクシード》に対して疑いも何も持っていないみたいね。
『かかっ。なんだ?』
「《イクシード》の親ってどこにいるの?」
意外な質問だった。ワタシも聞いたことがなかった……というか興味をもったこともなかったわね。Sランクの親ってことは……《イクシード》が突然変異しなければどういうヴァンドロームだったかということね。
『かかっ。我の親か。』
《イクシード》は片手をアゴにあてて考える。
『かかっ……んん? 我は……ん?』
「忘れたの?」
「忘れたのね。」
『かかっ。なにせ我が生まれたのは今より何千……何万? ん?』
《イクシード》は珍しく首をかしげる。顔があったら難しい顔をしているんでしょうね。
「え、《イクシード》ってそんなにおじいさんなの?」
『かかっ。おばあさんかもしれんぞ?』
「口調的には男よね。」
「うーん。わからなくなってきたよ……」
嗅いでいた花を置き、次の花を手に取るキョーマ。よくわからないことはよくわからないままでとりあえず置いておくタイプなのかもね。
『かかっ。キョーマよ。お医者さんになると言ったが、なんのお医者さんになりたいのだ?』
「なんの?」
「ほら、キョーマ。外科とか内科とか。わかりやすく言えば眼医者とか歯医者とか……色々あるじゃない。」
「えっと……考えてないや。キャメロンはなんのお医者さんなの?」
「ワタシは……そうね、《お医者さん》よ。」
「??」
「その内わかるわよ。」
「ふーん? お父さんはなんのお医者さんなんだろう。」
「あら、知らないの?」
「うん……」
「そんなもん……かしらね。キョーマのお父さんは移植の専門家ね。」
「いしょく?」
「ワタシの右腕をキョーマの右腕にしちゃったりするのよ。」
『かかっ。それではフランケンシュタインの怪物ではないか。キョーマよ、そうではなくてな、使えなくなってしまった部分を使えるモノに交換するのだ。』
「へー。藤木のおじさんは?」
「確か……この前会った時に整形関係って聞いたわね。」
「せいけい?」
「ワタシの顔をキョーマの顔にしちゃったりするのよ。」
『かかっ。それではスパイ映画ではないか。キョーマよ、そうではなくてな、目をもっと大きく見せたいだとか、鼻を高くしたいだとか、そういう自分の身体の嫌いな所をよくするのだ。』
「へー。」
ワタシ三十五歳、キョーマ十歳。
ルルがやってきた。
日本に来てそろそろ五年。今更だけど、この国はお祭り事が好きみたいね。日本に昔からあるモノはともかくとして、他の国の行事を取り込んでいるのは面白いわね。
『かかっ。取り込んで改変しているがな。』
ハロウィンもクリスマスも、本来の意味なんてそっちのけでただただ騒いでいる。中でもワタシの印象に残ったのはバレンタインだった。
今日はキョーマが来ない日。だけどなぜかルルがやってきた。ルルはたまにキョーマと一緒にやってきてキョーマの訓練風景を眺めているのだけど……一人で来るとは驚きね。
「あら、どうしたの?」
ちなみにルルには《イクシード》を紹介していない。ルルが一緒に来た時は《イクシード》はワタシの中から出ないようにしている。知るべきは当事者だけでいいからね。
「キャメロン……きょーまくんはぼくねんじんだったんだよ……」
「? キョーマは日本人でしょう?」
『かかっ。ボクネンジンというのはアメリカ人とかフランス人みたいな言葉の一種ではないぞ。』
? キョーマのおかげである程度漢字はできるようになったけど、未だに難しい言い回しは謎ね。
「あたしがバレンタインチョコをあげたんだよ? なのに何も言ってこないんだよ!」
「えぇっと……日本のバレンタインって、好きな人にチョコレートをあげるんだったかしら。」
「そうだよ! こくはくなんだよ!」
「告白……ずいぶん重たいのね。」
『かかっ。キリスト教とかの信仰告白と同等と考えるな。心中を伝えるという意味で捉えろ。』
なまじ家がクリスチャンだったからかしら、告白って言葉が壮大に聞こえてならないわ。
「要するに、あなたはキョーマが好きなのね?」
ワタシがそう言うとルルは目を見開き、顔をふせた。少し顔を赤くしながら。
「……別にそれに対してどうも思わないけど……どうしてそれを話した相手がワタシなの?」
「だ、だって……あたしとお話してるときもキャメロンがキャメロンがって……」
顔をあげたルルに睨まれた。
「そんなにワタシが話題になるの? そんなに面白いことをやってたかしらね。」
『かかっ。子供というのは集団からズレたくないと思うモノだが、キョーマももう小学四年生だ。少し早いかもしれんが……普通の子供が体験しないであろう、親や教師以外の大人と過ごす時間というのは自慢したくなるモノなのかもしれないな。』
そういうものかしらね。キョーマも成長している……ああ、そうだわ。
「ルル。きっとキョーマは恥ずかしがってるのよ。」
「……そう……なのかなぁ。」
「小さい時からずっと一緒に遊んでた女の子からバレンタインにチョコレートをもらっちゃったのよ? びっくりしたと思うわ。そんでもって、ルルはぼくのことが好きなんだーって知ってドキドキしちゃってるのよ。ほら……確か日本にはホワイトデーってのがあるんでしょう? それまで待ってみたら?」
「……キャメロンは……きょーまくんのこと好き……なの?」
「好きだけど、あなたが言う好きとは違うわね。つまり、ワタシはあなたの敵ではないってことね。」
その後しばらく問答が続き、ルルは少し嬉しそうな顔で帰って行った。
『かかっ。恋愛経験もないお前が恋の相談とはな。驚きだ。』
「恋って……まだまだ子供じゃないの。ほら、あれよ。卜部が言ってたじゃない。小学生から中学生、だいたいその頃に仲良しの子供集団に男女という線が引かれるって。そういう時期に入ったってだけで、本当に恋心なのかよくわからないじゃない。」
『かかっ。いや、我が驚いているのはな、お前が相談にのり、お前なりの答えを出したことだ。』
「なにそれ。」
『かかっ。あの絶頂期は自分の欲にしたがって自由気まま。その後五年間は殺し屋稼業。子供の相談にのれる人格ができるとは思えない人生だろう?』
「誰のせい……誰のためだと思ってるのよ。でも……そうね。少なくともキョーマと会った頃だったら今みたいな対応はできなかったかもね。」
『かかっ。キョーマのおかげで学んでいるのは漢字だけではないようだな。』
ワタシ三十六歳、キョーマ十一歳。
キョーマに《お医者さん》の世界を教えた。
ワタシと《イクシード》によるキョーマの教育は、キョーマが小学校五年生になった頃に一つの区切りを迎えた。
キョーマは自身の五感を完璧に制御できるようになったのだ。
……まるで偉業を成し遂げたような言い様だけど、実は誰もがやっていることなのよね。生まれてから物心がつくまでに、脳はその身体が持っている五感を理解して制御するようになるのだし。
例えば、体臭。常に嗅いでいるモノだから、それがどんなにひどい臭いでも意識することはない。これは嗅覚が制御されて、嫌な体臭を意識しないようにしているということ。他にも、大きな音でずっと音楽を聴いていると段々その音量に慣れたりすることなんかが挙げられるわね。
キョーマの場合は、その五感が異常だったから時期が遅れたに過ぎない。まぁ、適切な指導があったからできたわけでもあるのだけどね。
要するに、本番はここからということね。そしてそのためには、キョーマに教えなきゃいけないことがある。
「キョーマ。あなたにワタシたちの秘密を教えてあげるわね。」
「? ひみつ?」
五感制御の教育を終えたその日、ワタシと《イクシード》は《お医者さん》のことをキョーマに教えた。ヴァンドロームという生き物のことも……《パンデミッカー》という存在も。
そして最後に、ワタシと《イクシード》が何を目指しているかを。
《お医者さん》という存在については、《イクシード》という生き物……ヴァンドロームの具体例を見ているから理解が早かった。……というか、キョーマの父親のせいである程度知っていたみたいだった。
どうやらキョーマの父親は家に帰ってくると《お医者さん》に関する色々な資料を読みふけっているらしく、それをたまたま見たのだとか。難しい漢字や言い回しも多かったみたいだけど、《お医者さん》と呼ばれている《医者》ではない人たちがいるということが、なんとなく理解出来たらしい。
ヴァンドロームという生き物が具体的に何をする生き物なのかを知ったキョーマは目を丸くして《イクシード》を見たけど、それだけだった。怖がるかとも思ったのだけど……最初に出会ったヴァンドロームが人間の言葉を理解して、キョーマと仲良くしてくれる《イクシード》であったことが幸いしたみたいね。
キョーマの中では、ヴァンドロームの中には『元気』を食べて人を死に至らしめる奴もいるっていう認識なんだと思う。本当は、そっちが多数で《イクシード》みたいのが少数なのだけどね。
《パンデミッカー》については子供の子供的な理解をしてくれた。神の復活だとか、リミッターを解除したヴァンドロームで戦うとか、一応話してはみたものの、結局のところ、キョーマは《パンデミッカー》を悪者と認識しただけみたいだった。
最後に、ワタシたちの目標。ワタシたちが生み出した技術を受け継げる人間が、キョーマのように五感が異常な状態の者だけだということ。《イクシード》が安心して暮らせる場所が、キョーマのような人間の身体であること。
身体の中に住むという事を、キョーマは理解していた。ワタシの背中とかからひょっこりと《イクシード》が出て来る光景を何度も見ているし、そういう生き物なんだと思ってくれていたからだ。
《イクシード》の願いに対し、キョーマは頷いた。そして……技術のことを話した後、しばらくしてキョーマはこう言った……いいえ、こう言ってくれた。
「キャメロン。ぼく、《お医者さん》になるよ。」
結構大々的な暴露話のつもりだった。だけどキョーマはすんなりと受け入れてくれた。
この世界にはヴァンドロームという、時に人を襲う生き物がいること。
それを退治する人たちが《お医者さん》だということ。
《お医者さん》とは逆に、ヴァンドロームを使って悪い事をする《パンデミッカー》という悪者がいるということ。
《イクシード》というヴァンドロームが人を襲わないヴァンドロームで、家を探しているということ。
《イクシード》にとっての家というのが、『異常五感』という状態の自分の身体であること。
ワタシと《イクシード》が、残したいと思う技術があるということ。
その技術を受け継げる者が自分のような人間であるということ。
キョーマはそれらを全て受け入れた。そしてワタシと《イクシード》の願いを叶えると言ってくれた。
だけどそれは……素敵な前提があるから。
キャメロンはいい人だということ。
《イクシード》がいい奴だということ。
この何年間で出来上がった、ワタシたちへの信頼。それがキョーマに受け入れるだけの器を与えた。だから……だからワタシは……
『かかっ。よかったのか?』
「……」
『かかっ。お前が……いや、我らが……元悪者。《パンデミッカー》だったということを伝えなくて。』
「……おまけに人殺しでしたって……? 言えるわけ……ないじゃない……」
キョーマが帰った後の診療所で、ワタシは身体が震えるのを感じた。
『かかっ。そうか? 少し前なら……臆せずに言えていたと、我は思う。我自身も……な。』
《イクシード》はキョーマと仲良くしたいと言った。家にするのなら、会話ができた方がいいと言った。
ワタシは、なら《お医者さん》のこととかを教えないといけないと言った。
キョーマを、単なる子供、探し求めていたモノだと、ワタシたちは思っていた。ワタシたちの願いを叶えるために、キョーマに教えないといけないことがたくさんあると思っていた。
部屋に絵を飾りたいと思ったから、質のいい紙を見つけてきて、下書きをし、色を塗った。良いモノに仕上げたいと思って日々を過ごしていたら……いつの間にか、その絵は飾る程度のモノではなくて、部屋に無くてはならない日常になっていた。
初めの頃にはそうなると面倒だと思う程度だった事柄が、今そうなってしまうとまるで打つ手のない絶望的状況のように感じる。
ワタシたちは、キョーマに嫌われたくないのだ。
ワタシ三十八歳、キョーマ十三歳。
キョーマがワタシの髪の毛をいじりだした。
《お医者さん》になるための教育には時間がかからなかった。ただ単に、必要な知識と、ワタシが得てきた経験を伝えるだけだったからだ。五感制御のための訓練と比べるとずいぶん楽だった。
だからキョーマが中学生になる頃には、ワタシたちの技術の引き継ぎ……『強制異常』と『身体支配』の訓練が始まっていた。
加えて、技術を引き継ぐためという理由と、知っておいた方が便利という理由で、《医者》としての勉強も始まった。と言っても、治療法とかの勉強ではなくて、根本的な身体の仕組みの勉強だ。
技術の方はワタシが、身体そのものについては《イクシード》が教えて行った。
中学生になったキョーマはほとんど毎日来るようになった。たまに泊まっていくようにもなったし、テスト期間とかいう期間に入るとワタシたちの授業は受けずに、診療所で教科書とノートを広げた。
さらに……
「キョーマ、あんことみたらしどっちがいい?」
「あ、じゃあオレはみたらしで。」
一人称が「オレ」になった。
『かかっ。こう、ずっと見ているとわかりにくいが、昔と比べると随分……男っぽいしゃべり方になったな、キョーマよ。』
「そりゃあ……ね。でもたぶん、キャメロンたちに出会わなかったら五感の制御ができずに……ビクビクした感じに育ったと思う。そうしたらずっと「ぼく」だったんじゃないかな。」
「それもそれでありだったと思うけどね。」
不思議なのは、中学生になって制服を着るようになると、随分と成長したように見えるということね。少し前まで小学生だったのに、少し前までテカテカの制服にどぎまぎしていたのに、馴染んだ途端にすっかりと大人になっていく。
「そういえばキャメロン。」
「うん?」
「キャメロンって……オシャレ的なことしないよね。」
ワタシは目をパチクリさせた。
「あ、いや……クラスの女の子を見てるとさ、鏡を持ってたり……なんかこう、ファッション雑誌っていうのかな。そんな感じの本を開いてみたりしてるから……」
『かかっ。第二次性徴も大方終わり、男女差が顕著になるからな。好きな異性の話も盛り上がるだろうし、何より見た目を気にするようになる。』
「……《イクシード》って変な知識を持ってるよね。」
『かかっ。そうか? しかしだ、キャメロンがこんなんなのは我のせいだと思うぞ。』
「こんなんて……ひどいわね。」
『かかっ。キャメロンと我が出会ったのはキャメロンが十歳の時だ。そこから人間として得られる「楽しい事」はほとんど経験してしまった。ま、男遊びはしなかったが。』
「異性というか、他人が必要なかったからね。」
『かかっ。オシャレというのは詰まる所、場に合わせるという行為だ。格式のある場なら相応の、華やかな街を歩くならそれに見合った、好きな異性に会うならその異性の好みに……合わせる。だがキャメロンには必要なかった。自分が合わせるのではなく、周りが合わせる。そういう中心になることがほとんどだったわけだからな。我が与えた全能というのはそういう事だった。今思えばそのせいで子供の一人も残せない寂しい感じにぎぎぎ。』
話している途中に《イクシード》のほっぺを両方から引っ張ったらそんな声を出した。どこが口なのかもわからないのに。
「……キャメロンて友達とかもいないよね……」
「失礼ね。いるわよ。」
「いるの?」
「《イクシード》と……あなた。」
結構恥ずかしいことをぼそりと言ったのだけど、予想外な答えが返ってきた。
『かかっ。それは心外だな。』
「な、なによ!」
『かかっ。たぶん、キョーマもそう思っているだろう。』
ワタシは内心かなりショック気味にキョーマを見た。
「そうだね……オレは……キャメロンのことを「家族」と思ってるよ。」
「……!」
『かかっ。そういうことだ。誰が親で子で兄弟で姉妹かなどという事はないが、かと言って友達のくくりでまとめられるのは何か違う。ならば仕方がない、「家族」と呼ぶしかないのだ。』
「……二人してワタシを……まったく……」
「あれ、キャメロン照れてる?」
「照れてないわよ!」
「照れついでにさ、キャメロン。」
「照れてない!」
「キャメロンの髪の毛触っていいかな。」
「?? なんでそうなるのよ……」
キョーマは鞄からクシを取り出してこう言った。母親から借りたのかしら。
「話を戻すけどさ……クラスの女の子が鏡とか見ながら髪を直してるのを見て……そういえばキャメロンの髪っていつもボサボサだなぁって。寝ぐせとかそのままだし。」
「いいじゃない、別に。」
「いや……だからなんとなく、とかしてみたいなーって……」
「変なキョーマね。そういう性癖?」
「せーへき?」
『かかっ。色々意味合いがあるが……異性のどこに、どんな仕草に惹かれるかということだな。』
「? よくわからないや。」
キョーマがワタシの後ろに移動し、髪の毛にクシを入れる。
「……ゴワゴワだね……プールから出た時の髪の毛みたいだよ。」
『かかっ。』
「……いたた。」
「あ、ごめん。というか……改めて見るとキャメロンの髪の毛って長いね。」
『かかっ。単に切るのが面倒なだけだ。立った時に地面に髪がついたら先っぽを十センチくらいそこらのハサミで切ってるだけだしな。』
しばらくの間ワタシの駄目っぷりを昔話を含めながら《イクシード》とキョーマが話していた。ワタシは、黙ってキョーマに髪をとかされていた。
中学一年のキョーマが、ある時課外授業とかで学校の外に行くことになった。
「たぶん、その日はここに来れない。帰りも遅いし。」
久しぶりにキョーマのいない日になるわねと思っていたら、その前日あたりに一本の電話がかかってきた。
それは、ワタシの人生の中ではかなり大きな出来事となった。
『キャメロン・グラントだな?』
一応引いておいた診療所への電話。その滅多にならない電話が吐き出した言葉は、まるで墓から出てきたゾンビがしゃべっているような印象を受ける、ドロドロした声だった。
「……あなたは?」
『む? ああそうか。そっちは日本だったな……もしもし。』
「今更日本流の電話の仕方をしなくていいわ。あなたはだ――」
途中で電話が切れた。いえ……外見的には「切った」ね。何故かワタシの左手……受話器を持っていた手が勝手に動いて電話を切ったのだ。その左手には、上半身だけをのぞかせる《イクシード》がいた。
『かかっ……つい切ってしまったな。』
「……あなたの知り合い?」
『かかっ。ああ。名前だけなら、お前も知っている。』
再び電話が鳴る。
「……出ていいの?」
『かかっ。まぁ……要件を聞かないことには何も判断できないか。いざとなれば……我が全力で相手をする。』
不穏な言葉を聞きながら、ワタシは電話をとった。
『もしもし。』
「……確かにワタシはキャメロン・グラントよ。あなたの名前は?」
ドロドロした声は、声の大きさや高さを一定にしてこう言った。
『吾の名は《デアウルス》。』
《デアウルス》という名前は結構な頻度でアウシュヴィッツの口から出てきた。『半円卓会議』の司会にして、《ヤブ医者》たちのまとめ役。実質的な《お医者さん》会の頂点。それが《デアウルス》という、Sランクのヴァンドロームだ。
面白い事に、《お医者さん》の中でその名前を知っている者はごく少数なのに対して、《パンデミッカー》は全員知っている。何故なら、ヴァンドロームなのに《お医者さん》側にいるという裏切り者だからだ。
《パンデミッカー》にとって、ヴァンドロームは「神」の使いであり、その昔に封印されたとあるヴァンドロームをよみがえらせるための存在。そういう認識が全体に広がっている。
だけど《デアウルス》はヴァンドロームを退治する《お医者さん》のトップ。しかも、《パンデミッカー》にとって最大の敵である《ヤブ医者》たちの指揮官。一体何が目的なのか、どんな考えで《お医者さん》側にいるのか……アウシュヴィッツを悩ませる存在だった。
「……本……物?」
『吾のまねをする者が出てくるほど、吾の存在は知れ渡っていないはずだ。』
《デアウルス》はSランクのヴァンドローム。実は《パンデミッカー》が掴んでいた情報はこれだけだったのよね。少なくとも、ワタシがいた時は。
《デアウルス》は完全完璧に謎の存在だった。『半円卓会議』には司会がいて、そいつが《ヤブ医者》のリーダーらしい。初めに得た情報はこれだけだったそうだ。そこからなんとか名前を調べ上げ、随分昔にその存在が確認されたとあるSランクのヴァンドロームが当時その名前で呼ばれていたことを知り、《パンデミッカー》は自分たちの最大の敵がヴァンドロームであると知ったのだとか。
昔の資料には名前しかなく、容姿に関する表記は、あっても「表現できない」と記述されているだけでどんな姿なのかはまったくの謎で、アウシュヴィッツが何度もその居場所を調べたけど見つからなかった。
とにかく、《デアウルス》がどういう立ち位置なのかはわかっていても、どんな奴なのかはまったく知らなかったワタシのもとに、当の本人から電話が来たわけだ。
「まさかこんなことがあるなんてね。アウシュヴィッツが血眼になって探しているのにね。」
『その眼から逃れることに、日々力を注いでいるのでな。』
「……要件は……《パンデミッカー》絡みかしら?」
『具体的な内容を今話すことはできないが……それは違う。明日、ある場所に来てほしい。』
「……そんなお誘いでワタシが行くと?」
『来ると思っている。お主はともかく、電話越しでも感じ取れる敵意を垂れ流している知り合いは必ず来る。ならばお主も来る道理だ。要件は以上だ。電話の後、郵便受けを覗くと良い。ではな。』
「な、ちょっとま――」
本当に、これといった情報の収穫もなく、電話は切れた。
郵便受けを覗くとエアメールが来ていて、中には地図が入っていた。
「……イギリスね。」
『かかっ。明日と言っても時差があるな。一体いつ行けばいいのやら。』
「……いつでもいいってことね。それにあのしゃべり方だと……ワタシたちが一瞬で長距離を移動できることを知っているわね。」
『かかっ。そうだろうな。』
「……知り合い……なのよね?」
『かかっ。まぁな。今現在存在しているSランクが全員で勝負をしたとしたら、真っ先に負けるだろうと思える戦闘力を持ち、最後まで勝ち残るだろうと思える頭脳を持っている。』
「つまり……アウシュヴィッツみたいな感じなのね……」
『かかっ。一体何の用なのか……』
「……さっき《デアウルス》が敵意って言ってたけど、あなたと《デアウルス》は仲が悪いの?」
『かかっ。良かろうと悪かろうと警戒はするさ。Sランク同士の接触はそうそうあることではないのでな。』
「ふぅん……」
第三章 その2に続きます。