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お医者さん  作者: RANPO
第二章 「クラッカー以上に恐ろしい物をオレは知らない。」
4/10

第二章 その2

第二章 その1の続きです。

 翌日。オレはとんでもない方法で起こされた。

「――守。」

「んん……」

「享守。」

「ん……」

「ふぅー。」

「んぎゃあ!?」

 突如耳の中に吹き込んだ柔らかい風にオレは跳び起きた。

「おはよう、享守。」

 ふとんの横に、床に長い金髪を広げているドレス姿の美女が座っていた。

「……ファム?」

「そうよ。」

「ファム!?」

「そんなに呼ばなくても、わたくし、耳は遠くないのだけれど。」

 ここは間違いなく甜瓜診療所のオレの部屋だ。そこになんでイギリス在住の《ヤブ医者》、ファム・ヘロディアがいるんだ?

「それにしても享守……大丈夫なのかしら。」

 オレの驚きをよそに、ファムがオレの部屋を見まわしながらそう呟いた。

「……何がだ。」

「昨日、性欲という言葉を聞いてふと思ったのよ。そういえば享守はわたくしの水着姿を見ても表情一つ変えないわ。享守にはきちんと性欲はあるのかしら、と。」

「いや……それは……」

「それでこの部屋を調べたのだけれど、出てくるのは絵本ばかり。肌色の多い本が出て来なかったわ。」

「調べたって……」

「別にそれが悪いことだとは言わないわ。三大欲求の一つとは言っても、性欲だけは生きる事に関係しないものだから。子孫を残さないで良いと思うのであれば無くても問題はないわ。だけれどね享守。わたくしを見ても何も感じないというのはショックな話よ? わたくしの美しさは周囲の男を虜にしても、最も愛する人を虜にできないということになるのだから。」

「愛……」

 オレは内心かなりドキドキしながらも、普通に振る舞う。

「ファム、今オレが問題にするべきは何でファムがここにいるかということなんだが。」

「昨日行くと言ったじゃない。」

「……朝の六時にか……」

「ふふ。今までも何度か享守の家を訪ねようとは思っていたのだけれど、約束も無しというのは品が無いでしょう? だから今回のようにきちんと約束をとったのなら気兼ねなく会えるのだから、わたくしは一刻でも早く会いたいと思うのよ。」

「自家用飛行機でもトバしてきたのか?」

「そんなところね。さあ、起きて享守。いっしょに朝食を食べましょう。」


「オオ! こんなに美味しいパンケーキは初めて食べタゾ!」

 ライマンくんがパンケーキをもりもり食べている。オレとことねさんはやけに美味しいご飯と素晴らしい焼き加減のシャケと意味がわからない深みのある味噌汁を食べている。

「すごいですね、先生。全然ゆれませんよ。」

 ことねさんが味噌汁をじっと見つめながらそう言った。

「通常航行の時は大丈夫だけれど、気流にぶつかったりするとそうもいかないわ。今度スッテンにもっと良い物を作ってもらおうかしら。」


 オレ達がいる場所は……甜瓜診療所ではない。パッと見、超高級ホテルのスウィートルームと言ったところか。だがその実、ここはファムの自家用飛行機の中だ。

 ファムが朝食を食べようとオレを引っ張って行った場所は和室でも台所でもなく、玄関だった。そして外には何故かエレベーターのような箱があり、その箱の上部には御釈迦様が垂らした蜘蛛の糸のごとく、遥か上空へと続くワイヤーがついていた。

 エレベーターの中には服を着替えたことねさんとライマンくんが困惑顔で乗っていた。ファムに連れられてオレもそれに乗ると、エレベーターは上昇し、気付くとファムの自家用飛行機の中にいた。

 空中で停止できる飛行機って一体なんなんだよ……ヘリコプターじゃないんだから……


「アメリカにはあと一時間程で到着するわ。」

 ファムはいかにも健康に良さそうな、肌に良さそうな朝食を食べている。

「なあ、ファム……」

「診療所のことなら心配はいらないわ。わたくしの下で《お医者さん》として活躍している者を置いてきたから。彼女たちの腕はわたくしが保証するわ。」

「そうじゃなくて……いや、そっちはありがたいんだが……いいのか? 昨日の今日で突然訪ねて。その……性欲使いに。」

「大丈夫よ。彼はわたくしの頼みなら何でも聞くから。むしろ心配は享守よ。彼が享守に嫉妬して何かするかもしれないのだから。」

「え?」

「彼はわたくしに言い寄っているということよ。」

「彼氏……なのか?」

「いいえ。わたくしは彼に興味を持っていないわ。アルバートのように、男としてあるべき姿を追求している点では尊敬しているけれど。」

「ムキムキなのか?」

「エロエロなのよ。」

 ファムがいたずらっ子のようにふふふと笑った。

「なんじゃそりゃ……一応、名前とか聞いといていいか?」

「いいわよ。彼の名前はサイグマンド・フリュード。大抵フリュードと呼ばれているわ。名前が呼びにくいから。性欲と美しさの関係を調べる上で知り合った人物よ。」

 スッテンの予想通りだな。

「さっきも言ったけれど、わたくしに心底惚れているわ。だから頼みを聞いてくれる。」

「おいおい……」

「享守。わたくしは美しいのよ? わたくしの虜となった男が何人いることか。別にわたくしは女王様になりたいわけではないけれど、美しさを求めるとはそういうことよ。言わば副産物。だから特に気にはしないし、頼みを聞いてくれるというのであれば聞いてもらうわ。けれどね、享守。」

 ファムは自分が座っていた場所から移動し、オレの横に座った。オレが座ってる席は一人掛けなん……だが……

 ファムの髪の毛が肌に触れてくすぐったい。そしてファムの顔が近い……

「わたくしから言い寄っている相手は享守ただ一人。だからわたくしはわたくしの美しさの追求の副産物から、享守を守る必要がある。女の美しさに対して、追い風にも向かい風にもなるモノが嫉妬なのだから。」

 ファムの青色の眼にオレが映っているのが見える。鼻と鼻が触れ、ファムの吐息が肌をなでる。

「フリュードには手は出させない。享守は何も心配することはないのよ。」

「いや……別に何かされることを心配してるわけじゃないが……ありがとう……」

 そんなオレとファムを顔を真っ赤にしてことねさんとライマンくんが見ている。

「それより享守、わたくしも質問するわ。このベレー帽の子は誰かしら。」

 ファムはライマンくんをちらりと見る。

「ライマン・フランク。《デアウルス》が言ってた護衛だ。アメリカのスクールから来た。」

「あら、思いがけず里帰りなのね。ファム・ヘロディア、《ヤブ医者》よ。よろしく。」

 ファムがにっこり笑いかけるとライマンくんはその場で起立してあいさつした。

「ラ、ライマン・フランクデス! スクールの三年生デス! こここ、こちらこそよろしくお願いしマス!」

 その後しばらく、ファムを膝の上に座らせたまま一時間程雑談していると、飛行機が目的地に到着した……らしい。窓の外を見るとまたもやこの飛行機は空中で静止している。

「ふふ、これはスッテンの発明なのよ。」

「スッテンの?」

「スッテンが書いた論文があるのだけれど、実現するには莫大なお金がかかる代物だったのよ。だから誰も作っていなかっただけ。」

 つまり莫大なお金が出せるわけだ……ヘロディア家は。

「さ、乗った時と同じように、エレベーターで降りるわよ。」

 エレベーターに乗り込み、一分くらい降下する。扉が開くと、そこは一軒家の前だった。なぜかその家の周りには他に家が無い。かといってここが何もない空き地の真ん中というわけでもない。住宅街の一部分にだけ家がない……そんな感じだ。見るからに、この一軒家を周りの人が避けていることがわかる。

 時刻は時差の関係で夕方。五時とかそこらだろう。

「ここがフリュードの家よ。」

 ファムはスタスタと玄関まで行き、チャイムを鳴らした。

『……○×□←』

 インターホンから声が聞こえた。英語だったが……渋めの低い声だ。

「わたくしよ、フリュード。」

『! ヘロディア嬢か! 今開ける!』

 家の中でどたどたと音がし、ドアが勢いよく開いた。

「ヘロディア嬢!」

「久しぶり、フリュード。今日はちょっと頼みがあって来たわ。」

「それは嬉し――ヘロディア嬢……その男は……」

 フリュードは……一言で言えばちょい悪オヤジ……みたいな感じだ。どこかのロックバンドみたいな髪型にサングラス。サンタクロースとまではいかないがかなり伸びたひげ。口には煙草をくわえ、派手な色のシャツに所々傷の入ったジーパン。歳は四十代といったところか。

 そんな見た目のフリュードがサングラス越しでも感じ取れるほどの敵意をむき出しにしてオレを見た。

「安藤享守。わたくしが身と心を捧げる男よ。」

「なんつー紹介の仕方を!?」

「ヘロディア嬢が……こんな……もやしを……」

 一瞬ふらっとしたが次の瞬間、フリュードはオレの胸倉をつかんでいた。

「貴様のような男がヘロディア嬢と――」

 ファムが目にも止まらぬスピードでフリュードの首へ手刀を振り下ろす。だが、それは途中で止まった。フリュードの身体が震えているのだ。そしてオレを見ながら信じられないという表情をしていた。

「な……なんだこれは。こんな目……まさか、あり得ない。あっていいはずがない……」

 フリュードはオレを離し、一歩下がった。それを見たファムは目を細めた。

「フリュード……あなた、何を見たの?」

「ヘロディア嬢……」

 フリュードは何かに脅えるように頭をかかえた。

「おれにもわからない。求めているようで求めていない……? 欲求を持たないことを欲求としている……? 何を体験したら、何を見たらそうなる……初めてだ……このおれが……仮にヴァンドロームにとりつかれても治療できないと感じる人間は……」

「……」

 ファムがいつもとは違う鋭い目でオレを見た。

 フリュードが何を言っているのか、何を言いたいのかはオレにはわかる。だが……ここで話すべき事じゃない。

「ま……まあまあ。オレは安藤享守。よろしくな。」

「…………サイグマンド・フリュードだ。」


 フリュードはぶつぶつ何かを言いながらも、オレたちを家の中に入れ、リビングに案内した。大きなソファーがあったのでとりあえずそこに座ろうとしたらフリュードが止めた。

「ちょっとまて。」

 言いながらフリュードは花見の場所取りにつかうようなシートをソファーにかぶせた。

「座っていいぞ。」

 オレとことねさんとライマンくんは不思議そうに、ファムはやれやれという顔で各々座った。フリュードはキャスターがついてる椅子をどこからか持ってきてオレたちの正面に置いた。

「今飲みモノを用意する。」

 ファムには赤ワインが、オレとことねさんとライマンくんにはコーラが渡され、フリュード本人は缶ビールを開けた。

「まさか……いや、当然と言えば当然なのか。ヘロディア嬢ほどの方となれば男には苦労せんもんな。であれば、自分の美しさでも落とせない相手に心を奪われるのはわかる。落とせない女であればあるほど、おれも燃えるしな。」

 フリュードは缶ビールをオレの方に突き出しながらこう言った。

「認めよう。お前ならば釣り合う。おれにはわからないが……お前には奥底に何かある。この世の誰もが驚愕し、世界を変えてしまえるような……何かが。」

「……それは言い過ぎだ。オレは平凡な男だよ。」

 性欲のスペシャリスト……三大欲求の一つを極めた男。欲求とはその人間の個性が最も出る所だ。それを極めたということは、出会った人間の本質を見極めることに長けているということだ。わかる人にはわかるらしいな……

 オレはフリュードの缶ビールにグラスをコツンとぶつけ、コーラをグイッと飲んだ。フリュードも喉を鳴らしてビールを飲む。

「良い女を手に入れたな……安藤と言ったか。うらやましいかぎりだ……ああちくしょう。」

 そこでライマンくんがはいと手をあげて尋ねた。

「なんだぁ?」

「ファムさんのどこに惚れたンダ?」

「そんなもん決まってんだろーが。その美しさにだ。」

「……美人な人ならたくさんいると思うケド……」

「ただ美しいってだけじゃ駄目なんだよ。いいか、女に限らず、全ての生き物は相反する美しさを持っている。身体は若い時が美しいが、心は老いた時が美しい。ピチピチの肌とシワシワの肌ならピチピチだろ? いつまでもピーピー喚くガキよりは凛とした大人だろう? だが現実はどうだ……両方が同時にピークに達することはない。」

 フリュードはプハーと息を吐きながら、ファムを見る。

「しかし、ここにそれを実現した女がいる! 最高に美しい身体と成熟した心! 気品のある性格! 全ての男にとって高嶺の花! 最高の女とはヘロディア嬢のことを指す!」

「タカネノハナ?」

「誰も触れてはいけない絶対的な美しさだ!」

「ンン? 誰も触れてないってことは、ファムさんはまだ処女なノカ? 確か年齢的にはおばあちゃんじゃなかっタカ?」

 ライマンくんがなにやらとんでもない質問をした。それに対し、ファムは笑顔で答えた。

「そうよ。捧げても良いと感じる人に会わなかったから。今はいるけれど。」

 ファムと目が合った。捧げるって……いやいやまずいぞ。話の方向を変えるんだ!

「フ、フリュード……あんたは何で普通に日本語でしゃべってんだ。」

 インターホンに出た時は英語だったはず。何で今は日本語なんだ?

「ヘロディア嬢が日本語で話しかけてきたからだ。」

「……何でしゃべれるんだよ。」

「おれは性欲の専門家だぞ。あそこまで性に対して禁欲的な日本に興味を抱かないわけがないだろ。現地で調査するにはそこでの言語がしゃべれないと意味が無い。だから勉強した。」

 フリュードは酒臭くなってきた息を吐きながら腕を組んで語りだす。

「どうもな、若いうちにヤることが当たり前みてーになってんのがおれは気に食わないんだ。まるでそれが大人になるための一歩みたいに勘違いしてる連中が多すぎる。身体は勝手に大人になる。ならなきゃいけないのは心だ。経験する事は大事だが、早すぎるのも問題だ。醍醐味を理解できないのに経験したってしょうがないだろ?」

 言ってる内容はあれだが……要するに小学生が修学旅行で文化遺産を巡ってどうするんだって感じだな。そんな歳で歴史を感じ取れるかよって話だ。

「だから日本はなかなかいいとおれは思ってる。経済力の問題もあるだろうけどよ、国によっちゃ昼間っから若い奴が腰振ってるなんてことがあるが……ありゃ駄目だ。世界からはよく日本が馬鹿にされるがな、勤勉、真面目、大いに結構。性の経験なんざ大人になってからでいいんだよ。そう思わないか?」

 ……おかしいな。さすが性欲の使い手……話がだんだんそっちになっていく……

「だいたい、男がイチモツぶっ込んでる時に楽しめるのは女の声だろ? 十代二十代の喘ぎ声なんかうるせぇだけだろうが。四十、五十くらいの女が、初めての感覚にドギマギしつつも、『もうこんな歳なんだから』と恥ずかしがりながらも押し殺せない声を出すのがいーんじゃねーか。処女を守って来た女……艶のある声と恥じらい……たまんねーなーおい! 想像するだけで息子が立ちあがるってもんだ!」

 フリュードが座った体勢で腰を振る。そして「くーっ!」ってな感じの顔をした。ことねさんとライマンくんは軽く目をそらしている。

「フリュード……若い二人が居辛そうにしているわよ。」

 ファムがくすくす笑いながらそう言った。

「大丈夫だヘロディア嬢。おれ、少なくとも三十は超えないと女として見ないから。一応誤解の無いように言っとくが、ガキは胸が小さいからって理由じゃないぞ。おれは貧乳でも巨乳でもどっちでも……いや、でかいほうがプレイに幅が出るのは確かだが……」

 何を言ってるんだこいつは……

「昨日ヤッた女も巨乳でなー。良い感じだった……」

「昨日!?」

 オレがびっくりすると不思議そうな顔でフリュードはオレを見た。

「? ああ。そのソファーでな。」

 それを聞いたことねさんとライマンくんは立ちあがって部屋の隅に移動した。

「まさか女とヤッたソファーにヘロディア嬢を座らせるわけにはいかないからな。シートを被せた。」

「ふふふ。フリュードは研究と自分の性欲のために毎日とっかえひっかえ誰かとヤっているのよ。お盛んなことよね。」

「満たされることはないがな。最高の女を知ってしまったからには。」

 なんて会話だ。片や性欲の専門家で片や七十八歳。こういう内容にドギマギする段階を既に通り過ぎている。オレたちには重すぎるこの内容に。

「……本題に入っていいか?」



 こんな人に任せていいのかな……と、私は感じていた。だけど先生が本題を話し始めると、フリュードさんはものすごい真剣な顔になった。その格好でその表情になるとちょっとヤクザか何かにしか見えないけれど……

「はぁん……つか、お前《ヤブ医者》だったのかよ。ヘロディア嬢以外で会うのは初めてだぜ。」

「そうか……」

「……さて、今の件だが……引き受けてもいいぜ。ヘロディア嬢の未来の旦那の頼みとあっちゃあな。」

「嬉しい事を言うわね、フリュード。」

 ファムさんがうっとりしている。先生は半目になっている。半目の先生が「ありがとう」と言ったあと、フリュードさんに尋ねる。

「それじゃあ……どうすればいい? あんたがニック・フラスコとかから《ミスユー》を性欲によって切り離さなければならなくなった時、それはすぐにできる事なのか? それとも準備がいるのか?」

 確か使い手によっては調べることも違うと先生は言っていた。この人が治療する際には何が必要なのだろうか。

「そのパーティーが始まる前に一度面と向かって会わせてもらえばそれでいい。どういう風に性欲を爆発させるかは見ればわかる。」

 見るだけで……さすがはファムさんが認める専門家。アルバートさんといい、何かを極めた専門家は見ただけでわかってしまうらしい。

「エェ!? そ……それじゃあ、僕たちのこともわかっちゃってるノカ?」

 ライマンさんが恥ずかしそうに聞いた。私もライマンさんの質問の意味を理解して少しドキッとなった。

「あ……いや……」

 だけどフリュードさんはため息交じりにこう答えた。

「……自信なくすんだがよ、今おれの前にいる四人の人間の性欲は……見ただけじゃわからないんだよな。」

「そうなノカ?」

「ヘロディア嬢は今まで会ったことのない完璧な女ってこともあっておれが今まで積み上げてきた経験がまるで通じないから調べないと断定できない。安藤はそもそも調べてもわからなそうだ。そこの白い子は……なんか違う感情が混ざってて読めない。ベレー帽の子は何かが矛盾しててわからない。」

 どういう感覚なのかわからないけれど……どうもフリュードさんは私の左手にいる《オートマティスム》の存在を感じ取っているようだ。だから「混ざっている」と言ったんだろう。先生は……もう謎だらけだから今さら驚かないけれど……ライマンさんはどういうことだろう。矛盾ってなんのことだろうか。もしかして男か女かわからないってことかな?

「あら、大丈夫なのフリュード?」

「いや……うーん……会えばわかるもんなんだが……そのフラスコだとかもわからないってことは……たぶん……ない……はず。」

 わからない人が四人も目の前にいるからか、言葉通り自信をなくしているフリュードさん。

「ふふ。それじゃ、わたくしからある程度の情報を渡しておくわ。一流の情報屋に調べさせるから。それをもとに性欲を調べて。」

「すまない……いや、普通なら見てわかるんだよ……」

「わかっているわ。あなたの実力は。」



 アメリカから帰って来た私たちは診療所の和室にいた。時刻は十二時。朝が早かったから午前中で終わったのだけれど……あまりにあっという間の出来事すぎて、私は本当にアメリカに行ったのかも怪しく思えてきた。確か日本からアメリカって片道十時間くらいかかるんじゃなかったっけ。ファムさんの飛行機はどんだけ速く飛んでたんだろう。

 フリュードさんは当日にファムさんが日本に連れて来てくれることになった。

 これで、当日はこんな感じになる。まず、先生が言うに《デアウルス》さんが今回のことに気付かないわけはないので、護衛はバッチリだろうということ。そこに私と先生とライマンさんが加わり、いざという時のためにフリュードさんがいる。そしてフリュードさんを連れてくるファムさんももしかしたら加わるかもしれない。

 でも、そこまで考えてふと思った。《お医者さん》の将来に大きく影響するかもしれないこの事件に、なんでこんなに関わる人が少ないんだろうか。《ヤブ医者》が全員招集されてもいいんじゃないのか……そんなことを先生に聞いてみた。

「うーん……《ヤブ医者》って言っても別に戦闘集団じゃないからね。治療と言う場面においては確かに全員がすご腕だろうけど、《パンデミッカー》とやるのは戦闘だから、向き不向きがあるんだよ。」

「それはそうですね……」

「大丈夫だよ。《デアウルス》に抜かりはない。オレたちが行くのだって計算に入ってる可能性があるくらいさ。」

 先生は……《デアウルス》さんならこの事にとっくに気付いてるはずだと言っている。護衛をつけているはずだと言っている。どれも確証はないのに結構安心している。

どうしてそこまで《デアウルス》さんを信頼しているんだろうか。逆に、《デアウルス》さんはどうしてそこまで信頼されているんだろう。

「納得できないって感じだね。」

「……少し。」

「《デアウルス》は《お医者さん》のトップではない。だけど、《ヤブ医者》のトップであることは《ヤブ医者》全員が認めている。トップというよりは……司令に近いけど。」

「司令ですか。」

「オレも二回、《デアウルス》の指示で事件を担当したことがある。ヴァンドローム絡みの事件をね。一つはアルバートと一緒に作戦をたてて動いた。もう一つは……たまたま近くにいたから走ってそこに行けって言われた。」

 たまたま近くにいたから走って……?

「! ……まさか……」

「オレにあの崩れる橋に行けって言ったのは《デアウルス》なんだよ、ことねさん。だからことねさんを救えた。《デアウルス》は知らない所で《ヤブ医者》に頼んでヴァンドロームの事件を解決してる。今回のことも見逃さずに対応しているさ。」

「……《デアウルス》さんはどうしてそんなに《お医者さん》の味方をしてくれるんでしょうか。」

「そうねぇ。」

 正座してお茶を飲んでいるファムさんが呟いた。

「《デアウルス》は一定量の『元気』の供給を条件に人間と契約したと聞くわ。だけれど、その契約が成されたのはわたくしが生まれるよりも遥かに昔。」

「そんなに昔……」

「契約したということは《デアウルス》と契約をした人間はそれなりの地位にいたということだけれど、今現在デアウルスと同等の権限を持つ《お医者さん》がいるかしら。答えはノー。享守が言うように、《デアウルス》は《お医者さん》のトップではないわ。だけれども、《ヤブ医者》を統括していることは事実。そして、《お医者さん》の世界に重要な決定は『半円卓会議』で成される。全ての《お医者さん》は正体不明の人物によって統括されているのよ。その人物を、《ヤブ医者》は《デアウルス》と呼ぶのだけれど。」

「ファム……」

「自分と同等の存在がいないのにも関わらず、《デアウルス》はトップで在り続けているわ。その理由こそが、わたくしたちを助けてくれる理由だと思うのだけれど……全ては本人のみぞ知るというところね。」

「ファム……なんでここにいるんだ? 飛行機行っちゃったぞ。」

 説明してくれたのは有難いけど……何故かファムさんはまだここにいる。自家用飛行機はもう行ってしまった。

「折角来たのだから、パーティーの時までいるわ。フリュードは別の者が連れてくることにしたから心配はいらないわ。」

 先生をちらりと見る。みるみる表情が「まさか」という言葉で埋まっていく。

「……どこで寝泊まりを……」

「ここ以外にないと思うのだけれど?」

 にっこり笑うファムさん。

どうでもいいけどものすごく場違いな感じがする。こんな小さな和室で高そうなドレスの絶世の美女がお茶を飲んでいるのだから。

「でも……着替えとかは……」

「そこにあるわ。」

 部屋の隅っこにいつのまにか旅行カバンが置いてあった。初めからそのつもりだったようだ。

「お、お客さん用の部屋とかないんだが……」

「享守の部屋で寝るわ。」

「ふ、二つも布団は敷けないんだが……」

「享守の布団で寝るわ。」

 こうして、ニック・フラスコがやってくるまでの間、ファムさんが甜瓜診療所で寝泊まりすることになった。



 ……わたしは……夢を見ていました。とても懐かしい、あの頃を。

 彼は一人用の丸いテーブルにチェス盤を置き、一人でチェスをさしていました。

 彼女はアイマスクをつけ、ソファで寝ていました。

 とても……とても頼りになるお二人です。お二人が揃うと、出来ない事ありはしませんでした。

 だけど――


「……今になってこの夢とは。まいりますね。」

 わたしは椅子で眠っていたようです。頭を軽く振り、目を開けるとちょうどわたしがいるこの部屋に誰かが入ってきました。

「集まりました。みな、待っています。」

「ええ。行きますよ。すぐに。」

 わたしは呼びに来てくれた人にそう言い、緩慢な動作で立ちあがりました。

 その人の先導で、わたしはいつもの部屋に向かいます。

「次は……どんな計画を? まだ上の方にしか今回の事は……」

「大きな仕事です。実に。あの人を何とかしてしまえば連中は動きづらくなります。かなり。しかし同時にリスクを伴います。とても大きな……ね。」

「それ故の……あの面子ですか。」

 いつもの部屋につき、その人が扉を開けてくれました。

 中には長いテーブル。そして座っている数名の同志。

「おぉ……やっときたぞ。」

「遅くなってすみません。では……始めましょうか。」

 彼と彼女……いえ、彼の意思はわたしが継ぎました。わたしが皆さんをさらに先へと進めます。

「ニック・フラスコ襲撃の作戦会議を……」

 わたしたち、《パンデミッカー》の目標へ。



 翌日の朝、私が着替えて和室に行くと先生とファムさんがいた。ファムさんが畳の上に正座していて、先生がファムさんの髪をくしでとかしている。

「おはよう、ことねさん……」

 先生はなんだか眠そうだ。

「どうしたんですか、先生。徹夜明けの人みたいな顔ですよ。」

「事実その通りなんだよ。」

「何をしてたんですか。」

「あハハ! ことね、そんなのわかりきってるじゃなイカ!」

 ライマンさんがやってきた。

「そこの美人さんと……きっとイチャイチャしてたンダ! 一晩じュウ!」

 ライマンさんはニヤニヤと楽しそうだ。私は先生を見た。

「ことねさん、そんな『私、この人の生徒で大丈夫かな』って顔しないで下さい。」

「じゃあなんでそんなになってるんですか?」

「眠れるわけがないじゃない。となりで……同じ布団の中にファムが寝てるんだよ?」

 あ……ほんとに一緒に寝たのか……

「何かいい香りはするし、さらさらの髪の毛が手に触れるし、吐息が……首のあたりにかかるし……」

 吐息が首にかかるってことは……二人揃って天井を見上げて寝たわけじゃないってことだけど……

「えロイ! 安藤先生がえろイゾ! どんな感じで寝てたンダ? 抱き合ってなノカ!」

 ライマンさんが朝からフィーバーしている。先生の話をすると輝きだす詩織ちゃんみたいだ。

「……オレは上を向いて……ファムがオレの方を向いてた……」

「それは……大変……だったんですか?」

「結構ね……」

 それはまぁ、先生にとってはそうだろうけど……きっとファムさんにとってはステキな一夜だったんだろう。そう思ってファムさんを見たんだけど……

「……」

 ファムさんは何故か不機嫌そうだった。

「ファムさん?」

「……ことね。」

「はい。」

「あなた……享守にその三つ編みを編んでもらったことあるかしら?」

「いえ……ないですけど。」

「そう……」

 ファムさんの表情が何だが……怖い。

「享守。」

「ん?」

 先生は眠そうに返事をした。先生の位置からはファムさんの表情は見えない。

「どういうことなのかしら。」

「何が……?」

「どうしてそんなに……女性の髪をとかすのが上手なのかしら?」

 私は先生を見る。そう言えば……ファムさんの長い金髪を随分と手慣れた感じでとかしている。もちろん私はとかしてもらったことない。つまり――

「なるホド! つまり安藤先生には髪をとかす程の関係にある女の人がいるというこトカ!」

「ライマンさん……」

「おット。火に水を注いじゃっタナ。」

「……?」

「あれ、焼け石にあブラ?」

 ああ……ごっちゃになってるのか。

「! まさかあの本屋の店員かしら!?」

「ファム、とりあえず落ち着いてくれ。」

 この修羅場一歩手前みたいな和室の中、先生はいつも通りだった。

「ライマンくんの言った事は正解だ。あー、ことわざは間違いだけど。」

 先生はファムさんの髪から手を離し、ファムさんの正面に座った。ファムさんは怖い顔から……なんだか嫉妬する人みたいな顔になっている。困ったなぁ、同性の私もドキッとしてしまう。対して先生はのんびりしている。

「正解っつってもそういう女の人が『いた』って方が正しいが。」

「そ、それは誰なのかしら?」

「二人いる。」

「おオウ! これが噂の二股ってやつダナ!」

「違うよ。彼氏彼女っていう間柄じゃない。まず一人はるるだ。」

「誰かしら、それは。」

「オレの幼馴染だ。今《医者》をやってて、ヴァンドローム関係の患者さんにここを紹介してくれてる。小さい時からるるは髪を長くしててな。走り回った後なんかに、オレに髪をとかせって言ってくるんだ。」

「……二人目は?」

「オレの先生。」

 先生の先生……『あの人』か。というか女の人だったのか。

「あの人はファムとは正反対でな、髪の手入れなんかしない、オシャレする気なし、いつも適当な服装っていう人だったんだ。なのに髪は長くのばしててな。そのボッサボサのゴワゴワになった髪をとかすのがオレの役目だったんだよ。」

「そう……」

 ファムさんが心底ほっとしたような表情になった。うわ、ファムさんがなんだか可愛い。

「まったく、心配してしまったわ。世間には浮気だとか愛人だとかを男なら仕方の無い事と言って黙認してしまう女性がいるのだけれど、わたくしはそうではないから。」

「そ、そうか……」

 ファムさんの思わずドキッとして顔が赤くなってしまう熱い視線を受けた先生はあわてて立ちあがった。

「さーて、朝飯を作るかな。」



 はしを上手に使いこなし、ウインクしてくるファムと一緒に朝飯を食べたあと、オレとことねさんとライマンくんは診療所を開ける準備をした。ニック・フラスコが来るパーティーまではまだ日があるし、それまでは正直あまりやることがない。まぁ、パーティーの会場の下見くらいはできるが……

 ともかく、あまり普段と変わらないので、準備をした後は患者さんが来るまで暇となる。そんな中、ファムは甜瓜診療所を探検し始めた。

「あら、あまり女の子の部屋という感じではないわね。」

「よく言われます……」

 ファムはオレの部屋を隅々まで調べて満足した後、ことねさんの部屋に入って行った。

「これはこの間のパズルね?」

「はい。結構難しかったです。本場は違いますね。」

「そう? わたくし、こういうモノはやったことがないのだけれど。」

 そう言いながらファムはくるりと向きを変えてドアのところに立っているオレを見た。

「……なぜ享守はそこでわたくしたちを眺めているのかしら?」

「いやぁ……暇だし……」

「あらそう。ことねの部屋に見られたら困るモノでも隠しているのかと思ったのだけれど。」

「そんなのないが……仮にあったとしてもなんでことねさんの部屋に隠すんだよ……」

「とうだいもとくらしダナ!」

 ライマンくんがひょっこりと顔を出す。

「少し意味が違うわね。」

 ファムがふふふと笑う。

「ん? ファムは日本のことわざまで勉強したのか?」

「もちろんよ。将来どちらに住むかはわからないけれど、知っておいた方が会話は楽しくなるわ。」

「どちら?」

「日本かイギリスかということよ。わたくしは享守さえいればどちらでもいいのだけれど。」

 目を細め、にっこりとほほ笑みながらオレを見るファム。

「そ、そうか……」


 チリンチリン


 なんだか微妙な空気になったその時、診療所の入口に吊るしてある風鈴が鳴った。要するに、誰か来た。

「患者さンカ!?」

 ライマンくんが小走りで入口の方に向かう。オレとことねさんとファムもそれに続いた。

「あ。」

 やってきた人を見て、ことねさんがそう言った。

 入口にいたのはめんどくさそうな顔をした一人の男性。黒い髪の毛をテキトーな髪型にまとめ、深い緑色のジャケットをはおり、さらに濃い緑色のズボンをはいた大学生くらいの男だった。

 ……いや、というか……

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 ことねさんがそう言った。

 そう、彼はことねさんのお兄さんだ。オレはことねさんをあずかる際、ことねさんの家に言って家族の方にあいさつをした。その時にことねさんの家族とは全員顔を合わせているので、もちろんお兄さんの顔も知っている。

「よう、ことね。久しぶりだな。」

 軽くため息をつきながら筝太くんはそう言った。

「ことねのお兄サン! 名前はなんてゆーンダ?」

「お兄ちゃんの名前は筝太です。溝川筝太。」

「ソータ? なんだかかっこいイナ!」

「そうですか……?」

 そんなやりとりを眺めていた筝太くんはオレを見る。

「……こんにちは、安藤先生。」

「こんにちは、筝太くん。久しぶりだね。今日はどうしたんだい?」

「野暮用です。父さんが忙しいってんで俺が。」

「? んまぁ、とりあえずあがって。」

 オレは和室に筝太くんを促す。筝太くんは黙って頷き、和室へ歩き出す。その際、ファムが視界に入り、筝太くんは顔を真っ赤にして驚いた。

「……!? んなっ……!?」

「……」

 ファムは特に興味もなさそうに筝太くんを見る。そしてにっこりと笑ってオレを見た。

「これが普通の反応というモノよ、享守?」

「……そうだろうな……」



 筝太くんが和室に座り、ことねさんがその正面に座った。そうなると、お茶を出すのはオレの役目となるので、オレは台所に向かう。

「お茶お茶……」

「享守。」

 オレがお茶のカンカンを探していると、後ろからファムが話しかけてきた。

「なんだ?」

「わたくし、しばらく享守の部屋にいていいかしら?」

「? 別にいいが……そんな気を使わなくてもいいと思うぞ?」

「気を使う? いいえ享守、別に何か大事な話をしそうだから席を外そうというつもりで言っているわけではないのだけれど。」

「じゃあ……」

「あの男と一緒の空間にいるということが嫌でたまらないということよ。」

 正直、かなり驚いた。だが奇妙な話というわけでもない。オレは今まで『半円卓会議』でしかファムに会ったことがなかった。周りにいるのは《ヤブ医者》か《医者》か《デアウルス》。つまり、極々一般的な人物……たとえば小さな子供と話すとき、ファムがどんな感情を抱くのかなどということは知らない。

 生理的に合わない人というのは誰にだっているだろう。ファムにとってのそれが筝太くん……なのかもしれない。

「わかった。じゃあオレの部屋にいてくれ。あんまり荒らさないでくれよ……」

「……理由を聞かないのかしら?」

「聞いていいなら聞くが……」

「ふふふ、享守は優しい人ね。」

 ものすごくいい顔……ドキッとしてしまう笑顔でそう言われてしまった。

「わたくし、普通というのが嫌いなのよ。」

「普通が嫌い?」

「わたくしは、女は美しくあるべきだと思うわ。この考えはたぶん一生変わらない、わたくしの信念。そしてこの信念があるからこそ、わたくしは高みを目指せている。アルバートもそう……男とは筋肉を持つべきだという信念。それがあるからこそ、あの美しい肉体を得た。」

「そうだな。」

「具体的な言葉で聞いたわけではないけれど、スッテンからも科学に対する信念を感じるわ。そして、享守……あなたからも、何かを果たそうとする強い信念を感じる。」

 ……見ただけで「この人いい人」だとか、「この人悪い人」ということを感じる時がある。それはその人が積み上げてきた数々の経験から導かれる経験則。ファムほどに人生を歩んできた人物なら、その人が信念を持つか否かということはなんとなくわかるのかもしれないな。

「会議で会う《医者》もそう……人を救いたい、権力を手にしたい……どんなものであれ、あの場に来る《医者》からは信念を感じる。わたくしはそういう人間が好きなのよ。人ってそうあるべきだと思うのよ。」

「……それはまぁ、同感だ。」

「けれどね、享守。世の中には何の信念も持たず、平均から出ることを恐れて高みを目指さない普通の人間というのが存在しているのよ。普通を目指したのではなく、何も目指さないゆえに普通になったどうしようもない人間が。」

 ファムは目を細め、汚らしいモノを見るかのような目で筝太くんのいる方をにらむ。

「あれはそれなのよ、享守。わたくしが最も嫌う人間。」

「……そっか。」

 オレがそう言うと、ファムは「ごめんなさい。」と言ってオレの部屋に入って行った。

 ……別にファムが誰を嫌いであろうと、オレは何も感じない。ただ、オレの友人のことを深く知ることができたという喜びはあった。

 この前のスッテンとの電話でもその喜びがあった。

「……ああ……そうか。」

 もしかしたら、オレがまだ語っていないあの人との話をファムやスッテン、アルバートが聞いたら……嬉しく思ってくれるのかもしれないな……


『かかっ。残るは、お前の勇気だけということだな。』


「ああ……そうだな。」



 私はずいぶん久しぶりに見るお兄ちゃんをまじまじと見た。相変わらず、緑色が好きなんだな。

「それで……野暮用ってなんなの?」

「ああ……」

 お兄ちゃんはちらりと和室の隅っこで楽しそうに私たちを眺めているライマンさんを見た。

「オオ? 気にしないでクレ。僕は熊の置物かなにかだと思うンダ!」

 サケを加えた熊の置物のようなポーズをするライマンさん。

「えっと……気にしないで、お兄ちゃん。」

「ま、いっか。えっとな、ことね。お前、この前父さんに電話したろ?」

 私は内心ギクリとした。

「う……うん。」

「父さん、ことねが珍しく電話してきたってのに忙しくてゆっくり話を出来なかったって言ってた。けど今思うと、その時のことねがかなり慌ててたから気になったらしくてな。本当なら自分がここに来たかったけど、なんか近々大きい会議だか何かがあるとかで会いに行けない……だから俺がこうしてやってきたわけだ。」

 お兄ちゃんがそこまで話したところで、先生がお茶を持ってきた。

「はい、どうぞ。」

「アレ? 安藤先生、僕のぶンハ?」

 テーブルに並んだ二つの湯呑を見てライマンさんが先生を上目遣いで見た。そういう動作をすると本当に女の子にしか見えない……

「ライマンくんはこっちおいで。お茶は診察室だよ。」

 そう言って先生は和室からライマンさんを連れ出した。和室には私とお兄ちゃんだけ。どうやらみんな気を使ってくれたみたいだ。

「……んで、ことね。父さんにした電話はなんだったんだ?」

 私は考えた。ここでお父さんが危ないとか話したらどうなるか。もしかしたらお父さんは出席をやめるかもしれない。私はそれが一番安心だけど……先生が言ったように、逆にパーティー以外で《パンデミッカー》に襲われたら守りにくくなる……

「えっとね……ちょっとびっくりしたんだよ。」

「何に?」

「お父さんが《医者》と《お医者さん》の架け橋みたいな活動をしてるってことに。」

「え、父さんそんなことしてんの?」

 お兄ちゃんも知らなかったみたいだ。

「私もつい最近聞いたばっかりで……つい電話して確認しちゃったの。」

「そっか。別に緊急事態ってわけじゃないんだな。」

 お兄ちゃんはふぅと息を吐く。別にものすごく仲の良い兄妹というわけではないけど、家族として心配してたみたいだ。

「というかお兄ちゃん。今日平日だけど……大学はいいの?」

「授業は午後からだからな。」

 お兄ちゃんは文系の大学に通っている。だからかどうかはよくわからないけど、朝から夕方までみっちり授業というわけではないらしい。

お兄ちゃんは《医者》を目指してはいないし、まして《お医者さん》になろうともしてない。

「お兄ちゃんは……将来何になるの?」

 ふと思った疑問をぶつけてみた。

「さぁ? 適当になんかなるさ。」

「え、それで大丈夫なの?」

「大丈夫だと思うけどな。」



 要件をすませたお兄ちゃんはさっさと帰ってしまった。まぁ、ここにいてもそんなにやることないし……

「お早い帰りダナ!」

「筝太くんは学生だからね。色々と忙しいんだよ、きっと。」

 先生とライマンさんが診察室から湯呑を持って出てきた。

「すいません、気を使わせて。」

「別にいいよ。」

「……? ファムさんは……」

 私がそう尋ねると同時に、先生の部屋からファムさんが出てきた。

「享守。」

 ファムさんはいつも先生に見せる笑顔ではなく、真剣な顔で先生に一冊の本を見せた。

「これはどういうことなのかしら?」

 ファムさんが手にしている本の表紙には「癌」という文字が見えた。読み方は「ガン」。死因の上位に色々な形で食い込んでくる病気だ。

「こんな感じの癌の専門書が享守の部屋にたくさんあったのだけど? しかも、床下の絵本に混ざって。」

「絵本と一緒に癌の本ですか。すごいですね。」

「ガン? 安藤先生は癌の研究をしているノカ!?」

 私たちが先生を見ると、先生は困ったように笑いながらこう言った。

「近いうちに話すよ。」

「今ではダメなのかしら?」

「ダメってわけじゃないが、どうせアルバートやスッテンとかにも話すことだからな。一度で済ませたいんだ。」

「……! あら……ついに話してくれるというのね? 享守の色々な謎を。」

「ああ。ファムのおかげでな。」

「あら、わたくし何かしたかしら?」

「ちょっとな……」




 ファムさんを入れて合計四人になった甜瓜診療所での生活は色々と騒がしく、その日はあっという間に来た。

 ニック・フラスコという《医者》がお父さんに会いにやってくる日。《医者》と《お医者さん》の未来を真剣に考える人が大勢集まるパーティーの日。《お医者さん》にとって大事な日。《パンデミッカー》の襲撃が予測される……日。

 私、先生、ライマンさん、それとファムさんと朝早くにアメリカから連れてこられたフリュードさんは甜瓜診療所を小町坂さんと藤木さんに任せ、都心のとある大きなビルにやってきた。よく知らないけれど、政治家さんとかが講演をする時とかに使われることのあるビルだそうだ。

「でっかいビルだナァ。」

「え、アメリカの方がでっかいビルとかって多いイメージですけど……」

「あのなー、こトネ。別にアメリカに住んでる人全員があんな都会に住んでるわけじゃないんダゾ。例えば僕が、日本でよく報道されるアメリカの大都会に行けば、そこでも僕は「でっかいビルだナァ。」って呟くのダヨ。」

「そんなもんですか。」

「日本人が全員着物姿でないのと同じようなもンダ。」

 私とライマンさんがそんな話をしている隣では、先生とファムさんがフリュードさんを加えて相変わらずの会話をしていた。

「あらあら享守。わたくし、別にこんな立派な所で式を挙げたいとは思っていないのだけれど。」

「結婚式の下見に来たわけじゃないんだが……」

「ほぅ? その言い方だと、お前はヘロディア嬢と結婚する気満々なんだな?」

「へ? あ、いやいや……」

「享守ったら……らしいと言えばらしいけれど、わたくし、あなたのプロポーズは聞きたいと思うのだけれど。」

「プロ……」

「がっはっは! なんなら、おれがアドバイスをやろうか? 女を口説くのには自信がある。んま、それがヘロディア嬢に通じるかはわからねーがな。」

 そんな会話をしながら、私たちはビルの入口にやってきた。

「ウワ。すごいナァ。」

 真っ黒な服を着た「いかにも」という人が入口の両脇に立っていた。

「やっぱり、警備は厳重だね。」

 先生が少し安心した顔になった。


 そもそも、お父さんからパーティーがあるという情報を聞いただけの私たちがどうやってその日と場所を突き止めたのか。

 ファムさんが先生の部屋で寝泊まりすると言ったその日の夜に、ライマンさんが思い出したように呟いた。

「そういえば、そのパーティーっていつなンダ?」

 その一言に私と先生はびっくりした。お父さんを助けるだとか、性欲使いを探すだとか、色々したような気がするのに、肝心のそれを調べてなかったのだ。

「あらあら。間の抜けた話ねぇ、享守。」

「おおぅ、言ってよかっタゾ。」

 ファムさんはくすくすと、ライマンさんはあははと笑った。

「とりあえずネットで調べてみるか。」

「? ことねのお父さんに聞けばいいじゃなイカ。」

「それだと理由をしゃべらなきゃいけなくなるかもしれないからね。」

「おお、なるホド。でもこの診療所にはパソコンなイゾ?」

「……ファム、持ってないか?」

「スマートフォンならあるけれど。」

 そう言いながら、ファムさんはスマートフォンを取り出した。オレンジ色の素敵なスマートフォンで、アクセサリーがついていた。ドラマや映画で出てくるハート型のロケットペンダントだ。

 ファムさんはそのペンダントと先生を交互に見て、ふふふと笑った。

「ファム?」

「なんでもないわ。それで、何を調べればいいのかしら?」

「ニック・フラスコが来るパーティー……かな。」

 慣れた手つきでファムさんが調べ始めた。だけど二~三分の後、ファムさんはため息をついた。

「……ふぅん……特に無いわね。」

「そうか……」

 先生が腕を組んで何やら思案顔になる。

「ニック・フラスコって有名人なんダロ? ことねのお父さんはともかく、そっちの名前で調べればパーティーが開かれる場所くらいわかりそうなノニ。」

「お父さんはともかくって……」

 その通りではあるけれど、なんだか……なんだかだ。

「……ああ……もしかしたら……」

「どうしたのかしら?」

「《パンデミッカー》が来るかもしれないパーティーだし……《デアウルス》が情報に規制をかけているのかもと……」

「あり得る話ね。でも……それを何とかできる人物を知っているでしょう?」

「……この前電話したばっかりなんだが……」

「? 誰ですか?」

「スッテンだよ。」

 その後、何やら機械みたいな声が聞こえる電話を数分した後、先生は疲れた顔で結果を話した。

「難しい話はわからないけど、スッテンによると神がかったプログラムが邪魔をしててネットからパーティーの情報を得るのは困難な状態らしい。まぁ……スッテンが普通にそれを突破して情報を得てくれたんだけど……」

「スッテンって誰なンダ?」

「《ヤブ医者》の一人だよ。」

「おオウ! 《ヤブ医者》の名前がポンポン出てくルナ! すごイゾ!」

「それで? 結局いつにどこなのかしら?」

「三日後のお昼に都心のとあるビルで行われるそうだ。地図はこれ。」

「あら、スッテンも気が利くわね。」

「ああ。……うちの電話はファックスじゃないんだがな……」

「え、それじゃあその地図はどこから出てきたんですか……」

「気づいたら机の上にあった……」

「ホラーですね。」


 そんな感じで突き止めたパーティー会場だったので、警備も万全だろうと思っていた。だから真っ黒な服の人が立っていても驚きはしなかった。

「今更だけど……オレたちって入れるのかな……」

「そういえばそうですね。あ、でも《ヤブ医者》の証明書みたいなのを出せばいいんじゃないですか?」

 『半円卓会議』に行くときに見せてもらった証明書。知っている人に見せれば身分証になると思う。

 とりあえず先生がてくてくと入口に立っている真っ黒な服の人のとこに行く。その人と少し話した後、首を横に振りながら帰ってきた。

「《ヤブ医者》とか抜きにして、招待されていない人はダメだって。」

「おいおい、んじゃあ、何のためにおれはここに?」

 フリュードさんがため息をついた。

「さて、どうする――ん? あれって……」

 先生がビルの入口の前の道を見て呟いた。見ると、丁度一台の車が入ってきたところだった。その車がビルの前で止まったかと思うと、どこから出てきたのかわからないが、その車をたくさんの真っ黒な服の人が取り囲んだのだ。取り囲むと言っても、全員が車の方に背を向けているから、護衛のために囲んだのだろう。

 それを見ていたファムさんが呟いた。

「あの警備……あれがニック・フラスコだと思うのだけれど。」

 真っ黒な服の人が扉を開け、後部座席から出てきたのは一人のおばあさんだった。五十か六十か……それくらいの年齢だろう。でも腰の曲がった「老人」という感じではなく、元気に山登りとかしてそうな感じの人だった。

「あら……なかなか美しいわね。年齢に比例した落ち着きと気品ある動き……それと同時に感じられる活力。良い年の取り方をしているわ、彼女。」

 見た目があれだからなんだか変だけど……下手すればファムさんはあのおばあさんよりも年上か……

「ヘー。ニックっていう名前だからてっきり男だと思ってタヨ。」

「そう……なんですか?」

「ニックはニコラスとかの略称で、男の名前なンダ。ニコラスって名前の女って可能性もあるけど……それならニックじゃなくてニッキーが普つウダ。」

「んまぁ、日本にも男の子みたいな名前の女の子とか、その逆とかいるしね。というか、あの人がニック・フラスコかどうかもまだわか――」

 そこで先生の言葉は止まった。見ると先生は目を真ん丸にして驚いている。

「……なぁ、ファム。あれって……」

 先生が見ているモノを見て、ファムさんはなんだか楽しそうに笑った。

「ふふふ。あんな美しい身体、見間違えはしないわ。」

 二人が見ている先に視線を移すとすごい人が見えた。

 おばあさんが出てきた車の中から、どうやって入っていたのやら、周りの真っ黒な服の人よりも一回りほど大きい人が出てきたのだ。

 今にも破れそうなスーツを身にまとい、英国紳士みたいなひげをはやし、身長で言えば二メートルくらいなのに、その身体の大きさ……服の内側からその存在を存分に主張する筋肉のせいでさらに倍くらいの大きさに見える人物。

「なんでここにアルバートがいるんだ……?」

 先生の《ヤブ医者》友達の一人、アルバートさんがそこにいたのだ。

「む? そこにいるのは安藤とファムではないか!」

 アルバートさんも私たちに気づいたようで、ニカッと笑いながら近づいてきた。やはり歩き方にはどこか気品が感じられる。

「お主らも《デアウルス》から頼まれたのか?」

「《デアウルス》? いや、違うが……アルバートはそうなのか?」

「うむ。《ミスユー》が《パンデミッカー》の手に渡った事件と今回のフラスコ氏の来日……《デアウルス》が危惧してな。ワシにフラスコ氏の護衛を頼んできたのだ。」

 先生が言っていた《デアウルス》さんの対策……つまりアルバートさんを護衛につけることがそれだったんだ。先生の予想通り、《デアウルス》さんは今回の出来事を十分に把握しているみたいだ。

「それで……安藤とファムはなぜここにおるのだ? それにことねと……見知らぬ顔と性欲使い。」

 あれ? なんで今フリュードさんが性欲使いだってわかったんだろう?

「ああ。実はニック・フラスコが今回のパーティーで会う《医者》の中にことねさんのお父さんがいるんだ。《ミスユー》の件から《パンデミッカー》の襲撃を考えて……んまぁ、ことねさんのお父さんを含む《医者》とニック・フラスコを守りに来たってとこだ。」

「ほう! 目的は同じということだな! 心強い!」

 アルバートは後ろをちらりと見て、こう言った。

「一応、あの黒服の連中は《デアウルス》が用意した護衛たちなのだが……《パンデミッカー》と戦えるかと言うと正直微妙でな。護衛という行為には慣れとるらしいが少し不安だったのだ。だが《ヤブ医者》が二人と性欲使いが加われば安心というものだ。」

「ふふふ。初めから、《デアウルス》には享守とわたくしが来ることがわかっていたのかもしれないわね。」

「ガッハッハ! かもしれぬな!」

「あー……」

 そこでフリュードさんが控えめに手を挙げた。

「む、なんだ。」

「あんたも……《ヤブ医者》か?」

「いかにも。アルバート・ユルゲンだ。」

「まじか……ヘロディア嬢しか知らなかった《ヤブ医者》をこんな短い間にさらに二人知ることになるたぁなぁ……」

 フリュードさんが驚く隣で、ライマンさんが目をキラキラさせていた。私はそもそも先生が《ヤブ医者》だから、《ヤブ医者》のすごさというのがよくわかっていないのだと思う。でもライマンさんはスクールで勉強してきた人だ。《ヤブ医者》のすごさというのを今までの勉強で理解しているのだろう。先生、ファムさんに続いてアルバートさん。合計三人の《ヤブ医者》に出会うということ……これはきっとすごい体験なんだろうなぁ……

「ふむ。見たところ安藤の知り合いというわけではなさそうだな。そもそも日本には性欲使いが少ないはず……ファムの知り合いであろう? 腕の方はどうなのだ?」

「あらあら、アルバート。わたくしは享守に頼まれてこの性欲使い、サイグマンド・フリュードを紹介したのよ? 腕の無い《お医者さん》をわたくしが享守に紹介するわけがないでしょう?」

「ガッハッハ! 確かにな! すまなかった! 良い妻を持ったなぁ、安藤よ!」

 アルバートさんが笑いながら先生の背中を叩いた。

「アルバート……」

「もぅ……アルバートったら。」

 先生とファムさんが正反対の反応をする中、再びフリュードさんが手を挙げた。

「あー……アルバートって言ったか? あんた、なんでおれが性欲使いだってわかったんだ?」

 私も気になっていた質問をフリュードさん本人がしてくれた。

「む? 安藤とファム、それとことねという組み合わせの中におるのだから、お主が《お医者さん》であることは推測できるであろう? そしてお主は男女が性行為を行う際、男が主に使うであろう部位の筋肉が発達しておる。それと今回の《ミスユー》というヴァンドロームの性質を考慮すれば、おのずとお主が性欲使いであることが想像できる。」

「……すごいな……」

 フリュードさんが呟いた。確かにすごい。というか、なんでもかんでも筋肉からわかるのか……

「おっといかん。フラスコ氏を待たせてしまった。」

 見ると、車から降りてきたあのおばあさんがじっとこちらを見ている。やっぱり、あの人がニック・フラスコなんだ。

「お主たちのことを話して、中に入れるようにしてもらう。」

 そう言いながらニック・フラスコのとこに行こうとしたアルバートさんはふと立ち止まって先生を見た。

「またお主と一緒に仕事ができるとはな。ワシは嬉しいぞ、安藤。」

「……ああ。」



 私たちはアルバートさんのおかげで無事にパーティー会場に入ることができた。パーティー自体はまだ始まっていないようだ。

「……しっかしまぁ、一人だけとんでもなく目立つことになりそうだな?」

 フリュードさんが先生を見ながらそうつぶやいた。

 パーティーということで、一応私はパーティードレスを着ている。……いや……着せられた。ファムさんがなぜか私の分のドレスを持ってきていたのだ。白の落ち着いたドレス……らしいのだけど、なんにせよこんな服着たことないのでドギマギしてしまう。

 ファムさんはなんかとんでもないドレスを着ている。真っ赤で……胸元とか背中とか……とにかくなんかもうすごいドレスだ。会場にいた警備の人とかがそろって見とれてしまう状態だ。まぁ、見とれるのはドレスのせいではないだろうけど。

 ライマンさんは普段通りの服装だ。シャツにネクタイ、スーツのズボン。それとベレー帽。いつもと違う部分は、ネクタイをしっかりとしめていることくらいだ。パーティーに出席する人としてはギリギリセーフな格好ではある。

 フリュードさんはビシッとしたスーツ……いや、タキシードと言うべきなのだろうか。どこかのバーで一人でお酒を飲んでいそうな中年……みたいな感じだ。

 そして先生は……Tシャツとぶかっとしたズボン。白衣と便所サンダル。まったくぶれることなく、いつもの格好だ。

「安藤よ。お主はそれ以外の服を持っておらぬのか?」

「……残念ながら、パーティーに出席するためのおめかしは持ってないな……」

「靴もか?」

「いや……普通の靴は持ってる。今回が本当にただ出席するだけなら履いて来ただろうが……《ヤブ医者》として来てるからな。これは必要なことなんだ。」

「え、先生の便所サンダルに意味があったんですか!?」

「一応……」

 初耳だ。あー、でも診療所の下駄箱には確かにちゃんとした靴も入っていたような気がする。

「まぁ、構わぬがな。安藤が言うように、お主らがここにいる理由は出席することではないのでな。」

そう言いながら、アルバートさんが一枚の紙を先生に渡した。

「このパーティーの出席者だ。」

私は先生の手元をのぞき込む。紙の上から下までたくさんの名前がある。……見慣れた名前も。

「……本当にお父さんの名前がある……」

「結構出席者が多いんだな、アルバート。」

「ああ。だがさすがの《パンデミッカー》もこのリスト全員分の《ミスユー》は捕まえていないだろう。」

「そうなると……《お医者さん》の今後に与える影響の大きい人物から順番に狙われるのでしょうね。わたくし、そういうのには疎いのだけれど。」

「心配ない。《デアウルス》から《パンデミッカー》に狙われる確率の高い人物をリストアップしてもらってある。」

 リストを見ると、十人ほどの名前が並んでいた。そしてリストの一番上にはニック・フラスコの名前があって……二番目にお父さんがいた。

「ワシもまだ漢字は完璧ではなくてな……これがことねの父親か?」

「あ、はい……」

 そうか。日本語ができる人が漢字を読めるとは限らないのか。

「ふむ。ワシを入れて《ヤブ医者》が三人……いざという時には上位三人を守ることになりそうだな……」

「いざというトキ? それはどんな時なンダ? 全員守るんじゃないノカ?」

 ……どうでもいいことだけど、もはやライマンさんは誰に対してもフランクにしゃべるなぁ。

「《パンデミッカー》にとって《ヤブ医者》は最大の敵であるからな。その顔は把握している可能性が高い。いざ会場に来てワシらがいるとわかれば、出席者を全員始末するなどということは諦めるであろう。そうなった場合、とりあえず優先度の高い人物を狙うことが考えられるのだ。何らかの手段でさらって行くかもしれぬ…………というかお主は……?」

 ここでアルバートさんの視線がライマンさんに向いた。

「この子はライマン・フランク。《デアウルス》が言ってた……スクールからのあれだ。」

「ほう! ではこう見えて中々の使い手ということか?」

「成績優秀だ。術式にも独特のモノがある。一般的なやつじゃないから、《パンデミッカー》もすぐには対応できないだろう。活躍できると思う。」

 さらりと先生がライマンさんを……褒めた。

「いやー、照れルナ! というか、安藤先生はそんなに僕のことを評価してくれてたんダナ!」

 ライマンさんが顔を赤くして「でへへ」という顔になる。

 …………なんだか……なんだか……

「痛っ!」

 私の左手が先生の背中をバチンと叩いた。

「?? ことねさん?」

「違います。今のは私の左手です。」

「おオウ! 『エイリアンハンド』!」

 ライマンさんが私の左手を興味深そうに眺める。そういえば、ライマンさんの前で左手が動いたのは初めてか?

「さて……フリュードといったか。性欲を使うための準備などをしておいて欲しいのだが……何か手伝えることはあるか?」

「いや……直に会って二、三個質問をさせてもらえば十分だ。色々用意してきたんだがな、あれくらいの年齢ならすぐわかる。」

 そう言って、フリュードさんはアルバートさんと一緒にニック・フラスコのところに行った。

「……先生。」

「なんだい、ことねさん。」

「ニック・フラスコっておばあさんですけど……その、性欲を使った切り離しってできるんですか?」

「ああ……あれくらいの年齢になったら性欲なんてないだろうに……ってことかな?」

「はい……」

「えっとねぇ、ことねさん。若い人が性欲たくさんでおじいさんおばあさんにはないってのは間違ってるんだ。正確には、年を取ることで、性欲を感じるモノが少なくなるんだ。」

「少なくなる?」

「性欲使いの説明の時に言ったように、彼らは、患者さんが最も性欲を感じるモノを調べて切り離しを行うんだけど、その最も性欲を感じるモノってのがカギなんだ。」

 先生の説明を、私だけでなくライマンさんも真剣に聞いている。ファムさんは……説明している先生をほほ笑みながら見つめている。

「若い時ってのは色々なモノに興味を持つでしょ? 流行のモノに惹かれるし、テレビに出ているイケメンさん、美人さんが身に着けているモノを欲しがる。とにかく若い時ってのは琴線がゆるいというか何というか……でも年を取ると、流行りモノには興味がなくなっていく。それは性欲も同じでね……」

 そこで先生がちょっと顔を赤らめて、話しにくそうにした。

「だから……えっと……」

「ふふふ。わたくしが説明してあげるわ。」

 そこでファムさんが先生の代わりに話をする。

「仮に享守に、わたくしの身体のどこでも好きな所を触って良いと言ったとき、享守がわたくしの胸を触ったとするわね。」

「なんつー例えを!」

「つまり、享守の最も性欲を感じるモノが女性の胸ということ。裸の女性を見たらまず目が行く箇所が胸……けれど享守はまだまだ若いから、ほかの箇所にも興味津々なのよ。お尻や脚……どの部分であろうとも興奮してしまうの。」

「ファ、ファム、その例え話はちょっとやめないか……」

「けれど享守が年を取ってわたくしくらいの年齢になると、もう胸だけにしか目が行かなくなってしまうのよ。本当に興味のある部分にしかね。」

 ファムさんが流し目で先生を見た。先生はため息をついて続きを話す。

「…………要するにね、性欲を使った切り離しを行う時、年を取った患者さん相手はやりにくいかと思いきや、一番やりやすいんだよ。好きなものがたくさんある人と、一つしかない人……本当に好きなものを言い当てるのだとしたら、後者の方が楽でしょう?」

「なるほど……」

「おお、授業で習った通リダ。それで、やっぱり先生は胸なノカ?」

「……ファムが変な例え話をするから……」

「あら、わたくしも興味あるのだけれど。」

「……ノーコメントで……」

「わたくしの水着姿を見てもダメということは……」

「考えるなー!」

「む? 何やら楽しそうであるな。」

 そこでアルバートさんとフリュードさんが戻ってきた。

「どうだったかしら? フリュード。」

「ああ、ばっちりだぜ、ヘロディア嬢。あの婆さん、なかなかいい趣味してやがる。ちょっと外に出てくる。」

 ……最も性欲を感じるモノを買いに行くんだろうか……

「? 安藤、なぜ顔が赤いのだ?」

「ファムのせいだ……そういえばアルバート、パーティーの最中、オレらはどこにいるべきだ?」

「会場内にいてくれて構わぬが……」

「あー……それだとことねさんのお父さんに出くわすな。何も起きないに越したことはないわけだし、変な不安を与えてもなぁ……」

 お父さんは私たちがここにいることを知らない。ここで出会うと、何かあると思ってしまう。別に《パンデミッカー》の襲撃が百パーセントあるというわけではないし……

「安藤よ。」

 何もないことを願っていると、アルバートさんが先生に……いや、私たちにこう言った。

「ワシにこの仕事を与えたのは《デアウルス》だ。無論、ワシとて何も起きないことを望んでおらぬわけではないが……人知を超えた頭脳が出した可能性だ。ワシは、襲撃が確実であると考えておる。」

「……そうだな。隅っこにいるとするよ。」

「ああ、頼む。」



 パーティーの開始時刻が近づいてきた。会場にはすでにかなりの数の出席者が来ている。先生の白衣は目立つかと思っていたけど……何も出席者が全員黒いスーツというわけではない。女性も多いし、会場内はかなりカラフルなことになっているのだ。だから先生の服装は「よく見たら白衣」という程度だ。

「なぁ、こトネ。」

 先生がファムさんとアルバートさんと何か話している時、ライマンさんが私にこそこそと聞いてきた。

「さっきから出てくる「であうるす」ってなんなンダ? 安藤先生に最初に会った時も聞いた気がするケド……」

 ライマンさんは《お医者さん》側にSランクのヴァンドロームが三体いるって言ってたけど……その名前は聞いてないのかな。いるということだけ教えて名前を教えないとはスクールの先生はなかなか意地悪だ。

「えっと……ライマンさんは『半円卓会議』って知ってますか?」

「年に一回の《ヤブ医者》と《医者》の会議ダロ? なんだ、いきナリ。」

「それの司会をしているのが、Sランクのヴァンドロームで、その名前が《デアウルス》なんです。」

「Sランク!? へー、そうだったノカ。ここに来てから驚いてばっかりダナ……」

 そこでライマンさんがふと思いついたように聞いてきた。

「ことねは……『半円卓会議』に行ったことあるノカ!?」

「……この前……」

「いいナァ! じゃあ《ヤブ医者》全員に会ったんダナ!?」

「会ったというか……見はしましたけど、名前を聞いたのは四人だけです。」

「四にンモ!」

「先生の友達のファムさんとアルバートさん、それとスッテンさん。あと鬼頭先生です。」

「すってんときトウ! 安藤先生のとこにいれば会えるかナァ……」

「……ライマンさんは……《ヤブ医者》になりたいんですか?」

「うーん、ちょっと違ウナ。単純に、《ヤブ医者》と呼ばれる人たちみたいなすごい《お医者さん》になりたいんだ。自分の治療法に自信を持って、周りから何と言われよーとも曲げずに突き進んだ人たち……結果、誰もたどり着けない段階まで上り詰メタ! かっこいいじゃなイカ!」

「そうですね……」

 ファムさんもアルバートさんもスッテンさんも鬼頭先生も……何か強い信念というか……軸があると思う。

 でも……先生には……

「お、そろそろ始まるみたいダナ。」



 パーティーが始まった。私たちは会場に広がるようにわかれていざという時に備える。壇上にお父さんがあがってスピーチしたりしているので、見つからないように隅っこで先生とライマンさんとこそこそしている。

 いや、ライマンさんはこそこそしていないか。堂々と料理をお皿に盛りに行っている。

 ……改めて考えるとお父さんはいつの間にかすごい人になってたんだなぁ。ドラマや映画でしか見ない偉い人の演説というのを自分の父親がしている光景を見るのはなんだか変な気分だ。他人事のようだけど……お父さんってあんな人だったっけか。

 そういえば……

「先生。」

「なんだい、ことねさん。」

「先生のご両親は何をしてる人なんですか?」

「うん? 言ってなかったっけ。オレの両親は《医者》だよ。」

「そうなんですか。えっと……それじゃあ今もどこかの病院で?」

「いや、病院にはいないね。研究所にいるよ。」

「研究所?」

 そこで先生が手をあごにあてて私を見た。

「……ついでだから教えておこうか。ライマンくんも知ってるみたいだったしね。」

「はい?」

「オレの両親はどっちとも《医者》でどっちとも……『医療技術研究所』にいるんだよ。」

「『医療技術研究所』……」

 まともな名前だ。でも今の先生の反応からするに、《お医者さん》絡みの話だと思ったけど……

「そこは新しい治療法や薬なんかを研究してるとこでね。優秀な人が集まるとこなんだ。だけどそこで患者さんを治療することはしないんだ。」

「研究専門ってことですね。でも、優秀な人がそこに行っちゃったら患者さんが……」

「もちろん、いざって時は研究所の一員でも手術に参加したりするよ。でも基本は研究してるって感じだね。」

「先生のご両親は……何を研究してるんですか?」

「癌だね。」

「! それで先生の部屋に癌の本が……?」

「うーん……そうと言えばそうだけど……ちょっと違う。んまぁ、この話をまたするとして、本題はここからなんだよ。」

「?」

「『医療技術研究所』はね、《お医者さん》の研究所でもあるんだよ。」

「……もしかして『エイメル』とかを作ってるとこですか?」

「そうだね。他にも色々作ったり研究したりしてる。『医療技術研究所』はね、建物は一つだけど中で二つに分かれてるんだ。《医者》側と《お医者さん》側に。」

「『半円卓会議』みたいな感じですか……やっぱり仲が悪いんですか?」

「いや、仲はいいらしいよ。研究の見せ合いっこもするらしいし。ただ、やってることがまったくと言っていいほど違うからね。どうしても分けざるを得なかったらしい。」

「へぇ……どこにあるんですか?」

「残念だけど、オレは知らないんだ。」

「え?」

 ご両親が働いている場所……それ以前に、《ヤブ医者》である先生も知らない?

「知ってるのはそこで働いている人だけって言われるくらいに秘密にされてるんだよ。結構大事な研究してるから。でもそこで働くある人物がちょっとした有名人なんだな。」

「有名人?」

「『医療技術研究所』は中で二つに分かれるから、《医者》側と《お医者さん》側、それぞれに所長がいるんだけど、《お医者さん》側の所長がそうなんだよ。その名も眼球マニア。」

 眼球マニア……ああ、ライマンさんが来た時に出た名前だ。いや、名前じゃないな。あだ名?

「術を使う《お医者さん》なら一度は聞く名前だね。んでもってそいつは《ヤブ医者》の一人だから、一番有名な《ヤブ医者》ってことになる。」

「《ヤブ医者》なんですか。なら、私もあの会議で見たんですかね。」

「いや、あの場にはいなかったよ。というか、眼球マニアはいつも来ないんだ。」

「え、いいんですかそれ。」

「一応代理の人が来るし、《デアウルス》もそれを認めてる。結構多忙らしくてね。本人が来たのは眼球マニアが《ヤブ医者》になった年の会議。つまり、眼球マニアにとっての最初の会議だけなんだ。だからオレは会ったことないんだ。」

「さすが《ヤブ医者》ですね……」

「……なにがさすがかわからないけど……まぁでも、眼球マニアはスクールで先生をしてるしね。ライマンくんによればアメリカにいるみたいだ。」

「ということは……ライマンさんは会ったことあるんですかね。」

「だと思うよ。」

「なんだなンダ? 僕がどうかしたノカ?」

 ライマンさんが料理を山盛りにして帰ってきた。

「スクールの……眼球マニア……さん? の話をしてたんです。」

「眼球マニアカ。あの人には色々お世話になっタヨ。」

「あ、そうだライマンくん。」

「なンダ?」

「眼球マニアの名前って教えてもらったかい?」

「え、先生、知らないんですか!?」

 私がびっくりしてそう言うと先生は頭をポリポリかきながら言った。

「なんかね、眼球マニアが言うには、自分の本名が公になると色々面倒なことになるらしいんだ。だから誰も知らないんだよ。《ヤブ医者》の中にも知ってる人はいない。ただ、色んな生物の眼球をコレクションしてるからみんな眼球マニアって呼んでるんだよ。」

「それはまた……独特な趣味ですね……」

「たまに授業にコレクションしてる眼球を持ってくルゾ。それで「いいだろー」って自慢してくるンダ。」

 共感できる人が一人もいないだろうに……

「僕も本名は知らなイゾ。でも本人が言うには、聞けば誰でも知ってる名前らしいケド。」

「そんなすごい人なんですか。ますます本名が気にな――」


 ブツン


 ……? ……!?

 え? あれ? 真っ暗?

 突然視界が真っ暗になった。誰かに目隠しされたわけじゃない……ということは会場の電気が消えた……?

「うワワ! 真っ暗ダゾ!」

 隣でライマンさんの声が聞こえた。次第に会場もざわついていく。

「先生!」

「……うん。敵が来たね。」

 敵……《パンデミッカー》!

「お父さんは! こんなに暗くちゃ何も見えませんよ!」

 私がかなり慌ててそう言ったのに対して、先生は落ち着いた声でこう言った。

「……正確には、暗くないんだけどね……」

「? それってどういう……」


「あんだお前は。」


 聞きなれない声がした。同時に、誰かが私の手を掴んだ。一瞬ドキッとしたけど、私の左手……《オートマティスム》が動かないということは、きっと先生だ。

「ことねさん、ライマンくん、オレの近くにいてね。」

「おいおいまじかまじか。お前、今その二人の腕を迷いなく掴みやがったな。」

 二人の腕……つまり、今先生は私とライマンさんの腕を掴んでいるということだ。真っ暗な中、敵が来たこの状況ではぐれるのはかなり危ないからだと思うけど……聞きなれない声が言ったことが気になる。

 こんな真っ暗な中で、どうやって私の腕の位置を……?

「まさか視えて……? ……いや……視えてないな。お前の目は俺を捉えてない。」

 先生の目がこの声の主を捉えてない……? いや、でも……そもそもこんな真っ暗な中じゃ声の主だって何も見えてないはず……

「なるほどな。お前《ヤブ医者》か。あのババアとオヤジを追いかけてこっから出てった奴が二人いたが……そうか、三人いたのか。ヘロディアとユルゲンは有名だからわかったが……お前は別に有名じゃない《ヤブ医者》か。」

「追いかける……か。アルバートの予想通り、さらうことにしたのか。」

 さらう……この声の主が言ったババアとオヤジというのはもしかしてニック・フラスコとお父さんのことか。その二人がさらわれて……今、ファムさんとアルバートさんが追いかけているんだ。

「他の《ヤブ医者》ならともかく、ユルゲンはやばいんでな。どっか遠いとこに運んでゆっくりと始末することにしたんだよ。聞きたい情報もあるしな。それに《ミスユー》も使いたいし……他はまぁ……雑な方法になっちまうな。」

「随分おしゃべりなんだな。」

「そりゃあな。お前には俺が視えてないんだ。勝負にもならねーだろ? 人間、余裕になるとおしゃべりになんだよ。」

 どういう仕組みかわからないけど、この声の主には私たちが見えているみたいだ。対して私たちは相手がどこに立っているかもよくわからない状況。

 ……ちょっと前なら、こんな状況になった瞬間、私の左手が動いて何かをしてた。でも何もしない。先生がいるから大丈夫だと思っているんだろうか……

「まぁ……確かにお前は視えないが……どんな奴かはわかる。」

「あに?」

 先生はそんなことを言うとすぅっと息を吸い込み、ぶつぶつと独り言のように呟きはじめた。

「身長は……オレよりちょっと低いか。ちゃっかりと右手に料理を持ってるってことは、最初からこの会場にいたのか? 服装も身体にフィットした感じだし……スーツを着てるんだろ? そのせいか、上着の内ポケットに忍ばせてる……これはなんだ? もしかして拳銃か? ずいぶん目立つ感じになってるぞ?」

「な!?」

 驚いた声。声の主はもちろんそうだろうけど、私もびっくりだ。こんな暗い中で……

 ……あれ? なんか変だ。普通、暗い部屋に長くいたら目が慣れてくるはずだ。もちろん、完全完璧に真っ暗な中にいたらどちらにしたって見えないけど……多少、見え方が変わるはずだ。それにこんなに人がいる会場なのに携帯電話を取り出す人がいない。少しの明かりも見えないのだ。

「そんなバカな! 《ステイルイメージ》は確実にお前にも……」

 《ステイルイメージ》……知ってる名前だ。Bランクのヴァンドロームで……確か症状は……

「『失明』……」

「うん、よくできました。さすがことねさん。」

 私の呟きに先生が反応した。

「別にこの会場の電気が消えたわけじゃないんだ。今もしっかりと電気はついてる。けれどこの会場にいる人全員が同時に視力を失った。だから何も見えなくなったんだ。」

 電気はついたまま……だから声の主には私たちが見えて、私たちには見えないのか。でも……それならなおさら先生はどうやって……?

「お前は厄介だな! 始末しとくぜ!」

「悪いがそうはいかない。」

「ぬかせ! 何をしたか知らねーが、結局視えてない――っっ!?」

 声の主が変な声をあげた。

「あ――が――お前っ! ぐあっ! ああっ! 何を――!?」

 ガチャンと何かが床に落ちる。たぶんお皿が割れた音だ。声の主が持っていたお皿を落としたらしい。そしてバタリと倒れる音。バタバタと脚を動かして床を蹴る音。

「や、やめろ! 黙れ! がぁっ! うる――せぇっ! ああああああぁぁああぁっ!!」


 パチン


 急に明るくなった。正確には……視力が戻った。周りには突然の出来事に対応できずに右往左往しているパーティーの参加者。私の腕を掴んでいる先生。同様に腕を掴まれているライマンさん。

 そして……割れたお皿の横で白目をむき、泡をふいて倒れているスーツの男。

「おオウ!? これ、安藤先生がやったノカ!?」

「まぁ……ね。それより、二人を追いかけるよ。」

 そう言うと先生はポケットからスマートフォンのようなモノを取り出した。

「アルバートから渡されてね。これでニック・フラスコとことねさんのお父さん、ファムとアルバートが今どこにいるかわかるんだ。」

 画面を見ると、この建物の地図が写っていて、そこを二つの赤い点が移動している。そしてその点を青い点が追いかけている。

 ちなみに、この会場に位置する場所にはたくさんの赤い点がある。たぶん、《デアウルス》さんがくれたリストの人物全員の居場所がわかるんだ。

「《パンデミッカー》は二手に分かれてるね。ニック・フラスコをファムが、ことねさんのお父さんをアルバートが追ってる。」

「追いかけるんですか? ここはほっといていいんですか……?」

「大丈夫だよ、ほら。」

 見ると、すでに真っ黒な服の人たちが会場の人たちを外に誘導している。

「さっきの奴が言ってた雑な方法ってのが気になりはするけど……《パンデミッカー》からすれば重要度が高いのはやっぱりあの二人。ファムとアルバートの方に敵が何人も来る可能性があるからね。援護に行かないと。」

 すると先生がスマートフォンのようなモノを私に渡してこう言った。

「ことねさんとライマンくんはアルバートの所に行ってあげて。さっきの奴によれば、《パンデミッカー》はアルバートを相当警戒してるから、強力な敵が来るかもしれない。お父さんを助けるってことなら《オートマティスム》も力をかしてくれるだろうし、ライマンくんの術も役に立つと思う。」

「じゃあ、先生は……」

「オレはファムの方に行く。正直、アルバートの強さは知ってるけど、ファムのはわからないんだ。具体的な治療法も見せてもらったことないしね。ファムの身体はよく知ってるし、いざって時にも対処できる。」

「身体をよく知っテル!? 安藤先生がエロイゾ!」

「いやいやライマンくん。そういうことじゃないよ……」

 先生は困ったように笑いながら、「じゃあ、またあとでね。」と言って走り出した。

 ……あれ? この機械を私が持ってたらファムさんの位置がわからないんじゃ……




 オレは建物の階段を全力で駆け降りる。もしかしたらエレベーターで行った方が速かったかもしれないな……

『かかっ。いや、お前がお前の脚で走った方が断然速い。』

「それはよかった。次は?」

『かかっ。左だ。その先を二階降りて右に行けば挟み撃ちに出来る。』

「便利なもんだな。」

『かかっ。《デアウルス》ほどなんでも見えるわけではないがな。』

 言われたとおりに走り、廊下に出たところでこっちに向かって走ってくる男が見えた。男の肩にはニック・フラスコ。

「っ!」

 男は立ち止まり、後ろを見る。そこには長いブロンドをなびかせて走ってくるファム。真っ赤なドレスを乱すことなく、流れるように立ち止まる。

「あら享守。夫婦初めての共同作業が敵の挟み撃ちというのはかなり嫌なのだけれど。」

「そ、そうだな……」

 敵を前にしても相変わらずだ。

「……何が悲しくてお婆さんを担ぎながら美女に追いかけられなきゃいけないんだと思ってたら……その美女には彼氏……いや夫がいたとは。やれやれ。」

 男は担いでいたニック・フラスコを優しくおろし、壁に寄りかからせた。どうやらニック・フラスコは気絶してるみたいだな。

「やっぱりホルストくん、しくじったか。症状的に使えるから連れてきたけど……やっぱ新米はダメだったか。《ヤブ医者》を相手にするには力不足だったようだ。」

 男はオレを見ながらそう言った。何故かニコニコしている変な男だった。年齢的にはオレと同じくらいか……年下か。柔らかい物腰と笑顔。それなりの場所でそれなりの服を着ていればなかなかにモテる男だろうに、なぜかそいつは半そで短パンという虫取り少年の格好をしていた。

「どうも初めまして。ファム・ヘロディアに安藤享守。ボクの名前はノルター、どうぞよろしく。」

 ノルターと名乗ったこの男はオレのことを知っているようだ。だがさっきの奴……ホルストは知らなかった。情報の共有ってのをしないのか? 《パンデミッカー》は。

「あら、礼儀正しいわね。けれど残念。あなたはここでお終いなのだけれど。」

「それはどうかな。ホルストくんとは違い、ボクの症状は完全に実戦向けだ。」

 そこでノルターはオレに訪ねてきた。

「実戦向けではないにせよ、ホルストくんの症状は厄介だったはず……どうやって切り抜けたので?」

「……わざわざ言うとでも……?」

「それもそうだ。しかし……ボクらのリーダーはあなたにご執心だ。パンデミッカーのメンバーだった人たちはあなたの価値を理解しているようだが、ボクのような新規のメンバーにはイマイチあなたの価値がわからない。リーダーも説明してくれないし……」

「《パンデミッカー》のリーダーが享守に……ふぅん?」

 ファムが一瞬鋭い目でオレを見たが、すぐにいつもの表情になった。

「まぁいいわ。今度説明してくれると言うのだから、わたくしはそれを待つとするわ。代わりと言ってはなんだけれど……享守、この坊やの相手はわたくしがしたいのだけれど?」

 坊やと言われたノルターは微妙な表情をしたが、実際ファムからしたら坊やだからしかたない。

「それは……まぁいいけど……大丈夫なのか?」

「ふふふ。好意を寄せる異性の前では良いところを見せたいのよ。それに――」

 ファムは壁に寄りかかっているニック・フラスコを見て言った。

「こんなに美しい女性を肩に担いで連れていくなんて……そんな酷い男にはお仕置きが必要なのよ。」

「おや。ではどのように運べばよかったやら。」

 ノルターはオレに背を向け、ファムの方を向く。両手に拳を作り、見るからに戦闘態勢となる。

「男が女をさらう時にするべきことは決まっているわ。その辺り、きっちりと教えてあげようと思ったのだけれど……」

 ファムの目が鋭くノルターを射抜く。


「今あなた、「運ぶ」と言ったのかしら?」


 ファムが左腕をゆっくりとあげ、パチンと指を鳴らした。

「……!」

 ノルターは……というかオレもだが、何か起きるのかと身構えた。しかし何も起きない。そしてファムは再び指を鳴らし、一歩ずつ、ゆっくりと歩き始めた。

「……なんのつもりなのやら……脅しもハッタリもボクには効果がない。」

 指を鳴らしながら、ゆっくりと歩きながら、次にファムは……

「――――」

 歌を歌った。いや、歌というよりはメロディーか。綺麗な歌声が廊下に響く。

 ……響く? そういえば……なんだこの変な感覚。

 歌声はもちろんだが、そんな中でも指を鳴らす音が異様にはっきりと聞こえる。しまいには歩く音……足音ですらクリアに耳に届く。

「独特なリズム。指。足音。どうやらあなたはボクに催眠でもかけるつもりのようだ。」

 ノルターがため息をついた。

「ボクと戦うことを後悔するといい。ボクに力をくれるヴァンドロームの名は《ラインレス》。症状は『無痛症』だ。」


 無痛症。正確には先天性無痛無汗症。遺伝的な要因で神経系に異常が生じ、痛みを感じず、汗をかかなくなる病気だ。一般的には痛みを感じなくなる病気として名が知れている。

 健常者からすると羨ましいと言われることもあるが、それは大きな間違いだ。例えば、毒を持ったヘビに噛まれるとする。健常者なら噛まれたときに痛みを感じるので、噛まれたことを認識でき、毒への対応をすぐにとれる。だが無痛症では噛まれた時の痛みを感じることがないので、知らぬ間に毒に侵されるということになる。料理中、いつの間にか指を切っていた。スポーツをしている時にいつの間にか骨を折っていた。普通ならすぐに気づいて対処できる傷、怪我も、気づかなければ、最悪、致命傷になりかねない。

 さらに、感覚がないために自身と周囲との境界があいまいになってしまったり、危険なモノを危険だと感じる能力が低下したり、汗をかかないために運動の制限を受けたりと日常生活に影響が出る。

 先天的な病気なので、後天的に、ある日突然なるような病気ではない。しかしヴァンドロームは全ての症状を後天的に引き起こす。加えて《パンデミッカー》には本能的能力制御を外す技術がある。その結果どういうことになるかは未知数だ。


「今、ボクは何の痛みも感じない。加えて、リミッター解除した《ラインレス》は痛み……つまりは触覚以外の感覚も遮断できる。あなたが音で催眠をかけようとするなら、聴覚を遮断するまで。」

 ……おそらく、ノルターは今、聴覚を遮断した。ファムの歌声、指を鳴らす音、足音、全てが聞こえてないだろう。

 ……そこらの催眠術師がやるような催眠術ならそれでいいと思うが……ファムの、《ヤブ医者》の一人であるファムの技術がそんなことで防げる代物だとは思えない。

「……指を鳴らすのも歩くのも止めないか……」

 ノルターはぼそりと呟き、両腕を構える。その瞬間、腕の中からメスのような物が生えてきた。まるでサボテンのように両腕から銀色に光る刃が何本も突き出てきたのだ。しかも、ただ突き出ているわけではない。一つ一つが指のように動いている。

「……この刃は腕の中で筋肉と筋肉の間に割り込ませている。筋肉に損傷を与えない場所を選び、腕を伸ばしたり、指を曲げたりすることでそれに連動した動きをする。『無痛症』だからこそできる技だ。」

……というか、ノルター……自分の声も聞こえないはずなんだが……よくしゃべるなぁ。

「これで細切れだ!」

 ノルターが走り出す。別に走る速さは普通だが、ファムとの距離はそんなにない。一瞬でファムの正面に移動し、右腕を突き出した。

そのまま行けばファムの胸辺りに銀色の刃が突き刺さっていただろう。だがファムはそれを難なく避けた。まるで風に吹かれた紙がひらりと揺れるように、歩く速度を一切変えずに最小限の動作でノルターの横……いや、懐に移動した。

「……!」

 緩急のない、あまりに自然な動きで回避されたノルターは驚きながらも追撃の態勢に入ろうとする。だがそれよりも速く、ファムの両手が流れるように動いた。

 左手でノルターの腕を引きながら、右手でノルターの身体の前面に十数発の指による突きを食らわせ、その後ノルターのほっぺたにビンタをお見舞いした。

 ファムの腕の筋力は年相応……ああいや、外見の年相応程度だ。だがあの左手の動きは合気道のそれに近い。勢いに逆らわず、ノルターの身体を最適な角度に誘導した。そして最高のタイミングで放たれた右手からのビンタはノルターを空中で一回転させ、地面に叩きつけた。

「ふぅ。」

 ファムは倒れたノルターを一瞥すると、オレの方に向かって歩き出す。

「さて享守、終わったのだけれど。」

「え?」

 終わった? 今ので?

「いやいやファム、確かにすごいカウンターだったけど、そいつは『無痛症』だぞ……」

 見ると、案の定ノルターは何事もなかったかのようにむくりと起き上が――

「なっ!?」

 オレはノルターの表情を見て驚いた。

「あ、あぁぁ……ああ……あああぁぁ……」

 目の焦点が合っていない。のどを押さえて喘いでいる。四肢がガクガクと震えている。

 生まれたての小鹿のような……というのはああいうことを言うのかもしれない。まるで腕や脚の動かし方を忘れてしまったかのようにおかしな挙動をし、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように声を出す。

 身体に対するダメージはゼロに近いはず……なら一体……

 オレが驚いているとそれを見たファムがこんなことを言った。

「大丈夫よ。一時的に精神が壊れているだけだから。」

「精神!?」

「心と言ってもいいわ。大丈夫、一週間もすれば正気に戻るわ。」

「な……一体何をしたんだ……?」

「そうねぇ……」

 ファムは壁に寄りかかっているニック・フラスコをきちんと座らせながら呟く。

「彼女を安全な場所にとは思うけれど……あんまり動き回って敵の罠にはまるというのもあり得るわね……あの黒服のボディガード達を指揮しているのはアルバートだし……アルバートからの連絡を待とうかしらね。」

 ファムはニック・フラスコの隣にペタンと座り込み、隣の床をポンポンと叩いた。

「立っていてもしょうがないわ。座りなさい、享守。わたくしが何をしたか、教えるわ。」

「んあぁ……」

 オレはファムの隣に座った。ファムが自分の身体を少しオレに寄せてくるのにドギマギしながら、オレはファムの話を聞く。

「日本だと……走馬灯だったかしら?」

「なんだ、いきなり。」

「死の直前……交通事故とかに遭った人間が体験する、周囲の光景がスローモーションになる現象があるわよね。もしくは、今までの人生を一瞬で振り返ったりする現象。」

「……死の危険から逃れるために、脳が普段違うことに使っている部位も総動員して視覚の処理能力を向上させ、かつ危険から逃れる方法を過去の経験から見つけるために記憶を引っ張り出す……確かに日本じゃ走馬灯って言うが……それが?」

「わたくしがあの男にしたのはそれに近いわ。あの男はわたくしのビンタを受けてから地面に叩きつけられるまでの時間を……そうね、ざっと二日くらいに感じたはずよ。」

「……え?」

「? だから、あの一秒にも満たない一瞬をわたくしが二日に引き延ばしたと言っているのだけれど。」

「……つまり……ファムはあいつの時間感覚を狂わせたってことか?」

「そうよ。あの男は二日間も空中に留まってゆっくりと一回転して地面に叩きつけられたのよ。」

それが事実なら……そりゃあ精神も壊れる。周囲の光景ははっきりと見えるし、意識もある。なのに身体はまったく動かない。しかも身体的には問題ないが普段の感覚的には呼吸してなきゃおかしいのにそれもできない。誰だって頭がおかしくなる。

「……どうやってそんなこと……人為的に走馬灯を引き起こすのか……?」

「あら、走馬灯を例にしたのは間違いだったかしら。走馬灯はあくまで脳が引き起こす死への……生命として当然の反応だけれど、わたくしがしたのは時間感覚という心的なモノのコントロールよ。」

「ますますわからん。心的なモノなら、ファムが何をしたってそれはあいつ次第じゃないか。」

「ふふふ。享守、心的なモノであっても外部刺激の影響は十分に受けるのよ。」

 ファムは得意げに、まるで生徒に授業をする先生のようにオレに説明した。

「確かに、時間感覚は心的なモノよ。分野で言えば心理学になるのかしらね。身体を動かす楽しいスポーツの授業はあっという間に終わるものだけれど、運動が嫌いな子にとっては辛くて長い授業。楽しい、辛い、好き、嫌い。そういった感情によって時間感覚は変わるわね。けれど……そうね、こういう場合はどうかしら。」

「うん?」

「例えば享守が真っ白で何もない部屋に放り込まれて、そこで一時間じっとしていろと言われたとするわね。」

「……ああ。」

「その時、本当に何もない状況で過ごす場合と、享守の目の前に時計が置かれて過ごす場合……どちらが一時間を長く感じるかしら?」

「……時計がある場合だな。」

 学生時代に誰しも経験があると思う。つまらない授業が早く終わらないかと何度も時計を見るが、結構時間が経ったと思ったら前に見た時から五分しか経ってないといった経験が。

 もしくは、誰かと待ち合わせて自分が先に来てしまった時、相手が早く来ないかと時計を見ながら過ごす五分をとても長く感じるといった経験。

「時計があろうとなかろうと、部屋の中にいる享守がつまらない、退屈だと感じることには変わりないでしょう? けれど視覚から入ってくる時間という情報によって時間感覚が変わってしまう。」

「それが外部刺激による時間感覚の変化……ってわけか?」

「まぁ、これはひどく極端な例なのだけれど。フリュードが相手の性欲が最も大きくなるモノを二、三個の質問から用意できるように、わたくしは相手の……いえ、人間の時間感覚を狂わせる外部刺激を理解しているのよ。」

「時間感覚を狂わせる刺激か……」

「もっと詳しく言えば、人間の五感のどこに、どんな刺激、情報をどのように与えると人間の時間感覚がどのように狂ってしまうのか……長くなるのか短くなるのか、その度合いはどの程度なのか。それらを熟知しているのよ。」

 五感……おもしろい偶然もあるもんだ。

「ちなみにあいつには何をしたんだ? あいつの触覚と聴覚は『無痛症』で遮断されていただろう?」

 ファムの歌や指を鳴らす音、さらには指による突きも全て効果がなかったはずだ。

「あの男に与えたのは視覚からの刺激よ。」

「視覚? あの歌とかは……」

「フェイクよ。すれ違いざまの突きもフェイク。」

「え? それじゃあ……」

「本命はこれよ。」

 そういってファムは右手をあげて指を開く。するとジャランと音を立てて懐中時計が出てきた。普通のそれと比べると一回り小さい、ギュッと握れば手の中に隠れてしまうサイズだ。

「ビンタの時にはこうやって手の甲にまわしたのだけれど。」

 器用に指を動かし、手品師のように時計を手の甲にまわすファム。

「その時計が……?」

「よく見てちょうだい? ほら。」

「! 文字盤がバラバラじゃないか。それに時間があってないどころか……秒針の動きも一定じゃない。」

「この時計をあの男に突きをしながら見せたのよ。タイミングとか角度とか……まぁ色々あるのだけれど。最後にビンタで脳に衝撃を与えて……あの男の時間感覚を狂わせたのよ。コツは、相手に『時計を見ている』という認識をさせないことなのだけれど。一応言っておくのだけれど、これは催眠じゃないわ。熱いモノに触れた時にとっさに手を引っ込めるくらいの、人間の身体には当然の反応の一つよ。」


 ……つまり……歌や指を鳴らすことは単なるフェイクで手の中に隠した時計に気づかれないようにするためのもの。そしてすれ違いざまに指による突きを食らわせる際に時計を見せた。視界に入ってはいるものの、おそらく『無痛症』ゆえにただの指による突きだと分かった時点でそこまて注意してファムの攻撃を見なかった。だから無意識に視界に入ってくる時計に気づかず……時間感覚を狂わされ、最後のビンタでそれが発動したと……

 文字盤バラバラのおかしな時計をどう見せれば時間感覚が狂うかはわからないが……たぶんここで聞いたところでオレには理解できないだろう。フリュードが見ただけで相手の性欲のことを理解してしまう仕組みがわからないのと同じだから、そこは別にいいんだが……


「……人間の身体には当然の反応……仕組みを言われてもピンとこないんだろうけど……」

「どうしたのかしら?」

「なんでそんな技術をファムが……?」

 オレがそう言った瞬間、ファムはきょとんとした顔になり、そして笑った。

「享守ったら、ふふふ。」

「な、なんだよ。」

「ふふ、わたくしを誰だと思っているのかしら?」

「?」

「わたくしは自分の時間を止めることに半世紀以上の時間をかけた女なのだけれど?」

 その言葉に、オレはハッとした。

 ファムの目的は美しさの維持、向上にある。運動能力や肌の状態……普通に思いつくような事柄はもちろんだが、それ以外にも美しさと関係があるかもしれない事柄に対してたくさんの研究を行ったはずだ。

「美しさと年齢は切り離せない関係にあるわ。肉体的にも精神的にもね。例えば、年を取ると性欲が小さくなると聞いたから、その関係を知るためにフリュードという専門家を訪ねたわ。」

「ああ……フリュードとはそういうつながりなのか。」

 スッテンが言っていた予想……女性の美しさを求めるなら性欲使いとつながりを持つ可能性は高い……あれはこういう意味だったわけだ。

「そして……よく聞くことだけれど、若いころは二、三年が長く感じたけれど、年を取ると十年が一瞬だということ。これの逆を言う人もいるけれど、要するに年齢と時間感覚には何かつながりがあるということ。だから研究したのよ。」

 美しさと年齢。美しさに対する研究が身体や肌とかに関する研究で、年齢に対する研究が性欲や時間感覚ということか。それだけの研究をたった半世紀でとんでもないレベルまで行ってしまったファムは……さすがというべきか。

 ファムは懐中時計を揺らしながら思い出すように続ける。

「そしてヴァンドロームという生き物を知り、彼らの特異な力に希望を見て研究し、ヴァンドロームの時間感覚もコントロールできるようになったわ。そして……《お医者さん》として、一秒を数百年単位に引き延ばしてヴァンドロームの心を殺すという治療法を《デアウルス》に認められて《ヤブ医者》となったのよ。」

「い、一秒が数百年……」

「人間に対してはさすがにそこまでの引き延ばしはできないのだけれど。」

 ニッコリと笑うファム。初めてファムの治療法を聞いたが……どんな治療法よりも残酷な方法かもしれないな……要するに、ヴァンドロームを廃人に追い込むわけか……

「そんなこんなで半世紀。わたくしはついに……あなたに出会ったのよ。」

 じっとオレを見つめるファム。いつもならドキドキして終わるんだが……今のオレには一つの興味があった。

「なぁファム。」

「なにかしら。」

「ファムはさっき……人間の五感と時間感覚について説明してたが……五感にも詳しいのか?」

 オレの質問にファムは戸惑いながら答える。

「えぇ……まあ。とはいっても、わたくしは身体の運動機能、肌、髪の毛とかも専門であるし、同時に時間感覚という心理的なものの専門でもあるわ……あくまでいくつかある専門分野の一つということだけれど……」

「そうか。」

「まぁ、それでも五感に関しては《お医者さん》としての治療で何度も扱っているから中でも詳しい部類には入るわね……それがどうかしたのかしら?」

「いや……まぁ……」

 そこでオレは後先考えずにとんでもない言葉を口にする。


「オレとファムは相性がいいなって。いいパートナーになれる。」


 何か意味があるわけでもない、ふと口から出た言葉だった。だが……

「!!」

 ファムが目を真ん丸にした。ファムのこういう表情はかなり珍しいが一度だけ見たことがある。初めて会った時、オレがファムに対して時間が止まっているようだと言った時の表情もこんな感じだった。

 ただその時とちょっと違うのは……ファムの顔が真っ赤ということだ。

「パ、パ、パートナー…!?」

「? ファム?」

「きょ、享守……」

「ん?」

「わ、わたくしは確かに……あなたより年上で……そろそろ八十……なのだけれど……」

 ファムがオレから目をそらし、ボソボソとつぶやく。

「さっきもい、言ったように……半世紀以上、自分の事で手いっぱいで……その、れ、恋愛に関しては……そこらの学生以下なのよ……だから……」

 顔を真っ赤にし、上目遣いでオレをにらんでこう言った。


「あまりドキドキさせないでちょうだい……」


 理解した。オレが何を言ったかを、顔が赤くなるのを感じながら理解した。

 いつもファムが言ってくることと大差のない言葉のはずだ。だけど……なんでファム自身がこんなに……顔を真っ赤にして……

「……わ、わるい……」

「……べ、別にいいわ……」

 見たことのないファムの表情にムズムズしながらオレはそっぽを向く。ファムもまた、片手で顔を押さえながら廊下の向こうに視線を移す。

 き、気まずい……



 ……ファムじゃないが、数分が数時間に感じられた。そしてそんな長い沈黙を破ったのはファムだった。

「……享守。」

「ほぇっ!? はい!」

 テンパるオレに対し、ファムはいつもの感じに戻っていた。

「五感に詳しいと相性が良いということは……あなたの治療法というのは……」

「……ファムに対してやってるのも、普段の治療も、主に使ってるのは触覚だけどな……」

「……!」

「あとでちゃんと話すよ……」

「そう。」


 ピーッ、ピーッ


 そこでアルバートからの連絡が来た。

「あっちも片付いたみたいだな。」

「そうね。行きましょうか。」

 ファムが立ち上がり、オレはニック・フラスコを持ち上げる。

「ふふふ、わかっているじゃない。」

「……ファムが言ってたことだからな……」

 ファムが走り出し、オレも後を追う。

 ニック・フラスコをお姫様抱っこしながら。




「ふむ。あちらも無事なようだ。ま、安藤がいる時点で万事問題ないのだがな。」

 無線機のような物を耳から離し、アルバートさんがニッと笑った。

 すごい光景が私の目の前に広がっている。上半身裸のアルバートさんと、その肩に担がれている私のお父さん。私の隣で目をキラキラさせているライマンさん。そして、廊下の床に走るいくつかの亀裂と……壁にあいた巨大な穴。


 今からほんの十分前……


「おぉ……来たか。」

「ふん、またお主か。」

 私とライマンさんがさらわれたお父さんを追うアルバートさんに追いつくのと、アルバートさんがお父さんに追いつくのは同じくらいだった。何せ先生から渡された機械が音声で最短ルートを指示してくれるのだ。なんとなく音声がスッテンさんに似ている気がするけど……

 廊下のど真ん中に仁王立ちしているのはこの前の『半円卓会議』に現れた人物。工事現場で働く人がはくようなダボッとしたズボンを黒い帯でしめている上半身裸の男……ブランドーがアルートさんの前に立ちはだかっていた。ブランドーの後ろにはお父さんが転がっている。転がっているというとなんだか変だけど、本当に、放り出されたかのように床に寝転がっているのだ。あんな態勢で寝ていたら起きた時身体が痛いに違いない。

「リベンジ……ということか?」

「おぉ……話が早いな。おれさまを追ってくるのがあんたっつー可能性は五分五分だったんだけどな。運がいいぜ。」

 ブランドーが肩を鳴らして構えた。するとミシミシという音がブランドーの身体から聞こえた。

「おぉ……いい感じだ。正直、前回は《ヤブ医者》を甘く見ていた。だが今のおれさまは違う。本気も本気よ。ここに来る前にたらふく食べてきたからな……エネルギーは満タンだ!」

「ふん……懲りぬ男だな。また《ツァラトゥストラ》の筋肉肥大か……」


 筋肉肥大。正確にはミオスタチン関連筋肉肥大。《ツァラトゥストラ》というヴァンドロームが引き起こす症状だ。

 筋肉には生き物によって適正量というのが決まっている。ミオスタチンというのは筋肉の成長を抑制する物質のことで、これにより筋肉の量が調節されている。だけどそのミオスタチンを生み出す遺伝子になんらかの異常が起きた場合、もしくは筋肉の方がミオスタチンを受け付けないような状態になった場合、量の調節ができなくなって通常の数倍の筋肉量になってしまう。これがミオスタチン関連筋肉肥大という病気だ。

 遺伝的な病気ではあるのだけれど、症状が筋肉量の増加ということで、病気であるということに気が付かないケースが多い。通常の数倍の筋肉量ということはそれだけ身体がエネルギーを必要とするということだけど、気づかずに普通の食事をとっていて餓死してしまうということが起こり得る。

 ブランドーは《ツァラトゥストラ》をとりつかせることでミオスタチン関連筋肉肥大を起こし、筋肉量を一瞬で増加させる。ただし、その瞬間から体内ではものすごい勢いでエネルギーが消費されていく。制限時間付の超人なのだ。


「前にも言ったがな、力のみを出力するだけの『物体』がワシの『筋肉』と力比べなど片腹痛いぞ?」

「おぉ……相変わらずの自信だな? 試してみるか?」

 やっぱりブランドーの身体はあまり変化しない。けれどその身体の中にある筋肉は常人を遥かに超えるパワーを持っている。

「やれやれ。」

 アルバートさんが上着を脱いだ。

「持っていてくれ。」

 ヒョイと投げられた上着をキャッチする。上着一着だけかと思っていたのだけど、ふと前を見るとシャツとかネクタイとかも飛んできていた。

「ホッ!」

 その全てをキャッチするライマンさん。

「オオ! 安藤先生のシャツの二倍くらい大きイゾ!」

 ……シャツまで飛んできたということは……

「……すごい光景だ……」

 私の視界には上半身裸の男性が二人いる。特にアルバートさんは意味が分からない。ごつごつした岩のような筋肉が上半身を覆っている。個々の筋肉が尋常じゃない大きさになっているせいで、人の身体のどこにどんな筋肉があるのかよくわかる。

「おぉ……いい身体してるな。んじゃま、行くぜ!」

 ブランドーが駆け出し、アルバートさんに迫る。ボッという音と共に繰り出されるブランドーのキック。それを片腕で受け流してアルバートさんがブランドーの胸のあたりに拳を叩きこむ。

「ほう。」

 一体どんな威力なのやら、拳を受けたブランドーはそのまま後ろに二メートルくらい後退させられた。だけどブランドーは余裕の表情。

「以前よりも筋密度が高いな。防御力も上がっているというわけか。」

「言っただろ。前とは違う!」

 ブランドーがアルバートさんに急接近し、拳のラッシュ。それを受け止めたり弾いたりするアルバートさん。そして両者の両手がバチンと合わさってこの前みたいな力比べの態勢になった。

「はっはっは! どうしたどうした!」

 アルバートさんの身体が徐々に後ろに傾いていく。

「なるほど。この状態ではお主の力が純粋にワシの技術を上回るか。」

「技術? 力比べに技術も何もねーだろう!」

「ふん。わかっておらんな。」

 次の瞬間、アルバートさんは両腕を交差させた。互いの両手を合わせている状態で片方がそんなことをすれば、当然相手は――

「!」

 ブランドーが両腕を軸にぐるりと回転。そして頭が床に、足が天井に向いた瞬間、アルバートさんの拳が再び叩き込まれた。さっきとは違う、足の踏ん張りができない状態で拳を受けたブランドーは軽く五メートルは飛んでいった。

「ちっ!」

 それでもブランドーはアクションスターみたいに華麗に着地する。

「小賢しい技使いやがって!」

 駆け出し、怒りを露わにしながらブランドーの猛攻撃。キックやパンチの猛襲がアルバートさんに襲い掛かる。ブランドーが踏み込むたびに床に亀裂が走り、アルバートさんがパンチをかわすたびに避けられた拳が壁を砕く。コンクリートを素手で破壊できてしまう今のブランドーの攻撃はきっとその全てが一撃必殺なのだと思う。だけど――

「くそ! くそ! くそ! なんで当たらねぇ!」

 アルバートさんはブランドーの攻撃を全てさばいている。腕や脚で受け流し、時には上体を大きく傾けてブランドーの猛攻撃をかわしているのだ。

「以前からまったく成長しておらんな、お主。」

 そう言うと同時に、アルバートさんが低い回し蹴りをしてブランドーの両脚を床から離した。

「うおっ!?」

 前のめりにふわりと宙に浮いたブランドーの背中に、アルバートさんが上から下へ向けて裏拳を叩き込む。

「がはぁっ!」

 大きな亀裂を走らせて、ブランドーは床に叩きつけられた。床にクレーターができるほどのとんでもない威力。普通の人だったらぺしゃんこになっててもおかしくないと思う。

「……ワシは筋肉に関して多くの研究を行ってきた。お主の筋肉を見れば、次にどんな動きをしようとしているかなど、手に取るようにわかる。お主の力がワシに届くことはない。」

「おぉ……それが……あんたの言う技術か?」

 バッと起き上がり、そのままの勢いで後方に跳んで着地するブランドー。

「それもあるがな。だが……お主がワシに勝てないと言っているのはワシに技術があるからではない。お主に技術がないからだ。」

「なに?」

「例えばであるがな、合気道の達人が正面から来る重量五トンのトラックを受け流せると思うか?」

「何の話だ……」

「誰が考えても不可能であろう? 相手の力を利用する合気道とは言っても、そこには限界がある。それをふまえて……ワシがお主の攻撃を受け流せていることを考えてみるがいい。」

「!」

 ……そうか。ブランドーの力が本当にアルバートさんを圧倒的に超えているなら、相手の動きがわかろうとわかるまいと受け流すなんてことがそもそもできないはずなんだ。

「純粋に力比べをすればお主が圧倒的であることは認めよう。だが攻撃をする時、その圧倒的な力は本来の半分以下の力しか出せておらんのだ。」

「なん……だと……」

 アルバートさんはやれやれという風に肩を落とす。

「ワシとお主は……例えるのであれば、『そこらで売っている武器を手にした武器の達人』と『世界最強の武器を手にした素人』なのだ。」

「素人? このおれさまがか!」

「そうだ。」

「ふざけるな! おれさまは多くの武術を――」

「そういう話ではない。お主が今その身にまとっている筋肉の素人だと言っているのだ。」

「筋肉の素人だと?」

 ブランドーがまゆをひそめる。対してアルバートさんは右腕に力をこめ、力こぶを作る。

「ワシは……この筋肉と共に今までの人生を歩んできておる。無論、これからもな。日々のトレーニングの中で成長していくワシの筋肉……その全てをワシは知っている。どの態勢、どの向きで動かせば最も力を発揮するのか……ワシの体調や全身のバランスで日々変化する最適条件を理解しておる。すべてはこの筋肉と常に共にある故に成せること。」

 そしてアルバートさんは鋭くブランドーを射抜く。

「だがお主は? お主のその力……筋肉はどうなのだ? 《ツァラトゥストラ》がとりついた時にしかその身に宿ることのない筋肉……お主はその全てを理解しておるのか? 全身のどこに、どれだけの筋肉がプラスされたのか。その筋肉の最大の力を引き出すためにはどのような態勢がベストなのか……知っているのか?」

「……関係ないだろう。知っていようと知っていまいと!」

「否。関係ある。力は使い方を知って初めて力となる。どんなに切れ味の良い剣であろうと、剣の腹を相手にぶつけていては何も切れぬだろう? どんなに威力のある銃であろうと、銃口が敵の方を向いていないのであれば敵は倒せぬだろう?」

 アルバートさんがゆっくりと身を低くする。身体をひねり、右の拳を後ろにさげる。

「お主はな、《ツァラトゥストラ》がくれる筋肉という『物体』を身にまとっただけでいい気になっている素人なのだ。そのお主が……常にワシと共にあり、ワシと共に成長してきたワシの一部たる『筋肉』に挑む? ワシを笑い死にさせようと言うのであればもう少しましな冗談を用意するのだな。」

「だまれぇぇっ!」

 そう叫んだ瞬間、ブランドーの両脚が一気に膨らんだ。アルバートさんのようにごつごつした筋肉を隆起させた両脚でダンッと踏み込んだブランドーは砲弾のような勢いでアルバートさんに迫った。

「ぶっつぶす! 最大出力だっ!」

 アルバートさんの目の前に来た瞬間、今度は腕……しかも右腕だけが異様な太さになった。大木のような太い腕に岩のような筋肉をつけ、アルバートさんに殴りかかるブランドーだったが……

「馬鹿者がぁああああああああああああっっ!!!」

 アルバートさんが殴った。

『半円卓会議』で見たのとは段違いの速さで放たれたアルバートさんの拳は空気を潰して爆散させながらブランドーの胸部にめり込む。一瞬時間が止まったかと思うと次の瞬間、廊下の壁に大穴を開けてブランドーが超スピードで視界から消えた。

 そして一拍の後、廊下に衝撃波が走る。床、壁、天井に亀裂が走り、砕けていった。

 不思議なことに、私とライマンさん、そしてお父さんにはそよ風一つ来なかった。

「……ふむ……」

 ブランドーを殴り飛ばした態勢から普通の「立ち」の態勢に戻るアルバートさん。

「……壁を五、六枚破壊してしまったか。」

「……! アルバートさん、手が!」

 私はアルバートさんの右手を見てそう叫んだ。右の拳から白い煙が出ている。なんと右手が焼けているのだ。

「ガッハッハ!、心配はいらん。」

 そう言うとアルバートさんはズボンのポケットから包帯を取り出し、慣れた手つきで右手をぐるぐる巻きにした。

「久しぶりに空気の壁を越えた一撃を放った。いくら筋肉があっても、皮膚の強さはそんなに変わらないのでな。」

 空気の壁……? まさか……音速を……?

「まったく……」

 アルバートさんは壁に開いた穴を見ながら呟いた。

「パンチという行為は腕の筋肉だけで成せることではない。脚、大幹、あらゆる筋肉を使う……だというのに腕だけ強化してもまるで意味がない。症状の割には筋肉をまったく理解しておらん奴だったな……」

「す、すゴイ!」

 ライマンさんが目をキラキラさせている。

「んもー何がなんだかわからなかったけどすごい戦いだッタ! これが《ヤブ医者》の実力なんダナ!」

 ……あれ?

 いや……普通そうだ。

 何がなんだかわからない……それが普通だ。だけど私には……ブランドーが繰り出す攻撃やアルバートさんの身のこなしがはっきりと見えていた。

 さっきの衝撃波も私たちには来なかった……

「……」

 私は私の左手を見た。



「ふむ。あちらも無事なようだ。ま、安藤がいる時点で万事問題ないのだがな。」

 アルバートさんが軽々とお父さんを担ぐ。

「む、他の《医者》や《ヤブ医者》も全員外に出たようだな。」

 アルバートさんがスマートフォンのような機械を見て呟いた。

「ではワシらも外に出るとするか。」

 私とライマンさんから上着を受け取りながらアルバートさんはそう言った。すると……

「……すまん、二人とも。」

「え?」

 聞き返した瞬間、私とライマンさんは片手でつかまれてヒョイと数メートル投げられた。

「いタイ! 何するンダ!」

「少々暴れすぎた。お主ら、その機械の案内に従って降りるのだぞ。」

 アルバートさんがそう言うや否や、アルバートさんが立っているところが崩れた。

「な!?」

「あとで会おう。」

 まるでコントのように、アルバートさんはニカッと笑いながら床に開いた穴に落ちていった。

「ゆ、床が崩レタ……」

「……お父さん大丈夫かな。」

 廊下に残されたのは私とライマンさん。

「と、とりあえず下に向かいましょうか。」

「そうダナ……」

 私とライマンさんは地図を見ながら下に向かった。なんとなくエレベーターは使わずに。

「しかしすごかったナァ。ああやってヴァンドロームも倒すんだろウナ。」

「同じ人間とは思えませんね……」

「おオウ。ことねは意外と毒舌なんダナ。」

「そうですか?」

 そこでライマンさんは、走りながら口をとがらせた。

「やっぱり羨ましイナ。安藤先生のとこで勉強していろんな《ヤブ医者》に会エテ! ずるイゾー!」

「そう言われましても……」

「そんな羨ましいことねはどんな治療法なンダ?」

「治療法ですか……まだ決めてませんよ。」

「え、そうなノカ。」

「まだ切り離しの勉強中で……そう言うライマンさんのは? 私はまだ見せてもらったことないんですけど……」

「そうだッケ? ぼクハ……」

 そこで私とライマンさんは立ち止まった。


「迷ったとはどういうことですか?」

「うっせーなー、言葉通りだよ。」


 私たちが走っている通路の先に二人の女性が立っていた。

「そもそも貴女が、地図は頭の中に入っているなどと言うから……」

 一人は長い黒髪に黒いドレス。かかとを合わせてかなり姿勢よく立っているところと言葉遣いからとても上品なイメージの女性だ。ただ、表情はものすごく嫌そうな顔をしている。

「てめぇだって人任せじゃねーか。責任はアタシだけか?」

 もう一人は髪を……なんて言えばいいのか、なんだかゴージャスな感じに結んでいる茶髪に金ぴかのドレスの女性。ネックレスもイヤリングも金ぴかの感じの悪い人だ。

「これでは叱られてしまいますね。私たちの任務、それなりに重要なはずですから……」

「だいたいてめぇの症状は射程が短すぎんだよ! アタシだけなら下の階からでもイケんだぜ?」

「貴女だけではなんの意味もないでしょうに。」

 任務、症状……そして何より、こんなところにいるということからすると……

「こトネ!」

「……《パンデミッカー》……!」

 私とライマンさんは身構えた。よりにもよって私たち二人だけの時に遭遇するなんて……

「あん? あんだぁ、あの二人?」

「……ストロザー……見てわかりませんか?」

「は?」

「今日、このビルの中でパーティーが行われているのはあの会場だけです。服装から察するに、二人はパーティーの出席者。ですが《医者》にも《お医者さん》にもあんな若い出席者はいません。」

「テレビの探偵かよ。理屈はいいから結論言えよ、プレザンス。」

「出席者として来ているわけではない出席者……私たちから《医者》たちを守るためにやってきた《ヤブ医者》の関係者と見てまず間違いありません。」

 黒い方……プレザンスが嫌そうな顔でじっとこちらを見る。もしかしてあの嫌そうな顔は素なのかな……?

「んなどーでもいーことを言うためにうだうだと語ったのかよ……」

「どうでも良いということはないと思いますが……」

「どーでもいーだろ。見ろよあの二人……」

 金ぴかの方……ストロザーがにやりと笑う。

「すでに臨戦態勢じゃねーか。」

 こうして、私とライマンさんは《パンデミッカー》であろう二人、ストロザーとプレザンスと相対した。

「……すみませんね。別に《お医者さん》は見つけ次第殺せなどという命令は受けていませんが……私たちは今、任務を失敗してしまったところでして……」

「よーするにむしゃくしゃしてるっつーことで。」

 二人の女性の片腕がゆっくりとあがり――

「「八つ当たりに付き合って下さい(もらうぜ)」」

 ――!?

「か……こ、これは……」

 私はとっさに喉を押さえた。

 息ができない!?

「……! 吐けるケド……吸えナイ……!」

 ライマンさんも同じ状況になっている。正面では二人の女性がそれぞれ片腕を私たちに向けて立っている。

 おそらく、二人の操るヴァンドロームの何らかの症状を今、私たちは受けているんだ。さっき突然視力を失ったのと同じように……!

「ほんとーなら、これでフラスコと溝川以外は始末する予定だったんだけどな。ったく、プレザンスのまぬけのせいで……」

「私のせいですか……」

 かなりまずい状況だ。だけど私の左手は動かない。以前なら問答無用であの二人をぺしゃんこにしていたと思う。でも今は……動いて欲しいとさえ思っているこの時も動かない。

 もしかして……私の左手はライマンさんも信じているのか……?

「……!」

 そう思いながらライマンさんを見ると、ズボンのポケットから何かを取り出していた。あれは……ガチャガチャの容器?

「こトネ……走るじゅンビ!」

 言いながらライマンさんはガチャガチャの容器を二人に向かって投げつけた。すると容器が内側から破裂して中からビー玉やビーズやら、キラキラしたものが大量に出てきた。

「略シキ!」

 そのまま床に散らばるかと思われたビー玉などはライマンさんがそう叫ぶと空中で停止し、一つ一つが光り出した。そしてそれぞれが光の線でつながり、空中に魔法陣のような物が描かれる。

 まるで星をつなげて星座を作るように。

「! 略式ですって!」

「くっそ! いっちょまえに!」

 魔法陣の中心に光が集まり、それが次第に形を帯びていく。

「拘ソク! ブレイブレス!」

 最終的に光がとった形は……ライオンの頭だった。

「ォオオオオオオーンッ!!」

 通路に響くライオンの咆哮。

「! 息が!」

「行くぞ、こトネ!」

 ライオンの咆哮が耳に響くと同時に息ができるようになり、ライマンさんが私の手を掴んでもと来た道を走り出した。


「くそが! んだこりゃ!」

「大丈夫です。省略術式は長くもちません。追いますよ。」


 通路を逆走し、私たちはさっきとは違うルートで下を目指して全力疾走する。

「ラ、ライマンさん! さっきのは!」

「僕の術式ダヨ! ヴァンドロームの動きを止める力があるンダ!」

「だから息ができるように……」

「でも省略術式だから効果は二十秒くライ! この間に逃げるンダ! 安藤先生たちと合流スル!」

 省略術式……名前からすると、術式の色々な工程を省略するやり方なんだろう。でも省略したモノだから効果は短い……

「……! はナガ……!?」

 ライマンさんが鼻を押さえた。どうしたんだろうと思うのもつかの間、私にも異変が起こった。

「鼻で息が吸えない……!?」

 いや、息を出すこともできてない。鼻の穴にふたをされたような感覚だ。

「そウカ……あの二人、二人いて初めて相手の呼きゅウヲ……」

「! 射程ってまさか……」

 走りながら、私とライマンさんはあの二人の力を推測する。

「たぶん、あの金ぴかの方がハナ。黒いのが口なンダ。」

「だけどプレザンス……口呼吸を封じる方は射程が短い……」

「黒いのの射程に入ったら終わリダ! 急ぐぞ、こトネ!」

 階段を駆け下り、私たちはようやく二階にたどり着いた。そして最後の廊下を走りぬける。

階段は二階までで、一階に行くにはビルの真ん中にある大きな階段を降りる必要がある。だけどそこに行けばロビーが視界に入る。きっと先生たちもい――

「! 息が……!」

振り返ると長い廊下の先にあの二人が走ってくるのが見えた。

「うっしゃ! やっと追いついたぜ!」

「これでも私たちはそれなりに鍛えていますからね。」

 息ができない状態で走るのは困難だ。私とライマンさんの脚は次第に遅くなる。

「……! ……! くるシイ……」

 全力疾走していたところで突然息ができなくなった。私たちはさっきとは比べ物にならない苦しさを感じていた。

 あ……まずい……もう……

「!」

 意識がとぶかとばないかというところで、私の視界にあるモノが写った。

 両腕を振らず、身を低くして、まるで忍者のような走り方で廊下の先から先生が走ってくるところが。

「先……せ……」

 日頃からは想像できないほどの……いや、もはや人間離れした速度で先生は廊下を走り、私たちを軽く跳び越してあの二人に向かっていった。

「! あれは!」

「《ヤブ医者》じゃねーか! プレザンス!」

 ストロザーが叫ぶと同時に私たちは苦しみから解放される。ライマンさんと二人で大きく息を吸いながら先生を見た。

「全力だ! アタシらの症状を全部あいつに集中させる!」

「あれだけの速さで走っているのですからね。呼吸を止めたらさぞ苦しいでしょう!」

 二人が片腕を先生に向けた。だけど……

「……!? おい、プレザンス!」

「ちゃんとやっています! まさか、効いていない!?」

 二人が困惑している中、先生は速度を保ったままスライディングキック。それを受けた二人は同時に宙に舞う。だけど二人は猫のようにきれいに着地した。

「あめぇぜ!」

「これだけ近距離であれば!」

 二人が再び腕をあげようとするが、その前に先生が二人に向けて何かを突きだした。

「……!?」

 二人の動きが止まる。だけどそれは何か怖いモノを向けられて止まったというよりは、困惑で止まったという感じだった。

「安藤先生が持ってるあれ……クラッカーカ?」

「そう……ですね。」

 パーティーでよく使われる、ひもを引っ張るとパァンという大きな音と共にリボン状のカラフルな紙が飛び出るあれだ。先生は左手でクラッカーを持ち、右手でひもを握っている。

「……なんのつもりですか? それで私たちがどうにかなるとでも?」

「んま確かによー、後ろからいきなりやられたらびっくりすっけどさ。こんな状況じゃそのびっくりもねーと思うぜ? ただ音が鳴るだけだ。」

 二人が笑うのを別に怒るでもなく焦るでもなく、いつも見る顔で先生は呟いた。


「クラッカー以上に恐ろしい物をオレは知らない。」


 パァン


 おなじみの乾いた音が響いた。色とりどりの紙が二人にかかる。何が起こるでもなく、二人は再び両腕をあげるかと思いきや……

「え……」

 バタバタと、糸の切れた操り人形のようにストロザーとプレザンスは先生の前に倒れた。

「?? なンダ? 何が起きたンダ?」

 倒れた二人を一瞥し、先生は私たちの方に歩いて来た。

「二人とも大丈夫だった?」

 いつもと変わらない先生。

「だ……大丈夫です。」

「よかった。例の機械見てたらいきなりアルバートとことねさんのお父さんだけが下の階に移動したからね。びっくりして二人のとこに走ってきたんだけど……結構危なかったね。」

「安藤先セイ! あのふたリハ!」

「大丈夫。気絶してるだけだから。クラッカーの音って大きいからね。」

「それだけであんな風になるとは思えないんですが……」

「んまぁ、あとで説明するよ。とりあえずロビーに行こう。みんないるから。」

 すたすたと先生が便所サンダルをパカパカさせながら歩き出すので私とライマンさんはそれについていく。

「ニック・フラスコもことねさんのお父さんも無事に助けられたよ。二人とも今ロビーにいる。他の出席者はあの黒服の人たちが安全なとこに避難させたってさ。もちろん、ファムとアルバートも無事だ。」

「フリュードさんは……」

「ファムたちと一緒にロビーにいるよ。結局何もしなかったって文句言ってる。」

 あははと先生が笑うとライマンさんが質問した。

「安藤先生、さっきの二人はどんなヴァンドロームを使ってたかわかルカ?」

 ……いくら先生でも触っていない相手のことはわからないはずだ。まぁ、スライディングした時に脚に触れただろうけどそんなんじゃ……

「《ノーズアーゾン》と《ノットパフ》だね。」

「え? よくわかりましたね。」

 私は驚いて思わずそう言った。

「んまぁ……あの二人の症状を食らったからね。」

 食らった? じゃあ、あの二人が腕をあげたとき、先生は呼吸できなくなっていたということか。それなのにまったく速度を落とさずに……? どういうことだ?

「《ノーズアーゾン》は『鼻炎』だっタカ。《ノットパフ》はなんだっケカ。」

 ライマンさんが私を見たので思い出して答える。

「『拒食症』ですね。」


 鼻炎。鼻の中、詳しく言えば鼻の穴の粘膜に発生した炎症だ。一口に鼻炎と言ってもいくつか種類があって、味覚に影響を与える場合もあるけど《ノーズアーゾン》の鼻炎は鼻水、鼻づまりとかを引き起こす。

 そして拒食症。正確には神経性無食欲症と呼ばれる精神疾患の一つだ。心理的、生物学的、社会的要因によって生じるモノだけど、主に心理的要因によって起こる病気だ。太ってしまうことに対する恐怖や体重が減ることの快感などから食欲が無くなって食事を摂らなくなってしまう。これによって栄養が足りなくなって感染症などを発症する。精神疾患の中では致死率の高い疾患の一つになっていて、うつによる自殺ということも起こり得る。

食べれば治るようなモノではなく、無理に食べようとすると吐いてしまったりする。治療は精神療法が中心になる。


「そうだそうだ『拒食症』だッタ。でもなんでいキガ?」

 その質問には先生が答えた。

「まず『鼻炎』は鼻づまりだね。《パンデミッカー》の言うリミッター解除状態の鼻づまりだから……鼻を完全に塞いでしまうわけだ。これで鼻呼吸は封じられる。」

「それはわかるけど……『拒食症』はどうシテ?」

「『拒食症』は文字通り、食べることを拒む症状だ。リミッター解除することで食べ物を口に入れることすら拒み……終いには口に何かが入ることを身体が拒むわけだ。空気も含めてね。」

 空気を口に入れることを拒否する……だから吐くことはできても吸うことができなかったのか。

「しかし……なんでことねさんたちがあの二人に遭遇したんだ? あの二人の役割はわからないけど、会場から離れすぎてる……」

 先生がそう呟いたので私は本人たちが言っていたことを話す。

「なんだか道に迷ったって言ってましたよ。あと、二人の役割は……ニック・フラスコとお父さん以外の人を……その、始末することみたいでした。」

「なるほど。『失明』の奴が言ってた雑な方法ってのはつまり全員を窒息させることだったわけか……にしても……迷う……か。」

 先生は難しい顔で続ける。

「オレのことを知っている奴と知らない奴。加えて迷う奴……なんだか連中にやる気を感じないな。」

「やる気?」

「今回の行動がニック・フラスコを含んだたくさんの《お医者さん》の始末にあるなら……もっとちゃんとするでしょう? 情報を全員にしっかり渡してさ。今思えば《ミスユー》の奪い方もかなり雑だった。」

 言われてみれば……そうかもしれない。あの時、堂々と小町坂さんの病院に乗り込んできてあの場にいた全員に攻撃を仕掛けてきた……別に治療するときに奪わなくても、患者さんが一人の時を狙うことだってできたはずだ。

「そもそも《デアウルス》の実力を知らないわけじゃないだろうに。今回の作戦がバレないとでも思ってたのかな……」

「《パンデミッカー》の目的は別にあったってこトカ?」

「うーん……さっぱりだね。」

 そんな会話をしているうちに私たちはロビーについた。

「おお安藤。片付いたか。」

「ああ。……ことねさんのお父さん、まだ担いでんのか?」

 お父さんはまだアルバートさんの肩の上にいた。

「うむ。今起こしてもこんな場所で詳細は話せんしな。安全なところで起こすとしよう。」

「そうか。」

「なら、早く出ましょうか。」

 ファムさんの一声で、みんなが出口に向かって歩き出した。

「フリュード、わざわざ来てもらったのに悪かったな。」

 先生がそう言うとフリュードさんは軽くため息をついた。なぜかニック・フラスコをお姫様抱っこしている。

「まー……何も無いにこしたこたぁない。今回はヘロディア嬢からのご指名を受けられただけで満足とするかな。」

結局ミスユーは使われなかったからな……」

「それでも、《ミスユー》が連中の手にあるのは変わらねーんだろう? また活躍の機会もあるだろうぜ。」


「いえ、その予定はありませんよ。まったく。」


 みんなが正面の入口を出て、アルバートさんと会ったあたりに来たところでその声は聞こえてきた。

「出てきてくれましたね。やっと。待ちぼうけというのはこういうことを言うのですね。きっと。」

 私たちの正面、ニック・フラスコの車が止まったあたりに一人の男性が立っていた。

 サラサラの茶色い髪の毛で右目が隠れている長身の男性だった。青いYシャツにジーパン。そしてぼろぼろのスニーカーをはいている。

「うん? 見知らぬ顔がいますね。この人は誰なのでしょう。」

 フリュードさんをじーっと見つめる男性。なんだか口調と声が合わさって学校の先生のような印象を受ける。

「まあいいでしょう。それはそれとして……当たり前のように動きますね。実に。」

 男性の視線が私に移った。

「『エイリアンハンド』ですか。さすがと言うべきなのでしょう。」

 一人で頷く男性。当たり前のようにとは……どういうことだろうか。

「おや。自分の状況に気づいていませんか。もしや。」

「え……」

「周りをご覧なさい。」

 私は横を見た。そこには先生がいる。いるにはいるのだが……

「先生……?」

 嫌な予感がした。返事も何もない。私は一歩下がって先生を見た。

「……!」

 止まっている。立ち止まるとかそういうことではなく、まったく動かないのだ。まるで人形のように、歩いている途中で固まったかのように先生は静止していた。

 ほかのみんなも同じようになっていた。ライマンさん、ファムさん、アルバートさん、フリュードさん……もちろんお父さんもニック・フラスコも。私以外の全員が凍り付いたように止まっているのだ。

「ふふふ。ビデオを……おっと、今はDVDですか? 一時停止したような光景でしょう。まるで。ご心配なく。みなさん生きていますからね。」

「……!」

 私はとっさに身構えた。

「おや、わたしとしたことが。自己紹介ですよね。まずは。」

 男性は右手を胸に当ててこう言った。

「わたしの名前はアリベルト・ヘイム。パンデミッカーのナンバー1……リーダーをしております。」

 ……!! 《パンデミッカー》の……リーダー!?

「ふふふ。よい表情ですね。驚いていただいたようで。あなたは《お医者さん》の卵ですね。見たところ。ふむ……まだ動くつもりはないようですね。どうやら。あなたと一つ授業と行きましょうか。ならば。」

 男性……アリベルトはピッと人差し指を立てて話し始めた。

「わたしが使用している症状を当ててみてください。まずは。」

「症状……」

 ……なぜかわからないけど、今動けるのは私だけ。それでもどんな症状かがわかれば先生たちを助けられるかもしれない……!


 身体が動かなくなる……そういう症状はたくさんあるけど、先生たちはそのどれにも当てはまらないと思う。なぜなら本当に、みんな「歩いている途中で止まっている」からだ。先生はまだ違和感のない方だけど、例えばライマンさんなんかはあまりに不自然だ。片方の足が浮いている状態で止まっている。あの態勢なら横に倒れるのが自然だけどピクリとも動かない。

 アリベルトが言ったように……まるで一時停止。


「……時間が止まっている……?」

 思わずそう呟いた私にアリベルトは応える。

「ふふふ。いくらなんでも時間を止める症状はありませんよ。着眼点は良いですよ。しかし。」

 そう言いながらアリベルトは私の後ろの方を指さした。

「ヒントはそれですね。」

 見ると、そこにはビルの入口があった。ドアは自動だから私たちが通ったあとは閉じているはずなのだけど……

「……止まってる?」

 自動ドアは閉じる途中で止まっていた。

「まさか……」

 私は横で止まっている先生の白衣に注目した。

「……やっぱり。」

 先生の白衣は風になびいた状態で静止していた。


 ヴァンドロームが引き起こす症状というのはもちろん、身体に作用するモノだ。なのに先生の白衣や自動ドアまで止まっている。つまり、身体以外のモノまでも止まっているのだ。

 私はアリベルトの方を見た。アリベルトの後ろには道路があり、少し離れたところには公道が見える。そこを走る車は普通に動いている。

 ……アリベルトが立っている所を境にして人と物、関係なしに静止している。正確には……アリベルトの前と後ろで。つまり……


「……あなたの視界に入ったモノ、全ての動きが止まっている……」

「その通りです。優秀ですね。」

 アリベルトが拍手をする。

「細かく見ていきますか。では。止まるということはどういうことなのでしょう。わたしは言いましたね。さっき。みなさんは生きていると。」

 止まっているという表現がたぶん適切じゃない。生きているということは……動けるはずなのに動けないということか。それにライマンさんのような不自然な止まり方を考えると……

「……動けないようにする……のではなく、自分から動くのも外からの力で動くのも全部含めて……動かないようにしている……」

 私がそう言うとアリベルトはさらに大きな拍手をした。

「正解です。種明かしと行きますか。それでは。」

 頑張った生徒を嬉しそうに見る学校の先生のような笑顔でアリベルトはしゃべりだす。

「この力は、わたしの視界に入ったモノに「動く」ということを許可しないのです。あなたが言ったように、能動的にも受動的にもね。「動く」と言いましてもわたしが認識できる動きです。ただし。その証拠に、あなたの周囲の空気は止まっていませんね? 空気なんて透明なので見えませんから。呼吸の際の微妙な胸の動き、まばたきもこの距離では認識できませんので止めることはできません。さらに。」


 ……つまり、今先生たちにはこの光景も見えているし、私とアリベルトの会話も聞こえている。息ができずに苦しいということもなく、まばたきできないから目が痛いということもない。本当に身体を動かせないだけなのだ。

 加えて……試しに先生を押してみるけど、銅像か何かのような感触で腕一本も動かせない。

 自分でも他人でも自然の力でも動かせない。先生たちはそういう状態なんだ。


「わたしの視界ですからね。ちなみに。わたしがまばたきをするその一瞬だけ、みなさん動けているのですよ。実は。」

 ……砂でも投げつけて目をつぶらせればそれで終わりということか。

「……結構弱点が多いですね。」

「ふふふ。そうですか? わたしの前では迫りくる大津波も崩壊する建物も……火山の噴火だってその動きを止めるのですよ? いけませんね。なまじ動けてしまっているからわたしの恐ろしさを理解しきれていないようです。」

 小さな子供を怖がらせるように両手をわらわらさせていたずらっ子のような顔で笑うアリベルト。

「わたしがここから一歩二歩と近づけば、みなさんの動きはより制限されます。胸の動きを認識できる距離に行けば窒息させることも可能となります。わたしがここから銃で一人一人撃ち殺してもよいのですよ? もしくは。わたしには放たれた銃弾を認識できるほど高性能な目はついていませんので銃弾はいつものようにまっすぐに進んでいきますから。」

 私はそれを聞いてひやりとしたが、すぐに反論する。

「……確かに銃弾は見えないでしょうけど、銃弾が当たる人は見えます。穴があくとか血が出るとかは見えるはずです。なら、銃弾はみんなの直前で止まるはずです。それ以上進めないんですから。」

 要するに……今の先生たちは外からの刺激に対しては無敵なんだ。アリベルトが刃物を突き立ててもまったく刺さらないはずだ。

「ええ、その通りです。ですから……銃弾が当たる時は目をつぶりましょう。」

「……!」

「ふふふ。あなた以外のみなさんの現状を理解出来たようですね。ご安心を。でも。ここでみなさんを殺すことはありません。目的はそれではないので。」

 ……目的が違う? ここにはニック・フラスコとお父さんがいるのに殺さないと言った。これが目的じゃなかったのか? じゃあさっきライマンさんが言ってたみたいに、何か別の目的があったということか。

「最後に答え合わせです。ではでは。わたしに力を与えてくれているヴァンドロームの名前は《ゼロスピード》です。ちなみに。症状はご存知ですか?」

 《ゼロスピード》……知らない名前だ。

「おや。教わっていませんか。まだ。そろそろあなたに動いてもらいますか。では。」

 アリベルトの視線の先は……先生だった。

「《ゼロスピード》は特Aランクです。先ほど言ったように自然現象ですら止めてしまいます。ヴァンドロームは突然変異によって人知を超えたSランクになります。その大元である普通のヴァンドロームは、リミッターを解除すればそれに近い力を持つのです。止められないモノはあります。しかし。それはずばりSランク。無理やり引き出したモノと純正の力では後者が圧倒的でしてね。わたしもSランクだけは止められないのです。」

 ……私が動けているのは……私の左手にSランクのヴァンドローム、《オートマティスム》がいるから……

 え……じゃあ先生に動いてもらうっていうのは……


「ことねさん。」


 横から声がした。

「《ゼロスピード》の症状は……『運動盲』だよ。」

 ついさっきまで、人形のように固まっていた。でもおそるおそる横に目をやると、そこには私に《お医者さん》を教えてくれる時のニコッとした先生がいた。

「先……生……?」

 だけどその笑顔はなんだか残念そうだった。

「神経系の症状でね。動いているモノが見えなくなるんだ。『運動盲』の人にとって、世界は常に静止したもの……人でにぎわう大都会も『運動盲』の世界では人のいない無人都市になる。」

 先生は淡々と説明を続ける。

「あいつがやっていることは『運動盲』の世界を相手に強制させるってことだ。動いているモノの無い世界を強要する……そういうタイプの《パンデミッカー》なんだね。」

 軽くため息をつき、先生は私の頭に手をのせた。

「こんな形で……ね。ちゃんと話そうとした矢先にこれか。まったく……」

「先生……それ、じゃあ……先生にも……」

「あの人との約束だったんだ。あっち側に関わらないために、あっち側のことは話さないようにってね。でもあっちから話しかけられてしまった。話さずにはいられなくなった。」

「先せ――」


「あ、あなたはもうお静かに。」


「!」

 突然、私の口が開かなくなった。接着剤でくっつけられてしまったようにまったく開かない。

「Sランクと言えど、どこか一か所だけというのであればなんとかなるのです。すみませんね。大事な話をするのですよ。」

「……『運動盲』はかなり脳に負担をかけるはずだ。そう長くは止めてられないだろう。」

 先生が低い声でそう言った。

「ええ。要件を済ませてしまいましょう。なので。」

 アリベルトは私に挨拶した時とは違い、深く頭を下げてこう言った。


「安藤享守様。あなたを《パンデミッカー》に迎え入れたい。」


 先生が!? 《パンデミッカー》に!?


「……よくわからないな。」


 先生はひどく興味なさそうに応えた。


「あなたは彼女の弟子です。」

「だからわからないと言っているんだ。あの人の弟子をどうして迎え入れる。」

「確かに……《パンデミッカー》の中でも反対する者は多いです。なぜあんな裏切り者の弟子を……とね。」


 裏切り者? あの人……先生の先生が? 《パンデミッカー》の裏切り者?


「それはそうだろう。むしろ真っ先に倒すべき相手じゃないのか? オレは。」

「御冗談を。勝てるわけがないではありませんか。」


 アリベルトは顔を上げ、目を細めてこう言った。


「当時の《パンデミッカー》最強にして、たった一人で我々を壊滅させた人物の……愛弟子に。」


 !! 最強!? 壊滅させた!?


「弟子が師匠並に強いとは限らないだろう……」

「調べはついております。彼女のその後を調査し、なぜあなたを選んだのかを……あなたは確実に彼女を超えている。なぜならあなたは……」


 アリベルトが今でも信じられない、言うのがはばかられるといった表情で告げた。


「《イクシード》のパーフェクトマッチなのですから。」


 《イクシード》……前に先生が言っていた、先生が会ったことのあるSランクの一体だ。アリベルトの……『運動盲』だったか。アリベルトの話によれば、その視界の中で動けるということはSランクをその身に宿すということ……先生の身体には《イクシード》が? それに、パーフェクトマッチって一体……?


「……っつ!?」


 突然、アリベルトが頭を押さえた。


「ぐ……なんとかなるとは言いましたが……想像以上の負担ですね。やはり。Sランクを止めるのは例え身体の一部でも重労働です……」

「ならもう帰れよ……オレの返事はノーだ。今後も変わらない。」

「……いえ、わたしは必ずあなたを手に入れる。神の復活は近いのです。世界の愚者から神を守るにはあなたの力が必須。彼が言っていた事ですから間違いない……」

「そうかい。」

「以前がそうであったように、わたしが最強ではありません……またいずれ……近いうちに。」


 アリベルトが指を鳴らす。するとアリベルトの真横に突然一人の女性が現れた。


「わわっ! 安藤様だ! やばいわ! 安藤様だ!」

 その女性は先生を見るや否や急にテンションが上がった。

「ジャック……お願いします。」

「わかってるわよ。失敗したときは……わかってるわよ。」


 女性が先生をじっと見つめてウインクした瞬間、二人の姿はパッと消えた。同時に、私の口もみんなも動けるようになった。

「むギャ!」

 不自然に止まっていたライマンさんとかが転んだ。

「安藤。」

 そしてアルバートさんが先生を呼ぶ。

「聞かせてもらえるのであろうな……?」

「……ああ。今回の事の後にでも話そうと思ってたところだ。単純に、その始まりが最悪の形で幕開けしただけさ。」

 先生の苦笑いを見て、アルバートさんはいつものようにニカッと笑った。

「そうか! ガッハッハ! ならば良い!」

「スッテンも呼んで……みんなに聞いてもらう。ことねさんにも、ライマンくんにもね。」

「安藤先生の秘ミツ? ……前にも言ったけど、僕は今の安藤先生にこそ興味があって、過去のことはどうでもいいんダヨ。」

「それでも、だよ。こんな人もいるのだと知ってほしいんだ。ライマンくんがライマンくんとしてやっていくためにもね。」

「!!」

 先生のその言葉にライマンさんはひどく驚いた顔をした。

「どこかゆっくりできるところで話を始めよう……結構長いから。」

「別にどこでも構わないのだけれど。あなたの話を聞けるのならね。」

 ファムさんはなんとなく嬉しそうにそう言った。

「そうか。嬉しいよ。それじゃあ、まー……全部聞いてもらうさ。」

 先生が困ったように笑いながら呟いた。


「泣き虫キョーマと……キャメロン・グラントの物語を。」

《お医者さん》と《パンデミッカー》の戦いが本格的になりました。


ちょっと敵が強すぎてどう倒そうかと私も迷っております。


そんな中で紐解かれる安藤の技術の謎。

次は全編過去編です。

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