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お医者さん  作者: RANPO
第二章 「クラッカー以上に恐ろしい物をオレは知らない。」
3/10

第二章 その1

第一章は例のごとく、序章と言いますか……世界の紹介でしょうか。


主人公二人にもう一人が加わる第二章。この物語はこの三人がメインかと思います。


今後のメインとなる登場人物が文字通り「登場」する第二章です。

 目を開けるとそこは真っ暗だった。何も見えない……こころなしか呼吸がしづらい気もする。なんだ? オレは一体どこに……

「……なんだ、ただの枕か。」

 どうやらうつ伏せで寝ていたらしい。確かどっかの爺さんがうつ伏せで寝ることが健康にいいとかなんとか言ってたが……さて、あれは正しいのかね。

 オレは目覚まし時計のいらない人間だ。決まった時間に起きれる。というか起きれるように身体を設定できる。あの人の技術を扱うにはかなりの精度の体内時計が求められたから……かなり訓練して精度を上げた。オレの時間感覚はかなりすごいと自負する。

「今日はオレが料理当番だったな……」

 洗面所で顔を洗いながらそんなことを思い出す。


 『半円卓会議』からざっと二週間。国内の飛行機を全て買い取ってでもオレが帰るのを阻止しようとしたファムだったが、家族の面々に抑えられてあきらめた。オレとことねさんは無事にイングランドを脱出し、こうして甜瓜診療所に戻って来た。

 あれから……やはりというか何と言うか、結構な数の患者さんを治療した。《パンデミッカー》は派手に動いているらしい。だが幸い、オレのとこにはあの高瀬以来誰も来ていない。

「ま、治療費が入ることは良いことだが……喜んでいいのやら……」

 台所に移動し、冷蔵庫からシャケの斬り身を取り出す。今日の朝ごはんはこれだな……

「おはようございます。」

 オレが味噌を取り出していると後ろからことねさんがあいさつをする。さすがに寝るときは三つ網をほどいているから今のことねさんはだいぶ長い髪の毛をストレートにおろしている状態だ。唯一の色である赤いリボンが無く、またパジャマも上下が灰色ときているから白黒映画の登場人物みたいになっている。半目だからまだ眠いのかとも思ったが……そういえばことねさんは通常が半目だ。

「……今日でしたっけ……」

「何が?」

「その、スクールの人が来るのがです。」

「そうだね。」

 《デアウルス》が護衛だとか言ってスクールの人間をオレにつけた。そいつがここにやって来るのが今日というわけだ。


「そもそもスクールって何ですか?」と、この前ことねさんに尋ねられた。

 スクールとはつまり《お医者さん》の学校のことだ。安易なネーミングセンスだが的を射た名前だ。

 誰かが《お医者さん》になりたいと思った時、一般的にはどこかの《お医者さん》の下で学ぶことになる。弟子としてその《お医者さん》の技術を学ぶか、生徒として普通に《お医者さん》の基礎までを学ぶかは人それぞれだが。

 さて、ここで一つ問題が発生する。《お医者さん》は人手不足だからなりたいと思う奴には是非なって欲しい。だが先生となる《お医者さん》は必ずしも近所にいるわけじゃない。《お医者さん》の先生と出会い、そこで学ばせてもらえるかどうかはある程度運によって決まってしまう。

 だから、そんな「先生に出会えなかった人」のために作られたのがスクールだ。そこで現役の《お医者さん》やもう引退したが教えることはできるような《お医者さん》が先生となって集団の生徒相手に教えている。

 この話を聞いてことねさんは「ならそのスクールをもっと増やせばいいんじゃないんですか?」と言った。そりゃ確かにそうだが……《お医者さん》はできればそんな小学校や中学校みたいな感じで学んで欲しくないことだったりする。

 なにせ、治療の失敗が本人の死につながることがあるからだ。できれば個人指導できっちり学んで欲しい。しかしそうも言ってられないよなぁという感じで一応作られた学校がスクールってわけだ。

 現在、世界に三か所ある。アメリカと……ロシアか中国のどっちかと……アフリカあたりに。かなり記憶があいまいだが……

 んで、そのアメリカのスクールの優秀な生徒の中から選ばれた生徒さんがここに来るというわけだ。


「どんな人ですかね。」

 ことねさんがお味噌汁をすすりながら呟いた。

「まぁ……オレが英語しゃべれないのは《デアウルス》も知ってるし……少なくとも言葉の通じる奴ではあると思うけど……」

「そうですね。男か女かもわからないんですか?」

「えっと、この前の《デアウルス》からの電話によると……」

「え……《デアウルス》さんが電話……? どうやって……」

 ことねさんが驚愕しているがそれはとりあえず置いておき、オレは電話の際にメモったことを読み上げる。

「ん~っとねぇ……名前はライマン・フランク。性別は言ってなかったけど……名前からして男かな。腕は『新人《お医者さん》』って感じで……ランクで言えばCをギリギリ倒せるかなってくらいらしいよ。治療法は東洋と西洋の術を融合させたモノ……だって。」

「……新人さんで護衛になるんですかね……」

「正直微妙だけど……術を扱える人がいるってのは少し心強いかな。オレは肉弾戦しかできないからね……《パンデミッカー》の奇怪な症状には魔法の一つも欲しい感じだよ。」

「なるほど……」

「良い機会だよ。ことねさんもそろそろ自分の治療法を考える時期だからね。術ってのを間近で見れるのはラッキーだよ。小町坂の治療法だと日本のに特化しすぎてるからね……一般的な治療法ってのも知っとくべきだよ。」

「そんなもんですかねぇ……」

 最近はことねさんに切り離しを教えている。患者さんが増えたことで実際にやってみる機会が増えたからなかなか順調に進んでいる。

 まぁ……問題と言えば……ことねさんの左手だ。切り離しは片手でできる作業じゃないから両手を使うんだが……『エイリアンハンド』こと《オートマティスム》がことねさんの左手を動かして切り離しをサポートしてしまっている。いざって時にことねさんが自分だけでできないと困るわけだが……さて、どうしたものかね。

 《オートマティスム》……Sランクヴァンドローム。初めのころはよく暴れたものだが……最近はことねさんのすることをサポートする感じで動くようになった。基本的に左手の支配権はことねさんにあって、ことねさんが困った状況になると《オートマティスム》が左手を動かす。

 《デアウルス》は《オートマティスム》がオレを信用してきていると言っていたが……あれはマジな話かもしれない。

 ことねさんが困ることはもちろんだがオレが困ることもしなくなってきたのだ。だから小町坂のとこにことねさんを一人で見学に行かせることも出来るようになった。

 案外と、共存はもうできているのかもしれない。

「先生、今日の予定は?」

「うん……確か今日、小町坂がちょっと珍しいヴァンドロームを治療するから……ことねさんは午前中、それを見て来るといい。午後は患者さんを待ちつつ診つつ《お医者さん》の修行かな。ライマン・フランクがいつ来るかわからないからオレはここにいるよ。」

「わかりました。……珍しいって何がですか?」

「特Dランクのヴァンドロームだよ。」



 私は晴明病院にやってきた。診療所ではなくて病院。小町坂さんはそこの院長さん。お金持ち。

「モテそうだなぁ……小町坂さん。」

 と、呟いてみたけどあんな和服で異様に長い髪の毛の変な人はモテないか。

 病院の受付に行くと高木さんがいた。

「あ、溝川さん。」

「こんにちは。」

 この高木さんという人の立場が私にはよくわからない。大抵、小町坂さんと一緒にいるから助手みたいなことをしているのかと思いきや、こうやって受付をやっていたりする。

「安藤先生から聞いてますよ。いつもの場所に行って下さい。」

「わかりました。」

「あの、溝川さん。」

「はい?」

「どうでした? 『半円卓会議』。」

 すごいワクワクした表情でそう聞かれたけど……何て答えようか……

「……すごくて変な人がたくさんいました。」

「いいですねーあたしも行ってみたいなぁ。まったく、何で先生は《ヤブ医者》じゃないのかしら。」

「なんつーことを言うんだお前は……」

 小町坂さんがカランコロンという音をたてながらやってきた。相変わらず和服な格好だ。白衣は着てない。そもそもこの和服に白衣は似合わない……というか白衣のところを見たことないな。

「あら、先生。手術は終わったんですか?」

「終わったも何も……俺は別に執刀してねーからな。指導しただけだ。」

 《お医者さん》は基本的に《医者》の知識を持っている。小町坂さんは外科の《医者》だったらしいので手術室に入って新米の《医者》の指導をしたりしている。

「だけどよぉ……俺の本職は《お医者さん》だ。まったく、院長が直に指導するってなんだよ……」


 小町坂さんに連れられ、一般の患者さんは来ない階、五階に行く。つまりヴァンドローム関係の患者さんが来る階だ。一階から四階は《医者》の階。この建物は六階建なのだけど……六階に何があるかは知らない。

 前を歩く小町坂さんのなっがい髪の毛を眺めながら、ふと思ったことを聞いてみた。

「小町坂さんはなんでそんなに髪を長くしてるんですか?」

「あれ? 言ってなかったっけか。」

「はい。」

 小町坂さんの診察室に到着する。中には先生の診察室みたいにベッドと机がある。だけど甜瓜診療所のそれとは広さが違う。ざっと二倍くらいは広いんだけど……なぜか今はカーテンがかかっていて奥が見えないようになっている。

「ん~っとなぁ……」

 小町坂さんが椅子に座る。私は患者さんが座るのであろう椅子に座った。

「安藤があれだからなぁ……あんまり術に関しては教わってねーよなぁ。」

 キセルに火を入れてプハーと吐く。不思議なことに私の方に煙が来ない。

「東洋と西洋……結構違うとこがたくさんあんだけど、唯一同じ点がある。それは術の発動には代償が必要ってことだ。」

「代償?」

「ほら、神様に生贄を捧げる~みてーなの聞いたことあるだろう?」

「え……まさか小町坂さん……」

「確かに……大昔の人たちは術を一個発動すんのに複数人の生贄を使ってたよ。」

「そう……なんですか。」

「車を動かすにはガソリン。電球光らせんなら電気。何かをするには必ず消費するモノがあるってのがこの世界の常識だ。だが術が考案された頃にはそんな便利なエネルギー源はなかった。代償を命に求めるってのは当時じゃ自然な考えさ……そして術は命を代償にするってことを前提にして開発されていった。だからまったく新しい術式を考えださない限り、過去の天才が作り上げた術を使う俺らには代償を払うことが必要なんだ。」

「……それと髪の毛がどうつながるんですか……?」

「いくら命を代償にっつってもな、人を救うために誰かを殺してんじゃ意味ねーぜって思った奴が昔いたんだよ。そいつは代償を抑えるために過去の術式を解読してもっと効率のいい形ってのを研究した。次第に代償は命から……例えば腕一本とか、指一本とかになっていったんだ。」

「すごい人がいるんですね。ヒステクラ・ポーみたいに。」

「ああ、切り離しの技術の奴か。そいつには全ての《お医者さん》が感謝してるだろうな。そして術を使う《お医者さん》はこの男の名を忘れないようにする。」

「男……?」

「パラケルススっていう男だ。こいつの研究のおかげで今の《お医者さん》は成り立っている。」「ぱら……す?」

「テオフラストゥス・フィリップス・アウレオールス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムってのが本名だ。こいつは代償を最終的に髪の毛まで縮小した。」

「髪の毛……」

「平均して髪の毛三十センチ。これが術を一つ発動させるのに必要な代償。一本で三十センチでも足して三十センチでもいい。とにかくそれくらいの髪の毛を代償にすることで術は発動する。だがまぁ中にはハゲの奴もいるからな。そういう奴はスーパーとかで肉とか魚を買ってきて代償にする。死んでるから髪の毛よりは量がいるんだけどな。」

「小町坂さんが髪の毛を長くしている理由は……術の発動のためですか。」

「つーか……俺の場合は術のほとんどが拘束系だから……普通の術よりも発動時間が長い。だから代償もそれなりでな、仮にスーパーとかで買ってくるとしたら費用が馬鹿になんねーんだ。なら髪の毛を長くしといた方がいいだろうよってことだな。」

 そこまで話した所で診察室のドアが開いて三人の男の人が入って来た。

「んああ……ことねちゃん、こいつら俺の弟子だったり生徒だったりの奴ら。」

「先生……なんすかそのテキトーな紹介……」

 先生ぐらい……一人は先生より上かもしれない。私よりは確実に年上の人たちだ。

「んじゃはじめっか。ホントならことねちゃんに経験して欲しいとこだが……今日のとこは俺の教え子を優先するぜ?」

「あ、いえ、お構いなく。私は見学ですから……」

 なんだか小町坂さんの生徒さんに睨まれてしまった。

「……気合入れろよ。今日の敵はすげーからな。」

 そう言いながらカーテンを開けた小町坂さん。そこには信じられない光景があった。

 壁一面に難しい呪文みたいな文字がびっしりと書かれ、床には魔法陣みたいなものがたくさんかいてあり、ろうそくが一定の規則で並んでいる。そしてその魔法陣の中心には髪の長い女の人がいた。

 椅子に座ってぐったりとしている。そしてその身体はロープでぐるぐる巻きにされ、椅子にガッチリと固定されている。その椅子も地面に打ち付けられているから女の人はそこから動けない状態だ。

「こ……小町坂さん……?」

「特Dランク……《ミスユー》にとりつかれた患者さんだ。症状は……『禁断症状』。」

「それって……麻薬とかをやっている人がなるって言う……」


 禁断症状。たばこやアルコール、麻薬などに依存する人からそれを取り上げた時に起きる症状だ。具体的にこれという症状は決まっていないけど、手が震えたり汗が止まらなくなったりする。さらに幻覚を見たり、常識的な価値観が欠如したりすることで他人に危害を加えることもある。


「《ミスユー》は別に厄介でも何でもない。だがとりつかれた患者さんがまずいことになる。まずまともに診察なんかできねーし術をかけようとすれば大暴れする。だから特例に指定されてる。」

 ……そういう特例もいるのか。

「さらに……普通、『禁断症状』は依存してるモノを与えればおさまるもんだ。だが知っての通り、ヴァンドロームは『症状』のみを発症させる……だから……抑える方法がない。家族とかも手を出せないから大抵の場合、《お医者さん》のもとに辿りつく前に死ぬことになる。この患者さんはかなり運がいい。」

 最悪なヴァンドロームだ。《お医者さん》のもとに行こうという考えさえ患者さんにはない。そんな状態の人を救うのは難しい。こんなに厄介な症状もないだろう……

「んじゃお前、切り離しやってみろ。周りの結界でヴァンドロームは逃げらんねーようになってってから。」

 小町坂さんのお弟子さんか、生徒さんか、どちらか分からないけど三人の内の一人が頷き、前に出る。その瞬間――

「ぐぅるああああああっ!」

 椅子に座っている患者さんが叫んだ。

「よこせ! よこせ! よこせよこせヨコセヨコセェェェェェッ!!」

「こ、小町坂さん!」

「言ってるだけだ、ことねちゃん。」

 小町坂さんは冷静だ。

「言ったろ? 別に何かに依存してるわけじゃねーんだ。何を与えようとおさまらない。ほれ、早く切り離せよ。」

 前に出た人は真剣な顔になり、銃のようなもの……サーモグラフィーを患者さんに向けた。


 切り離し。ヒステクラ・ポーという《お医者さん》が確立させた技術だ。『食眠』状態に入ったヴァンドロームには触れることもできない。だから『食眠』状態をヴァンドローム自身に解かせ、戦える状況に持っていく。これが切り離しという行為だ。

 その原理は難しいモノかと思いきやそうでもない。

 まず、ヴァンドロームが患者さんとつながっている場所を探す。基本的にヴァンドロームは口にあたる部分を患者さんの身体のどこかにくっつけ、『症状』を患者さんの身体に引き起こし、放出される『元気』を食べる。

 でも口をくっつけているわけだからいくらヴァンドロームが見えなくても触れている部分がどこかはわかってしまう。だからヴァンドロームは偽の皮膚をそこにはりつけ、偽装する。その完成度は非常に高く、目や感触で判断は出来ない。唯一、偽の皮膚は普通の皮膚よりも温度が低い。だからまずはサーモグラフィーで温度が低い所を探すのだ。


「ここか……」

 サーモグラフィーで場所を特定したあと、ポケットに手を入れて小さなタッパーを取り出したお弟子さんだか生徒さん。


 場所がわかった後はどうするか。簡単に言えば異物を食べさせる。口がくっついている場所に触れようとするとヴァンドロームは口を一時的に放す。バレないように。

 仮にそのままを維持しようとしても別の場所にくっつくし、それではヴァンドロームが「バレた」と気付いて逃げてしまう。だからどうしても、バレていないと思っていてくれている状態で『食眠』状態を解かせる必要がある。逃げることよりも食事を止めることを優先してしまうくらいの緊急事態に持っていくのだ。

 それが異物を食べさせるということ。くっついている所にこっそり異物を置き、『元気』と一緒に食べさせるのだ。そしてヴァンドロームが「なんじゃこりゃ!」と感じて驚く。それが『食眠』を解くことになり、切り離しとなる。

 それでは何を食べさせるのか。先生は「まずいモノだよ。」と言っている。実際そうだからなんとも言えないのだけど……

 人間で言えば苦いモノだ。口に入れて舌に触れた瞬間に「おぇ」ってなるモノのヴァンドローム版。その名も『エイメル』。何で出来ているかは知らないけど粉末状の物体だ。どこかにこれを生産している《お医者さん》がいるらしい。

 この『エイメル』を口がくっついている場所にパッパとやるだけ。それで切り離せるわけだ。何も難しいことはない……ように見えるけど実は一点だけ難しいことがある。それが『エイメル』の量だ。

 例えば人間は普段の呼吸で空気以外にほこりとかを吸い込んでいる。だけど気にならない。でもそのほこりが舌でその存在を感じ取れる程に大きかったらどうなるか。もちろん口から出す。

 ヴァンドロームの口は極めて敏感らしく、舌に触れる前に明らかに危険なモノは口内に入れないそうだ。舌に触れて初めて「おぇ」っとなるのでそれでは意味が無い。だから問題ないと判断できるくらいでかつ効果のある量を調節しないといけない。その量はヴァンドロームによって異なるし、同じ種類でも違うことがある。だからこればかりは慣れるしかないのだ。

 ……ちなみに先生は『エイメル』を使わなくても切り離せてしまう。


「……行きます。」

 もうめんどくさいからお弟子さんAと呼ぶことにしよう。

お弟子さんAはタッパーに入った『エイメル』を患者さんの皮膚の上につけた。その数秒後、蜃気楼のように、患者さんの背後の空間が歪んだ。

「ビュルビュルビュル!?」

 変な声と共に姿を現した特Dランクヴァンドローム、《ミスユー》。簡単に表現するなら赤いヘビだ。驚く程大きくもないし、小さくもない。普通にジャングルとかに行けばいそうなヘビだ。

 宙に浮いていることを除けば。

「ビュルビュル!」

 その場から逃げようと空中を飛ぶが、見えない壁にぶつかって患者さんのとこにはね返された。たぶん、これが小町坂さんの結界だ。

「いよし。んじゃ続けて倒してみろ。そんなに強くもないからよ。」

 小町坂さんはキセルを加えて笑っている。本当にたいしたことないヴァンドロームなんだろう。私がなんとなくホッとしたその時、左手が動いた。突然廊下側の壁をパンと叩いたのだ。私と小町坂さんは首をかしげた。


ドゴォォォン!


 一瞬にして、私の左手が叩いた壁が崩壊した。手の平を中心に直径二メートルくらいの穴が空いたのだ。しかしそれで事は終わらなかった。

 穴の空いた壁一面に小町坂さんが書くような呪文がびっしりと浮かびあがったのだ。私は何が何やらという感じだが、小町坂さんはその呪文を見た瞬間に表情を変えた。

「……っ! ふざけんな!」

 小町坂さんがそう叫ぶのと同時に、患者さんを中心に描かれていた魔法陣が消滅した。そして宙に浮いていた《ミスユー》が廊下に飛び出したのだ。

「結界が破壊された!?」

 お弟子さんAがそう叫んだ。小町坂さんも廊下に飛び出す。《ミスユー》を追いかけて。

「って、ちょ……」

 私は呆然と立っていたのだけど、左手が私を引っ張り、廊下に連れ出した。そして小町坂さんのあとを追う。


 一体何が起きたんだ!? 私の左手がやったのか? 何のために? 壁に穴をあけて……変な呪文を発動させて小町坂さんの結界を壊した。そうなると私の左手はあの《ミスユー》を逃がそうとしたことになる。なんで?


「ほぇぇー。」

 小町坂さんを追って廊下を走っていたらそんな声が聞こえた。角を曲がると小町坂さんが廊下に座り込んでいて、その向こうにもう一人いた。

「あ、ことねちゃん! このじいさん頼む!」

 そう言ってさらに先へ走っていく小町坂さん。私の意思で走っていたわけではなかったのだけど左手はそこで止まってくれた。

 どうやら走って来た小町坂さんにぶつかったようだ。杖を持ったおじいさんが倒れていた。

「大丈夫ですか?」

「ほぇぇ、おいしゃぁさんがはすってきたでぇ。びっくりだぁ。」

「えっと……ちょっとありまして……」

 私が手を差し出す前におじいさんは杖で器用に立ちあがった。

「あり? 看護婦さん、ここは一階じゃぁ……」

 看護婦さんか……まぁこの年代の人ならそうなるか……今私、白衣を着てるし。

「ここは五階ですよ。」

「ほぇぇ? まつがえたぁ。」

 一階と五階を間違えるとはなかなかのボケボケおじいさんだ。とりあえず一階まで連れて行ってあげよう。

「どうぞ、一階までお連れしますよ。」

「あれまぁ、すまんのー。」

 おじいさんの手をとり、エレベーターまで誘導、一緒に乗って一階を押す。

 エレベーターのボタンは六階まである。十何階もある建物だと一階のボタンの横に六階とかのボタンがあったりするから間違えることもあるだろうけど、ここは六階までしかない建物だ。ボタンは縦一列に並んでる。だから一階と五階を間違えるというのは……かなりすごい間違いなわけだ。

「おじいさんは……何かの病気で……?」

 あんまり詮索することは良くないとも思いつつ、あまりに面白い間違いだったので聞いてしまった。

「あっひゃっひゃ。ただの風邪じゃぁよ。」

「そうですか。」


 おじいさんを一階まで連れて行き、私は五階に戻る。さっきの部屋に行くと小町坂さんがキセルから煙をもくもく出しながら穴の空いた壁を眺めていた。

「あ……すみません……その……壁……」

 私は私の左手を横目に見ながら謝った。だけど小町坂さんは意外な反応をした。

「とんでもないよことねちゃん。ことねちゃんは俺とこいつらの命の恩人だぜ?」

「……はい?」

 小町坂さんが言っていることをお弟子さんAからCも理解できていないようだ。

「この壁に浮かんだ術はな、術を書きこんだ面から強烈な光を発するっつー効果を持ってる。もちろん懐中電灯やお日様みてーな光じゃない。攻撃力のある光だ。ヴァンドロームにダメージを与えるための日本のじゃ数少ない攻撃術式だな。」

「それがなんだと言うんですか……?」

 お弟子さんBが尋ねる。

「馬鹿。いくらヴァンドロームがいないと発動しない術っつってもヴァンドロームにしか効果がないわけじゃない。火の玉があたりゃぁ火傷する。あの術は《ミスユー》がいたから発動した術だが明らかに攻撃対象は俺らだったぜ?」

「なんでそんなことわかるんですか?」

 お弟子さんC。

「言っとくがな、この術式はマネすりゃ誰でも発動させられるようなモンじゃねぇ。日本の術の中でもかなり高度なモンだ。んなベテランが部屋の中を把握しないで術を発動するわけがねぇ。少なくともヴァンドロームがいるかどうかは確認しなきゃなんねぇ。つまりこの部屋の中を見てるはずなんだよ。」

「……それが……?」

 お弟子さんA。

「アホか。俺が《ミスユー》を結界で囲ってんだぞ? 中からはもちろん、外からも干渉できねーんだよ。あの術を発動しても肝心のヴァンドロームには届かねーんだ。それでも発動させたっつーことは……狙いは俺らだろ?」

「でも小町坂さん。確か壁は光らなかったですよ……」

「それはことねちゃんが壁を壊したからだ。日本の術式は何百字っつー文字を書くような術がよくあるがその内の一文字が変わるだけで目的の効果が得られない。壁が壊れたおかげで術は本来の攻撃術式じゃなく、結界を破る術式に変化したんだ。」

「……でもそれじゃあ私が逃がしたってことに……」

「死ぬよりはましだ。」

「え……死ぬ……?」

「ああ。さっきの術がまともに発動してたら良くて失明、悪くて死んでた。」

 プハーと煙を吐いてニンマリ笑う小町坂さんだけど私やお弟子さんたちは笑いごとじゃない。

結局ミスユーには逃げられちまったが……問題は攻撃してきた奴だぜ。《パンデミッカー》の連中は何考えてんだ?」

 一瞬、何で知ってるんだ? と思ったけど、《デアウルス》さんが《お医者さん》に知らせたらしいから知ってて当然か。

「普通に《お医者さん》の技術も持ってんのかよ……メンドクセー。」

「うぅん……」

 そこでこの場にいたもう一人、患者さんが目を覚ました。

「ん? 起きたか。ことねちゃんは帰ってこの事を安藤に伝えといてくれ。後始末は俺らの仕事だしな。」

「は、はぁ……わかりました。」

 こうして私は、急ぎ足で晴明病院を後にした。



 オレはあんまり長く聞いていたくない声を聞いていた。

『……という感じだ。安藤よ、気をつけろ。』

「……電話してくんのはいいんだが……別の人に頼んで伝えてもらうようにしろよ。」

『何故だ? 吾が相手では不服か?』

「声が怖いんだよ、《デアウルス》。」

 絵本を読んでたらあんまり鳴らない電話がなり、るるかと思って出たら受話器から聞こえてきたのはお化けみたいな声だったわけだ。

「それで……本題はなんだ? 《パンデミッカー》のあんまりわかってない動向を改めて伝えるために電話したんじゃないんだろ?」

『ああ。本題はお主の所に送った護衛の件だ。』

「えっと……ライマン・フランクか? まだ来てないけどな。」

『少々問題があってだな……』

「?」

『お主、自分が男であると証明しろと言われたらどうする?』

「……突然なんだ……?」

『もしくは、《オートマティスム》……溝川が女であることを確かめろと言われたら何をする?』

「なぞなぞか?」

『詰まる所そういう問題なのだ。あの魔法使いに関する問題は。本人は別に困っていないが吾らが困るタイプのな。』

「……らしくないな。なんだかあやふやに終わらせようとしてないか?」

『その通り。吾は知っているが教えぬ。その方が面白いのでな。』

「楽しそうだな。」

『楽しいぞ。お主とあやつの沈黙を破る者が現れ、事態は動いた。そこに新たな騒動。停滞よりも変動だぞ、安藤よ。』

「ちょ、おい《デアウ――」

 ……電話が切れた。意味不明な言葉を残して。

 《デアウルス》はオレが《ヤブ医者》になった時から何かと気にかけてくれている。あの人とあいつと仲が良かったらしい。

「あの人は顔が広いなぁ……」

「誰の顔が広いって?」

 独り言のはずが誰かが反応した。机の方を向いてる身体をくるりと回転させて後ろを見ると、診察室の入り口にるるが立っていた。

「キョーマ。あんた受付に呼び鈴ぐらい置いたらどうなの? 受付に誰もいないんじゃ診察受けに来た人が困惑するでしょう。」

 いつものように白衣で長い黒髪。いつも機嫌が悪そうな顔をしている。

「考えておく。んで、何しに?」

「『半円卓会議』から帰ってきてもうどれだけ経ってると思ってんの? アタシへの報告はどうしたのよ!」

「ああ……忘れてた。」

 そう言えば急にヴァンドローム絡みの患者さんが増えた理由を報告する約束をしてたな。

「あんたねぇ……」

 ため息をつくるるをとりあえず椅子に座らせ、オレはお茶を用意する。

「コーヒーはないの?」

「そんなオシャレな物はない。つーかるる、お前だってコーヒー飲めるようになったの最近じゃなかったか?」

「うるさいわね。」

 お茶を受け取るとゴクリとのどを鳴らして半分程を一気に飲んだ。結構熱いはずなんだが。

「さぁ、報告をしなさい。」

「……一つ確認するが、お前は《お医者さん》の知識を持ってはいるが技術がない《医者》ってことでいいんだよな。」

「そうよ。」

 るるは《医者》だ。だが《お医者さん》の世界も重要視してかなり勉強してるからそこらの《お医者さん》よりも知識がある。

「《パンデミッカー》って知ってるか?」

「風邪をひいてるのにマスクもしないで周囲に菌をばらまくアホのことかしら?」

「あー……確かにそういう意味合いでも使う言葉だが……これはとある組織の名前だ。ヴァンドロームを捕まえてそこら辺の人にとりつかせてる。」

「それが患者が増えた原因? つまり故意の現象だったってこと?」

「そうなる。」

「ま、そいつらの目的とかはどうでもいいわ。《医者》に影響はあるの?」

「連中にとって周囲の人間は《お医者さん》かそうでないかの二パターンしかない。ヴァンドロームを使って悪だくみしてる連中だからな、《お医者さん》を敵視してる。そうでない人はその他大勢ってくくりだろうな。《医者》だからなんかされるってことは無いと思う。」

「そ。」

 そう言いながら二口目でお茶を飲みほした。

「……その危険な連中は突然現れたの?」

「突然っつーか……昔もいたんだが二十年前に壊滅してんだよ。」

「なんで復活したのよ。」

「さぁ? 組織のメンバーを全員捕まえたわけじゃないからな。リーダー格ならともかく下っ端まで全てってのは難しいからな。生き残った奴らが復活させたのかもしれない。」

「つめが甘いわねぇ……」

 三口目を飲もうとしたが既に湯飲みの中が空っぽであることに気付いたるるはオレのお茶を奪って飲む。まぁよくあることだから特に何も言わなかったが。

「……そういえばあの子は?」

「ことねさんのことか? 今小町坂のとこに治療の見学に行ってる。」

「ふぅん……」

 るるは目を細め、どこかを見ながら何かを考える。髪の毛をいじりだしたから間違いない。

「……なんだ、今日はやけにのんびりだな、るる。」

「キョーマ……あんた――」


「すみませーん。」


 るるが何かを言う前に受付の方から声がした。

「安藤先生いますかー?」

 ん? オレの名前を知ってる人……? ライマン・フランクが来たのか? それとも《パンデミッカー》か? とか思いながら受付に行くとどちらでもないがちょっとびっくりする人がいた。

「あ、いた。」

「佐藤……えっと……」

「成美です。この前はどうも。」

 《アイサイト・イーター》にとりつかれていた患者さん、佐藤成美さんがそこにいた。

「えっと……なんでここに?」

「治療して欲しい人がいるんです。たぶん……ヴァンドロームでしたっけ。あれにとりつかれているんだと思うんです。」

「つまり《医者》の診察は受けてないってことかしら?」

 奥からるるも顔を出す。るるがオレを佐藤さんに紹介したから佐藤さんとは面識がある。

「あ、白樺病院の……」

「藤木よ。で、アタシの指摘は正解?」

「はい……」

 つまり、一般人でも明らかにおかしいと思う症状ってことだ。

「なるほど。んで……その人はどこに?」

「外にいます。」

 そう言って佐藤さんは一度外に出た。そして佐藤さんに引っ張られる形で現れたのは佐藤さんより少し背の低い制服を来た女の子だった。

「この子、私の後輩なんですけど……」

 佐藤さんが大学生くらいだからその後輩となると……高校生か。ことねさんと歳が近い感じだろうな。まぁ……ことねさんは小さいから二人並ぶとそうは見えないかもだが。

「先輩……あの、この人が……?」

「そうよ。私の目も治してくれたの。」

 ん? 目「も」? そう思って顔を良く見てみたら前髪で隠してはいるけど左目に眼帯をしている。

「オレは安藤享守。よかったら話してみない?」

 オレがそう言うとその高校生は疑わしげな視線を向けつつも頷いた。

 診察室に入り、オレは机に、高校生は患者さん用の椅子に、佐藤さんはその後ろに立った。そしてなぜかるるがベッドに腰掛けた。

「……るる?」

「久しぶりに見学させてもらうわ。」

 珍しいこともあるもんだ。いつもはセカセカと忙しそうなのに。

「よし……まずはお名前を。」

「はい……川口奈菜です。」

 声のトーンが低い……明らかに元気が無いな。

「……ちょっと握手してもいいかな?」

「え……?」

 川口さんは不安そうに佐藤さんを見る。佐藤さんにも握手の意味はわからないはずだが、こくんと頷いてくれた。それを見た川口さんは手を前に出す。オレはそれを握った。


 いい身体をしている。女性としてということではない。各部の筋肉がいい付き方をしている。アルバートなら見ただけでわかっただろうがオレは触れないとわからない。そう、川口さんは明らかに何かのスポーツをしている。髪の毛もショートヘアであり、長い前髪は眼帯を隠すためだけにそうしたのだと推測できる。

 個人的なイメージだがスポーツ少女ならばもっと元気があってもいいはずだ。それがこんな、誰の目にも明らかなほどに沈んでる。

 深く侵入しないとはっきりしたことはわからないが……かなりの量の『元気』を食べられているようだ。

 軽く目の方も調べてみたが……外的な何かは無い。つまり目が痛いとかそういうわけではなく、おそらく佐藤さんと同じように視界に問題が出ている。


「ありがとう。」

「はい……」

「さて……とりあえず症状を聞こうかな。その左目なんだよね?」

「そうです……」

「眼帯を外してもらうことはできる?」

「だ、だめです!」

 そこで川口さんが声を大きくした。んまぁ色々あるだろうし、実際に見るのは話を聞いてからでも遅くないか。

「わかった。なら……どういう症状か教えてくれる?」

「は、はい……」

 川口さんはうつむいたまま話を始めた。

「さ、最初は赤色とオレンジが見分けられなくなっただけだったんです。」

「赤とオレンジ?」

「はい。何故か左目だけで見ると見分けられないんです。右目は大丈夫なのに……それでその後はだんだんと緑系の色が見分けられなくなっていきました……」

「なるほど、『色覚異常』か。」


 色覚異常。色盲や色弱とも呼ばれたりする。後天的になることもあるにはあるが多くは先天的、つまり遺伝する病気だ。パターンとしては色がまったくわからない場合、赤緑系が見分けにくい場合、青黄系が見分けにくい場合とある。

 先天性の色覚異常は、これといった治療法がない状況だ。だが川口さんの場合はヴァンドロームの『症状』だから治る。

 問題はどのヴァンドロームで現在の進行度はどのくらいかということ。『色覚異常』を引き起こすヴァンドロームは実は結構いるんだな、これが。


「そ、それで……次は青色、黄色と……見分けられない色が増えていって……」

「今は?」

「……全部同じ色に見えます……左目は。」

「何色に?」

「……白……です。なんだが古い映画を見ているような……モノクロの世界です。」


 『色覚異常』を引き起こすヴァンドロームは種類によって最終的に向かう状態が異なる。視界が白で染まっていくということは……


「ふむ。Dランクヴァンドローム、《ホワイトアウト》……だね。」

「ヴァン……ドローム……」

 川口さんは佐藤さんを見た。それ受けて佐藤さんがオレに話す。

「あの、ある程度のこと……私が先生から教えてもらったことは全部この子にも教えました。《お医者さん》やヴァンドロームのこと……」

「それはよかった。説明する手間が省けて何より。ただ、あまり嬉しくない事実が一つある。」

「え……なん、ですか?」

 川口さんが不安そうにオレに尋ねた。

「進行度のことは聞いたかな? 今の川口さんはね、限りなくレッドに近いイエローという段階なんだよ。」

「レッド!? 先生、それって……」

 オレの言葉に反応したのは佐藤さん。佐藤さんは知っている……この進行度が何を意味するのかを。そしてそれを教えてもらったという川口さんの顔も青ざめた。

「はっきり言うけど、川口さん。」

「は、はい……」

「このままだと、君はあと二週間で死ぬ。」

 オレの言葉に川口さんと佐藤さんは息を飲む。ただるるはあきれ顔で呟いた。

「あんたねぇ……もうちょっとオブラートに包んで言いなさいよ……」

「ん? 関係ないさ、今日治すんだし。」

 笑って見せたものの……オレの中には疑問が一つ。それだけは解消しなければならない。

「川口さん……一つ聞くけど……なんでこんなになるまで?」

「すいません……でも……だって……」

 ……ただ《ホワイトアウト》がとりついただけなら、『色覚異常』が出るだけだ。たぶん、それなら川口さんだって病院に行った。それを行かなかったということは……人として、いや女性として見られたくなかったということ。外から見ても異常だとわかるような……左目を。

「その左目……『色覚異常』だから隠しているわけじゃないね?」

「……!」

「川口さん。オレがさっき言ったヴァンドロームは本当に『色覚異常』を引き起こすだけなんだよ。君の『症状』からそいつがとりついていることは確かだ。でも……外見に変化を及ぼすような奴じゃないんだよ。何か起きているなら……見せて欲しい。」

「だ、だめですよ……これをとったら……」

「何か起きるの?」

「せ、先生が……火傷します。」

 ……火傷……火傷? Dランクのヴァンドロームの『症状』が……攻撃力を持っているってことか? それじゃまるで……《パンデミッカー》じゃないか……

「こっちの目で何かを見ると……視界が一気に真っ白になって……気付いたら……左目に映っていた物が全部黒く焦げるんです……」

「すごいわね、それ。」

 るるが軽い口調だが真剣な顔で言った。

「それって、目からビームでも出てるってことじゃないの?」

「そ、そんな……」

「……るるこそ、オブラートに包めよ……」

「ビームをどう包むのよ。」

 しかし……つまりどういうことなんだ? 《パンデミッカー》が本能的能力制御……連中が言うところのリミッターを解除したヴァンドロームがその辺をうろついてる……?

 いや待て。《ホワイトアウト》の進行度がここまで来るには一年ちょいかかる。てことは……活動再開前の……準備として……? リミッターを外す練習でもしてたのか……?

「先生!」

 オレが考えていると川口さんがオレの両手を握った。

「な、治せるんですよね? 今!」

 ……そうだ。何よりもまずは治療だな。

「そうだね。それじゃ始めようか。」

 とりあえず倒しはしないで生け捕りにしたいとこだが……あいにくオレはヴァンドロームを留めておく術を持ってない。小町坂がいればな……

 かと言って逃げる可能性があるからなぁ……しょうがない……あれをやるか。

「えぇっと……ちょっと特殊な状態なんで……十分くらいかかりますよ。あと佐藤さん。」

「え、は、はい?」

「ちょうど佐藤さんが立っているあたりに出現するから少し離れていて下さい。」

「え!? こ、ここにいるんですか!?」

「《ホワイトアウト》はたいてい頭の真後ろにいますからね。川口さんはオレの方を見てて下さい。るる、ちょっと手伝えよ。」

「? 何をどうしろっての?」

「オレが合図したら川口さんの眼帯をとってくれ。」

「だ、駄目ですよ先生!」

「大丈夫だから。」


 接続。開門。強制介入。侵入。反撃……クリア。抗体……クリア。展開。解析。把握。

 強制上書き。強制認識。強制実行。

 加えて、命令。拘束。


「……るる、頼む。」

「はいはい。」

 るるが眼帯をとる。そこにあったのは勿論川口さんの左目。ただし、少しおかしい。目は白い部分、ちょっと茶色っぽい、人種によっては青だったりする部分、黒い部分という感じで色分けされてるんだが……今の川口さんにはその茶色っぽい部分がない。いや、あるんだろうけど色が白い。つまり瞳の部分以外が真っ白なのだ。白目をむいた人間の目にマジックで黒い点をぽつんと描いたような……そんな目だった。


 治療を続けること七分ほど。そこで佐藤さんが小さな悲鳴をあげた。

「せ……先生……」

 さっきまで佐藤さんがいた場所、川口さんの頭から少し上の空間が歪む。歪みに段々と色がつき、やがてそこに一体のヴァンドロームの姿を描き出した。

 かなりグロテスクな姿。《デアウルス》ほどじゃないがこれを可愛いとかカッコイイとか思う人は確実に常軌を逸している。内臓に小さな手足がついたような容姿の生き物がそこにいた。そいつは一切身動きせず、浮いていた場所から落下して診察室の床に転がった。

「……ちょっと異常な『症状』だったからね……捕まえて専門家に見てもらう。」


 さらに治療すること三分。ヴァンドロームを切り離したから本来ならここで終わりだが……目に異常が残っていたら困るので調べる。


「……ふぅ。」

 治療終了。オレは川口さんの頭をポンとたたく。

「お疲れ様。鏡を見てみな。」

 未だに左目をぎゅっとつぶっている川口さんはポケットから手鏡をとりだした。さすが女の子。

 鏡に自分の顔を映し、おそるおそる左目を開いた。

「――! 治ってる!」

 今までの沈んでいた表情がうそのように消え、満面の笑みになった。

「先生! ありがとうございます!」

「うん。オレにお礼を言うのはまぁ、間違ってないかもだけど、佐藤さんにもお礼を言うんだよ。命の恩人と言っても過言じゃない。」

 オレの言葉を聞き、川口さんは佐藤さんにもお礼を言う。というか泣きながら抱きついた。


 佐藤さんと川口さんを見送り、オレは診察室に戻る。

「んで、これは?」

 るるが床に転がる《ホワイトアウト》を指差す。

「まだ生きてんでしょ? 実験でもすんの?」

「いや、死んでるよ。死んでるに等しい。」

「?」

「人間でいうところの植物状態にしたんだよ。一度こうしてしまったらもとに戻す術はない。少なくともオレには無理だ。」

「意味無いじゃない。生命器官がほとんど停止してるなら……」

「それでも灰にするよりはマシ……だ。」


 その後るるも帰り、一件落着かと思ったんだが……ことねさんがずいぶん慌てた様子で帰って来たのだった。



 私は驚きが連続しすぎて困った。小町坂さんのとこでの事を一刻も早く先生に伝えないといけないと思って走って帰ってきた。そしたら先生が診察室でガラスのケースに入った謎の物体を見つめていたのだ。

「……先生?」

「お帰りことねさん。どうしたの? 肩で息してるけど。」

「えっと……それよりもそれはなんですか……?」

 先生が見つめていた物を指差す。

「ああ……《ホワイトアウト》。ちょっと大変なことになってたから捕まえた。さっき専門家に電話したから明日には持ってってくれると思う。かなりグロいけど一日だけ我慢してね。」

「はぁ……そうですか……」

 まぁ詳しい話は後で聞くとして、今はこっちの方が大事だ。

「先生、実は小町坂さんのとこでですね……」

 私は小町坂さんのとこで起きた事の一部始終を話した。話してる間、先生はびっくりしたり困ったりと色んな顔になったけど……おじいさんの件で眉をひそめた。

「――ってことがありました。」

「……とりあえず無事でなにより。《オートマティスム》に感謝だね。」

「は、はい。」

「そして……うん、たぶんそのおじいさんが犯人だよ。」

「……え……?」

 先生は人差し指を立てて話しだした。

「小町坂の病院は一階から四階が《医者》のテリトリーとなっている。だけど風邪みたいにそこまでまずい症状でないのなら一階で診察するんだよ。一階で済む症状の人は階を間違えるどころかエレベーターに乗る必要がないんだよ。」

「……! 言われてみれば……そうですね。」

「まぁ興味本位で五階に来て見学してたら医者が来たからなんとなく嘘ついちゃったって可能性もあるけどね。この前来たカールっていう《パンデミッカー》みたいに姿を消せる敵だったのかもしれない。でも一つだけ、明らかに変なとこがある。」

「それは……?」

「小町坂を見てお医者さんと言った事だよ。」

「……? 何でですか?」

「白衣を着てるならともかく、あいつはいつも和服でしょう?」

「それはそうですけど……だって小町坂さんは院長さんなんですよ? 知っててもおかしくないですよ。」

「仮に知っているとしたらそれはそう紹介された時のみだ。例え院の中を歩いてても医者には見えないし、ましてや院長とは思わないからね。そして、小町坂を院長として知っているのなら『院長さんが走って来た』と言うはずなんだよ。」

「そうでしょうか……」

「例えばことねさんがとある小学校で大人の人を見たらそれは教師かなと思うでしょう?」

「はぁ……まぁ。突然なんですか?」

「だからとりあえず先生って呼ぶ。だけどその人が校長先生とわかったら校長先生って呼ぶでしょう?」

「……まぁ……」

 なんだかうまく丸めこまれたような気がしないでもないけど……先生の言う事が的外れとも思えない。でもあのおじいさんが犯人だとしたら……

「《パンデミッカー》も高齢化が進んでいるんですかね。」

「さぁ……そのおじいさんが見た目通りの年齢とは断言できないしね。」

「え?」

「しかしまずいねぇ。」

 私が見た目通りでないという件を質問しようとしたら先生が呟きだしたのでタイミングを逃してしまった。まぁ、あとでいいか。

「《ミスユー》が《パンデミッカー》のもとにあるとなると……何をしでかすかわかったもんじゃない。」

「そう……なんですか?」

「連中はヴァンドロームを好きな対象にとりつかせる技術を持ってる。てことは、好きな相手に『禁断症状』を発症させることができるってことだ。例えば社会的にかなりの地位にいる人にとりつかせて事件を起こさせることができちゃうし……うまくやれば殺人だって可能だよ。」

「……確かにまずいですね。」

 例えばの話、テレビでインタビューを受けている人にとりつかせれば、その人は突然異常な行動を取るわけだからイメージがガタ落ちする。各国の代表が集まる会議でとりつかせれば、戦争だって引き起こせてしまう。

「何も起きなきゃいいんだけどね。」


 チリンチリン


 先生がため息をつくと同時に、なんだか風流な音がした。

「うん? 誰か来たね。」

「何の音ですか?」

「るるがね、受付に呼び鈴ぐらい置いとけって言うもんだから……とりあえず風鈴を吊るしておいたんだよ。」

 帰って来たときは気がつかなかったけど、先生の後について玄関に行くと確かに受付に風鈴が吊るしてあった。下に『ご用の方は鳴らして下さい』と書いてある。

 そして風鈴を鳴らした人が玄関に立っている。


「こんにチハ。」


少し発音がおかしい「こんにちは」だった。彼……彼女……? 中性的な顔立ちのその人は大きな旅行カバンを床に置いてお辞儀をした。

「今日からお世話になります、ライマン・フランクデス。」

 ファムさんほどではないけど、キラキラの金髪ショートカットにきれいな青い瞳。ベレー帽をかぶり、白いシャツにネクタイをゆるめにつけている。ズボンはスーツのそれなのでパッと見、『息苦しいパーティ会場から出て上着を脱いでネクタイをゆるめてリラックスしている人』みたいな格好だ。

「えっと……安藤先生でスネ?」

「うん、そうだよ。《デアウルス》から聞いている。ライマン・フランク……くん? さん?」

「であうルス? 誰ですか、そレハ?」

「……ああ……そうか。そりゃ、あいつが直接君に連絡したってことはないよね……なんでもない。」

「?」

「ま、とりあえずあがって。いろいろな話はそれからだよ。」

 持って行ってあげようとしたのだろう、先生が大きな旅行カバンを持ち上げようとする。しかしパントマイムをしているのかと思うぐらいに持ちあがらない。

「……何が入ってるんだ……?」

「術の道具デス。僕は東洋、西洋の両方を扱うので道具がたくさんあるんデス。」

「どうやってここまで?」

「術で軽くしていマス。僕にとっては軽くなるんデス。」

 そう言うと、ライマンさんは旅行カバンをひょいと持ち上げた。

「……」

 先生がおもむろにカバンの表面をなでる。

「ああ、なるほどね。あの眼球マニア、先生をしてるって聞いたけど、アメリカのスクールにいたのか。」

 先生が何やら呟いた。

 術を発動させるにはその場にヴァンドロームがいることが絶対条件だ。となると、あのカバンには小さいヴァンドロームが入ってたりするんだろうか?

ヴァンドロームは倒せば灰になるし、とりついていない状態での発見はほぼ不可能と言われているからその生態の研究はあんまり進んでないらしい。それでも多少はわかっているという事は専門に研究している人がどこかにいるということだ。きっと先生が呟いた……眼球マニアというのはその人のことなんだろう。

 意外と先生は顔が広いのかな?

「そうデス。眼球マニアがこのカバンをくれたんデス。」

 ……眼球マニアという呼び名が定着しているらしい……


 ライマンさんを私と先生がいつもご飯を食べている和室に案内する。

「たタミ! 憧れていまシタ。」

 正座をしつつたたみの表面をさするライマンさん。

「あ、そうだ安藤先セイ。」

「うん?」

「僕、敬語は苦手なのですが……先生は敬語で話して欲しい感じでスカ?」

「別にいいよ。」

「よかッター。」

 ライマンさんはふぅと息をはく。

「安藤先生って弟子を断り続けた人だから気難しいって噂だったんだヨネ。んじゃあ、軽い感じでいいんだヨナ!」

 ライマン・フランクさんは急にフランクになった。でも相変わらず発音が少し変だ。

「改めて自己紹介すルヨ。」

 膝の上に両の手をピシッとのせ、背筋を伸ばすライマンさん。

「僕はライマン・フランク。アメリカのスクールの三年せイダ。普通は三年生の最後に実技と筆記の試験を受けて卒業だけど、僕はそれなりに優秀な成績を修めてたから安藤先生のもとで学ぶという話がキタ。だから僕にとってはここでしばらく過ごす事が卒業の条件とナル。」

 なるほど。スクールは三年制なのか。

「成績優秀者には毎年こういった現役の《お医者さん》のもとで学べる機会が与えられるから、僕は誰のもとで学べるのかとワクワクしてイタ。そしたら《ヤブ医者》の一人のもとで学べるというからビックリサ! しかも《ヤブ医者》の中じゃ最も謎に包まれている上にとんでもない技術を持っている安藤きょウマ! ありがたいことダヨ!」

「そ、そうかい……」

 先生は照れる……というよりは困った顔をする。

「そして、僕の治療法は西洋と東洋のを融合した術シキ。特に日本独特の『拘束』という効果を他の術式に取り組もうと頑張ってるンダ。」

「へぇ、『拘束』を。」

「確か日本にはコッチノサカアツイヨっていうすご腕の《お医者さん》がいると聞イタ。その人にもあってみたイナ。」

「……小町坂篤人のことかな。」

「そう、ソレ。」

「え、小町坂さん? 小町坂さんてそんなに有名なんですか?」

 和服姿、キセル、長い黒髪。そんな単語が漂う人が?

「んまぁ、日本の術式を扱う《お医者さん》の中じゃ頂点に位置するんじゃないかな。いくら《お医者さん》の治療法が上下をつけがたいと言っても、同じ派閥の術を使うなら上下は生まれるからね。」

「……先生の周りってすごい人しかいませんね……」

「類はともを呼ぶ~かね。」

「……」

「ごめんなさい。変に自慢しないからそんな冷たい目で見ないで下さい。」

「あハハ。面白いナァ。というかその話から察すると、コッチノサカアツイヨと安藤先生は知り合いなノカ?」

「まぁね。ところで一つ聞いていいかな?」

「なンダ。」

 先生は困り顔でほっぺをポリポリかきながらこう尋ねた。

「ライマン・フランク。君は男の子? 女の子?」

 私も気になっていたことを先生が聞いてくれた。その質問を聞いてライマンさんはぶすっとする。

「見るからに男ダロ! どこをどう見たら女になるんダヨ。」

 ああ……男なのか。

「ごめんごめん。気に障ったかな。」

「……慣れテル。」

「だろうね……」

 先生がそう呟くとライマンさんは私を指差す。

「安藤先セイ。この子は誰なンダ? まさか弟子なノカ?」

「生徒であり、患者さんだね。」

「患者サン? とりつかれているノカ?」

 ライマンさんが私をまじまじと見る。

「ライマンくんはSランクって知ってる?」

「もちろンダ! 突然変異を起こし、生物としては規格外の能力を持ったヴァンドロームのこトダ! 大きく分けると二種類にナル。人間を遥かに凌駕する頭脳を持った天才か、知能は皆無だけどそれゆえにとんでもなく野性的なヤツ。現在確認されているのが十三タイ。いるかもしれないっていう段階のが二タイ。そんで、十三体の内の三体は《お医者さん》側にいるって聞いていルヨ。」

「三体?」

 私は首を傾げる。《デアウルス》さん以外にも二体いるのか?

「そうだね。その三体に加わるかもしれないもう一体ってのがとりついてるんだよ。」

「誰ニダ?」

「この子。」

 今度は先生が私を指差す。その瞬間、ライマンさんがザザザッと後退し、部屋の隅っこに移動した。

「ま……まさか、今騒がれてる『エイリアンハンド』!」

「その通り。溝川ことねさんだよ。」

「だ、大丈夫なノカ!?」

「別に問題ないよ。ライマンくんがことねさんの着替えとかお風呂を覗くと宇宙まで殴り飛ばされるだけだね。」

「先生……」

「き、気をつけルヨ……」


 そんな感じで軽い自己紹介は終了した。そしてその後、問題が発生。

「困ったね。ライマンくんのお部屋はどうしようかね。」

 甜瓜診療所の生活空間はそんなに広くない。先生の部屋、私の部屋(私が来る前は物置き)、和室があってその他はトイレとかお風呂だ。診療所に住み込みで働く環境としては充分な広さだけど、さすがに住人が三人となると狭くなる。

「大丈夫ダヨ。僕はこの畳にお布団をしいて寝るカラ。というかそうしタイ。」

「そう? まぁ……荷物の置き場所とかはおいおい考えていくとしようか。」

 そう言うと先生はキッチンの方に向かい、冷蔵庫を開けた。

「うーん……折角だから日本料理でおもてなししたいね。ちょっと材料を買ってくるよ。」

「あ、私行きますよ?」

「いやいや……今日、オレここから一歩も出てないからね。それに、二人は年齢近いからそっちの方が会話が盛り上がりそうだし……ライマンくんに色々教えておいて。」

 便所サンダルと白衣でスーパーに向けて出発した先生。あんな格好では警察に捕まりそうだけれど、心配はない。実はこの辺では先生は有名人だ。変な格好で出歩いていることもそうだけど、ケガした子供とかを見つけると《医者》として治療したりしているから人気があるのだ。たまにご近所さんからミカンをもらったりしてくる。

「安藤先生はいつもあの格好なノカ?」

 玄関で先生を見送ったあと、ライマンさんがそう尋ねてきた。

「そうですね。あれ以外は見た事ないです。」

「そうなノカ。ところで……年齢が近いって言ってたけど、君は何歳ナノ?」

「私は十七歳です。ライマンさんは?」

「僕は十八歳ダヨ。」

 ということは高校三年生。つまりスクールは専門学校みたいな物か。

「年しタカ。なら僕は君をことねと呼ぶことにすルヨ。」

 基本的に私は名前で呼ばれるけど……呼び捨ては初めてかもしれない。

「……一つ聞きたいんだケド。」

 言いながらライマンさんが和室に向かったので私もついていく。

「なんですか?」

「ことねは女の子だヨネ? 安藤先生は何か言わなイノ?」

 畳にあぐらをかきながらライマンさんはそう言った。


 ライマンさんが言わんとしていることはつまり、女の子なのに《お医者さん》を目指していることに対して先生が何も言わないのかということだ。

 女性は《お医者さん》に向かない。これはもはや常識だ。

 その昔、一般人からは魔法使いとか錬金術師とか言われていた《お医者さん》はそのほとんどが男性だったからそもそも女性がどうという話はなかった。

 でも、近代になって女性が《お医者さん》として活躍するようになり、ある事が頻発するようになった。切り離したヴァンドロームに取りつかれるという事件だ。

 切り離されたヴァンドロームはもちろん臨戦態勢をとるから、そこで『食べること』は考えないはずだった。だけど切り離した相手が女性の場合、ヴァンドロームはその食事の邪魔をした者を『始末したい』という考えよりも『食べたい』という考えの方が強くなってしまうのだとか。

 つまりはそれだけ、ヴァンドロームにとって女性はおいしいのだ。理由としては、女性……メスが子供を自分の身体に宿すかららしい。自分以外の命を体内に持つということは、その生き物が相応のエネルギー……『元気』を持っているという事になり、オスとメスでは『元気』の質が大きく異なるそうだ。

 そんなこんなで女性は《お医者さん》には向かないという常識が生まれたのだ。


「……私の場合、特殊ですからね。」

「といウト?」

「私の左手には《オートマティスム》……Sランクのヴァンドロームがいますから……他のヴァンドロームは私にとりつこうとは思いません。」

「アア……」

 一体の生き物に複数のヴァンドロームがとりつくことは別に珍しいことじゃない。だけど私の場合はありえない。先生に言わせれば、『世界最強の生き物の住処に土足で踏み込んだり、そいつのご飯を横取りするようなマネをする奴はいないよ。』だそうだ。

「――イナ。」

「え?」

 ライマンさんが、ここに来て初めて沈んだ顔になった。だけどすぐに楽しそうな表情に戻る。

「いや、何でもなイヨ。それよりも、この建物を案内しテヨ!」

「案内するほど広くないですけどね……」



「ポン酢戦争だ!」

 オレは近くのスーパーに入り、日本料理の候補として刺身を思いついたから魚コーナーに移動した。そこでオレは変な二人を見た。

 一人は長い黒髪に和服、下駄をはいてキセルを加えた小町坂。もう一人はなぜか白衣姿の小町坂の病院の看護師さんの一人、高木さん。

 気付かれないように遠ざかろうと思ったが、あいにくオレの白衣は目立つので……

「あ、安藤先生!」

「ぬぁ!? 安藤じゃねーか!」

 オレは軽くため息をつきながら二人のもとに移動する。

「……何してんだ、小町坂。」

「ポン酢戦争だ! 高木の奴がなぁ、カツオのたたきにしょうゆかけるとか言いだしやがったんだ。信じられるか?」

「何言ってるんですか! お刺身にはしょうゆって決まってるじゃないですか! 先生はお寿司をポン酢で食べるんですか!」

「馬鹿が! カツオのたたきだけはポン酢なんだよ!」

「何でですか! 安藤先生はどう思いますか!」

 話が飛び火した。ポン酢としょうゆ……つーかオレはポン酢自体あんま使わねーからなぁ。別にポン酢がマズイわけでもしょうゆがウマイわけでもないが……

「オレはしょうゆだなぁ……」

「ほらぁ!」

「また裏切ったか、安藤!」

「というか何でこんなとこで買い物してんだ? パーティーでもするのか?」

「そうなんですよ! この前やった戦争で先生が負けたから罰ゲームとして全額先生負担の立食パーティーするんです。」

「……カツオのたたきで?」

「いえいえ。お菓子部隊、お肉部隊、野菜部隊と色々なチームに分かれて買いに行ってるんです。あたしは魚部隊。そしたら先生が『俺も同行する!』って言いましてね。」

「この俺が和食のメインたる魚の購入に素人だけを行かせるわけないだろが。」

「またそうやって日本人キャラをアピールですかー? その格好だけで十分ですよ。」

「キャラ作りでこの格好なわけじゃねーよ!」

「え、そうなんですか?」

「え、そうなのか?」

「お前ら!」

「てか、何の戦争したんだ? ミートボールか?」

「んなのとっくに終わってる。この前やったのはデジタル戦争だ!」

「アナログ時計とデジタル時計の戦いです。」

 どーでもいい戦争が週一ぐらいで起きるのが晴明病院というところだ。


 ポンしょうゆ戦争は高木さんの勝利となった。そして、日本料理を振る舞う為に買い物にきたオレは、その専門家らしい(?)小町坂の意見を聞きながら食材を選ぶ。

「そういや、安藤。《ミスユー》の話は聞いたか?」

「ああ。」

「……そんで?」

「ああ?」

「いや、安藤よ……《パンデミッカー》に関しちゃお前の方が詳しいだろが。話を聞いてどう思った?」

「かなりまずいな。《ミスユー》の性質上……連中が良からぬ事を企むと考えるのが普通だ。」

「《お医者さん》にとりつかせるとか? 《ヤブ医者》とかよ。」

「それもあるかもだが……効率が悪いな。別に《ヤブ医者》が他の《お医者さん》を総べてるわけじゃねーし。」

「つーと……《お医者さん》全員に影響があるような奴に……?」

「そうなるかな。《お医者さん》の一番の悩みは知名度の低さだ。かといっていきなり発表しても混乱を招くだけってんでゆっくりと取り組んでる。《パンデミッカー》が突くとしたらそこだろうな。」

「どんな人が狙われるんですかね?」

 高木さんがひょっこりと会話に入ってくる。

「うん……高木さんみたいな人かな。」

「ええっ!?」

「ああ? なんでこんなチンチクリンがぼぁっ!」

 小町坂が高木さんのリバーブローを受けて悶絶する。

「なんであたしが?」

「……《お医者さん》の知名度を上げる為に動く人ってのはね、《お医者さん》に対してきちんとした理解を持っていて、その必要性を知っている《医者》なんだよ。高木さんはどっちかというと《医者》側でしょう?」

「そうですね。」

 高木さんは晴明病院でお仕事をするようになって《お医者さん》を知った人だ。小町坂とよく一緒にいるのはたまたま小町坂の仕事の補佐を任されたからだ。

「《パンデミッカー》にとっての障害ってのは《お医者さん》だけだからね。その存在を危うくする行動しかしない。そう考えると……狙われる人は、《医者》としてかなり高い地位で影響力を持っていて、かつ《お医者さん》への理解がある《医者》だね。」

 そういう《医者》が例えばその地位からおろされたりなんかしたら《お医者さん》の方に患者さんがまわってこなくなることだって起こり得る。『元気』収集のためにヴァンドロームをとりつかせてる《パンデミッカー》にとっては素晴らしい状況になるわけだ。

「となると……誰ですかね。」

「『半円卓会議』に出席してる《医者》って考えるのが妥当だね。少ないけど、《お医者さん》のことを理解してる人もいる。だけど、それくらいは誰だって考えるだろうし、そういう《医者》には常に警護する人間がいるもんだし。」

「へぇー。」

「そうなると……だいぶしぼれるんじゃないかな。オレにはそれが誰かはわかんないけどね。」



 吾はモニターの前にいる。画面に映っている人物はアルバート。

『ワシのテレビにこんな機能はなかったはずなんだがな! スイッチを入れたらいきなりその顔の登場、心臓が止まるかと思ったぞ!』

 こいつの心臓が止まるというのはかなりの衝撃だろう。吾の姿はそんなに衝撃的なのか。

『驚かせてしまったか。悪いな。だがお主のところの電話にかけるとお主の家の使用人が出るであろう?』

『なるほど。確かに電話口で聞くにはお主の声は怖すぎるなぁ、ガッハッハ!』

 ふむ。吾もアルバートも相手を『お主』と呼ぶ故、どうもおかしな会話になるな。

『安藤にこの前言われたばかりでな。それを考慮した結果、このモニターを使うことにした。』

『スッテンの奴が作ったとかいうあれか? ネットに繋がっていなくともあらゆるモニターとつなぐことのできる物だったか。ワシのテレビをテレビ電話にしてしまうのだからな、恐ろしい技術だ!』

 ガッハッハと笑うアルバートは暑苦しい姿だった。下着一枚でソファに座っており、全身に良い汗をかいている。運動だか筋肉トレーニングだかをした後、休憩もかねてテレビを見ようとした……というところか。その肉体からは湯気のようなモノが出ている。

『んんっ? どうした《デアウルス》。ワシをじっと見て。お主も筋肉を求めるか!?』

『思うに、吾の身体に筋肉という器官はないぞ。』

『ガッハッハ! 確かにな!』

 笑いながら何かをシャカシャカと振り、牛乳のような飲みモノをゴクゴクの飲むアルバート。

 どうも常に筋肉トレーニングをしているイメージだが……治療はいつしているのやら。

『……本題に入るぞ。』

『おう!』

『《パンデミッカー》に動きがあった。日本でな。』

『ふむ? 先ほど安藤の名前が出たのはその為か。何があった?』

『とある《お医者さん》が治療しようとしていた……いや、倒そうとしていたヴァンドロームが連中に強奪された。』

『ほう。』

『そのヴァンドロームは特例Dランク、《ミスユー》だ。』

『なるほど、それはまずいな。良からぬ事が起きるであろうな。ワシに何をしろと?』

『ある《医者》を護衛して欲しい。今現在、イギリスにいるのでな。』

『……『禁断症状』を発症されると面倒な立場であり、その立場でなくなるとワシら《お医者さん》に相応の影響がある《医者》……か。』

『物わかりが良くて助かるな。その通りだ。純粋な戦闘力で言えば、お主が適任であろう。』



 翌日。私は電車に乗っていた。

昨日は先生が買ってきた刺身でライマンさんの歓迎会をした。ライマンさんは刺身よりも刺身の下のツマに興味津津だった。

仕方のないこととは思うけど、フォークで刺身を食べる光景はちょっと面白かった。

今日、ライマンさんは先生の治療とかを見学するために診療所で普段私がやっていることを体験する感じになった。そこで先生は良い機会だからと言って私に詩織ちゃんの所に行く事を勧めた。

『半円卓会議』から帰ってきて一度も会ってないので、私は詩織ちゃんに会いに行くことにした。だから私は今、電車で鵜松明病院に向かっている。

「……でも私、鬼頭先生と一言も話してない……」

 いきなり行っても大丈夫なのかな。一応先生が連絡しておくって言ってたけど……

 そんな不安を抱えながら、外の景色を見ている私に誰かが話しかけてきた。

「溝川?」

 私を名字で呼ぶ人は少ない。誰だろうと思って振りかえると、そこには懐かしい……思いがけない…………誰だ?

「……?」

「おいおい、忘れたのかよ。俺だよ。」

「……?」

「だぁかぁら! 高校で同じクラスだったろーが!」

 よく見るとその人は私が通っていた高校の男子の制服を着ている。私が高校をやめたのは今から一年前、高校一年生の時だ。その時のクラスメート……なのかな。

「覚えてねーのかよ。坂本だよ。」

「坂本……」

 記憶にないなぁ。というか、男子の名前はほとんど覚えていない。

「溝川、いきなり中退すっからよ。びっくりしたんだぜ? なんでやめちゃったんだよ? 今、なにしてんの?」

 何をしていると聞かれると……治療と勉強だ。主にしているのは勉強だけれど……《お医者さん》の話を一般の人にしても信じてもらえない。信じてくれる人は実際にヴァンドロームにとりつかれた人だけだ。さて……何て言おうか。

「……」

「あ……まずいこと聞いちゃったか? わりぃ。言わなくていいぜ。」

 ……なんだか良い感じにまとまった。

「いやでも会えたのもなんかの縁だろ。メアド教えてくれよ。」

「……」

「いや、んな疑うような顔すんなよ。相変わらずだな。」

 疑うような顔になって当然だ。私はこの人を知らないのだから。会ったばかりの人に連絡先を教えるというのは少し抵抗がある。

 どうしようかなと考えていると、ケータイを取り出した坂本さんがびっくり顔になった。

「うぇ!? ケータイ、電池切れてんじゃん! なんだよ、くっそー……」

 坂本さんは、メアドはまた今度教えてくれと言ってケータイをしまった。どうしても知りたいのであったなら、紙に書くなり方法はあったと思うけど……そこまでして私の連絡先を知りたいわけではないのだろう。

「……ところで……」

「うん?」

 私は少々疑問に感じていることを坂本さんに尋ねた。

「こんな時間に通学って大遅刻ですよね。」

 現在の時間は十一時手前。学校では既に一時間目の授業がスタートしているはずだ。いや、二時間目かな。

「んぁあ。俺、昨日まで風邪ひいててな。さっき病院行って来て、治りましたねって言われたとこなんだ。だからこれから学校行くんだ。」

 そこまで行って、坂本さんが声のボリュームを下げてこう言った。

「俺はただの風邪だったけどよ、最近は変な病気が流行ってるみたいだぜ。」

「変な?」

「ああ。これっていう病気があるわけじゃないんだけどよ、学校で多いんだよ。突然耳鳴りが止まらなくなったり、肩こりがハンパなくなったり、腹が痛くなったり……意味不明だろ?」

 残念ながら、私にとっては意味不明じゃない。ヴァンドロームだ。たぶん、《パンデミッカー》の仕業。

「……その病気になった人って、女の子が多いんじゃないですか?」

「なんだよ、知ってんのか? 別に女子だけってわけじゃないけど、割合は女子が多いな。」

 やっぱりだ。ヴァンドロームが人間にとりつく時、好む対象は女の子で、学生くらいの年齢だ。学校という所は良い……えさ場だ。

 《パンデミッカー》は『元気』を収集するためにヴァンドロームをたくさんの人にとりつかせている。学校を選ぶことは充分ありえることだ。先生に報告しないと……

「ん、俺はここで降りるぜ。」

 坂本さんは以前私も利用していた駅で降りた。しかし、降りた瞬間に不思議なことが起きた。

「? 電話だ……」

 さっき電池が切れたと言っていたケータイに電話がかかってきたのだ。坂本さんは不思議そうな顔で電話に出た。どうやら相手は友人だったらしく、楽しそうに話しながら駅のホームを歩いて行った。

「……」

 ドアが閉まって再び電車が動き出した。私は左手を見ていた。



 鵜松明病院。藤木さんがいる白樺病院と同等の大きな病院だ。私はとりあえず受付に行く。

「すみません。」

「はい。どうしました。」

「えっと……」

 うっかり詩織ちゃんの名前を出しそうになったけれど、詩織ちゃんは別にここで働いてるわけじゃない。となると言うべき名前は……

「鬼頭先生に会いたいのですが……」

 受付の人は首を傾げ、いくつかの資料をパラパラとめくる。

「キトウ……キトウ……」

 聞き慣れない名前を聞いたような顔だ。もしかして、《お医者さん》はそれ専用の受付があるのだろうか。

 私と受付の人が困り顔でいると、受付の人の肩にポンと手が置かれた。

「わたしがやります。」

 受付の人よりも年上の……ベテランという感じの人が後ろから登場した。受付の人は「はぁ」と言って後ろに下がった。

「えっと……あなた。」

「は、はい。」

「あなた……《医者》? 《お医者さん》?」

 その質問に、後ろに下がった受付の人は意味がわからないという顔になったが、私にはわかる。

「《お医者さん》です。まだ卵ですけど。」

「そ。こちらへどうぞ。」

 ベテランらしき人がついてくるように促したので、私はその人のあとを追った。エレベーターに乗り、ベテランらしき人は地下一階を押し――地下一階?

「ごめんなさいね。」

 ベテランらしき人はそう呟いた。

「ここ、《お医者さん》の部署ができて五年しか経ってないのよ。だからイマイチ《お医者さん》関係の方の案内が整っていなくてね。」

「そうなんですか。……ここには何人の《お医者さん》が……?」

「三人よ。」

 地下一階に到着。少し暗い廊下を進み、一つの扉の前で止まる。

「鬼頭先生、お客さんです。」

「んー。」

 ベテランらしき人が扉を開け、私に入るように促す。

 広い部屋だった。ヘタすれば甜瓜診療所の総面積くらいある。だだっ広い部屋の隅っこに机とベッドがあり、反対側の壁に本棚と……大きな冷蔵庫がある。あれは業務用じゃないか?

「では。」

 ベテランらしき人は扉を閉める。私は隅っこの机にいる人物の方へ移動する。

「んー……『エイリアンハンド』か。さっき安藤から連絡があった。」

 椅子をくるりと回してこちらを向いた人は《ヤブ医者》、鬼頭先生。癖っ毛が目立つ……たぶん染めたんだろう、金髪に悪そうな目つき。白衣を羽織っているけどその下にはドクロのTシャツとチェーンのついたズボン。パッと見、ものすごい不良だ。

 というか白衣もなんか変だ。『半円卓会議』で見た時は普通だった気がするけど、今目の前にいる鬼頭先生が羽織ってる白衣は……なんかすごい。襟がドラキュラみたいにとんがって立っているのだ。横から見れば鳥のくちばしに見えるかもしれない。改造制服ならぬ改造白衣か。

 『半円卓会議』はあれで正式な会議だから……着て来なかっただけかもしれない。普段はこっちの白衣なんだろうなぁ。

だけど、そんな悪い印象の鬼頭先生が口にくわえている物はタバコではなかった。

「んー、んぐんぐ。」

 今回くわえている物は板チョコだった。

「えっと……」

 とりあえず、あいさつしないと。

「突然すみません。今日は……えっと……」

「んー、気にすんな。俺にもメリットがある。」

 鬼頭先生はコーヒーを飲みながらチョコをかじる。

「《ヤブ医者》とは言え、俺と安藤は別に友達じゃねーからな。知り合いって程度だ。だが俺はあいつの奇妙な技術に大いに興味がある。色々おしゃべりしてぇわけだ。そんな時に詩織と『エイリアンハンド』が仲良しになったときた。安藤とそれなりの接点を持てたわけだ。さっきの電話も初めての電話だったしな!」

 くっくっくと笑いながらチョコを飲みこみ、キャラメルを口に放り込む。

「っつーことで改めて自己紹介だ。俺は鬼頭新一郎。《ヤブ医者》だ。」

「え、あ、はい。私は溝川ことねです。先生……安藤先生のところで《お医者さん》の勉強をしています。」

『んで、その左手がー?』

「えっと……《オートマティスム》です……ってあれ?」

 鬼頭先生の声じゃない、なんだか高い声が天井から聞こえた。

「んー、今のは……俺のダチだ。」

 鬼頭先生が上を指差した。つられて見上げた私は、思わず尻もちをつくほど驚いた。

 いつの間にかだだっ広い部屋の天井いっぱいに巨大なモノが出現していたのだ。

 例えるなら巨大な蜘蛛だ。脚と眼がついている部分としっぽのような部分。実際の蜘蛛と同じ身体をしており、八本の脚が出ている。ただ、良く見ると八本の脚の内、後ろについている二本の脚の長さが他の六本よりも短い。それを踏まえて全ての脚を見ると、前の六本の先っぽは三本の爪がついている……いわゆる「手」だ。そして短い二本の先っぽは五本の爪がついている「足」だ。

 蜘蛛のように天井にへばり付いているからそう見えるけれど、おそらくこの生き物は六本の腕と二本の脚を持つ生き物なのだ。

 先生が前に言っていた、「腕が六本あってその一つ一つの長さが五メートルはある」生き物……その名は《トリプルC・LX》。特Aランクのヴァンドロームだ。

『おおー。お嬢ちゃんがびびっちゃったぜー。』

 笑いながら私を見る《トリプルC・LX》。蜘蛛のようだけど眼の数は八つでなくて二つだ。まるでロボットのように、しゃべると眼が赤く点滅する。

「んー、お前は見た目怖いからな。でけーし。」

『いやいやー。うちとしてはあんまり怖がられるとまずいんだぜー。お嬢ちゃんの感情が乱れると《オートマティスム》がうちを消してしまいそうだぜー?』

「んー? そうなのか?」

 鬼頭先生が私を見る。

「えっと……確かに前はそうでした。私が怖がるモノとかを吹き飛ばしたりしていましたけど……今は大丈夫です。」

 それをやるとさらに私が困る状況になるということを先生との生活で《オートマティスム》が学んだから……と、先生は言っていた。

『ほらなー。まずいだろー?』

 《トリプルC・LX》がケケケと笑った。

 ……本当に……鬼頭先生と《トリプルC・LX》は長年の親友のように話している。これが鬼頭先生の目指す共存の形……なんだろうか。

「んー? 不思議か? 俺とこいつの関係。」

「ええ……そうなんですけど……その……」

 ヴァンドロームとの共存を目指している《お医者さん》。それだけなら純粋にすごいと思ったのだけど……『半円卓会議』で、私は鬼頭先生の戦う姿を見た。あれは対人のモノではなくて……対ヴァンドロームの技術だ。仲良くなろうとしている人が倒す技術も身に付けている。

「……刀で戦う姿と今の仲のいい姿が……ちょっと。」

「んー、なるほどな。」

 鬼頭先生は手帳を開く。

「んー、詩織は午前授業で終わりだけど来るまではもうちょいかかるな。よし、それまで俺の話をしてやろう。」

 鬼頭先生はスタスタと業務用冷蔵庫に近づき、それを開けた。中には大量の……チョコレート菓子が入っていた。世界中の「名称:チョコレート菓子」と書いてある物は全て揃っているのではないかというくらいにたくさん。そこから新たな板チョコを持ってきて再び椅子に座った。

「んー、俺が目指すのは確かにヴァンドロームとの共存さ。だがな、共存っつー言葉に惑わされちゃいけねーぜ。『エイリアンハンド』……溝川は共存っつー言葉からどんな光景を想像する?」

 共存……たぶん、根本的に違う生き物が一緒に暮らすこと……だ。私の頭に浮かんだのはライオンとシマウマが仲良く踊る光景。

「えっと……みんな仲良く……ですか?」

「んー、なるほど。だがな、それは不可能だ。」

「へ?」

 共存を目指している人がそれを不可能だと言った。どういうことだ?

「んー……例えば人間。歴史を見ろよ。共存以前に、生き物としちゃ同じなのに戦争とかしてんだろ? もっと身近に学校とかでもよ、クラスメート全員と仲良くなれるか? いるだろう、一人や二人相容れない奴が。」

「はぁ……まぁ。」

「んー、つまりな、同じ生き物でもみんな仲良くすんのは無理なのに違う生き物でそれが出来るわけないって話なんだよ。結局、仲良くなれる奴とは仲良く、嫌いな奴とは関わらずっつーのが限界だ。」

 鬼頭先生の意見に反論したい気持ちもあった。だけど私が知りたい事はその議論の結論じゃない。

 そもそも、《お医者さん》っていうのはそれぞれがそれぞれの考え、アイデアを持って治療を行っている。どれが良いとか悪いとかは言えない世界だ。だから、鬼頭先生の意見を否定した所で何も起きないし、意味がない。

 これは、私が先生から教わった《お医者さん》としての心得の一つだ。誰かの考えを否定することはやらない方が良い。ヴァンドローム自体、まだまだ謎の多い生き物だ。だからどの治療法が良いかなんて誰にもわからない。私が否定したいと思ったそれが特効薬かもしれないのだから。

 だから私はとりあえず頷いて、私が知りたい事を聞いてみることにした。

「そう……ですか。えっと、鬼頭先生は……そういう考えのもと、ヴァンドロームとはどんな風に接するんですか?」

「んー、基本な、俺は出会うヴァンドローム全てに仲良くなろうぜって歩み寄る。だがそれが叶わなければ戦闘になる。要するに俺とは相容れない奴とは戦わなきゃならんわけだ。そういう時の為の……戦闘技術さ。」

 たぶん、大抵のヴァンドロームが鬼頭先生の申し出を断るだろう。だって、ヴァンドロームにとって人間はえさで《お医者さん》は唯一の天敵だ。

 だけど……そもそもその申し出の意味がわかるかどうかが問題だ。ヴァンドロームの全てが人間の言葉を理解しているわけじゃない。

「……Bランク以上は……その、言葉が通じますから仲良くなれるとかなれないっていうことがわかると思いますが……Cランク以下は……」

「んー、確かにしゃべれる奴よりは難しい。だが、犬や猫を家族と呼ぶ奴がいるだろう? 主人のために動く動物ってのも結構いるだろ? そんな感じに、仲良くなれる可能性は充分ある。とりあえず、初めて会った時には敵意を見せずにウェルカムする。それで警戒しながらも寄り沿うようなら仲良くしようと思う。家族と呼べる関係を築いていこうとする。だが噛みついてくるなら戦う。頑張れば仲良くなれるかもしれないが、時間がかかるし、それで確実に仲良くなれるとは限らない。それだけだ。」

 鬼頭先生はにやりと笑いながらそう言い、《トリプルC・LX》もケケケと笑った。

『要するに、申し出を受ければ生かし、断れば殺すってことだよー。最悪だなー。』

「んー、わかってねーな。いつの時代、どんな所でも、異なる文化、思想を持つ者同士の最初の接触は片方が一方的なんだよ。」

 一言で言えば、鬼頭先生はかなり厳しい考えの持ち主だ。とても現実的で効率的。

 でも……たぶん、この人も最初はこうじゃなかったと思う。最初は私が言った共存を目指していたと思う。それを本気で目指したから……こういう結論に辿り着いたんだと思う。

そして、現在そういう結論に辿り着いている鬼頭先生が目指す共存とは一体……

「……鬼頭先生が目指す……最終目標はなんなんですか?」

「んー、ヴァンドロームの国を作ることだ。」

「え……国ですか?」

「んー、例えば日本を見ろよ。日本はアメリカとかとまぁまぁ仲良くやってるだろ? だが中国とかはたまに衝突してくるだろ? 国と言えど、仲良い奴も嫌いな奴もいる。ヴァンドロームの国を良いと考える奴もいれば、何を馬鹿なと言う奴もいるだろう。だがそれでいい。良いと考える奴と仲良くやってけばそれでいい。俺はそういう形を目指す。」

『ケケケー。うちはその国の大統領になるんだぜー。すげーだろー。』

 きっと……私が《オートマティスム》を左手に住まわせているからこそ……なるほどと思うんだろう。普通の人が聞いたらとり合いもしないと思う。それほどのことを鬼頭先生は話している。

 こういう人が……《ヤブ医者》と呼ばれる人か。きっと技術だけじゃないんだな。

「……鬼頭先生が《ヤブ医者》として認められたのはそういう考えが理由ですか?」

「んー、違うと思うぜ。俺が《ヤブ医者》って呼ばれる所以はこれだ。」

 鬼頭先生は机の引き出しから一冊のノートを取り出した。三百五十五と番号が書いてある。

「それは?」

「んー……有り体に言えば研究ノートだな。これで三百五十五冊目。」

「三百……何を研究してるんですか?」

「んー……ヴァンドロームの趣味……かな。」

「趣味?」

「んー、つまりな。仲良くなるにはきっかけがいるだろ? 人間でも、同じ趣味とかだと仲良くなりやすい。要は仲良くなろうとしてるヴァンドロームの好きな食べ物とか、好きな遊びなんかを話題に出して、仲良くなるきっかけを作りてーんだよ。このノートには現在確認されているヴァンドロームの趣味嗜好を調べた結果が書いてあんだ。まだ全部はやってねーけどな。」

「すごいですね……」

 今知られているヴァンドロームは数百種類いるはずだ。それを全部調べようとしているっていうのか。

「んー、別にすごかねーよ。内容はちげーけど、ある事柄に関して全てのヴァンドロームを調べた《お医者さん》はいるしな。」

「へぇ……」

 まだまだ私の知らない……偉人がいるんだなぁ。



 ことねさんが鬼頭のとこに出発した後、オレはライマンくんの技術を見せてもらうことにした。彼の治療法は東洋・西洋の術式を融合した物ってことなんだけど……

「……ライマンくん、これは?」

「レモンダ。」

「これは?」

「おもちゃのロボットダ。」

「これは?」

「風せンダ。」

 とりあえず診察室に術式を作ってもらったんだが……何かの法則で並べてはいるんだろうけど散らかった子供部屋にしか見えない。

 まぁ、《お医者さん》なんてこんなもんか。

「あっちのスプーンがこっちの紙ヒコーキに繋がって、そこの歯ブラシと反応して積み木にパワーがこめられて、そのクレヨンからこの赤い風船に来マス。」

「全然わかんない。」

「だヨネ。だけど内容は問題じゃないんダヨ。効果は確かだから見てクレ!」

 ライマンくんはそう言って例のバカみたいに重いカバンからお札みたいな物を取り出し、術式の真ん中に置いた。

「あれは眼球マニアが作ったダミーダヨ。これで一応発動するンダ。」

「なるほど……どれどれ。」

 オレはライマンくんから一歩下がり、術の発動を見守る。

「おホン。ではデハ。」

 ライマンくんが両手を術式にかざす。

「バット東西、グット南ボク。魔の理に落下せよ、舞い上げられし訪問しャヨ。」


 術式を発動させる時に呟く言葉……呪文はただの飾りじゃあない。昔の人が確立させた術式という技術は代償、象徴、呪文の三つで成立する。代償は文字通り代償。昔は人の命だったりしたようだが、最近は髪の毛が使われる。象徴は小町坂とかが床とか壁に描く模様や言葉のことだ。呪文は今ライマンくんが呟いたようなモノ。

 この三つを簡単に言えば電卓だと小町坂は言っていた。電卓を起動させる為に必要な電気が代償。計算で使われる数字や記号が象徴。そして、電卓が導いた答えに意味を与えるための理解が呪文なのだとか。代償と象徴はともかく、呪文の概念は少し分かりづらい。

 電卓が出した答え、それはただ単に電卓が与えられた数字と記号から導いた数字だ。その数字を例えば代金の計算の結果とするのか、時間の計算の結果とするのか。その答えの数字に何かしらの意味があるからこそ、人は電卓を使う。

 つまり、発動した術式にどのような意味……効果を持たせるのか。それを決めるのが呪文だ。


「彼が望むは踏み出すちカラ。されどその力は彼の草原にあるだロウ。さもなくば、彼はその力を失ってなどいナイ。」

 ライマンくんがそう言うと、術式の中心に光が出現した。その光は徐々に形を変え、最終的には動物の姿になった。

「フー。見てくれ、安藤先セイ。これが僕の術しキダ。」

 現れた動物は……ライオンだった。ただし、後ろ脚がない。別にランプの魔人のように下半身が蛇みたいにニョロニョロしているわけではない。動物図鑑に載っているライオンの写真から後ろの脚二本を切りとったような姿だった。

「こいつは主に敵の動きを止めるのに使うンダ。このライオンの咆哮には日本術式の拘束の力があるカラ。まー……まだ拘束力は弱いけドナ。」


 呪文はその術式の効果を決定するモノだ。だけどどんな風にも効果を変えられるということではない。

術式は代償、象徴、呪文で成立する。代償は別に何でもいい。だが象徴と呪文にはそれなりの繋がりが求められる。ヴァンドロームを『攻撃する』術式に『防御』の効果は持たせられないわけだ。

では呪文は何を決めるのか。簡単に言えば形だ。

例えば、敵を攻撃する術式を発動させたとする。代償を変換して象徴が生み出した攻撃するためのエネルギー。このエネルギーをどういう形で敵にぶつけるかは自由だ。

炎をイメージすれば火の球になり、剣をイメージすれば光の剣になる。火で攻撃するなら、敵が負うダメージは火傷とかだ。対して剣なら切り傷になる。呪文が効果を決めるとはそういうことだ。

だから、発動させる人によっては同じ術式でも少し効果が変わることがある。《お医者さん》一人一人に個性が出るのはこういう理由もある。

 ライマンくんは、東洋……日本の拘束系の術式と他の術式をくっつけた術式を発動させ、それにさっきの呪文で後ろ脚のないライオンの形をとらせた……というわけだ。


「……オレは術のことを知ってはいても理解はしてないから……なんとも言えないけど……」

「ウン?」

「運のいい事に、日本の拘束系でトップクラスの実力者が近くにいるからね。そいつから色々学ぶといいよ。」

「もちろん、そのつもリダ。」


 チリンチリン


 風鈴の音がした。誰か来たようだ。

「はいはい、ただいまー。」

 玄関へ行くと、そこにはメガネの女性が立っていた。

「度々……すみません。」

 佐藤成美さんがぺこりと頭を下げる。

「いや……別にいつ来てもいいんですけどね。今日はどうしたんですか? また身近な誰かがとりつかれました?」

「いえ……今日は、この前伝え忘れた事を言いに来たんです。」

 ひどく申し訳なさそうな佐藤さん。思うに、二度手間になったことを気にしてるんだな。まじめな人だ。

「伝え忘れ……? まぁ、立ち話もあれだからね。どうぞ入って下さい。」

「あ、はい。」

 オレは佐藤さんを居間に案内する。すると佐藤さんが目をパチクリさせて尋ねた。

「えっと……あっちの部屋じゃないんですか?」

 そう言って佐藤さんが指差したのは診察室。

「とりつかれたわけでもなく、何か病気なわけでもないんでしょう? なら佐藤さんは普通のお客さん。居間に案内するのが自然かと思って。」

「はぁ……」

「それに、診察室は今……散らかってるから。」

 テーブルをはさんで二人とも居間に座った……ところで気付く。いつもならことねさんがお茶をいれてくれるんだが今はいない。

「オオ? 安藤先生、その人はだレダ?」

 ライマンくんがひょっこりと顔を出す。そしてオレと佐藤さんを交互に見てポンと手をたたいた。

「わかッタ! 僕は飲み物を出せばいいんダナ!」

 スタターと台所へ姿を消すライマンくん。どうやら彼は心が読めるらしい。

「えっと……」

 佐藤さんが困り顔でオレを見る。

「ああ……あれはライマン・フランクくん。まぁ……研修医みたいなモノ……かな。」

「そうですか……」

「さてそれじゃ……話を聞きましょうか。伝え忘れたことって?」

「あ、はい。えぇっとですね……」

 どこから話そうか考えている感じでしばらく沈黙した佐藤さん。そのわずかな沈黙の間に、オレと佐藤さんの目の前に牛乳の入ったコップが置かれた。

「よっこいショ。」

 おじいさんみたいなセリフを言いながらライマンくんも座る。畳だからか、正座をしようとするんだけど身体がぐらつくライマンくんだった。

「その……安藤先生に会いたいっていう人がいるんです。」

「オレに?」

「私が通ってる大学には医学部があってですね、そこの教授の……並木教授っていう人です。」

「教授さんか。」

「実はですね、ヴァンドロームにとりつかれたとき、私が最初に行ったのは白樺病院じゃなくて、うちの大学なんです。キャンパスが同じだったんで……折角あるんだしってことで。」

「なンダ。患者さんだったノカ。てっきり安藤先生の……えっと……オイラン? かと思っタヨ。」

「日本語が変とかそういうレベルじゃないな……花魁なんて現代日本で使われることはほぼないよ?」

「エエ!? 僕に日本語教えてくれた人が言ってたんだケド。」

 誰が教えたんだか……そして佐藤さんも微妙な表情だ。

「ああ、ごめんね。続きをどうぞ。」

「はい……えっと、大学にある……小さい医療センター……とでも言えばいいんですかね。そこで診察してもらったんですけど、私が症状を説明すると「なんだそりゃ」って感じの反応が返ってきまして……適当にあしらわれちゃったんです。」

「だろうね。」

 視界が食べられていくなんて……ふざけてるようにしか思えないもんな。

「でも私、その反応にちょっとムッとしちゃいまして……うちの大学の医学部の教授に片っ端から相談したんですよ……」

 片手を頭のうしろに持って行って照れる佐藤さん。治療した時はわからなかったけど、意外とアグレッシブな人のようだ。

 まぁ……診療所とか病院に来る人ってのは総じて元気がないからなぁ……その人の性格を知るには向かない場所だよな。来る人全員の第一印象が「沈んでる」なんて……よく考えたらすごい所だな……病院って。

「最初は……眼科なんでしょうか、眼の専門の人に話をしたんですけど笑われました。その後、専門外の教授にも話していったんですけど……怒られたり、笑われたり。でも一人だけ私の説明を真剣に聞いてくれた教授がいまして、それが並木教授だったんです。」

「ふむふむ。」

「並木教授の専門は……骨? らしいんですけど眼に関する資料とかを引っ張り出して相談にのってくれたんです。でもやっぱり並木教授にもわからなくて……それで大きな病院で診てもらう方がいいって白樺病院を教えてくれたんです。そうして藤木先生に診てもらって、安藤先生の所に来たんです。」

「そうなると、その並木さんは佐藤さんにとっては結構な恩人だね。元を辿ると。」

「そうなんです。だから安藤先生に治してもらった後、すぐに報告に行ったんです。治りましたって。その時のことなんですけどね――」


『治ったのかい。それはよかった。』

『はい。並木教授にはお世話になりました。』

『いやいや。それで……もし良ければだけど、結局どんな病気だったのか……聞いてもいいかい?』

『あ、はい……えっと……ちょっと特殊な病気だったみたいでして。白樺病院で専門の人を紹介してもらって、その人に治してもらいました。』


「ヴァンドロームとか《お医者さん》のことを説明すると長くなるので……そう言ったんですけど、その時、並木教授はすごいびっくりした顔をしたんです。」


『……専門の人……か。白樺病院は結構大きな病院だよ。優秀な医者が揃っているはず……そんな白樺病院でも治せないほど特殊な病気か……』

『あ、はい……そんな……感じです。』

『佐藤くん、変な事を聞くけど……』

『?』

『その、君の病気を治した専門家は……自分のことを《お医者さん》って言わなかった?』


「ん? その並木さんは《お医者さん》を知ってたのか?」

「いえ、そうじゃないんですけど……」


『え、知ってるんですか? 《お医者さん》のこと。』

『いや……知っているというか……わたしの推測だ。何度かね、偉い人が同席する……ま、パーティーみたいなのに出席したことがあるんだ。そこで偉い人が《お医者さん》って単語を口にしていたんだよ。最初は医者の呼び方程度にしか思ってなかったんだけど……あんな偉い人たちが自分たちをそんな……子供をあやす母親が言うような言い方で呼ぶかなと不思議に感じていたんだ。』

『はぁ……』

『そこである時思った。《お医者さん》と呼ばれる存在がいるとするなら、あの偉い人たちの会話が成立するんじゃないかってね。それで調べてみたんだけど……医者って言う集団の、上層部だけが知る特殊な医者がいるってことがわかったんだ。佐藤くんがかかったその病気は……きっとその特殊な医者だけが治せる病気だったんだね……《お医者さん》と呼ばれる医者だけが。』

『……そうです。病気と言うよりは……症状なんですけど。』

『……興味深いな。まさか本当にいたなんて。なぁ、佐藤くん。わたしをその医者に紹介してくれないか?』


「――ということがありまして、私は並木教授を安藤先生に紹介する……みたいな約束をしたんです。だけどあの後すぐに川口の目のことがあって……忘れてたんです。」

「なるほどね。」

 佐藤さんは牛乳を一口飲んでふぅと息を吐いた。

 しかしなかなか熱心な《医者》がいたものだ。《お医者さん》の存在に自分で気がつくとはね。そういう《医者》は大抵、《お医者さん》を認め、理解してくれる人だ。……《パンデミッカー》に狙われるような……《医者》だ。

「うん……わかった。別に会う事は構わないよ。ただ、オレは診療所があるから、ここから離れるのはちょっとね。並木さんに来てもらうことにはなるけど。」

「わかりました。というか、並木教授の連絡先をあずかっていますので……」

 そう言って佐藤さんは電話番号が書いてあるメモをオレに渡した。

「……逆の方がいいかもね。」

「はい?」

「オレの方から連絡するよりは……並木さんからの方がいいかもってことだよ。」

 オレは立ちあがって診察室に行き、電話の横に置いてあるメモを一枚切り、そこに甜瓜診療所の電話番号を書いて佐藤さんに渡した。

「《医者》が《お医者さん》の存在を知るっていうのは……結構大変なことなんだよ。」

「……?」

「ンン? なんデダ?」

 ライマンくんも不思議そうな顔をする。

「《医者》の性格にもよるけどね……考えてしまうんだよ。自分が今まで診てきた患者さんの中に、《お医者さん》が治療するべき患者さんがいたんじゃないか、自分は間違った処置を施したんじゃないかってね。」

 あくまで可能性の問題だし、しょうがないと言えばそれまでだが、命に関わることだ。特にヴァンドロームにとりつかれた場合、どんな症状だろうと行きつくのは患者さんの死だ。その事実を知って、自分のせいで死なせてしまった患者さんが実はいるんじゃないかと考えてしまう優しい《医者》は確かにいる。

「佐藤さんには悪いけど……並木さんにそのメモを渡して……こう伝えて。」

「はい……」

「あなたの日常が百八十度向きを変える程の事実かもしれません。それでも知りたいなら連絡して下さいって。」


 佐藤さんが帰った後、コップを洗いながらライマンくんがオレに聞いてきた。

「あの人は何にとりつかれたンダ?」

「《アイサイト・イーター》だよ。」

「ああ……Eランクノ。それは危なかったナァ。」

 コップを水切りに置いて診察室に向かうライマンくんについていきながら尋ねる。

「……どうしてそう思うんだい?」

「だってEランクダロ? スクールではこう教わったンダ。《お医者さん》にとって危険なのはSとかAランクだけれど、患者さんにとって危険なのはEランクだッテ。」

 散らかったロボットやクレヨンをカバンにしまうライマンくん。

「その理由は?」

「Eランクの『症状』は……大抵かルイ。Aランクとかだと結構深刻な『症状』だから患者さんはすぐに病院にイク。そして《お医者さん》の所に辿り着いて、治してもらエル。だけどEランクだと……気にしなければ普通に生活できちゃうような『症状』があるかラナ。ほっとけば治るだろうみたいな考えになりがチダ。だけどヴァンドロームがとりついたら、そのランク、『症状』に関係なく、最終的に辿り着くのは死ダロ? だからEランクが一番危ない……そう教わッタ。」

 ああ……そうか。そういやライマンくんは優秀な生徒なんだったな。それを真に理解しているかは別として知っていることが素晴らしいな。スクールはきっちり仕事してるようだ。

「うんうん。そうだね。」

 オレはなんとなくライマンくんの頭……の上にのってるベレー帽をポンポンと叩いた。

「……なにするンダ。」

 下から上目づかいでオレを見るライマンくんは……なんだか可愛い。女の子みたいだ。

その時、オレの脳裏に《デアウルス》の言葉がよぎる。


『お主、自分が男であると証明しろと言われたらどうする?』


「……安藤先セイ?」

 ライマンくんが不思議そうな顔をする。

「……ま……いいか。」

「?」

「いや、こっちの話だよ。ところでライマンくんは白衣を着ないの?」

「持ってはいルゾ。でも着るのは治療する時だケダ。逆に安藤先生はなんでいつも白衣なンダ? そのサンダルモ。」

「これはねぇ、オレの先生がいつもこの格好だったからだよ。白衣は違うけどこの便所サンダルは先生のなんだよ。」

「安藤先生の先セイ? そウカ。そりゃいルカ。今はどこにいるンダ?」

「あの人は死んだよ。そろそろ五年かな……」

「そうなノカ。んじゃあその格好をするのは先生を忘れないためとカカ?」

「そんなところかな。」

「ふゥン。」

 そこまで聞いてライマンくんは興味を無くしたのか、片付けに勤しむ。

「……深くは聞かないんだね。」

 ぼそりと、なんとなく呟いたオレ。それに対し、ライマンくんは背中を向けたまま答える。

「興味が無いンダ。きっとその先生っていうのは安藤先生を形作った大事なパーツなんだろウネ。だけど僕の前にいるのは安藤先生なンダ。注目するべきものは、安藤先生が安藤先生になった過程じゃナイ。未来の僕を形作るこの『安藤先生との出会い』なンダ。結局、安藤先生と安藤先生の先生は別人なんだから、今の僕に安藤先生の先生が関わってくることはないンダ。間接的な人間関係なんて存在しナイ。顔を合わせた相手こそが自分に影響を与える存在なンダ。」

 ライマンくんは少し真剣な表情でオレを見た。

「その人がどの家に生まれて、どんな出会いをして、どんな風に成長したノカ。そんなことはどうでもいいンダ。僕と対面しているのは家でも出会いでも成長の過程でもナイ。その全てを経て成った一人の人物なンダ。見るべきは今ダヨ。」

 なんだか……ライマン・フランクという人物の奥深くを垣間見た気がする。

 ま、人はそれぞれ……他人がその大きさを測れない何かを背負っているもんだ。オレはそれを知っている。そんなことを知ったってどうしようもないってことも。

 オレは……そんなこともあの人から学んだ。

「うん。同感だね。ごめんごめん。」

「……」

 ライマンくんが少し驚いた顔をした。


 チリンチリン


「ん? また佐藤さん?」

 ライマンくんと玄関に行くと白樺病院の文字が入った封筒を手にした高校生の女の子がいた。

 なぜ高校生とわかったかというと、ことねさんが前に来ていた制服と同じモノを着ていたからだ。つまりことねさんが通ってた高校の生徒さんなわけだな。

「えっと……ここなら不思議な病気を治してくれるって……」

「そうですよ。どうぞ。」



 鬼頭先生としゃべっていると部屋のドアが開き、詩織ちゃんが入って来た。

「せ、先生。遅くなりま――」

 私がぺこりと頭を下げると詩織ちゃんがものすごくワタワタした。

「こここここ、ことねちゃん!? な、なんで、こ、ここに、いる、んです、か!?」

「ちょっと手が空いたから来たんです。」

「ほぇぇ!? こ、こころの準備ができて、ない……」

 そんなオドオドワタワタの詩織ちゃんを見て鬼頭先生が笑いだす。

「おいおい、友達と会うのに準備も何もねーだろーがよ!」

『面白いなー。』

 《トリプルC・LX》もゲラゲラ笑ってる。

「んー、知ってるか溝川。こんな詩織でもよ、《ノーバディ》になると人格全然違うんだぜ。」

「せ、先生~」

 『夢遊病』だから……詩織ちゃんが寝ないとそれは見れないんだな。

「きょ、今日は、こ、ことねちゃんも一緒に、勉強する、んです、か?」

「んー……そうだな。」

 鬼頭先生は口にくわえたポッキーをゆらしながら考える。

「んーよし。折角来たんだからな、ためになることを学んで帰ってもらいてーしな。詩織は軽く復習になっけど、共存について教えてやる。」

 鬼頭先生がパチンと指を鳴らすと、《トリプルC・LX》の長い腕が天井から降りてきて、部屋の隅っこに置いてあったホワイトボードと折りたたみ椅子を私たちの近くに持ってきた。

 私と詩織ちゃんはホワイトボードの前に座り、鬼頭先生はマジックを持ってホワイトボードの横に立つ。

「んー、まずは確認だな。詩織にはなんか知らんが小さくなった《ノーバディ》が頭の中にいて、溝川は左手にSランクの《オートマティスム》。片や切り離せないような場所にとりつき、片や切り離したら死ぬ程の痛みが走る。つまり共存しか道はないわけだ。」

 私と詩織ちゃんは目を合わせる。

「んー、共存つってもな……実はある段階までは進んでんだよ。お前らは。」

「……どういうことですか?」

「んーっとな、共存っつーと必要なのは互いの理解だろ? お前ら二人はヴァンドロームのことを知らんかもしれねーが、ヴァンドロームの方はそうじゃねーって話だ。ほい、詩織、どーゆーことかわかるか?」

「え、えっと、わ、わたしの場合は、《ノーバディ》が、頭……脳にとりついている、から、わ、わたしの身体のことは、もちろん、考えてること、とかも把握、しているから、です。」

「んーその通り。例えば詩織がなんかの病気にかかったなら、《ノーバディ》にはその病気の進行度とか治療法とかもわかるわけだ。んで、何が好きで何が嫌いなのか。どんな時にどんな風に感じるのか。そーゆーことを全部知ってるわけだ。」

 鬼頭先生はマジックで私のことを指す。

「溝川はさっき言ってたな、お前が怖がったりすると《オートマティスム》が反応するってよ。脳にとりついてるわけじゃねーが……Sランクってのは『何でもあり』の代名詞みてーなもんだしな。溝川の趣味、思考、大抵のことを知っているはずだ。」

 鬼頭先生はホワイトボードに人と……なんかスライムみたいな物を描き、スライムから人へ向けて矢印を描いた。

「んーつまり、こっち向きの理解は既にできてんだ。あとはこっち向き。お前らからヴァンドロームへの理解だ。そこでまず知るべきは……ヴァンドロームにとって人間ってのは何なのかだ。これについては本人に語ってもらおーか。」

 そういって鬼頭先生は上を見た。

『そーだなー。うちらにとっての人間ってのはなー……』

 《トリプルC・LX》が語る。

『鶏だなー。』

 鶏? 鶏肉って言いたいのかな……

『『元気』を卵とするとそうなるんだー。要するに、うちらは卵が食べたいのであって鶏を食べたいわけじゃないんだー。美味しい卵を出してもらう為に『症状』ってゆーエサを鶏に与えて育てていくんだなー。』

「んー、つまりな。ヴァンドロームにとって俺たちは卵を産むだけの……いわばマシーンなわけだ。美味しい卵を出して欲しいからメンテナンスとかには気を使うが……マシーンに対して何らかの感情を抱く事なんてねーだろ?」

「そんなもんですか……」

「んー、でもだからつってまったく興味を持たないわけでもねぇ。例えばの話、卵を産んでた鶏がバク転をしたらどうよ、マシーンがしゃべったらどうよっつーことだ。」

『さすがにそうなったら興味を持たざるを得ないさー。もしかしたら話しかけちゃったりもするさー。』

「でも逆に言えば……ヴァンドロームが人間を『元気』を生むだけの存在以上に見るには鶏がバク転するくらいの何かがないと駄目ってことですよね……」

『そーだー。』

 そうすると……私の場合は、《オートマティスム》という作業員が常に『元気』を作り出すマシーンの前で寝泊まりしている感じなのだろうか。マシーンとしての性能だとか、欠点だとかを知りつくしてはいるけど……マシーンだから、それ以上の対象としては見ない……ということだろうか。

 なんとなく私が沈んだ顔をしていると鬼頭先生が笑ってこう言った。

「んーま、今のはあくまで普通ならって話だ。言っとくがお前らは違う。」

「え?」

「んー、今してる話の主役は詩織と溝川だろ? 一般論なんかあてはまんねーよ。ここで議論を進める……ヴァンドロームにとっての人間から、《ノーバディ》にとっての詩織、《オートマティスム》にとっての溝川ってな具合にな。」

「何か……違うんですか。」

「んー……大違いだ。甘くて美味いミルクチョコとカカオ九十パーセントのビターチョコくらい違う。」

 すごい例えだな。

「んー、連中からすりゃお前ら二人は家だぜ? 『元気』を生み出すだけの存在よりかなり上の存在さ。ホテルを渡り歩く奴と家を持ってる奴とじゃ住む場所に対する思い入れが違う。特に《オートマティスム》からしたら溝川は何百年……ヘタすりゃ何千年とかけてようやく見つけ出した安住の地だぜ? 溝川自身とは末長く、良い関係を築いていきたいと考えているはずだ。だから……最初の頃よりは暴れなくなったんだろ?」

 なるほど……でもそうかもしれない。結局、私が困るから暴れなくなったということは私と良好な関係でいたいという考えがあるからじゃないだろうか。

「現在の……連中とお前ら二人の状態は……そうだな。例えるなら同じクラスなんだが親しいわけでもない……だが嫌ってもいない……少なくとも迷惑をかけるようなことはしないクラスメイト同士ってとこか。話しかければ反応はしてくれる。ちょっと違うのは相手がお前らのことを知りつくしてるってことくらいだ。」

「……話しかけるってどうやって……」

「あ、あの、です、ね。」

 詩織ちゃんがわたわたしながら声を出す。

「わ、わたしは寝る、前とかに枕、もとに手紙を置いておき、ます。時々お返事、あり、ます。」

「へぇ、すごいですね。」

 手紙……でもそれは人格が交代するから出来ることだなぁ。私は……

「《オートマティスム》、さんは、しゃべったこと、ないん、です、か?」

「……一度だけ……」

「んー? あんのか。」

「えっと……《パンデミッカー》が来た時に……先生、安藤先生がその……捕まった感じになったんですけど、その時に……」

「んーだそれ! 聞いてねーぞ。んなことあったのか。」

「そ、それでなんて、言ってたん、ですか?」

「安藤先生は私にとって……なんだって……」

『それでー?』

「こ、答えたら……力をかしてくれました。」

「な、なななななな、なんて答えたん、ですか!!」

 詩織ちゃんが乗りだしてきた。

「…………恥ずかしいので秘密です……」

「ここここここここ小町ちゃんとことね、ちゃんと安藤先生、の三角関係!!」

 あー……またこの状態になった。というか小町坂さんは男だといったはずなんだけどなぁ。

「んー、一回会話をしたことあんなら……まぁ……とりあえず話しかけてみたらどうだ? その左手に。」

「え……自分の左手に話しかけるんですか……」

 変な人じゃないか。

「んー、別におかしいことじゃねーぞ。確か『エイリアンハンド』……普通の病気としての『エイリアンハンド』の治療法の中には勝手に動く手に話しかけるってのもあるぜ? 実際それで暴走が和らぐらしいしな。」

「初耳ですね……」

 結構大事なことなのに……先生は教えてくれなかったな。


 その後、色々な事を……学んだのかな? 途中からチョコレートの話になった気がするけど……

「……なんだか疲れたな。」

 甜瓜診療所に帰って来た私。なぜか玄関の所に先生が立っていた。

「おかえり、ことねさん。」

「……私の帰りを待ってたんですか?」

「いや……心配でなんとなくここにいるんだよね。」

「何の心配ですか?」

「……ライマンくんのおつかい。」

「……何のおつかいですか。」

「……今日の晩ご飯。」

「……そうですか……」

 なんの料理かわからないけど……今日の夜ごはんは面白いことになりそうだなぁ……

 私は先生の横に並んで先生が見ている方向を眺める。そして横目で先生を見る。

 ……今日、私が会ってきた鬼頭先生は《ヤブ医者》だ。実際、《ヤブ医者》の称号を得ている理由を垣間見た気がする。すごい研究をしていた。誰にでもできることじゃない。

 そして、今私の横に立つ人はその鬼頭先生が興味深いと言った《ヤブ医者》だ。

 私はすごい人に《お医者さん》を教わっている……のだろうか。この年中白衣で便所サンダルしか靴がない人に……

 謎が多い人だ。謎を知るための足がかりであるノートの解読はしている。スッテンさんのくれた辞書のおかげだ。

 もう一つの手掛かり……というか……これは単に聞くタイミングがなくて聞けてないのだけど……金属バットに書いてあった「きゃめろん」の意味……

「? ことねさん?」

「あ、はい……?」

「どうしたの、ボケっとして。」

 ああ……こんがらがってきた。私は頭をこつんと一回叩き、私の個人的な空気を変える為に先生に質問した。

「えっとですね……鬼頭先生と話をして思ったんですけど……《ヤブ医者》ってどうやって決まるんですか? 投票とかあるんですか?」

「昔はそういう方法もあったらしいね。けど今はオバケ電話がかかってくる。」

「……なんですかそれ?」

「ある日突然、『お主、《ヤブ医者》の称号を得る気はないか?』って電話がかかってくるんだよ。オバケみたいな声のね。」

「《デアウルス》さんじゃないですか。」

「そう。《デアウルス》はさ……移動速度はカタツムリ並だし《オートマティスム》みたいな念力みたいのも使えないけど確かにSランク……人智を超えた存在でね。あいつ、《お医者さん》やその卵は全員見てるんだよ。」

「……監視してるってことですか?」

「うーん……人間の感覚と同じで考えるとたぶんややこしいんだけど……把握してるって言った方がいいのかな。なんかすごいことをしてる奴はすぐに察知できる……みたいな。」

「怖いですね。」

「そうだね……そうやってはっきり言うことねさんもなかなかだけどね。」

「そうですか? あ、そういえば今日、高校時代の……クラスメートに会いました。」

「んん? 片想いしてた人とか?」

「……」

「ごめんなさい。」

「名前も覚えてない……あれ、もう思い出せませんね。まぁ、それはどうでも良くてですね。」

「ことねさん……」

「最近、学校でちょっと変わった病気にかかる人が増えてるそうです。割合的には女の子が多い感じで。」

「悪いニュースだね。るるあたりの力で《お医者さん》による健康診断みたいなのを行えたりしないかね。」

「……全員をサーモグラフィーで見るんですか?」

「うん……そうなるかなぁ。でもね、今は冗談みたく聞こえるけど現実になる日も近いかもよ?」

「?」

「オレに会いたいっていう《医者》がいてね。ちょっと脅しみたいなことを言ったけどたぶんその人は全てを知りにここに来るだろうね。」

「何の話ですか?」

「ご飯の時にでも話すよ。」

「オーイ。」

 ふと前を見ると、買い物袋……と壊れた傘をもったライマンさんがこっちに向かって歩いているのが見えた。

「いいもの拾っタゾ! こんなモノが道に落ちてるなんて、ここは良い国ダナ。」

「ライマンくん、それは……?」

「これと鉛筆削りをつなげればコンパスと連動できるンダ! これで木こりを作りやすくなッタ。」

「なんのことやらわからないけど……嬉しそうでなによりだね。おつかいはちゃんと出来た?」

「オウ! にんじんとジャガイモを買ってきタゾ。」

 ライマンさんが突き出した買い物袋の中を除いて先生はにっこりと笑った。

「うん、大根と里芋だね。今日の晩ご飯は煮物かな。」

「やッタ! 和風ダナ!」

 最初、先生は何を作ろうとしていたんだろうか。



 晩ご飯が大根と里芋の煮物だった日の翌日、朝早くに先生に電話がかかってきた。先生は何度か「本当にいいのか」ということを確かめた後、「了解」と言って電話を切った。

 その日のお昼頃、一人の男性が甜瓜診療所にやってきた。

 並木と名乗ったその人は、あの《アイサイト・イーター》にとりつかれた佐藤さんが通う大学の教授だという。

 《医者》という身ではあるけど《お医者さん》の存在に気付き、佐藤さんを通して先生に会いにきたのだそうだ。たぶん、《お医者さん》とはなんぞやということを聞きにきたのだろう。

 先生と並木教授は診察室で話を始めたので、私とライマンさんは和室に移動する。

「ことね、僕達は何をしていよウカ。」

「そうですね……」

 《お医者さん》の勉強……は先生の指導のもとでやるべきだし、教わった事を復習するって言っても道具は診察室だ。

「よし、お話しヨウ!」

「話……」


 ここ数日でライマンさんがどういう人なのかはなんとなくわかってきた。簡単に言えば、「日本好きの外国人がちょっとずれた知識を持ってやってきた」……そんな感じだ。

 この前のある夜、私はお風呂に入ろうと思い、脱衣所というか洗面所というか……とにかくそこの扉を開けた。すると中にはライマンさんがいた。ノックもせずに扉を開けた私はかなり失礼だとは思うが、先生が入ってないなら誰もいないという考えが染みついてしまっているのだ。

 ライマンさんはお風呂から出たばかりの姿……タオル一枚をまとっているだけだった。

 男の人の裸というモノに私が慣れているわけもなく、普通だったら悲鳴の一つもあげていただろう。だけどそうはならなかった。

 ライマンさんはタオルを女の人がするように巻いていたのだ。つまり、胸のあたりまで隠れるような巻き方だ。ライマンさんは男と言われれば男で女と言われれば女に見える顔をしているので、その時の姿は女の子にしか見えなかった。

「ンン? ことネカ。ちょっと待ってくれよ、すぐに出るカラ。」

「はぁ……ライマンさん、そのタオル……」

 私が指をさしながら尋ねるとライマンさんは待ってましたと言わんばかりの顔で答えた。

「気付いタカ! そう、日本の伝統的なお風呂上がりの姿ダヨ! 温泉に入った後などに、日本人はたった一枚の布を身体に縛り付けるそうじゃなイカ。しかもそのまま外にも出てしマウ! バスローブとは全く異なる新しい服そウダ!」

「一枚の布……温泉……それってもしかして浴衣のことですか?」

「そう、ゆタカ。」

「えぇっと……ライマンさん。浴衣はバスタオルでできてるわけじゃないですよ? 確かにあれは……一枚の布と言われればまぁ……袖のある布ですけど。」

「違うノカ!? 一枚の布でどうやって全身を隠すのか色々試してこういう形になったノニ。この格好は間違イカ!?」

「そうですね。」

「じゃぁ、正かイハ!? 僕もゆたかを着たいンダ!」

「ゆかたです。」

「そう、ゆタカ。」

 その後、先生にライマンさんをまかせてお風呂に入った私。出てきた時に見たモノは、普通のパジャマの上にハッピを着て楽しそうにしているライマンさんとそれを眺める先生だった。


「ライマンさん。」

「ンン?」

「えっと……スクールってどんな所なんですか?」

 ライマンさん自身のことはきっとその内わかってくる。だから聞かなければ知る事のできない事を聞くことにした。

「軽く先生からは聞いたんですけど……詳しく知りたいなぁと思いまして。」

「て言ってもナァ。みんなで教室に集まって黒板を使いながら先生が色々教えてくれるっていう形は、たぶんことねも知ってるダロ?」

「例えば……どんな授業があるんですか?」

「えっと……ヴァンドローム学、魔術学、人体学トカ。」

「すごい名前の授業ですね……怪しい事この上ない。」

「あ、みんなが大好きな授業があっタナ。」

「何ですか?」

「《お医者さん》ガク。今現在、もしくは昔にどんな治療法を持つ《お医者さん》がいるのかいたのかを学ぶンダ。術じゃない独特の治療法ヲナ。特に現在も活躍している人の治療法を学ぶ時はドキュメンタリーみたいなビデオを観るンダ。色んな《お医者さん》がいて面白かったナァ。」

「《ヤブ医者》も紹介されたりするんですか?」

「ウン。三人紹介されタヨ。爆弾を使う人とかいタゾ。」

「爆弾……」

 とんでもない《お医者さん》がいるものだ。

 でも……どんな治療法だろうとやっていることは同じだ。患者さんを救う。まぁ、ファムさんみたいに最初から《お医者さん》を目指していたわけじゃない人もいるけど、大体は人を助ける為に《お医者さん》になったはずだ。

「……ライマンさんは……どうして《お医者さん》に?」

 私がそう尋ねるとライマンさんはニンマリと笑って答えた。

「魔法使いになりたかったンダ。」

「魔法使い……ですか。」

「ことネハ?」

「私は……」

 少し考えてから私は答える。

「キッカケは左手に《オートマティスム》がとりついたことです。お父さんが《医者》だったので、私もそっちの道に進もうとしていたんです。まぁ……獣医さんですけど。そんなある日、私はとりつかれて……」

 私はあの日のことを思い出す。



 その日、私は家族といっしょにドライブに出かけていた。お父さんが運転する車で、お母さんとお兄ちゃんと私でちょっとした遠足だった。

 その頃私は左手に違和感を覚えていた。気付かない内に左手で何かを掴んでいることが何度かあった。だけどその時は、私の気のせいだろうと思っていた。今思えば、その時すでにとりつかれていたのだ。


 私たちはある橋にさしかかった。片側二車線で歩道も完備された大きな橋だ。下にはすぐそこにある海に合流する河が流れている。

 海を遠目に眺めつつ橋の上を走る車。

 橋の真ん中あたりに来た時、大きな音がした。

 私たちとは反対方向に走るとなりの車線で、一台の車が壁にぶつかったのだ。酔っ払いか居眠りか……とにかく壁に衝突した車はそこで停止した。その車の後ろを走っていた車は突然のことに対応できず、急ブレーキをかけたものの前の車に衝突し、乗り上げた。

 その乗り上げた方向やタイミングが最悪だった。その車は中央分離帯を越え、私たちが走る車線に飛んできたのだ。その軌道の先には私たちがいた。

 時間にすれば数秒なのだろうけど、五分くらいに感じた。ゆっくりと迫って来る車。私たちは全員が飛んでくるそれを呆然と眺めていた。

 ぶつかる。死ぬ。そんな言葉が脳裏をよぎった瞬間、とんでもないことが起きた。

 飛んできたその車が、何かに弾かれたように吹っ飛ばされたのだ。私たちがいる方とは真反対の方向に弾きとんだ車は、橋から数十メートル離れた先で河の中に落下した。

 《オートマティスム》が私を守ったのだろうけど、その時の私には何が起きたのかわからなかった。ただゆっくりと時間が流れていた。

 そして、事故はそれで終わらなかった。

 最初に壁に衝突した車をよけきれず、大きなトレーラーが横倒しになった。まるで映画のように、トレーラーは橋を支えている柱みたいな物を次々と破壊しながら滑って行った。

 車が揺れた。ビキビキというすごい音がした。

 そう……橋が崩れ出したのだ。ちょうど私たちがいる真ん中あたりに大きな亀裂が入り、横から見れば、ポッキリと折れた形で崩壊を始めたのだ。

 一瞬の無重力。私たちが乗っている車が亀裂の中に引き込まれていく。

 直前の現象のせいで私の時間感覚はゆっくりになっていた。だから落下していく時もゆっくりだった。

 怖かった。もしもあの時、私の時間感覚が普通の状態だったなら、一瞬のことにわけがわからず気付いたら水の中にいた……くらいのことで終わっていたと思う。だけど、実際はそうじゃなかった。

 ゆっくりと車が傾いていく。真っ逆さまに河へ向かって落ちていく。さっきの飛んできた車のこともあって、私の頭の中は死への恐怖で埋め尽くされた。

 その時、左手が脈打った。自分の心臓が左手に移ったのかと思ったくらいに大きな鼓動だった。そして間髪いれず、私の家族は車内から弾き飛ばされた。

 今ならわかる。あれは、《オートマティスム》が私の家族を助けたのだと。あのまま落ちていたら後ろから落ちてくる瓦礫とか他の車に潰される可能性があった。実際、私の家族は色々な物が落下していく水面からかなり離れた所に着水し、ケガ一つなかった。

 たぶん、あの時点で既に《オートマティスム》は私にとって家族がどういう存在なのかを知っていたんだろう。道行く他人はともかく、家族に何かあったら私の心にどういうダメージが与えられるのかを理解していたからこそ、家族を助けたんだ。

 でも、あの時の私はそんなこと知らない。私の視界から家族が突然消えたのだ。

 頭の中が真っ白になる中、私は変な浮遊感を覚えていた。いつの間にか車の屋根はなくなっていて、私は自分の左手に引っ張られる形で宙に浮いていたのだ。そのまま少し上昇して、橋の上から十メートルくらいの上空で停止した。

 目に映るのは落下していく車や人。耳に入って来るのは崩れる音と悲鳴。

 落下していく人の一人と目が合った。絶望の表情を見た。何かを叫ぶ口を見た。

 私は反射的に目をつぶり、耳をふさいだ。

 悲鳴に混じって……どこからか、妙にはっきりと声が聞こえた。

『怖いのか?』

 それが誰なのか、何なのか。そんなことは考えられなかった。ただ、質問の意味は理解できた。私はわけもわからず、その質問に答えた。

 怖い……と。

『見たくないのか? 聞きたくないのか?』

 私は答えた。見たくない……聞きたくない……と。

『わかった……』

 そこで謎の声との会話は終わった。同時に、私は左手に熱を感じた。

 火傷するような温度ではなかったけれど、何かが……左手に集まるのを感じた。

 あれはきっと、破壊を引き起こす力だったんだろう。私が怖いと感じた落ちていく人や車、崩れる橋を……消そうとしたのだ。あのまま左手に集まった力が放たれていたら、きっとあの場所からは全てが無くなっていたと思う。宙に浮く私を残して。

 だけどそうはならなかった。

 上空十メートルに静止する私のさらに上から、一人の男性が落ちてきたのだ。

 その人は私の左手を掴み、浮いている私にぶらさがった。そして何かを叫んだ。すると左手の熱が引き、糸が切れたように私とその人は落下した。

 私が悲鳴を上げた瞬間、その人は素早く私を抱きかかえ、そのまま……着地した。骨が折れて当然の衝撃だったのに、その人は平然と立ちあがり、私をその場におろした。

 その人は若い男の人だった。少し汚れが目立つ白衣と、古いトイレにありそうな便所サンダルをはいた……変な人だった。



「それでその後、先生からヴァンドロームのこととか《お医者さん》のことを教わって……今に至ります。」

「安藤先生、かっこいイナ。でも大変だったんじゃないノカ?」

「何がですか?」

「ことねのお父さんダヨ。《医者》は《お医者さん》をすぐには受け入れられないだロウ?」

「そうですね。最初の頃はゴタゴタしてましたけど……今は先生のことを信頼してるみたいですよ?」

「ふゥン。ことねのお父さんは……有名な《医者》なノカ?」

「いえ、普通の《医者》ですよ。外でお父さんの名前を聞いたことはないですし。」

「名前か……なんていうンダ? ことねと同じで名前は平仮名なノカ?」

「漢字ですよ。名前は――」


「――溝川吾朗――」


「そうです。溝川吾朗です――ってなんで知ってるんですか?」

「ことね、今言ったのは僕じゃなイゾ。」

 ライマンさんが診察室の方を指差した。先生が言ったのか? 確かに先生はお父さんの名前を知ってはいるけど……何で?

 私は診察室を覗いた。すると並木さんが私を見てこう言った。

「ほぅ……溝川先生の娘さんですか……」

「?」

 私はイマイチ状況がわからなくて先生を見た。先生は……何故か深刻そうな顔をしていた。

「先生?」

「ことねさん……ちょっとまずいことになったよ。」



 診察室にあるベッドの上に、私とライマンさんは座った。

「並木教授はね、《お医者さん》のことを調べる為にお偉いさんに聞いて回ったりしたんだって。その時にね……」

 先生が視線を並木さんに送る、並木さんはこくりと頷いて話しだす。

「わたしが《お医者さん》について質問するとね、まぁ大抵は『何を言っているんだこの男は』って顔をされるんだけど……時々知っているような反応をする人がいるんだよ。でもそういう人に詳しく聞こうとするとなんだかんだ理由をつけてはぐらかされるんだ。ま、今その理由がわかったけどね。《お医者さん》の世界の話は確かに《医者》にとって嬉しいものじゃないから。喜々と話せる内容じゃないんだね。」

 先生が言うには、プライドだとかがそういう反応をさせるらしい。

「それでもしつこく食い下がるとね……最終的に一人の《医者》の名前が出るんだよ。その《医者》に聞いてくれってね。それが溝川吾朗先生なんだ。」

「え? 《お医者さん》のことを知りたければ私のお父さんに聞けってことですか? なんでまた。」

 だってお父さんは《医者》だ。《お医者さん》に精通してるわけじゃないし……たぶん、知り合いの《お医者さん》は先生くらいだろうし。

「溝川先生はね……ここ最近、《お医者さん》の現状改善にすごい力を入れているんだ。」

「現状……改善?」

 私が先生の方に視線を移すと先生は腕組みをしながら答えた。

「つまり、《お医者さん》の知名度の低さだよ。」

「それの改善を……どうしてお父さんが?」

「きっかけはことねさんだろうね。」

「え?」

「よく考えたら当然の行動なんだよ。自分の娘がヴァンドロームとかいうのにとりつかれて、その謎の生き物とずっと戦ってきた《お医者さん》という存在を知った。ことねさんのお父さんは正義感とか責任感とか強い人だったからね。ヴァンドロームがあまり知られていない現状を危険視したんだよ。それで……行動を起こした。」

「溝川先生は、今や日本における《お医者さん》と《医者》のかけ橋になりつつある。」

「お父さんが……?」

 知らなかった。最初の頃はともかく、今では週に一、二回メールをする程度だからそんなことになってるなんて気付きもしなかった。

 お父さんもお父さんで何も言わないし……

「なぁ、安藤先セイ。」

 ライマンさんが足をぶらぶらさせながら尋ねた。

「今の話からは全然……マズイ部分を感じなかっタゾ? さっきマズイことになったって言ってなかっタカ?」

 そういえばそうだった。何がまずいんだ?

「……《医者》の身でありながら、《お医者さん》に対して理解を示し、一年足らずで有名になるほどに活動に力を入れている。そんな人が日本にいるっていうのを聞いたある人物がね、ことねさんのお父さんに会う為に近々来日するんだって。」

「ある人物?」

 その問いには並木さんが答えた。

「その人物の名はニック・フラスコ。《医者》の世界では《お医者さん》について最も詳しく……互いが協力して患者を救っていける世界を目指している人物です。」

「要するにね、ことねさん。《お医者さん》の世界に最も影響力を持つ《医者》ってことだよ。」

「! それじゃぁ……」

「まず間違いなく……《パンデミッカー》が狙うとしたらこの人だ。《ミスユー》を奪ったのはここ、日本だし、近々日本に来るっていうなら……ね。」

「なんだ……安藤先生はそのニックっていうのを知らなかったノカ?」

「うん……《ヤブ医者》って言ってもオレはまだまだ新人だからね。『半円卓会議』に出席する《医者》とか、長年《ヤブ医者》をやってる連中じゃないと知らないんじゃないかなぁ。言うなれば上の方での有名人。」

「なるホド。そんでやばいっていうのはつまり……そのニックってのが会いにいく相手がことねのお父さんってこトカ。」

「そういうこと。」

 私はイマイチわからなくてキョトンとしていた。

「つまりね、ことねさん。ターゲットであるニック・フラスコが会おうとしてることねさんのお父さんもまた、今後世界的に《医者》と《お医者さん》の関係を良くしていく立場になる可能性があるってことだよ。《パンデミッカー》からすれば……ことねさんのお父さんも邪魔な存在なんだ。その二人が一度に揃う場……同時に狙われてもおかしくない。」

「……お父さんが危ないってことですか……」

 血の気がひいていくのを感じた。心臓の音がやけに大きく聞こえる。

 頭に浮かんだのはこの前ここに来た高瀬や、『半円卓会議』に現れたブランドー。あんな……超能力者みたいな危険な人達が……お父さんを襲う……?

「《ミスユー》にとりつかせて何かをさせるかもしれな――ことねさん!?」

 私は走り出した。自分の部屋に行き、机の上に置いてある携帯電話を手に取って電話をかけた。もちろん……お父さんに。

『もしもし。』

「お父さん!」

『んん? どうしたんだことね。電話なんて珍しい。』

「お父さん! えっと……えっと……」

 私は焦りながら、確認しなければいけないことを聞いた。

「お父さん、……近々外国の《医者》と会う予定とか……ある?」

『? なんで知ってるんだ? 来週、大きなパーティーがあってな。《医者》と《お医者さん》の今後を真剣に考える人に大勢会うよ。中でもフラスコ医師という方がな――』

「お父さん、そのパーティーには行っち――」

『なんだ? ああ。わかった。あ、すまんことね。ちょっと急用が入った。また後でな。』

「お父――」

 そこで電話が切れた。私は急いでかけなおそうとしたけど、横から伸びてきた手が私の携帯電話をひょいととりあげた。

「!……先生。」

「ことねさん、落ち着いて。」

「返して下さい! お父さんが!」

 携帯電話を奪う為、私が手を伸ばすと先生はそれをするりとかわした。

「てい。」

「!?」

 そして何故か私の頭に軽くチョップした。

「ことねさんらしくないよ? 落ち着いて。まぁ、こういう時に落ち着き過ぎるのもなんだが嫌だけどね。」

「……」

「いいかいことねさん。確かにオレは言ったよ。まずいことになったってね。ことねさんのお父さんがニック・フラスコ共々襲われる可能性は高い。だけど……そう、パーティーって言ってたかな? それに出席しないのはもっとまずいんだよ。」

「……どういうことですか……」

「仮に欠席した場合……対処がし難くなるんだよ。カールみたいに姿を消せる奴もいるんだから、《パンデミッカー》はいつどこでだって襲えるだろうね。でもそうなった場合、一度に二人を襲うことはできなくなる。それにパーティーっていうんだから、たぶんことねさんのお父さんと同じ考えの《医者》が揃うんだろうね。なら《パンデミッカー》からすれば、そのパーティーに来た人間を全員始末したいわけだ。個別に狙うなんて手間は省きたいだろうしね。」

「……何が言いたいんですか……」

「パーティーに出席すればかなりの確率でパーティーで襲われる。でも欠席した場合、どこでいつ襲われるかわからない。出席する事は危険に飛び込むことだけど……それは守る側からすれば守りやすい状況だよ。そこで敵が来るとわかっているんだから。」

「だからって……!」

「気持ちはわかるけどね。最善はたぶん、この方法だよ。」

「……じゃあここでじっとしてるんですか……」

「……じっとしてるつもりなの?」

 先生は……ひどく無表情で淡々とそう聞いてきた。

「だって私は……まだ《お医者さん》の卵だし……《パンデミッカー》からお父さんを守るなんてできませんし……」

「……」

「それに……私が行くって言ったら先生も来ますよね……そしたらこの診療所が空いちゃいます……今は《パンデミッカー》のせいで患者さんが多いですし……それは良くないことですよね……」

「……」

「だから……だから! お父さんを行かせないことが! 私にできる……こと……なんです。」

「確かにね……《オートマティスム》がいるって言ってもことねさんはその力をコントロールできるわけじゃない。そして、そんなことねさんが行くと言うならオレも行くよ。ライマンくんも連れていくよ。診療所は空っぽだね。その間に進行度レッドの患者さんが来るかもね。」

 先生はそこまで言うと、私の頭にポンと手を置いた。

「でもね、自分の力不足だとか、他人の命だとかを理由にして家族の危機に傍に行かないなんてことはオレが許さないよ?」

「え……」

「まぁ……ことねさんのお父さんを危険な状態にしろって言ってるのはオレだけどさ。ことねさんのお父さんを守る面々の中にことねさんがいないなんてあり得ないよ。力量なんて関係ないさ。それに……他の患者さん? そんなモノは無視だよ。」

「無視……ですか。患者さんを……」

「オレは、他人を救う為に家族を無視するような奴に治療して欲しいとは思わないよ。」

 私はうつむいたまま、いつもよりトーンの低い先生の言葉を聞く。

「家族の危機は即ち自分の危機なんだよ。家族を失った時の一番の被害者は自分さ。極端な話、自分の行動が原因で赤の他人が死ぬのと家族が死ぬの……どっちが自分の心により深い傷を残す? これはかなり酷な選択だよ。どっちが正解かなんてきっとない。でも一人一人の中には確かな答えがあるんだよ。少なくとも、この場合のオレの答えは他人を無視して家族を救う道だ。そうしないと、結果として自分を救えない。」

 先生は私の頭から手を離す。顔をあげると、先生はにっこりと笑っていた。

「なんて……柄にも無く暗いこと言っちゃったね。大丈夫だよ、ことねさん。るると小町坂に協力してもらって、パーティーの日は患者さんがうちに来ないようにするよ。それに、ことねさんのお父さんはともかく、《デアウルス》がニック・フラスコのことを知らないわけはないから、対策をうっているはず。守りは万全に近いと思うよ。そこにオレ達が行く……これはマイナスにはならないさ。」

「じゃぁ……」

「その日はオレ達も現場に行こう。ことねさんのお父さんを守って、《パンデミッカー》をとっ捕まえよう。」

「……はい!」

「おーい、大丈ブカ?」

 ライマンさんが私の部屋にやってきた。

「うん、大丈夫だよ。」

 先生がにっこりしながら答えた。

「……先生。」

「うん?」

 先生はいつもの表情で私を見る。

「……いえ、なんでもないです。」

 ……今、私が聞きたかったことは……『先生のその考えは先生自身の考えなんですか?』ということだ。

 今の私と先生の会話にはまったく関係のない疑問ではある。私は今の先生の言葉を理解したし、共感する部分だってたくさんある。でも、その言葉を言っている時の先生がいつもの先生じゃないところが問題なんだ。

 先生は……基本的にのんびりとした人だ。熱血なわけじゃないし、冷徹なわけじゃない。だけど時々信念みたいなモノを見せる。暗い顔にもなるし、何かを思い出すような顔にもなる。

 だけど、普段私が見ている先生からはそういう先生は想像できない。

 きっと、そういう時……先生の心の中には『あの人』がいるのだと思う。先生という人に大きな影響を与えた……『あの人』。

 先生がいつもの先生で無くなる時にすること、言う事は……信条のような、個々が持つ独自の事柄であることが多い気がする。その人をその人とする大切なモノだ。

その内容をいつもの先生が言うなら問題はないんだ。だけど実際はいつもの先生じゃない。こういう言い方はあれだけど……『あの人』に支配された状態で言っている気がする。

 そんな風に考えた時、一つの疑問が私の中には生まれる。

 診療所、治療法、格好、信念とかの行動原理……それらが全部『あの人』のモノを受け継いだモノとするなら……先生は……『安藤享守』は一体どこにいるんだろうか……と。



 並木教授がやってきた日の夜、オレとことねさんとライマンくんはなんとも場違いな場所にいた。いや……ことねさんとライマンくんはどうかわからないが、少なくともオレはこんな所に来たことない。というか来れない……

「高級そうなお店ですね、先生。」

「オオ! 日本料理専門テン!」

 ことねさんのお父さん、溝川吾朗が危ないとわかり、例のパーティーがある日に甜瓜診療所に来る患者さんを任せたいと小町坂に連絡したところ、小町坂の奴が『飯食いながら話そうぜ』と言ってきた。そうして小町坂が指定した店に到着したところなわけだ。

「先生、お店の人が明らかに先生を不審がってますけど。」

「そうだね……」

 小町坂の名前を出したら中に入れてくれたが、店員さんの視線がなんだか痛い。

 店のかなり奥の方まで歩き、なんちゃらの間とか書いてある部屋に通された。

「来たか……って、やっぱりその格好か。」

「お前だって和服じゃねーか。」

「この店じゃあ正装さ。」

 鯛の尾頭付きってやつだろうか。魚が机の上にうようよ。高そうな刺身が並んでいる。片側にオレたち三人が座り、反対側に小町坂が座る。

「……バランスの悪いことだ。つかそのベレー帽のお嬢ちゃんは誰だ?」

「ライマン・フランクくん。スクールから来た……男の子だ。」

「ああ? 男? マジか……」

「安藤先生……この人は誰なンダ?」

 軽くほっぺたを膨らませてライマンくんが聞いてきた。

「小町坂篤人。君が会いたがってた日本系術式の頂点だよ。」

「オオ!」

「……? まぁ、とにかく本題を話しちまうか。」

「別に電話でもよかったんだが……」

「いや……《ミスユー》絡みとなると俺にも責任があっからよ。詳しく聞いときたいんだ。」

 そんなこんなで、現状を小町坂に説明するオレ。その間に運ばれてきた料理を楽しむライマンくん。ことねさんは魚の骨を取ってあげたりしていた。


「……ふむ。」

 小町坂は全ての話しを聞き、こんなことを言った。

「安藤、思うにお前らだけじゃ無理だぞ。」

「? どういうことだ?」

「いや……あー、語弊があるな。ある状況になった時にどうしようもなくなるって意味だ。」

「?」

「ヴァンドロームがとりついた状態でないと俺達《お医者さん》は何もできない。切り離しをして、戦う。《お医者さん》はヴァンドロームの専門家のようでいて実はこれしかできない。とりついていない状態のヴァンドロームがどう生活しているか……これは長年の謎だ。見つけることすら不可能とされているだろ?」

 ヴァンドロームが何かにとりつく前やとりつく瞬間を記録できた《お医者さん》は存在しない。時たまに、雪男が出ただの、エイリアンに遭遇しただのと世間で騒がれることがあるが、それの大半は奇跡的な確率でヴァンドロームに出会ったのだと言われている。

 普段のヴァンドロームは例えるならゴキブリだ。あいつらは確かに家の中に住んでいるのに、その家の主である人間があいつらに出会うのは稀だ。生きているのだから、家の中を歩き回っているはずなのに遭遇する確率は低い。透明なわけでもないのにそうなっているのは、人間の死角や物陰を巧みに利用しているからだ。

 ヴァンドロームはそんなゴキブリたちを遥かに超えるテクニックを持っていて、《お医者さん》たちの目から逃れていると言われている。

「つまり、《パンデミッカー》がそのニック・フラスコだかに《ミスユー》をとりつかせようとしている時、それを防ぐ方法は『《ミスユー》を放たれる前に《パンデミッカー》を捕まえる』か、『とりついた《ミスユー》を切り離す』かの二択だ。」

「まぁ……そうなるな。」

「で、問題はとりつかれてしまった場合の話だ。どうやって切り離す?」

「え……先生が普通に切り離せばいいんじゃないんですか……?」

 ことねさんが会話に加わった。

「俺は一度切り離しを行う段階まで準備したからわかるんだが……いくら安藤の切り離しがサーモグラフィーや『エイメル』を使う方法よりも遥かに速いっつっても……《ミスユー》の患者には無理だ。『禁断症状』の患者の暴れっぷりをなめちゃいけねー。この俺でさえ、拘束系の術式を四重にしてやっとだ。」

 小町坂は拘束系の術式使いでは頂点と言って過言じゃない。その小町坂が四つも術を重ねないと大人しくできないということは相当の暴れ具合というわけだ。

「……確かに、大暴れされちゃぁいくらオレでも切り離しに集中できない。」

「かと言って、この場合はとりつかれた状態が長ければ長いほど危ない。とりつかれた奴が周りの《お医者さん》を片っ端から殺してもおかしくない。それを止めようとするのを《パンデミッカー》が邪魔するとなったらもう無理だ。」

 つまり、とりつかれてしまった場合、速攻で切り離す必要があるということ。そして、オレたちにはその術がないということだ。

「……何かアイデアあるか?」

「ある。一応な。」

「あ、わかっタゾ!」

 そこでライマンくんが茶碗蒸しを食べながら会話に参戦。

「欲求使いを使うんダナ!」

「欲求使い……? 何ですか、それ。」

 ことねさんが首を傾げた。そういや教えてないな。

「えっとね、ことねさん。欲求使いってのは要するに欲求を使って治療を行う《お医者さん》のことだよ。割合で言えば術式を使う《お医者さん》の次に多いね。」

「え、そんなに?」

「術式よりも原理が単純で、効果も抜群だからね。」

「そんなにすごいのに……主流じゃないんですか?」

「患者さんに負担を強いるからね。ことねさん、三大欲求って知ってる?」

「はい……食欲、睡眠欲、性欲の三つですよね。」

「そう。それを使ってヴァンドロームを切り離すんだ。」

「どうやって……」

「うーんとね……じゃあ、ライマンくん。説明してみて。」

 オレがどうぞという感じで促すとライマンくんはオホンとせきをしてから説明を始めた。

「そもそも、欲求を使った治療の目的は『患者に元気を放出させない』というこトダ。まず食欲は患者さんが何かを食べることを禁止スル。」

「断食ですか。」

「うん、つまりお腹ぺこぺこにさせるンダ。そうすると患者さんは何かが食べたくてしょうがなくナル。ヴァンドロームは『症状』を引き起こして患者さんをちょっとブルーな気分にさせることで『元気』を放出さセル。でも、お腹ぺこぺこの時はどうなルカ。変な病気にかかっちゃったとかそんなことどうでもいいから何か食べたいってなるンダ。」

「どうでもいいって……そんなになりますかね。」

「例えば……普段なら衛生上の問題とかを気にするけど、餓死寸前の時、目の前に泥だらけの野菜があったらどうスル? 泥なんか気にせずに口に放り込むヨナ。」

「なったことありませんけど……そうかもしれませんね。」

「食欲がマックスになった時、人は病気なんか気にしなくナル。食べ物を食べる方法を考えまくるンダ。『お腹すいちゃっタナー』程度なら『元気』は放出されルヨ? お腹が空いて元気がないわけだカラ。でもそれが極限状態になったら落ち込んでる場合じゃないんダヨ。食欲っていう欲求にかられて元気になるんだ。だから『元気』を放出しなくなるんだよ。」

「そうなると……どうなるんですか?」

「とりついた相手が『症状』を引き起こしても『元気』を出さないとなれば、ヴァンドロームは『こいつは駄メダ』と思って自分から離れるンダ。」

「ああ……それはすごいですね。」

「睡眠欲の場合は患者さんにとにかく起きててもらうンダ。身体をゆらすなり大きな音を出すなりしテナ。そうすると何がなんでも寝たくナル。寝るための方法を必死で考エル。自分の欲求を満たすために全力で行動スル。『眠たいナァ』なんてダルダルして元気を無くしてる場合じゃナイ。だから『元気』が出なくなるというわケダ。」

「……欲求の使い方はわかりましたけど……でもこの方法じゃ……」

 ことねさんがオレを見る。

「そうだね。食欲と睡眠欲の場合、患者さんを追いこまないといけないから時間がかかる。普通の切り離しの方が速いくらいだね。メリットとして切り離しの際の痛みがないって点があるからAランクの治療なんかでたまに使うんだけど……Aランクとかだと知能が高いからこの治療の限界を理解してしまって離れないことがほとんどだね。」

「治療の限界……?」

「食べさせない、寝かさないって言っても限界があるンダ。命に関わるラインっていうのがアル。それを超えられないっていうのをヴァンドロームが理解してると……この方法は使えないンダ。」

「全然いいとこないですね……」

「でもなこトネ。性欲だけは別なンダ。」

「?」

 そこでライマンくんが少し顔を赤らめてオレを見た。この先はオレが説明しろと……

「えっと……ことねさん、Aランクとかには効果がないのは同じなんだけどね、性欲だけは切り離しの速さがダントツに速いんだよ。だから、特Dランクの《ミスユー》が相手となる今回の状況では使える方法となるんだ。」

「速い?」

「食欲と睡眠欲は患者さんを追い込まないとその欲求は大きくならない。でも性欲は違う。爆発的に大きくなる。例えばだけどね、ことねさん。この場でオレが突然裸になったらことねさんはどう思う?」

「セクハラですか。」

「いや……ごめんなさい。」

 ことねさんは軽くため息をついて答えた。

「それはまぁ……ドキッとすると思いますけど……」

「そこが他の欲求と違う点だよ、ことねさん。異性の裸とかを見た時、人は爆発的に欲求……性欲を大きくする。」

「わ、私……別に先生のこと……その……」

 ことねさんが顔を赤くしてそっぽ向いてしまった。

「あー……ごめんごめん。そういう意味じゃなくて……えっとね、例えばだけど……ある人が普通に道を歩いている時にさ、その人の理想そのものの異性が突然目の前に現れて、艶めかしい声と格好で誘惑してきたらっていう話なんだ。例えそこが人目の多い場所であろうと、胸の高鳴りや体温の上昇は止められないよね。そしてもしその場所が人目のない所だったら? その理想の異性が服を脱ぎ出したら? そのある人は性欲、つまりその異性とエッチなことをしたいという欲求に抗えるかということなんだ。」

 ことねさんは下を向きながら呟いた。

「つ……つまり、そういう状態になった時、病気のことなんて気にしなくなって……とにかく……その、エッチなことがしたいっていう……欲求に支配されるから……『元気』が放出されなくなる……ということですか……」

「そういうこと。性欲を使う《お医者さん》は患者さんの趣味嗜好を徹底的に分析して、性欲が最も大きくなる『何か』を目の前に用意するんだ。すると急速で膨れ上がった性欲のせいで『元気』の放出が瞬時に止まる。すると……ヴァンドロームが自分で離れる……ということだね。」

 そこまで話して小町坂が真面目な顔で補足した。

「ただ、これは患者のあんまり人には言いたくないことを根掘り葉掘り聞いて分析して行うものだ。《お医者さん》からすれば素晴らしい方法なんだが、患者からすれば最悪の方法だ。だから欲求使いの中でも性欲を専門とする奴は少ない。」

 キセルを口から離し、プハーと煙を吐く小町坂。

「だが、相手が《ミスユー》っつー速い切り離しが重要なヴァンドロームとなると……これしかない。」

 空気が変な感じになる話だったので、ちょっと落ち着こうとオレはお茶を飲む。ことねさんも少しオレから目をそらしながらお茶を飲む。ライマンくんもドギマギしながらお茶を飲む。小町坂はキセルをふかす。

 ズズズ……

 プハー

「……それで……小町坂、性欲使いに心当たりはいるか?」

 小町坂は腕を組み、キセルを上下させながらしばらく黙った後、首を横に振った。

「いないな。つか、俺の知り合いつったら全部日本人だからな。知り合いの知り合いって感じに辿ったとしてもいないと思うぜ。」

「? なんで日本人だといないンダ?」

 ライマンくんが不思議そうに尋ねる。小町坂はライマンくんを二秒くらい見て答えた。

「お嬢ちゃ――おっとわりぃ。お前がどこの国の人か知らねーが、日本はそこまで性に寛容じゃない。世界でもトップクラスで厳しい国だ。だから性欲を使って治療なんていう考えを否定的に見る。」

「なるホド。勉強になるナァ。」

 ライマンくんは心底感心している。

「んで、安藤、お前は?」

「オレは……わかんないな。知り合いの《お医者さん》つったらお前か《ヤブ医者》くらいだ。もしかしたら《ヤブ医者》のツテで見つけられるかもしれないが。」

「ああ? 《ヤブ医者》の知り合いの《お医者さん》ってことか? あの《ヤブ医者》連中の知り合いっつったら変人しかいないんじゃねーのか?」

「小町坂、それ、自虐だってことわかってるか? オレも《ヤブ医者》だぞ。」



 さて、小町坂のおごりで豪華な日本料理を食べて甜瓜診療所に戻った後、ことねさんがお風呂に入り、ライマンくんがテレビを観ている間に、オレは知り合いの《ヤブ医者》に電話した。

 もちろんアルバート、スッテン、ファムの三人だ。鬼頭もいるが……小町坂の理論でいくとそういう知り合いがいるとは考えにくい。ということで、海外の三人から連絡をする。

 海外に電話するのだから、時差とかを考えてやるべきとは思うのだが……なんかあの三人はいつ電話しても出てくれそうだ。

 まずはアルバートから。


 プルルル……


『○×□▽。』

 しまった、英語だ。

「あー……アイアム……」

『日本語でございますね。こちらはユルゲンですが。』

 おお……日本語でしゃべってくれた。というかこの声は誰だ? アルバートの声ではない。もっと歳が上の……おじいさんという感じの声だ。

「えっと、安藤享守という者ですが……アルバート・ユルゲンさんはいますか?」

『安藤享守様ですね。アルバート様からお名前は聞いております。ですが、念の為に確認をさせていただきます。』

「はぁ……?」

『質問でございます。安藤享守様は『半円卓会議』にご出席されていますね。この会議の司会者の名前をフルネームでお願いします。』

「フルネーム? そんなのがあるのかわかりませんけど……《デアウルス》です。」

『正解でございます。ではもう一問。会議の際、アルバート様はどこにお座りになられますか?』

「どこって……オレが『真ん中が割れている円卓』から数えて五段目の席に座ってますから、アルバートは四段目です……どこの席かはいつもランダムですけど。」

『結構。まことに失礼致しました。非礼をお許し下さい。』

「あー……構いません。」

『して、ご用件は。』

「アルバートと話がしたいんですけど……」

『現在、アルバート様は外出なさっています。しばらく帰らないとのことです。いつ御戻りになられるかは伺っておりません。』

「そうですか……」

『伝言を?』

「あ、頼めます?」

 オレはアルバートの……執事か何かだろう。電話口の人に伝言を頼んだ。もしかしたら性欲使いの知り合いがいるかもしれないからな。

『確かに。』

「よろしくお願いします。」


 ガチャン


 さて……次はスッテンだ。


 プルルル……


『ナンダキョーマ。』

「……何でオレと……」

『アッハッハ。デンワカイセンヲギャクタンチスルコトデニホンカラノハッシントワカッタノダ。ゥワァタシニデンワシテクルニホンニイルジンブツハキョーマダケダ。』

 なんか……電話でスッテンとしゃべると機械としゃべってるような錯覚を覚えるな。

『ソレデヨウハナンダ? ゥワァタシトシテハカイギイガイデユウジントハナスノハシンセンダカラドンナヨウケンデモウレシイノダガナ。』

「ん? そのセリフの通りだとするとスッテンには他に友人がいないことになるぞ。」

『アッハッハ。イナイトモ。ゥワァタシガユウジントヨベルアイテハキョーマトアルバートトファムダケダ。』

「そう……なのか?」

『ソモソモ、ゥワァタシガ《オイシャサン》ニナッタリユウモソンナトコロニアルノダヨ。ゥワァタシノカガクリョクハアマリニススミスギテイルヨウデナ、リカイシヨウトスルモノガイナイノダヨ。イットキキョウミヲイダクニンゲンガイタトシテモスグニアタマノコウゾウガチガウトイッテハナレテイク。アリテイニイエバゥワァタシハトモダチガホシカッタンダヨ。ダカラキッカイナレンチュウガアツマルセカイ、《オイシャサン》ノセカイニハイッタ。ソシテソンナレンチュウノナカデモイジョウトイワレル《ヤブイシャ》ニナッテヤット……モクテキヲハタセタ。』

 思いがけず、スッテンが《お医者さん》になった理由を聞いてしまった。だが……なんだろうな、この嬉しい感じは。

「そうか。なんだ、言ってくれればよかったのに。」

『ナニヲダ?』

「いや、話すくらいならいつでもいいって話さ。」

『……ソウカ。』

「そっちに留まる理由がなければオレかアルバートかファムか……誰かが住む国に引っ越しするのもありだと思うしな。」

 確かスッテンはロシアに住んでるんじゃなかったか。ロシア人かどうかは怪しいが。あの甲冑姿でよくもまああんな寒い場所に住んでると関心した覚えがある。

『カンガエテミルヨ。ソレデ……キョーマハナンデゥワァタシニデンワヲシタンダ?』

「あー実はな……」

 今さっき友人がいないと言ったスッテンに聞くのはなんかあれだったが、知ってる人物がいるかもしれないので一応聞く。

『ゥワァタシガシル《オイシャサン》ノナカニセイヨクヲツカウモノハイナイナ。シラベルコトハカノウダガ……タブン、ファムナラココロアタリガアルトオモウゾ。』

「ファムが? 何で。」

『ファムハオンナトシテノウツクシサヲモトメテイル。ソノカテイニオトコトノカンケイ、ツマリハセイヨクガカラムノハトウゼンダロウ。アノファムノコトダ、セイヨクガウツクシサニアタエルエイキョウトカヲシラベタニチガイナイ。スルト……ヒトリカフタリ、セイヨクツカイヲタズネテイルカノウセイガタカイ。』

「なるほど。それはそうだな。聞いてみよう。」

『ダガ……キヲツケロ、キョーマ。』

「?」

『キョーマガファムニデンワヲカケルトイウコトノイミヲヨクカンガエルンダ。アッハッハ。』


 ガチャン


 何のことやら……よし、ファムに電話だ。


 プルルル……


『○×□▽。』

 ああ……英語だ……

「えっと……アイアム……」

『♪□◇○△……×⇔←。』

「キョーマ……アンドー……デス?」

『! キョーマ!』

「イ、イエス……」

『キョーマだ! えへへー、キョーマだ!』

 んん? この声は……ファムのお孫さんの……

「アリスちゃん?」

『そうだよー。アリスだよー。』

「やっぱり。えっとね、アリスちゃん。ファム……おばあちゃんに代わってくれるかな。」

『わかったー。』

 たぶん受話器をその辺に置いたんだろう、アリスちゃんがパタパタと走っていく音がした。

 それから二分くらい経っただろうか。誰かが受話器を持つ音がした。

『もしもし? あら、これでいいのよねぇ? 確か日本では電話する時こうやって……』

「その声はファムだな。」

『享守! わたくしに電話をかけるなんて……嬉しいわ。ハネムーンはどこがいいかしら?』

「話が一気に飛んだぞ!?」

『冗談よ。式はいつ挙げるのかしら? わたくし、和服も着てみたいわ。』

「ちょ……」

『安心してね、享守。わたくし、高価な指輪は求めないから。あなたがくれる物ならなんだっていいのよ。』

「ファム……ちょっといいか……」

『なにかしら。』

「ちょっと聞きたい事があって電話したんだが……」

『わたくしの指のサイズかしら。』

「いや……えっと……」

『あら、いきなり本題は恥ずかしいから先に世間話をしようというのかしら?』

「……あー、じゃあそんな感じで。」

『ふふふ。それで、なにかしら?』

 ファムとのこの会話は……冗談なのか本気なのか……いや、あとで考えよう。

「実は……」

 オレはちょっとドキドキしながら用件を伝えた。

『享守……』

「……なんだ。」

『わたくしはいつでも享守に捧げる準備ができているわよ?』

「……そうか。」

『ふぅん……性欲使いね。いるわよ、一人。知り合い。』

「ホントか!」

『彼以外に性欲使いがいなければ確実に《ヤブ医者》となっているくらいのスペシャリスト。』

「おお!」

『紹介することは構わないわ。ただ、彼はアメリカにいるのだけれど?』

「ア、アメリカ……」

 英語……今はライマンくんがいるから通訳とかは問題ないと思う。だけどアメリカに行くだけの旅費なんかあったかな……

『享守。』

「ん?」

『もしよければ、わたくしが同伴するけれど?』

「?」

『享守を飛行機で迎えに行って、そのままアメリカに連れて行ってあげるということよ。』

「いいのか?」

『いいのよ。何かと理由をつけて享守に会いたいのだから。』

「……」

『それじゃあ明日。』

「え、明日!?」

『心配いらないわ。享守の診療所まで行くから。』

「ちょ!」


 ガチャン



 オレはしばらく受話器を持ったまま呆然とし、その後ライマンくんがテレビを見ている和室に行く。

「安藤先セイ。誰と電話してたンダ?」

「友達だよ。《ヤブ医者》仲間の。」

「エェ!? なんだかすごイナ! じゃあさっきの電話の向こうには他の《ヤブ医者》がいたノカ!」

「もう一つおまけにビックリさせるとね、明日、その内の一人がここに来るってさ……」

「オオ! どんな人なンダ?」

「……絶世の美女。」

「オオ! 安藤先生の周りには女の人が多イナ!」

「? そう?」

「ことねとコマチチャンとルールト……」

「……小町坂は男で、ルールじゃなくてるるだね。」

「そう、ソレ。」

 ライマンくんはにっこり笑った。どーもライマンくんは聞き間違いというか覚え違いが多いな。

「先生。」

 そこでパジャマ姿のことねさん登場。灰色の上下にリボン無しの白い髪。色の無いことだ。

「お風呂、お先にいただきました。」

「エェ! お風呂食べちゃったノカ!?」

 驚愕するライマンくん。

「ライマンくん、お風呂はちゃんとあるから、入ってきな。」

「はァイ。」

 小走りで和室から出ていくライマンくん。ことねさんは冷蔵庫からお茶を持ってきて座った。

「先生。」

「なんだい?」

「その……性欲を使う《お医者さん》って……患者さんの色んな事を調べるって……」

「うん。患者さんの性欲を最も爆発させる『何か』を知る必要があるからね。……もしかして、お父さんのそういうことを調べられるのかなって心配?」

「はぁ……まぁ……」

「そうだねぇ……同じ性欲使いでも色々あるからね。人が性欲を覚える『何か』って人それぞれでしょう? だから《お医者さん》もね、単純に患者さんの異性の好みを調べる人やフェティシズムを調べる人がいる。ファムの知り合いがどういう部類かはわかんないけど……」

「ファムさん? それじゃあ、見つかったんですか。その……性欲使いが。」

「うん……明日、ファムがここに来て……その人に会わせてくれる。」

「ここって……日本に来るんですか。」

「正確には甜瓜診療所に……だね。」

「?」

「いや、オレもよくわかんないんだよね。飛行機で来て……クルマでここに来て、それですぐに空港に行ってって感じなのかな。その性欲使いはアメリカにいるらしいから。」

「……なんだが忙しくなりますね。アメリカに行くんだったら……ここは誰が?」

「そうなんだよね。それを伝える前に電話を切られちゃった。」

「かけなおした方がいいんじゃ……」

「いや……あのファムがオレの診療所の現状を理解してないわけはないから。何かしらの対策を持ってくるんじゃないかなぁ。伊達に半世紀以上生きてないよ。スッテンとは違う方向に、頭いいんだよ。ファムは。」

「おばあちゃんの知恵袋ですね。」

「うん……うん?」

 なんか違うような気がするが……いいか。

第二章 その2に続きます

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