第一章 その1
医者の事を「お医者さん」と呼ぶことがありますよね?
「お」と「さん」の二つもつけてえらく丁寧に……もしかして、これって別物なんじゃないの? そんな想像から生まれた物語です。
※注意
物語の性質上、様々な病気が登場します。場合によっては、これを読んだことで不快な思いをする方がいるかもしれませんが、ご容赦ください。
はいどうも。今日はどーしたんですか?
ふんふん。頭が痛いと。
それで……他には? へ? それだけ?
もっとこう……へんちくりんな症状は? あ、ない。
ん? いやいや、違います違います。面白い症状がないからってやる気を失ってるわけじゃないですよ、どんな医者ですか。
まーまー落ち着いて下さい。
しかし……となるとあなたは何故この病院……つーか診療所を選んだんですか? 外見ボロくてあんまり行きたくない感じじゃありませんでした?
近かったから? そうですか。いやはや珍しい。逆のパターンとはね。
普通は普通の病院に普通の病気だと思って行ってこっちに来るパターンなんですけどね。普通の病気なのにこっちに来ましたか。
あ、いえいえ。別にバカにしてるわけではないですよ。
とりあえず、あなたが来るべきはここじゃないです。もっと普通の所へ行って下さい。そういう線引きでやってますので。
へ? ならここは何だって?
ここは普通じゃない病気……いや、正確には症状を発症した人が来るところです。
普通の病気は医者が治します。そして今言った普通じゃない症状を治すのが……そう、オレのような存在なんです。
なんて呼ばれてるかって?
あんま変わりませんけど医者より尊敬されていることは確かなんじゃないですかね?
なぜならオレのような存在はこう呼ばれるんです。
《お医者さん》ってね。
「ことねさん。」
オレはお茶っぱの入ってるカン缶の中を覗きながら呟く。いや、言い直そう。今わかったことなんだが……「入っていた」だ。
「お茶っぱが切れてしまったよ。ちょっとスーパーに行って買ってきてくれないか?」
ちらりと横を見る。普段オレが患者さんと話す時に使ってる椅子に座って『人体の構造大解剖!』という本を読んでいる一人の少女を。
パッと見、色の薄い少女だ。白の生地に黒字で英語がプリントされたシャツを着て、灰色の半ズボンをはき、真っ白な白衣を着ている。日本人にしては色素の薄い瞳。肘の辺りまで伸びた真っ白な髪を一本の三つ編みにし、先っちょに赤いリボンをつけている。色と呼べる色がリボンの赤だけという女の子らしからぬその少女は平均身長マイナス十センチの身体を立ちあがらせ、本を置いた。
「いいですよ。私は先生にお世話になっている身ですからね。ペットボトルでいいですか?」
ことねさんはとても退屈そうな半目でそんなこと言った。
「いやいやことねさん。今オレお茶っぱが切れたって言ったよね?」
「お茶が飲みたいんじゃないんですか?」
「確かに最終的に口にするのはお茶だけどそうじゃないんだよ。なぜ買いに行くのかと聞かれたらオレはこう答える。『お茶っぱが切れたから』と。」
「でも結局はお茶なんですよね。ならペットボトルの方が安いしすぐ飲めるしで利点だらけですよ。」
「いやいやことねさん。お茶っぱは確かに時間がかかるしペットボトルよりは高価だけど、長い目で見れば一回買うだけで何回も飲めるし、飲む度にペットボトルのゴミが出たりしないんだよ!」
「あ、そうですね。ならお茶っぱを買ってきますね。どんなのがいいんですか?」
「この『静岡直送OCHAPPA』でお願いします。」
「あ、私今手持ちが少ないのでお金を先にいただけますか?」
「了解……ってあら? オレの財布、諭吉先生がお一人だけいるだけだ……確か貯金が残高五円だったから最早これが全財産じゃないか! ことねさん、ちゃんとお釣りもらってきてね!」
「一万円ですか。ならそれで買えるだけ買ってしまえばしばらく買いに行かなくて済みますね。」
「いやいやことねさん、今オレ全財産っていったよね!? これでお茶っぱを買えるだけ買ったらご飯はしばらくお茶オンリーだよ!?」
「なら今日中に誰か診察してお金をもらって下さい。ではいってきます。」
「ちょちょちょ、ことねさーん!?」
オレの全財産である諭吉先生を持ってことねさんはスタスタと行ってしまった。
「なんたることだ。こうなったら意地でも診察を! 患者さん来い!」
そう言った数秒後、オレは地面に両手をつく。
「患者さんを望む医者って……最悪だろ……」
ことねさんが帰ってくるまでしばらくある。さて、どうしたもんかね。
オレは診察所兼自宅の中をざっと眺める。特に暇を潰せるもんはない。金属バットはあるが。
「……掃除でもするか。」
オレは部屋の奥からホウキとチリトリを持ってきて診療所の入り口へと向かった。だいぶ錆びてキーキー言う扉を開ける。この辺りは都会でもなければ田舎でもないどこにでもあるような住宅街なので別に珍しいものもない。
ボロい診療所。名前は『甜瓜診療所』。読み方は『てんかしんりょうじょ』だ。オレが建てたわけじゃぁないし名付けてもいない。前任者が建てて名付けたこの診療所をオレが引き継いだんだが……もっときれいに使おうとは思わなかったんだかな。
「無理か。あの人の辞書には『掃除』という言葉はなかったし。」
チリトリを適当なとこに置いてオレは掃除を始めた。だがホウキを動かしながらオレはあることに気付く。そう、そんなにゴミがないことに。
「そういやことねさんが毎朝やってるもんな。」
……収穫は落ち葉一枚。なんて無駄な時間だ……
暇だ。まぁ患者さんがめったに来ないのは《お医者さん》の宿命……でもないか。普通の病気を扱ってる奴もいるし。
「一応オレもそっちを診ることはできるけど……両立には人手が足りなさすぎだ……」
全てはオレが《ヤブ医者》だからなんだけど……全然嬉しくないな。
ホウキとチリトリと落ち葉一枚を持ってオレは中に戻る。するとそれを見計らったように電話が鳴った。
「はいはい出ますよー。」
オレは早足で電話の方へ向かう。
「はい、甜瓜診療所。」
『ミートボール戦争だ!』
「……」
『おい!聞いてんの―――あれ?まさかことねちゃん?』
「オレだ。」
『なんだよ、ちゃんと安藤じゃねーか。』
「何の用だよ小町坂。」
『だからミートボール戦争だ! 正確にはミートボール対ハンバーグ戦争だがな!』
「そうかそうか。お肉屋さんを開くのか。頑張れよ。」
『ちげーよ!』
「そういやこの前は目玉焼き戦争だっつってなかったか?」
『あれか。あいつらときたら目玉焼きにソースかけるとか言いだすんだぞ!? 意味わかんねーよ! 目玉焼きにはしょうゆだろう?』
「知るか。」
『んで今回はミートボールとハンバーグ、どっちが美味いかという話だ!』
「……ハンバーグじゃねーの?ミートボールってお弁当でしか見ねーし。」
『お前もハンバーグ派か! 裏切り者が!』
「ミートボールとハンバーグは派閥で分ける程に対等なモンだったか……?」
『わかってねー! お前はミートボールの素晴らしさが! お前も看護婦らと同じこと言いやがって!』
「……思うにミートボール派はお前だけだろう。」
『ん? よくわかったな。』
「……つーかお前、言い方には注意しろよ? 最近うるさいんだからな。」
『何の話だ?』
「お前今『看護婦』って言ったろ?」
『『看護師』って言えってか? 医者ならともかく俺らは《お医者さん》だろ? 女は《お医者さん》にはなれないだろうが。なら《お医者さん》は男でそれ以外が女だ。ほれ、看護婦であってる。』
「オレに医術を教えた人もオレが医術を教えてる人も性別は女なんだがね。」
『その二人は特別だ。そしてお前がハンバーグ派とわかった時点で用はない。じゃぁな。』
電話が切れた。なんだったんだあいつは……
再び暇になったオレはさっきことねさんが座っていた椅子に座る。そしてことねさんが読んでた『人体の構造大解剖!』を開いた。オレがことねさんにあげた本だが……ほぼ全てのページに印やらメモ書きがしてある。
「勉強熱心だなぁ、ことねさんは。オレも楽ってもんだけど……」
あの人はスパルタだったからほとんど身体で覚えさせられたから……オレはこーゆーことはしなかった。
「実際ことねさんは吸収が早いもんなぁ。そろそろ基本は終わりでいいかもね。」
それからしばらく『人体の構造大解剖!』を読んでいるとことねさんが帰ってきた。
「ただいまです。」
「おかえりことねさん。」
椅子に座って『人体の構造大解剖!』を読んでいるオレを見てことねさんは不思議そうに尋ねてきた。
「先生……なんでそれ読んでるんですか?」
「なんとなく……」
「先生は娘さんとかの日記を勝手に読むお父さんですか?」
「まるでオレに娘がいるかのように言わんでくれことねさん。というか勝手に読んじゃまずかった?」
「いえ別に。」
「なんだ……ちょっとドキッとしたでしょー……脅かさないでくれよ。」
「え、私にドキドキしたんですか?」
「……正確に言うと『あれ、見られたくなかったのか!?』と思ってドキッとしたんだ。」
「なるほど。ところで先生、お茶っぱです。」
「おお! さっそくお茶を飲もう。……お釣りは?」
「ちゃんとありますよ。あとこれも。」
「『お食事券十万円分』……っ!?なにこれ!」
「知らないんですか?それが使えるお店ならその券は諭吉先生十人分になるんですよ。」
「いやいや使い方は知ってるよ。どこでこれを?」
「お茶っぱ買った時にもらった商店街の福引が当たりました。一等です。」
「すごいなことねさん!」
「すごいのはこっちですよ。」
そう言ってことねさんは左手を指差した。
「ああ……福引ってあのガラガラ回す奴?」
「そうです。」
「ガラガラの中を透視して……一等の色が出るように腕の力加減を調節したのかな。すごいな。」
「透視なんかできるんですか?」
「そいつは反則クラスの力があるからね……最早なんでもありだよ。しかしこれがあれば一週間一万円として二カ月半ご飯に困らないね。」
「そういえばそろそろお昼ですね、先生。」
「よし、お昼を食べに行こうかことねさん。」
「はい。」
オレとことねさんはお食事券を手に外に出た。だがそこにはさっきはなかった……もとい、いなかった人がいた。
「こ……こんにちは。」
メガネをかけた……大学生くらいの女性だった。肩に小さなカバンをかけておずおずとオレに挨拶をしてきた。オレとことねさんは顔を見合わせ、再びその女性に視線を移す。
「……うちにご用ですか?」
オレがそう尋ねるとカバンから封筒を取り出しながら答えた。
「は、はい。あの、白樺病院から紹介状をいただいて……こちらに専門の方がいると。」
差し出された封筒には白樺病院の文字。確かに紹介状だ。ここを紹介するとなるとあいつか?
「ちなみに紹介状を書いたのは藤木先生?」
「はい、そうです。」
やっぱりか。
「どうぞこちらへ。」
さっきのオレの祈りのせいなのか……五日ぶりに患者さんがやってきた。
椅子をもう一つ出し、そこにメガネの女性を座らせ、オレはさっきのとこに座る。ことねさんはメモ帳を片手に横に立っている。
「オレは安藤享守。こちらは溝川ことねさん。」
言いながら名刺を出す。メガネの女性は「ん?」と呟く。
「これで『きょうま』と読むんですか……」
「そうですよ。大抵『きょう』までは読めるんですが『ま』が読めない人が多いです。あなたのお名前は?」
「あ、佐藤成美です……」
「佐藤さん……早速ですが、どんな症状ですか?」
「えっと……その……」
佐藤さんは困り顔で手をワタワタさせる。
「何と言いますか……視界が食べられていくんです。」
ものすごく恥ずかしそうに言って恥ずかしそうにうつむいた佐藤さんだがオレは気にしない。
「端っこから? 真ん中から?」
「え……」
オレの切り返しに佐藤さんは困惑した。
「……笑わないんですか?」
「……普通の医者なら『あはは。』と笑いそうですが……オレは《お医者さん》ですし。塗り潰されるでもゴミが見えるでもなく、食べられると表現した時点でオレの領分です。」
「あ……はい! えっと……端っこからまるでクッキーを食べるみたいに見える部分が減っていくんです。最初は左目だけだったんですけど……最近は右目も。」
話が通じる相手だと思ってもらえたらしい。確かに、あいつらの症状って変なのが多いからな。
「今はどれくらい?」
「左目は……十分の一くらい、右目は左目の半分……二十分の一? くらいが見えません。」
「症状が出始めて……ざっと一週間ですか?」
「え、あ、はい。ちょうどそれくらいです。よくわかりますね……」
「まぁ専門家ですから。ふむ。ことねさん、今佐藤さんがどういう状況かわかる?」
突然ふられたことねさんは少しびっくりしつつもメモ帳をパラパラしながら答える。
「えぇっと……佐藤さんについているのは《アイサイト・イーター》……進行度はグリーンです。」
「良くできました。」
オレとことねさんの会話に目をパチクリさせる佐藤さん。
「え……あの?」
「ああ、ちゃんと説明しますよ。」
さて……毎度おなじみの説明をする時だ。
「実はですね、佐藤さん。この世界にはヴァンドロームと呼ばれる生き物がいるんです。」
「……えっ?」
「それの《アイサイト・イーター》と呼ばれる種類が佐藤さんの視界を奪っているんです。」
「えっと……あいさいと……? あの、幽霊とか妖怪みたいなものですか?」
さすがに困惑しているな。当たり前か。
「いえ。人間という生き物がいるように、猫という生き物がいるように、ヴァンドロームという生き物がいるんです。とりあえずそういう生き物がいるということを理解して下さい。」
「はぁ……」
「生き物って大抵違うものを食べますよね。肉食は肉、草食は草。まぁ人間は雑食ですが……ほら、コアラって特定のユーカリの木しか食べませんし。」
「そう……ですね。」
「さて、ここで問題なのはヴァンドロームという生き物が何を食べるか。」
「……視界なんですか……?」
「ああ、そうではないんですよ。あいつらが主食としているのは……本当は難しい話なんですが平たく言うと他の生き物の『元気』です。」
「『元気』? どうやって食べるんですか、そんなもの。というか栄養あるんですか?」
佐藤さんの困惑顔がマックスになった。
「そうですね……とりあえず『元気』と呼ばれる物体があるとイメージして下さい。まだオレらには技術的に見えない感じで。」
「はい……」
「病気にかかると元気なくなりますよね? 本来出来たことが出来なくなったり、普通なら無い痛みがあったりしますしね。」
「確かに……」
「ここでまたイメージです。元気がなくなるということをイコール『元気』という物質が身体の外に放出されてしまうことだと。ビタミンとか脂肪みたいに体内に蓄積されていた『元気』が出て行ってしまう感じです。」
「放出……」
「ヴァンドロームは放出される『元気』を食べるんです。血液みたいに針を刺せば吸えるようなものではないので放出を待つ必要があるんですよ。栄養は……まぁオレらには未知の栄養ということで。」
「はぁ……」
「しかしですよ? いちいち病気になるのを待ってたら日が暮れます。大抵の生き物はその一生の数パーセントしか病気になりませんからね。そこであいつらは進化したんです。生きるために。」
「……どんな風に……?」
「強制的に病気を引き起こして『元気』を食べる。」
そこで佐藤さんの顔色が変わった。そう、やっと事の本質に近づいたのだ。
「まとめると……ヴァンドロームという生き物はですね、相手の食事や生活習慣になんら問題がなくとも、遺伝子的に絶対に発症しないとされていても、強制的に特定の症状を相手に引き起こして放出される『元気』を食べる生き物なんです。」
「そんな……生き物が……私に……?」
自分で自分を抱きしめる佐藤さんの身体は少し震えている。
「しかし人間はバカじゃありません。ハチやヘビなんかの毒を持っている生き物や人間の数倍強い筋力をもつ生き物とかに対抗する力を作ってきました。殺虫剤や……まぁ拳銃とか?」
「じゃ、じゃあそのヴァンドロームにも……」
「ええ。ヴァンドロームを専門に退治する人……職業を作りました。それがオレら《お医者さん》です。」
「普通のお医者さんとは違うんですか?」
「ええ。オレらは普通の医術を扱う人を《医者》と呼び、ヴァンドロームを退治する人を《お医者さん》と呼んでるんです。なんせヴァンドロームが引き起こすのは病気ですからね……知識として医術が必要なのです。」
「何で……《お医者さん》なんですか?」
「《医者》よりも遥かに危険で、戦う技術や知識が必要だからです。《医者》と同じように医術を学んだ人間だけど《医者》なんかよりずっとすごい……だから『お』と『さん』をつけて《お医者さん》だそうです。昔の人が決めた呼び方なんですけどね……」
「戦うって……?」
「そりゃぁ生き物ですから退治しようとすれば反撃しますからね。ヴァンドロームは病気を強制的に引き起こすような生き物ですから結構強いんですよ。」
「そう……ですか。」
えぇっと? とりあえず説明すべきことは説明したから……
「やっと本題です。佐藤さんについているのはさっきも言いましたが《アイサイト・イーター》です。ランクはEで症状は『視界捕食』です。」
「ら……らんく? しかい……?」
「ランクはヴァンドロームの……厄介度と言いますか強さと言いますか。S・A・B・C・D・Eの六段階に分けられるんです。そしてヴァンドロームによって症状は違いまして……佐藤さんについてる《アイサイト・イーター》はその名の通り、視界が食べられるという症状が出るんです。」
「ということは……一番弱い奴なんですね!」
佐藤さんは今聞いたばかりのインチキくさい話を信じ、ランクを聞いて安心したようだ。飲みこみが早い人は助かるな。
まぁ……ヴァンドロームにつかれた時点でだいぶインチキくさい感じの症状が出るし、《医者》には相手にされないことが多いからな。やっとたどり着いた真実って感じで大抵の人はちゃんと信じてくれる。
「ただ……ランクが低くても最終的な結果は同じです。」
「結果?」
「ほっといた場合の話です。」
「私の場合……失明ですか?」
「それはそうですが……そこまで行った場合……次に待つのは死です。」
「えっ!?」
「ヴァンドロームは『元気』を食べる生き物です。普通なら放出されても『元気』はいろいろな要因からすぐに体内にたまっていき、人は元気を取り戻しますが……ヴァンドロームは新たな『元気』も片っ端から食べますので……最終的には生きる気力を失い、そもそも身体が生きようとしなくなり、自動的に思考が停止し、心臓が停止します。」
「そ、そんな! 私はあとどれくらいで! あの!」
「落ち着いて下さい。そこで進行度の話です。」
「進行度……さっきグリーンって言ってた……」
「進行度はそのまま症状の進行度です。グリーン・イエロー・レッドの三段階で、《アイサイト・イーター》の場合は視界の五割が見えないとイエローで、九割が見えなくなるとレッドです。つまり佐藤さんはまだまだ余裕があるということです。仮に今の状態からほっといても死ぬとしたら……それはざっと五年後ですね。」
「え……でも一週間で一割も……」
「最初だけですよ、早いのは。《アイサイト・イーター》は一番弱い種類に入りますから……とりつく相手をすぐに変えるような事はせず、一つの獲物に長くとりついてじっくりと『元気』を奪うんです。Sランクのヴァンドロームですと数分で死に追いやられたりしますが……」
「そうなん―――ってそういえばさっきからとりつくって言ってますけど……私の中に……? 寄生虫みたいに……!?」
「具体的に言いますと……守護霊みたいに後ろでふよふよ浮いてる感じですかね。見えませんし触れることもできません。」
「触れることができないって……幽霊みたいに……?」
「あ、いや。物理的に触れられないということではないです。ほら、壁にとまったハエを叩こうとしたら大抵は避けられますよね。そういう感じで触れられないってことです。ヴァンドロームからすれば自分がとりついてることがバレと面倒ですから……カメレオンみたいに見えなくして、何かに触れられそうになったら避けるんです。」
「そうですか……その、寝ている時とかは……?」
「傍でじっとしてますね。というかとりついていないです。」
「え……?」
「『元気』が主に回復する時は睡眠中です。ヴァンドロームからしたらきちんと回復してもらって『元気』というえさを作ってもらわないと困りますから、睡眠時はとりつくのを止め、一時的に『元気』を食べるのを止めるんです。」
「……どっちにしても……気味が悪いですね……」
「知らぬが仏というやつですね、こればっかりは。」
「そうですね。」
最初よりは不安がなくなってきたみたいだ。というか……寄生虫か。中には人間の数倍はある奴もいるし、それは無理だ。……例外はあるけど。
「さてとそれじゃぁ……治療しますか。」
「えっと……どれくらいかかるんですか?」
「五分くらいです。」
「それだけですか!?」
「普通なら一分もかからないんですけどね。」
そこでことねさんが口を開いた。
「ヴァンドロームの退治の仕方は至って簡単なんです。とりついているヴァンドロームを患者さんから引き剥がして倒す。それだけ。」
「引き剥がす……!?」
生々しい言葉にゾッとする佐藤さんにことねさんは説明する。
「後ろで浮いていると言っても『元気』を食べるために、また他のヴァンドロームに得物を横取りされないように患者さんと接続しているんです。軽く針を刺したり、管みたいのをつなげたりと様々ですが。ですからそれをまずは引き剥がさないといけないのです。」
「それが……さっき安藤先生がおっしゃった『普通なら』ということですか?」
「はい。ですがこの方法は……手術で患者さんにメスを入れるのと同じことでして、患者さんに少し痛みが伴いますし体力も奪われるんです。EクラスならなんてことないんですがSクラスになるとその痛みだけで死ぬこともあるんです。」
「そんな……」
「安心して下さい。今佐藤さんの目の前にいる《お医者さん》は全ての《お医者さん》の中で唯一引き剥がすことなくヴァンドロームを退治できる《お医者さん》なんです。」
ことねさんがまるで自分のことのように自慢げに言うもんだからさすがにオレも照れる。ことねさんはオレの事をなんかめちゃくちゃすごい人って思ってるらしいからなぁ……たった一回のあれがそんなに衝撃的だったのか……? ま、これは後で考えよう。
「んま、だから時間がかかるんですけどね。行きますよー。」
オレは立ちあがって佐藤さんの後ろにまわる。
「……ここか。」
背中のちょうど真ん中あたりに右手を当てる。
「五分間、じっとしてて下さいね。」
「は、はい。」
接続。開門。強制介入。侵入。反撃……クリア。抗体……クリア。展開。解析。把握。
強制上書き。強制認識。強制実行。
「……離れ落ちろ……」
「あ!」
五分後、オレが手を離すと同時に佐藤さんが叫んだ。
「見えます! 視界が……広く……!」
「治療完了です。」
オレがそう言うと佐藤さんはオレの両手を握ってお礼を言ってくれた。
「本当に……ありがとうございます!」
私……溝川ことねは診療所の受け付けに立つ。向かい合っているのは佐藤さん。
「……そんなに高くないんですね。もっとすごい治療費なのかと思いました。」
「悪徳霊媒師ではありませんからね。保険もききますし。」
「……つまり……国というか……世間的に認められているんですよね?《お医者さん》って……」
「もちろんです。」
「なんで……今まで知らなかったんでしょうか……」
「ヴァンドロームにとりつかれて治療を受ける人が年間で千人くらいですから。」
「結構いますね……」
「……世界で、ですよ。」
「ああ……それは少ないですね。」
「だから大抵の《お医者さん》は普通の医者もやるんです。そうじゃないと稼げませんからね。」
「ここは……やってないみたいですね……」
「先生は普通の医者としても凄腕です。出来ないわけではないんです。」
これの説明は毎回毎回面倒くさい。先生は……《ヤブ医者》だから。
「まぁ……いいですけど。……ヴァンドロームのことって……秘密ですか?」
「いえ。普通にしゃべってもらって結構です。ですがあまりお勧めはしません。」
「なんでですか?」
「あなた自身、ここに来るまで知りませんでしたよね。実際に普通とは何か違う症状を経験している人ならともかく、そうでない人に話した所で……ね。」
「そうですね。でも……知り合いでそういう人を見つけたらここを紹介しますね。」
「よろしくお願いします。」
こうして佐藤さんは帰っていった。私は代金をしまって診察室へ戻る。
「お疲れ様、ことねさん。」
先生は椅子に座って何かを書いている。
ボサボサの黒い髪、あんまりやる気の感じられない目。いつでも白衣+便所サンダルのこの人はこんな外見からは想像できないほどすごい人だ。
覗いてみると書いているのは今回のカルテだ。どんなに簡単に治療できた患者さんであろうともカルテを書く。普通の《医者》もそうだろうけど、これは《お医者さん》の世界では特に厳しく言われる決まりだ。ヴァンドロームには未知の症状を引き起こす奴もいる。だから多くのデータが必要であり、いざという時は他の《お医者さん》と協力したりする。
……先生はこんな小さな診療所に収まるような《お医者さん》じゃない。大きな病院に行けば《ヤブ医者》でも十分に働けるし、そもそも先生の《ヤブ医者》としての力は《お医者さん》の世界じゃすごすぎる。引く手数多なのに先生が一人で開業していることが問題なんだ……
「……私が早く一人前になれば先生も楽になる……頑張るんだ。」
「ん? 何か言った?」
「いえ。それを書き終わったらお昼に行きましょう。お腹すきました。」
「だね。」
私には先生に返しきれない恩がある。そしてその恩は日々増えている。私は頑張らなきゃいけないんだ。
そう……あれ以来。
響き渡るのは人の悲鳴。
地上で生きる私たちが突然立つべき場所を失ったとき、私たちには成すすべがない。
私もそうだった。
でも違った。
私は浮いていた。
落下していく人と目が合った。
絶望の表情。何かを叫んでいる口。
私は恐怖した。
私は耳をふさいで両目をつぶった。
『怖いのか?』
怖い!
『見たくないのか? 聞きたくないのか?』
見たくない! 聞きたくない!
『わかった……』
勝手に動く左腕。
左腕を……私を中心に広がる何か。
思わず目を開けた私。
木の葉のように乱れ舞う瓦礫と……人。
吹き飛ばされて遠ざかる絶叫と崩壊の音。
そして、私の意思なしに広がる私の左手の平。
そこへ集束する何か。
膨れ上がる……何か。
一瞬の後、超速で広がるはずだった破壊。
『はず』にしたのは―――
「強制―――」
落下しながらも私に近づくその人の顔に恐怖はなかった。
「―――停止!!」
「ことねさん?」
私はハッとして顔をあげる。目の前には腰を曲げて私の顔を覗きこむ先生。
「大丈夫?」
「……大丈夫です。」
私は左手をちらりと見て外に出た。
オレとことねさんは近くのファミレスに来た。ことねさんは白衣を脱いできたがオレは脱がないのでだいぶ不思議な目で見られたが気にしない。
「いつもよりは豪勢にいけるね、ことねさん。」
「そうですね。でも先生、こういうお店ってついつい同じものを頼んじゃいません?」
「言われてみれば。たまに治療費が入って今日は高いやつを……って思いながらも気付いたらいつもの安い奴を食べてるね。不思議だ。」
メニューを眺めてもやっぱり目が行くのはいつものやつ。
「ま……いっか。」
「そうですね。」
そう言ってオレとことねさんは目を合わせた。
「あはは。」
「ふふっ。」
自然と笑いだすオレとことねさん。ことねさんは思いだし笑いをした感じに静かにクスクス笑っている。
「ご注文をどうぞ。」
笑っていると突然店員さんがそう言った。いつのまにかテーブルの横に立っているその店員さんを不思議そうに見ると店員さんも同様の目でオレを見る。ん? オレとことねさんはまだ店員さんを呼んでないんだが……
「……あ。」
ことねさんがそう言ったのでオレはことねさんへと視線を移す。ことねさんは左手で店員さんを呼ぶボタンを押していた。
「ああ……」
オレは納得し、店員さんに注文し、ことねさんもオレに続く。
店員さんがいなくなってからことねさんが申し訳なさそうにオレを見る。
「すみません……」
「ことねさんではないんでしょ?」
「違います。今のは私の左手です。」
そう、ことねさんが店員さんを呼ぶボタンを押したわけではない。ことねさんの左手が呼んだのだ。
ことねさんはオレの助手であり、患者さんである。
ことねさんについているヴァンドロームの名は《オートマティスム》。症状は『エイリアンハンド』だ。
『エイリアンハンド』。別名『他人の手症候群』は脳の損傷などで引き起こる病気だ。軽いものだと片方の腕はわかるのにもう片方の腕は目で見ないと自分の腕だと認識できなくなったりする。つまり背中で両の手をつないでも他人の手と握手してるような感覚になるわけだ。
だがこれはあまり日常生活に支障をきたさない。問題は重度の場合。この場合、片方の腕が自分の意思に従わなくなる。常にというわけではないが、靴ひもを結んでいたら突然片手がひもをほどき始めたりするのだ。
ことねさんの場合は左手がそれで、時折勝手に動く。だから店員さんを呼ぶボタンを押したのはことねさんではなく、ことねさんの左手になるのだ。正確に言えばことねさんの『エイリアンハンド』は左肩から手先までだが。
とっとと治療しろと言われそうだがそうもいかない。なぜなら《オートマティスム》はSランクのヴァンドロームだからだ。しかも背後で浮いているわけではなく、左手の中に入ってしまっている。二メートルくらいの大きさのヴァンドロームなのだが……物理法則を無視してそこに入っている。だから切り離す時の痛みは激痛なんて言葉で言い表せないくらいのものになる。切り離せば確実にことねさんは死ぬ。
仮に切り離せたとしても《オートマティスム》に勝てる《お医者さん》は存在しない。というか未来永劫存在することはないだろう。人間では絶対に勝てないのだ。
そもそも何故にランクがAで終わっていないのかという話だ。SはスペシャルのS……つまりSランクに分類されたヴァンドロームは普通じゃないのだ。
ヴァンドロームだって生き物だ。だから交尾をして子を生む。だからヴァンドロームは同じ種類がそれなりの数いる。つまり、《アイサイト・イーター》は佐藤さんにとりついた奴しかいないわけではないということだ。
だが生き物は完全完璧ではない。四つ葉のクローバーがあるように、世界に指が六本ある人がいるように、時折何かが狂う。ヴァンドロームでもそういうことがあり、そうなったヴァンドロームをオレ達は突然変異と呼ぶ。ヴァンドロームの突然変異は劇的で原形を留めない。大抵は環境なんかに耐えられずに生まれてすぐ死ぬが……時々生き残るパターンがある。そうなったヴァンドロームはまさに化け物という言葉がぴったりの存在になる。発症させる病気が特殊なものになるのはともかくとしてその生命力。そのほとんどが不老不死に近い存在となってしまうのだ。
突然変異ゆえ、子を残すことなくそいつ一代で滅ぶが……そのたった一体がやばすぎる。生命力は無限大、攻撃力は核兵器を超え、防御力はこの世の全てを防ぐと言われている。突然変異という試練を超え、地球上のあらゆる生き物に勝利するヴァンドローム……それがSランク。確認されているだけでも十数体いる。
そんな存在が飯を必要とするとは思えないが……やはりウマいもんは食いたいらしく、ちゃんと他の生き物にとりつく。
そしてこっからがいやらしい所だ。ヴァンドロームはBランク以上になると人並みの知能を持つ。本能にまかせて捕食するだけの存在ではなくなるわけだ。無論、突然変異は知能にも影響を及ぼす。とんでもないバカにするかとんでもない天才にするかのどちらかという影響を。バカになった場合は佐藤さんに教えたように、とりついた瞬間全ての『元気』を奪う。だが天才になった場合はどうなるか。そもそも飯を食わなくていいSランクが『元気』を食べる理由はそれがおいしいからだ。生きるためではなく、嗜好品として食べる。ならちょっとずつ食べれば事は足りる。
『元気』はいろんな要因によって失っても回復する。単位時間あたりの回復量と食べる量を同じにすれば……とりつかれた生き物は『元気』を失って死ぬことは無い。寿命がつきるまでそこに居続けるわけだ。
ことねさんについている《オートマティスム》は天才側のSランク。一生とりつき、一生『元気』を奪い、一生『エイリアンハンド』となる。
ただ、《オートマティスム》というSランクは少し変な性質を持っている……
「お腹すきましたね。」
水をコクコクと飲むことねさんを見て、オレはあの時を思い出す。
ことねさんを診察した……あの時を。
「治せない……?」
オレは椅子に座り、ことねさんは立っていた。向かい合う感じで立っていることねさんは顔を真っ青にしている。
「わ、私の……左手にはヴァンドロームっていう生き物がいて……そいつが……あれを引き起こして……それを治せるのは《お医者さん》で……先生はその《お医者さん》なんでしょ!?」
「落ち着くんだ溝川さん。」
オレは冷静に言う。正確にはつとめて冷静になっていた。
「今君が置かれている状況を説明するから。」
オレはことねさんにいくつかのファイルを渡した。
「……これは……?」
「君についているヴァンドローム、《オートマティスム》はSランクだ。だから今君の左手についている奴しか《オートマティスム》と呼べる奴はいない。そのファイルに載っているのはね……歴史上、確認された《オートマティスム》の患者さんだ。」
「じゃあ……この人たちは私と同じ……?」
「全部で五人。読めばわかるけど……その五人は全員、発症してから三日以内に死んでいる。」
「死……!?」
「本人の意思を二十四時間無視する自分の片手に耐えきれなくなって自殺したり、《オートマティスム》を切り離そうとしたらその痛みに耐えきれずに死亡したり……死因はともかく三日以内に死んでいる。だけど、ここからわかることもある。」
「……」
「その五人の場合、『エイリアンハンド』が一日中続いているということだ。常に続くからこそ異常に気付き、《お医者さん》にかかることができたんだ。そして常に続くからこそ……自殺したりしたわけだ。だけど君はどうだ?」
「……左手が勝手に動くと気付いてから……一週間です……」
「その間ずっと?」
「い、いえ……時々です……今も……大丈夫ですし……」
「そこだ、五人との違いは。そこでオレは仮説をたてた。」
「仮説……」
「ヴァンドロームも生き物だ。なら……住みやすい場所ってのがある。過去五人の人間……いや、確認されているだけで五人だからもっといるかもしれない。とにかく色んな身体に入って……自分に合わないと暴れてきたんだろう。それが二十四時間続く『エイリアンハンド』。だがここに来てようやっと見つけたんだ……君、溝川ことねという素晴らしい住処を。」
「そんな……住処って……」
「だぶん、だから暴れないんだ。つまり、あまり『エイリアンハンド』が発動しない。」
「嫌です! そんなのって―――」
「そのかわり!」
オレはことねさんを指差した。
「《オートマティスム》はやっと見つけた住処を全力で守る。一つの生命が持つにはあまりに大きすぎる力を余すことなく使って。」
「守る……?」
「例えば今この瞬間、オレが君に拳銃を向けたとする。君とオレとの間隔は二メートルもない。そんな至近距離で放たれた弾丸であろうと、《オートマティスム》は防ぐだろう。そしてオレを殺す。」
「……! それじゃあ……あれは……」
「ああ……普通なら君も死んでいた大事故。だが《オートマティスム》がそれを良しとせず、君を事故から救った。」
「でも……周りの人を……吹き飛ばして……」
「おそらく君が恐怖したからだ。君の命を脅かすもの、君を傷つけようとするもの、最終的には君を不快にさせただけで《オートマティスム》はそれを破壊するようになるかもしれない。核兵器を超える力でね……」
「そんな……それじゃぁ私は気付いたら人を殺していたりするっていうんですか! 私……どうしたらいいんで―――あっ!」
ことねさんの左手が人間では視認不可能な速度でオレの首をつかんだ。二メートルの距離は物理的にあり得ない感じで縮められた。そしてそのままオレを持ちあげる。傍目から見れば女の子が大人の男を片腕で持ち上げている光景だ。
「ぐあっ……き、きっと君を困惑させたから……オレを……」
「やめて!離して! お願い!」
ことねさんは自分の左腕をつかむがどうにもならない。オレはことねさんの左腕をつかむ。
「接……続。開門!」
オレは左腕に……《オートマティスム》に攻撃をしかけた。
「強制介入! がぁっ! 侵入!」
オレの首を絞める《オートマティスム》の力が徐々に弱まっていく。そしてオレは左手から解放され、地面に尻もちをついた。
「危なかった……オレの技が効いてよかったぜ……ゲホッ。」
「だ、大丈夫ですか……あ、あの……今のは……」
「普通は……切り離さないとヴァンドロームは倒せなくて……Sランクともなると切り離す時の痛みで死ぬんだけどね……オレは切り離さずに攻撃できるんだ……たぶん《お医者さん》で唯一ね。」
オレは首を抑えながらVサインをする。ことねさんの顔に笑顔が浮かぶ。
「さっきも言ったように……治療、つまり《オートマティスム》を倒すことはできない。少なくとも今のオレじゃ無理だ。だけど……今のオレでも一時的に弱らせることはできるみたいだ……」
「あ、来ましたよ。」
運ばれてくる料理を見て嬉しそうにすることねさん。
あれから……ざっと一年、ことねさんはオレの助手として、同居人として傍にいる。最初のころは四六時中一緒にいると言ってことねさんはオレから離れなかった。いつ左手が動くのか怖くてたまらないという感じで。だが一年間の研究や練習のおかげである程度はことねさんの意思で抑えられるようになった。
普通の『エイリアンハンド』と違って『勝手に動く左手』=《オートマティスム》なのでやりようによっては制御可能なのだ。今じゃ買い物にも行ける。このまま行けば《オートマティスム》を完全にコントロールできるようになるかもしれない。倒すことは不可能だから最終的な目標はそうなる。
しかし……そうなったらことねさんは世界最強の存在になるなぁ。
「……ことねさんが助手になってもう一年か。」
「なんですか突然……」
運ばれてきたクラブサンドを食べながらことねさんが不思議そうな顔をした。
「いやね、ことねさんも立派に《お医者さん》の卵だなぁと……」
ことねさんは現在十七歳。(オレは二十五だ。)普通なら高校に通ってるとこだが……あの事件以来学校には行っていない。《オートマティスム》のこともあるが……一緒に暮らし始めてからしばらくした時、ことねさんが言ったのだ。
『先生。私に《お医者さん》を教えてください。』
もともとことねさんは《医者》を目指していた。人助けができる仕事をしたかったのだとか。実際頭もいいから何もなければ《医者》になっていただろう。だけど《お医者さん》という存在を知ってしまった。《お医者さん》の絶対数は《医者》より少ない。だけども明らかに《お医者さん》の方がやばくて必要だから……《お医者さん》になりたくなったのだそうだ。だからオレはことねさんに《お医者さん》を教えている。
一年で基礎知識はばっちりと言ったとこか……
「ことねさん。」
「はい?」
「そろそろ知識以外のことをしようか。」
「!」
ことねさんは目をまんまるにする。
「……本当ですか?」
「……なんでオレがここで嘘つくのさ……」
「ありがとうございます!」
本当に嬉しそうだな……オレがあの人からそろそろ実戦をやるって言われた時は一日中逃げ回ったもんだったが……ことねさんはすごいなぁ……
オレも運ばれてきたオムライスを食べる。……別にめちゃくちゃうまいわけじゃないんだが……いつもこれを頼んでしまう。
しばらくモグモグと口を動かしていたオレとことねさんは突如乱暴に開けられた店の扉にびっくらこき、そっちを見た。
「ミートボールは置いてるか!」
「はい?」
店員さんが呆けながら答えた。
「ミートボールはメニューにあるか!」
「……ありませんが……」
「ぐああああああああああ!」
入ってきた客は悲鳴をあげて倒れた。
「あっはっは。先生、あたしの勝ちですね! 今日のお昼はおごりですよー。」
倒れた客の後ろから女性が入ってきてそう言った。
「先生……あの人って……」
ことねさんがオレを見る。
「ああ……」
倒れた客は和服に袴、加えて異様に底の高いゲタをはき、口にキセルを加えていた。女性のように長く伸ばした黒髪のそいつの名前は小町坂篤人。『篤人』と書いて『あつんど』という絶対読めない名前の男だ。
対してあとから入ってきた女性は……確か小町坂の助手の一人だったな。名前は確か……高木……なんとか。
「あれ? 安藤先生じゃないですか。」
(たぶん)高木さんがオレを見つける。
「んああ!? 裏切り者の安藤か!」
小町坂が走ってオレの横に来る。
「ぬあ!? ことねちゃんと昼飯とはうらやましい! 俺のとこには年増のババァしかいなばぁあぁ!」
高木さんのフライングクロスチョップを受けて小町坂は再び倒れた。
「お隣いいですか? 安藤先生。」
「……んああ……」
オレの横に高木さんが座る。のろのろと立ちあがった小町坂はことねさんの横に座った。
「なにすんだよ高木! なんか『いなばぁあぁ!』とか叫んじまったじゃねーか! ウサギか!」
「さっきの発言は帰ったらみんなに言います。病院内の女性が全て敵にまわると思って下さいね。」
そんな二人の会話を聞いてことねさんが呟いた。
「……楽しそうですね。」
「ことねさん、オレ達は平和だな。」
小町坂はメニューを五秒ぐらい眺めてスパゲッティを、高木さんはハンバーグを頼んだ。
「なぁなぁことねちゃん、俺のとこに来いよー。」
「私、小町坂さんに会う度にそう言われてる気がします。」
「俺んとこは甜瓜診療所よりでかいし普通の《医者》もやってるから……お金には困らないんだぜ!」
小町坂のとこは確かに大きい病院だ。白樺病院ほどじゃないが。
この街の病院と言ったら小町坂のとこ。ここら辺の人はみんな小町坂のとこに行く。ちなみに白樺病院は電車でちょっと行かないとないが信頼のあるデカイとこだ。
「小町坂は院長だしな。小町坂自身も金持ちだし……確かにそっちの方が金には困らん。」
「ほれ! 安藤もこう言ってることだしよ! 俺には若い助手が必要なんばぁああ!」
高木さんの眼つぶしを受けて小町坂は両手で顔を覆う。
「すみませんけど……私は先生の助手ですし……いざという時に私の左手を止められるのは先生だけですし……」
「ほら、先生。溝川さんが困ってるじゃないですか。」
「だが! こんな可愛い子がこんなアホと貧乏二人暮らしだぞ!」
「はっはっは。小町坂よ、実はそれほど貧乏ではなかったりするんだぞ? ほれ。」
「ああ? うお! 『お食事券十万円分』!? どうしたんだこれ!」
「《オートマティスム》がことねさんに十分な食事をして欲しいと思ったらしくてな……商店街で当ててきたのさ。」
「……ヴァンドロームに助けられる《お医者さん》ってなんだよ……」
「だけど、ことねさんの最終目標は完全なコントロールだ……共存っていう考えも大事だろう?」
「共存……ですか。」
ことねさんが呟く。
「《オートマティスム》って人間並みの知能なんですよね?」
「へたすりゃオレたちより上だね。」
「……一度ぐらい会話してみたいとは思いますね。」
「あ。」
運ばれてきたスパゲッティを食べる小町坂は思い出したようにポケットに手をつっこみ、オレに一枚の紙切れをよこす。
「……?」
「招集だ。お前、いい加減甜瓜診療所を登録し直せよ。いちいち俺のとこに来んだぞ? 嫌味か!」
「……オレはあそこの院長になる気は無いよ。」
言いながらオレは紙切れを開く。
「先生、それはなんですか?」
「んん?そういえば……ことねさんは知らないか。一年に一回だからね。ちょうどことねさんに会った二、三日前にあったから……そうかそうか。知らないか。」
まだ教えてないことがあったか。いやでもこれは……あんま関係ないか?
「ことねちゃん、それは『半円卓会議』の招集さ。」
小町坂が説明する。
「『半』……ですか。」
「ああ。《医者》と《お医者さん》の会合だな。それぞれの世界のトップが集まって今後を話し合う。《医者》の全てが《お医者さん》という存在、ヴァンドロームという存在を知ってるわけじゃねーからな。色々と調整が必要なんだ。」
「どうしてですか。何で教えないんですか?」
「《医者》になるのは……言ってみればエリートだろ? 職業は《医者》ですって言えば人生は成功したも同然……みたいな考えってあるしな。だから基本的にプライドが高い。全員がとは言わねーが……突然『あなたたちでは決して治せない病気があるんですよ。』なんて言われたらやっぱ騒ぎになる……それを考慮してのことだ。」
「そうなんですか。というか小町坂さん、さっきトップが集まってって言いました? 《お医者さん》のトップとして……先生が?」
「ああ、言い方間違えたな。確かに《医者》は……医学界のトップ、重鎮が集まる。だが《お医者さん》っつーのはほれ……上とか下を決めにくいだろ?」
小町坂が軽くため息をつく。オレはことねさんに質問してみる。
「さてことねさん。なぜ上下を決めにくいのでしょうか?」
ことねさんは目をパチクリさせ、「えぇっと……」と言って答えた。
「《お医者さん》が基本的に行うのはヴァンドロームを切り離して倒すこと……切り離す技術はだいぶ昔に確立されていますから全ての《お医者さん》が同じ方法をとる。でも倒し方は別だから……ですよね。」
ことねさんの答えに小町坂がパチパチと拍手する。
「おお、ことねちゃんはきちんと勉強してるなぁ。そう……例えるならとある一匹のライオンのし止め方。銃をぶっ放すのもいいし、罠を仕掛けるのもいいし、ぶん殴っても構わない。ヴァンドロームの倒し方も人それぞれってわけ。倒し方が人それぞれ過ぎる! ゆえに、誰がすごいだなんだという上下をつけ難い。」
「だから、《お医者さん》は《ヤブ医者》が招集されるんですね。」
「そーゆーことだ。だから安藤に手紙が来る。」
ことねさんがオレを見る。
「やっぱり先生はすごいんですね。」
「……ありがとう、ことねさん。」
確かにすごいのだがあまり歓迎することじゃない。
《ヤブ医者》という存在がいる。
ヤブ医者と聞くと腕の悪い医者、突拍子もない治療法を行う医者なんていうイメージがある。要するにダメな医者ということだが、《お医者さん》の世界では逆を意味する。
全ての《お医者さん》がたぶんそいつにしかできない治療法でヴァンドロームを倒しているからことねさんが言うように上下がつけ難い。そしてそれは腕の良し悪しをつけ難いということも意味している。
《お医者さん》の治療はすなわち戦いだ。ヴァンドロームはそのランクが上であればあるほど生き物としての能力も高い。つまり強いわけだ。
Aランクのヴァンドロームを倒せる。それはすごいことだが、それが出来る《お医者さん》でもEランクに負けることがある。すずめは鷹に勝てないがライオンとならいい勝負をするのでは? みたいな考え方だ。背中にのってツンツン突いていればいい。ライオンは手が届かないわけだし。
つまり、あのヴァンドロームにはこの戦法が有効だがこのヴァンドロームには通用しない……みたいな現象が生じるわけだ。
そして、こういった現象があるのだから……もちろんこんな現象も起こり得る。
『今までどの《お医者さん》も倒すことができていないヴァンドロームがいる。』
Sランクの場合ははまず勝てないのだから対象外だが、Aランクにもなればこんな現象を引き起こしてしまう強い奴はいるわけだ。
さて、長い間誰も勝てなかったヴァンドローム……言い方を変えれば今まで誰も治療できなかった……そんなヴァンドロームを今まで誰も思いつかなかった方法で倒した《お医者さん》がいたなら……そいつはどんな扱いを受けるだろうか。
他の《お医者さん》から『あいつはすげー奴だ。』と言われたり、尊敬されたり……とにかく他の《お医者さん》からは頭一つ出ることになる。
そんな《お医者さん》に対してついた称号が《ヤブ医者》なのだ。というよりは始まり。今となっちゃすごい治療をする人、脅威的な実績を持つ人に与えられる。
なんでこんなマイナスイメージの言葉が称号なのか。その理由は実に単純だ。
今まで誰も思いつかなかった方法でヴァンドロームを倒す。それはつまり、普通に考えれば笑いで一蹴されてしまうような突拍子もない方法で倒すということだ。へたすればその『今まで倒せなかったヴァンドローム』しか倒せないということもある。
今まで誰も出来なかったことをしたにはしたのだが冷静に考えたらどうなんだ? そんな感じで皮肉を込めた《ヤブ医者》という称号が出来あがったのだ。
一応《お医者さん》の世界じゃ嬉しい称号ではある。だがこの称号が持つ副作用が厄介だったりする。《お医者さん》の世界を知るものなら『へー、すごい人なんだなぁ。』という感想だが知らない人が聞けば『えっ? それダメじゃん。』という感想になる。
つまり、《お医者さん》の世界を知る人間が『あいつは《ヤブ医者》なんだよ。』とどこかで言う。それを聞いた知らない人が『あの医者はダメらしい。』と他の人に言う。それが広まる。そんな感じで《ヤブ医者》の所には患者が来なくなるのだ。人の口に戸は立てられず……評判と言うのはいつの間にか広がっているものだ。
そして《ヤブ医者》はそれを違うとは言えない。なぜなら確かに《ヤブ医者》と呼ばれているのだから。しかも《お医者さん》の世界のことをやたらめったら言うことは禁止されている。《お医者さん》としては人々にこの世界のことを知ってもらいたいと思うことは確かだ。ヴァンドロームの仕業と知らずに、普通の《医者》では治療できずに亡くなる患者さんもいるのだから。
だがだからと言って《お医者さん》自身が話をするのはいただけない。例えるなら何かのマニアがそれの良さを教えようと何かを言った所でわからない人にはわからない。意味わかんないと一蹴されるだろう。ほんの少しでも興味を持った人、関わったことのある人に対してでないとマニアの話には価値が生じないのだ。
小町坂の言ったように、いきなり《お医者さん》の存在を言うことはパニックのもとだ。だから昔の《お医者さん》たちはこう決めた。
人々の中に自然と広がるのを待とうと。きちんと《お医者さん》のことが認知されるにはそれなりの時間が必要だと。よって《お医者さん》が《お医者さん》の世界の話をするのは患者さんに対してのみと決められているのだ。
この決まりにより、《ヤブ医者》は何も知らない人の中で評判が落ち、患者さんがあまり来ず、貧乏になるという結果が生じるのだ。
だから基本的に《ヤブ医者》はどこかの病院と提携し、患者さんを紹介してもらう。しかし、《医者》も全員が《お医者さん》の存在を知っているわけではない。ある程度『上』の人間になるか、知り合いに《お医者さん》がいるか、ひょんなことで知るか。提携を結ぼうとしてもそこの《医者》が《お医者さん》を知っているとは限らない。だからやっぱり《ヤブ医者》は貧乏なのだ……
オレの場合は腐れ縁の奴が白樺病院にいるからなんとかなっているが……やはり普通の《医者》としての活動がし辛いというのはイタイ。
「先生?」
ボケっと《ヤブ医者》について考えてたらことねさんが心配そうに見てきた。
「んあ……大丈夫。」
ことねさんはそこでふとオレが手にしている紙に視線を落とした。
「……はい。見てもいいよ、ことねさん。」
「あ……すみません。」
少し恥ずかしそうに紙を受け取り、内容を読むことねさん。
「先生、この会議に《ヤブ医者》は何人ぐらい来るんですか?」
「ん? 全員だよ。」
「全員ですか!」
「全員って言っても今いる《ヤブ医者》は全部で二十八人だし。」
「二十八……それだけしかいないんですか。その内の一人……やっぱりすごいですね。」
「そうですよ!」
そこでハンバーグをもぐもぐと食べていた高木さんが言う。
「しかも安藤先生は……ただの《ヤブ医者》じゃないですしね! 今まで誰もやったことのない……というか誰も出来なかった偉業、『ヴァンドロームを切り離さずに倒す。』をやってのけたんですからね! しかもその方法は全てのヴァンドロームに効果があって……Sランクの力さえ弱まらせると来てます! すごすぎです!」
高木さんが目をキラキラさせてオレを見る。
「ありがとう……」
でもこの技術の大元はあの人のだしなぁ……
「あー、あたしも安藤先生に教わりたいですー。」
「オレ一人で二人の生徒はちょい無理かな。」
「おい高木、俺の教えはダメだってのか?」
「先生のはただの雑用じゃないですか!」
「何を言う、その中に修行がな……」
「ありません。そもそも教える気ないですもんね。」
「お前もなる気はないだろう……《お医者さん》。」
「まー最初は……でも溝川さん見てると……」
「この野郎。」
「あたし野郎じゃないです。」
「まあまあ……」
なんでオレが仲裁を……
「あ、おい安藤。」
「ん?」
「今度……つかこの後時間あるか?」
「……一応オレも診療所を開いてる人間だからな。この後は仕事だ。」
「誰もこねーだろうに。」
「バカ言え、さっきも一人治療したとこだ!」
「……なら俺がそっち行く。」
小町坂がうちに? そこまでのことなのか?
昼食をすませ、オレとことねさんと小町坂は甜瓜診療所へ向かう。高木さんは小町坂の病院へ帰っていった。
小町坂の病院にはなにも小町坂しか《お医者さん》がいないわけじゃないから常に病院にいなきゃいけないというわけじゃない。
「んで? なんの用なんだ?」
歩きながらオレが尋ねると小町坂はポケットからクシャクシャの封筒を取り出した。
「協力要請だ。」
「クシャクシャですね……それってカルテですよね?」
「いいんだよことねちゃん。カルテなんて主治医が読めれば。」
いいわけないが……協力要請か。
協力要請。《お医者さん》じゃよくあることだ。簡単に言えば『このヴァンドローム、オレだけじゃ倒せないから手伝ってくれ。』ってことだ。そしてオレはよく小町坂から協力を頼まれる。だがだからと言って小町坂の腕が悪いとかそういうわけじゃない。
小町坂は日本古来の術式を扱う《お医者さん》だ。世界中にある魔法とか儀式とか呼ばれる代物の中で、とりわけ日本のそれは対象の『拘束』に特化している。小町坂の手にかかればたいていのヴァンドロームの動きを完全に封じることができる。だからそれなりのベテランから協力要請がかかることもある。《お医者さん》の中で『拘束』に関して小町坂の右に出る者はいないと言っていい。
だが反面、小町坂は……俗に言う攻撃力というものが極端に低い。Cランクが限界という感じだ。それより上となると一日中攻撃しないとならなくなる。だからBランク以上になると小町坂は誰かに協力を要請するわけだ。
甜瓜診療所が見えてきた。相変わらずボロい外見だなぁとオレがしみじみ思っているとことねさんがオレの白衣の袖を引っ張った。
「先生。遠目だとボロさが目立つなぁとか思っているところ悪いんですけど、お客さんがいますよ?」
「ん?」
よく見ると入り口の前に人が立っていた。扉の前をウロウロしているそいつは真っ黒なロングヘアに白衣の女性だった。
「おい、安藤。あれって藤木か?」
「ああ……」
オレ達が近づくとそいつはオレの方へまっすぐと歩いて来て―――
「このバカ!」
「うぼぁっ!」
オレにボディーブローを決めた。
「キョーマ! あんたも医者なら常にいなさいよ! 急患が来たらどーすんのよ!」
「で……でもうちは月に一人来れば良い方……」
「それでよく生活出来るわね!」
「多少はあてがあるからな……」
「えっ、初耳ですよ? 先生。」
しまった。ことねさんは知らなかったんだった。まぁ今はそんなことよりも。
「るる、お前は何でここに?」
藤木るる。昔からの腐れ縁……幼馴染というやつだ。親同士の仲が良く、小さい頃から家族単位での付き合いをしている。ともに《医者》を目指していたんだが……オレはあの人に出会ったことで《お医者さん》になった。るるは《医者》だ。白樺病院の次期院長と噂されるすご腕の《医者》であり、ヴァンドローム絡みの患者さんにオレを紹介してくれている。たぶんこいつの紹介がなかったなら、甜瓜診療所には年に一人くらいの患者数になる。
「ちょっと質問がしたかったのよ!」
「電話で済ませろよ……」
「電話がつながってるか怪しいモンだし、ちょうど時間が空いたのよ!」
「……安心しろ、電話はつながってる。」
言いながらオレはとりあえず二人の客人とことねさんを中に入れる。いつもの癖で診察室の椅子にオレが座ると小町坂はさっき佐藤さんが座っていた席に座り、るるは傍のベッドに座った。ことねさんはお茶を用意しに台所へ。
「めずらしいこともあんだな。安藤のとこに客が同時に二人。」
「なに? あんたも用なの? 小町ちゃん。」
「その呼び方やめろ!」
「……んで……どっちの話から聞けばいいんだ? オレは。」
「どうせ小町ちゃんは協力要請でしょ。長くなるんだからアタシが先に言わせてもらうわ。」
「へいへい……そして小町ちゃんはやめろ。」
このやり取りはだいぶ前から続いているから小町坂の奴もだんだん注意する元気が失せてきている。
「昨日か今日あたり……視界に症状が出た患者さんが来たでしょ。」
「ああ、午前中に来た。紹介どうも。」
「そ、ならあと四人もよろしく頼むわね。」
「な!? 四人!? なんでそんなに!?」
「その様子じゃ気付いてないのね。」
るるはポケットからメモ帳を取り出してそこに書いてあることを読み上げた。
「白樺、五人。岳樺、三人。八重皮、六人。水芽、二人。鵜松明、四人。アタシの顔がきく所に聞いて調べたんだけど……これ、何の数だと思う?」
「まさか……ヴァンドローム絡みの……?」
「そう、しかも今週だけでね。異常でしょ?これの理由が聞きたかったんだけどね。」
一つの病院にヴァンドローム絡みの患者さんが一週間に五人とか来るということはだいぶ異常だ。年間千人くらいが常だったんだが……
「……これだけの事態なら『半円卓会議』で議題になる。近々あるからそこで情報を得てくるよ。」
「よろしくね。」
そう言ってるるはトコトコとやって来たことねさんが持ってきたお茶をお盆から取るとイッキに飲みほし、とっとと出てってしまった。
「さすが院長候補は忙しそうだな。」
「院長が何を言ってんだ……お前のとこもやっぱ患者さんが?」
「そうだな……言われてみればちょっと多いかもな。」
言いながらクシャクシャになってたカルテを広げてオレによこす。
「……なるほど。」
オレはそのカルテのある部分を指で隠してことねさんに見せた。
「さぁ、ことねさん。この患者さんは何にとりつかれているでしょうか。」
カルテ。《医者》も使うが《お医者さん》のカルテには一か所だけ普通は無い項目がある。それは『ヴァンドローム名』だ。
「えぇっと……」
ことねさんはカルテをじっくりと眺める。そしてオレを見てこう言った。
「《トライリバース》です……か?」
「正解です。よくできました。」
「すげーな、ことねちゃん。俺ならわからないな。」
「お前が書いたんだろが、これ。」
「バカ、名前は図鑑を見て書いたんだ!」
「自慢気に言うな……」
「でも小町坂さん、これならすごいわかりやすいですよ。患者さんの性別が男の時点でだいぶ絞られますし。」
「確かに少ないけどよ……それなりにいるぜ?」
『男の時点でだいぶ絞られる。』これはヴァンドロームが基本的に女性につくからだ。
『元気』の味というか……質は放出した生き物の年齢や性別で大きく変わる。年寄りの『元気』よりも若いやつの『元気』の方がおいしい……など。
人間で言うなら、だいたい中学生から大学卒業、新入社員あたりの年齢が一番うまいとか。小さい子供が持つ純粋な『元気』よりも、いろいろな知識とか、責任が混ざった『元気』の方が絶妙な味を出す……らしい。
そして、男性よりも女性が好まれる。これは女性が子を産むからだ。自分以外の命を体内で育てるということは大変なことだ。重くなっていく赤ん坊を支えながらの生活、並大抵の『元気』ではこなせない。だから生まれた時から男性と女性では『元気』の質が異なる。ヴァンドロームにしかわからないが、女性の『元気』に含まれる栄養とでも呼ぶべきものは男性のそれを遥かに超えるらしい。故においしいのだそうだ。
よって、ヴァンドロームにとりつかれるのは大半が若い女性となる。それゆえ、《お医者さん》には女性は向かないという意見が一般的だ。医者の不養生となってはカッコがつかない。
「《トライリバース》……Bランクですね。」
「そう。俺だと丸二日は攻撃し続けないと倒れない。二日も攻撃する以前に二日も術を発動させておくのは骨だ。」
《トライリバース》は少し変わったヴァンドロームだ。人間に食の好みがあるように、ヴァンドロームにもそういうのがあって、《トライリバース》が好きなのは男性の『元気』だ。だからこいつは男性にとりつく。
「症状は『下半身麻痺』。進行度がイエローって書いてあるが……ってことは。」
「ああ。この患者にはもう感覚がない。」
「え、感覚がなくなるんですか?」
ことねさんが初めて聞いたという感じに尋ねてきた。
「ああそうか。図鑑とかにはざっくりとした書き方しかしてないもんね。」
オレはことねさんのおへそ辺りを指差す。
「下半身って聞くとこの辺りから下でしょう?」
「はい。」
「でもこの場合の下半身っていうのはもうちょっと限定的なんだ。」
「というと……?」
「両脚のみ。普通、下半身麻痺って言ったら脊髄とかの損傷によるもんだからトイレとかも自分では出来なくなったりするんだけど……こいつの場合は本当に両脚のみなんだ。」
「なら両脚麻痺って書いておいて欲しかったですね……」
「いやいやことねさん。下半身の大半は脚だよ。それに、両脚限定だからか知らないけど……症状はハンパないんだ。」
「感覚がなくなるんですか?」
「それでもレッドではないんだ。《トライリバース》の下半身麻痺はね、グリーンが麻痺で動かせない状態。イエローが痛覚とかの神経がダメになって感覚がゼロになる状態。そしてレッドになると……それが自分の脚であるという事実に違和感さえ覚えるようになる。」
「どういうことですか、それ。」
「《トライリバース》は両脚の麻痺っていう情報を通常よりも多く、深く脳に伝えてしまうからね。あんまりその状態が続くと脳が『そもそも脚ってなんだっけ?』という認識になってしまうんだ。」
カルテを眺めつつ小町坂が呟く。
「確か俺が聞いたとこじゃ……レッドになった奴がなんのためらいもなく両脚をノコギリで切断したとか。理由を聞く医者に対して言った言葉が……『いらないじゃないですか。なんなんですかね、これって。』だそうだ。」
「認識にまで影響が……」
「ヴァンドロームの症状は普通じゃないからね。ことねさんも実戦をつめばだんだんと理解できるようになるさ。」
オレはお茶を飲み、小町坂を見る。
「Bランクだからな。知能もそれなりにあるが……お前の術なら問題はないよな。いつも通りお前が切り離さない状態で動きを止めて、オレが倒す……で良いか?」
「いつもならそうなんだがな……」
小町坂はため息をついた。
「今回は……切り離す。」
「理由は?」
「患者の要望だ。」
「え……わざわざ痛い思いをしたい患者さんってことですか?」
ことねさんが困惑している。オレもだ。
「そうだぞ。Bランクっつったら切り離す時の痛みは結構なもんだ。気絶は十分あり得るし、人によってはショック死だぞ。」
「ああ。俺もそう言った。だがな……」
小町坂がカルテに書いてある名前を指差した。
「こいつの名字、どっかで見覚えないか?」
そこに書いてある名前は高崎修一。高崎? ありふれた名字過ぎてわからない。
「お前な……『半円卓会議』に出席してるクセになんで気付かないんだよ。」
「…………?」
本気でわからない……
「あ。先生、高崎って言えば有名な人がいますよ。《医者》に。」
「……あ。高崎正義か。あの心臓の手術で有名―――」
そこまで言って思いだした。
「……そういや高崎正義ってその分野の権威で……『半円卓会議』にいたなぁ……」
「……先生、何でそんな偉い人のことを忘れるんですか。」
「他の人……というか《ヤブ医者》の面子が濃すぎて他の面子の影が薄れるんだよ……」
「んまぁ《ヤブ医者》だもんな。変な奴が多そうだ。」
小町坂がオレを見る。
「……オレはそこまで変じゃないと思うぞ。」
「…………まあいい。話を戻すが、この高崎修一は高崎正義の孫なんだよ。《医者》を目指してて……イマイチ《お医者さん》を信じてない。だから言うんだよ……『この僕にそのヴァンドロームとやらを見せてくれよ。』ってな。」
「……目の前で倒せと言われたわけか。」
「そういうこと。だから切り離して倒す。あの大物の孫だからな……なかなか文句を言えない。」
小町坂はこれでも一つの病院の院長。へたな発言をして《医者》のお偉いさんから冷たい目で見られるわけにはいかないのだ。
「わかったよ……ならある程度はダメージを与えてから切り離そう。ヴァンドロームは切り離されると暴れるからな。元気一杯の状態で暴れさせることもない。」
「そうだな。時間とかは追って知らせる。」
そう言って小町坂は帰っていった。
オレは湯飲みを机に置き、ことねさんに尋ねる。
「ことねさん、切り離しは何回くらい見た?」
「先生がやったとこは見たことありませんけど、小町坂さんが見せてくれたのが三回ほど。」
「ランクは?」
「EとCですね。」
「そうか。なら……教える必要があるねー。」
「さっき言ってた……知識以外のことってことですか?」
ことねさんが少し緊張した表情になる。
「うん。頭に叩きこむ知識じゃなくて身体に覚えさせる知識。折角Bランクの治療を見るんだし、とりあえず切り離しから教えるとしましょう。基本だしね。」
「はい!」
ことねさんはさっきまで小町坂が座ってた椅子に座り、メモ帳とペンを取り出してオレを見る。
「んじゃまずは確認から。切り離しってのはそもそもなんで必要なんだっけ?」
「全てのヴァンドロームは『元気』を食べる際、『食眠』に入ります。ヴァンドロームがその状態のままだと治療がしにくいからです。」
『食眠』。昔の《お医者さん》が冬眠をもじってつけた名前だ。ヴァンドロームにとっては『元気』はえさだ。それがないと餓死してしまう。だから確実に摂取しなければならないモノだ。しかし『元気』はその辺に転がっているようなものではない。蚊のように他の生き物から奪うものだ。そして蚊とは違い、ヴァンドロームはそれなりに大きな生き物だ。摂取しなければならない量はそれなりである。
故に、一度とりついたら確実に十分な量を摂取する必要がある。とりつかれたことがバレて追い払われるばかりでは十分な栄養が取れない。そこでヴァンドロームという生き物は進化した。
まず、自分の身体を見えなくする。透明になるわけではなく、カメレオン的に見えなくするのだがカメレオンとは比較にならないレベルで見えない。
そして全神経を集中させ、外界からの接触を避ける。ようは触られることがないようにする。空気の動きや臭いから自分に接近する物体を認識して避ける。
この二つの行為により、ヴァンドロームは食事に集中できるわけだ。もっと言うなら食事という行為しかしない。
『食眠』に入ったヴァンドロームは非常に倒しにくい。見えないし攻撃は当たらないから。だからこの状態を解く、つまり食事を止めさせないと倒せないのだ。食事を止めさせるのに一番効果的なのはもちろん、口を対象から離すこと……つまりは切り離し。
「正解。昔、つまり切り離しの方法が確立される前の《お医者さん》にとっては『食眠』を解くことが最大の難関だった。確かにそこにいるのだから密室に閉じ込めてだんだんと部屋を小さくしていくなんていう方法がとられたりなんかもした。」
「でもそれだと……ヴァンドロームが人間よりも小さい場合は患者さんの方が先に潰れてしまうことになる……ですよね。」
「そう。だからやっぱり切り離す必要があった。そんな時、切り離しの方法を考え出したのは……誰でしたかな?」
「えっと……歴史上最初の《ヤブ医者》と呼ばれる、ドクター・ポーです。」
「そうだね。ヒステクラ・ポーさん。彼がその方法を確立させました。とりあえずその方法を教えるよ。」
「お願いします。」
ことねさんは真剣な表情になり、メモをとる準備をする。オレは立ちあがり、奥の方に置いてあった人体模型を引っ張り出す。
「基本的にヴァンドロームがとりつくのは背中です。そこが一番とりついた相手にバレにくいからね。」
「中にはお腹あたりにつく奴もいますよね?」
「身体が小さい奴はね。でもとりあえずは背中からの切り離しからいくよ。」
オレは人体模型を回し、背中がことねさんに見えるようにする。
「まず、知能が低いCランク以下は全て同じ場所にくっつくんだ。人間の構造を考えた時、一番良さそうなとこだね。どこだかわかる?」
「……背骨……ですか。」
「その通り。多くの神経が走り、なおかつ身体の中心を貫くモノだ。症状を引き起こすヴァンドロームたちにとってはいいスタート地点。そこから体内にそれぞれの方法で特殊な成分やらなんやらを流し込んで……発症させる。」
「でも先生、背骨……というか背中についていることがわかるなら背中をまんべんなく触診したらその内ヴァンドロームの口に触れませんか?」
「確かにね。唯一確実にわかることとしてヴァンドロームの口が背中にくっついているということがあるからそれを探せばいいっていう考えはあったよ。でもヴァンドロームは食事を中断してでもバレないということに徹するんだよ。つまり一時的につなげている口を外してでも。」
「となると……やっぱり目で見る感じですか。背骨なら外からも場所がわかりやすい場所ですし……意外ととりついていることって目で見てわかる感じなんですか? 皮膚の一部がへこんでるとか。」
「あはは。目で見てわかるってことは何かが触れていることにとりつかれている人も気付くってことだよ。」
「あ、そうか……そうですよね。さすがに触れていることに気付きますよね。やっぱり蚊の針みたいな感じで痛みを感じなくて、なおかつその場所を見ても何もないように見えるレベルの接触なんですか?」
「中にはその場合もある。でもそれじゃぁがっちりと固定できなくて食事に集中できない。だから多くの場合は気付かれないように偽装する。」
「偽装ですか。」
「人間の身体はやわらかいから指で押せばへこむし、指が押しているということは触覚によってわかる。だからこの二つを偽装するわけだね。」
「……触覚は……麻酔みたいのをうてば……」
「おー、その通り。触覚はヴァンドローム特製の麻酔で麻痺させるんだな。見た目の偽装方法はわかる?」
「……?」
ことねさんが首を傾げる。
「見た目はね、偽の皮膚を被せるんだ。」
「えぇ? 何ですかそれ。」
ことねさんがすっとんきょうな声をあげた。ま、オレも最初聞いた時はびっくりしたけど。
「いや、そのままだよ。へこんでいる場所を偽の皮膚で覆って隠すんだ。パッと見なにもないように見える。」
「偽の皮膚って……特殊メイクじゃないんですから……」
「ヴァンドロームは食事していることがバレないように進化した生き物だから。ほら、クモの糸だってさ、その辺のワイヤーなんかとは比べ物にならない強度を誇るでしょう? 自然界では想像を超えるモノが作られるのだよ、ことねさん。」
「はぁ……」
「しかもヴァンドロームがとりつくのは人間だけじゃないからね。あらゆる生き物の皮膚をコピーできるんだよ。そこに毛があるならその毛の数から位置まで完璧にね。目で見て判断するのはまず不可能だよ。」
「改めて思いますけど……ヴァンドロームってすごい生き物なんですね。それでいていざ戦いになっても強いんですから。」
「そうだね。」
オレは机の引き出しから未来の銃みたいな機械を取り出す。
「なんですかそれ?」
「……ドクター・ポーは切り離しの方法を確立させたってことで有名だけど、厳密に言えば『ヴァンドロームが皮膚を偽装出来る』ってことと『偽の皮膚の見分け方』を発見したからすごいんだよ。」
オレは機械のスイッチを入れ、ことねさんに向ける。
「先生?」
「うん……三十五度か。ことねさんの平熱って低いんだね。」
目をぱちくりさせることねさんに機械を渡す。
「あ……これってサーモグラフィーってやつですね。」
サーモグラフィー。熱を持つ物体が放射する赤外線を感知して対称の温度を示す装置だ。
「偽の皮膚は本物に比べて若干温度が低いんだ。だからそれで探す。んで見つけた偽物をそこからはがすとヴァンドロームが『バレた』と認識して、『食眠』を解くわけだね。そこでようやく戦闘開始。……昔はこんなんなかったから触診で探してたんだって。すごいよね。」
「でもこれで探すとなると……服を脱がないといけませんよね? 小町坂さんもこんな感じの機械を使っていたのを覚えてますけどやっぱり患者さんは背中を出していました。」
「そうだね。温度差はホントにちょっと違うだけだから服の上からじゃわからない。中にはどこにくっつくかわからないヴァンドロームもいるからその時は裸になってもらう必要があったりするから大変だね。」
オレがそういうとことねさんが再び首を傾げる。
「でも先生の治療で背中を出してもらったりしているとこは見たことないような……」
「オレは……ほら、治療法が治療法だから服の上からでもいいんだ。というかオレの場合は服の上からでもわかると言うか。」
「……先生。」
突然ことねさんの声のトーンが落ちた。
「ん?」
「もう一年になりますけど……私、先生の治療法を詳しく知りません。やってることといったらただ患者さんに触れるだけですし……」
「うん……まぁ……」
「《お医者さん》の勉強を進めて行けば行く程に先生の治療方法がどれだけ型破りなのかがわかります。《ヤブ医者》と呼ばれるのも理解できますよ。」
ことねさんはだいぶ真剣な顔で聞いてきた。
「先生は……一体何をしているんですか?」
「……思うに……きっとことねさんがそれを疑問に思ったのは今が初めてってわけじゃないんだよね?」
「はい。かなり前から……実戦を教えてくれるようになったら聞こうと思っていたんです。」
先生は困り顔だった。基本的に、私の質問には丁寧に答えてくれる。でもこんな反応をする先生は初めてだ。
「えぇっとね……」
先生は頭をかきながら、机の引き出しから分厚い百科事典みたいな本を取り出した。
「オレのは……あの人の理論に基づく治療法でね。あの人がたどり着けなかった場所にオレがバトンを受け取ってたどり着いただけなんだ。だからオレは……オレの治療法を他人には説明しないって決めてるんだ。あくまでこれはあの人の理論だ。オレが語っていいもんじゃない。それに、オレが話すと誤解を生む。真実ではないことをそうだと思わせてしまうんだ。」
そう言いながら先生はその分厚い本を私に渡した。
「でもね、別に門外不出ってわけじゃない。オレが話さないのはオレのけじめ。だからことねさんがオレの治療法のことを他から知るのは構わない。」
私は本を受け取る。その時感じた重さはきっと質量だけの話じゃない。なんとなくそう思った。
先生の話にはよく『あの人』が登場する。その人が先生の先生だという事は知っている。この診療所を建てたのがその人だということも。だけどそれだけじゃない……私には想像もつかないことがその人とあったことは明白だ。小町坂さんは何か知っているみたいだけど、私が聞くと『俺からは話せないな。』と言って教えてはくれない。
私は知りたいと思う。これだけすごい人がここに留まる理由を……
受け取った本を開く。
「え……」
それは本ではなかった。何冊ものノートがくっついて出来た分厚いノート。そこに手書きで書かれている文章は呪文のようだった。
「んま、それ、英語なんだけどね。」
ノートをパラパラとめくるが全てのページに文章がびっしり。ときどき図のようなモノがあったりするが……それを見てもこれが一体何について書いているモノなのかはかまったくわからない。
おそらく、これは何かの研究書だ。たぶん、先生の言う『あの人』の。
「これが……ここに書いてあることが答えなんですね……」
「うん。暇があったら解読してみるといいよ。」
今の私にあるのは高校生程度の英語力。それでこんな専門用語だらけの文章を訳せるわけはない。でも―――
「……借りますね。」
「うん。」
その夜のこと。私と先生は寝間着で晩ご飯を食べていた。
私たちは基本的にお風呂に入ってから晩ご飯を食べる。なぜなら先生が白衣を脱ぐ時というのが寝間着の時だけだからだ。白衣で晩ご飯というのはやっぱりどうなんだろうと思い、私がその順番を提案した。
ちなみに私は家から持ってきた水色のパジャマで先生はジャージだ。
「うん。これはおいしいね、ことねさん。」
先生が私の作ったハヤシライスを食べながらそう言った。
私と先生は交代でご飯を作る。朝昼晩(昼は外に行くこともある)をその日の担当が作るのだ。もともと一人で暮らしていた先生は料理が出来る。でも私はそうではなかった。だから最初は苦労したけど、一年もやるとそれなりの腕前になる。
「家族の人も喜ぶね。診療所から帰った娘が料理出来るようになったってさ。」
「そうですね。お母さんのお手伝いも出来そうです。」
私は先生と一緒にここで暮らしているけど別に家族がいないわけじゃない。私の家はお母さん、お父さん、お兄ちゃんの四人家族だ。
私のお父さんは《医者》だ。だから私も《医者》になりたいなと思っていた。人のではなくて動物のだけど。
あの事件が起きた時、私の左手を止めた先生はお父さんに質問攻めにあった。あれは一体なんなのかと。先生は《お医者さん》の世界のことを話した。最初は《医者》であるお父さんは信じなかった。インチキと言って先生から私を遠ざけた。
その後、しばらくしてから私の左手が勝手に動くということが判明し、お父さんはすぐに『エイリアンハンド』を疑い、専門の《医者》を訪ねた。だけど専門の《医者》は言った。原因がわからないと。
ヴァンドロームの症状は本当にその症状しか引き起こさない。普通なら脳のどこかにダメージがないと発症しないような症状でも、脳になんのダメージを与えることなく症状だけを引き起こす。
焦るお父さんに私は言った。あの先生に会いたいと。
さすがに渋ったお父さんも手段を選んでいられなくなり、先生を訪ねた。そして訪ねた時、先生はちょうどヴァンドロームにとりつかれた患者さんを治療をしていた。今思うと奇跡のようなタイミングだった。めったに患者さんは来ないから。
その患者さんの症状を聞いてお父さんは診察を試みた。そしてやっぱり自分の知識にないことが起きていることを理解し、先生が治療した後に患者さんが『治った!』と叫んだことで《お医者さん》の世界を認めた。
最初に私と先生だけの対話。その後、お父さんと先生は今後について話し合った。
私が左手に対して尋常じゃない恐怖を抱いているということ。
左手に宿るモノの正体とその力のこと。
制御できないということが何を意味するかということ。
現段階では治療法がないということ。
そして……唯一、先生だけが暴走を止められるということ。
話し合いの結果、私は先生と一緒に住むことになった。初めの頃、私は怯えていて先生から決して離れなかった。お父さんも毎日のように見に来た。でも、《お医者さん》という存在を深く知れば知る程に、私は《お医者さん》という職業に興味を持つようになり、お父さんは《お医者さん》という存在が自分と同じだということに気付いた。
そうして私は《お医者さん》を志し、お父さんは《お医者さん》を……先生を心から信用するようになった。そうして今にいたる。
昔のことを思い出していた私はふと思ったことを先生に聞く。
「先生、今私が使ってる部屋って元は何に使ってたんですか?」
「なんだいいきなり。ことねさんの部屋は……物置だね。」
「……物置にあったモノは今どこにあるんですか?」
「ほとんど捨てたよ。もともといらなくなったモノを適当に押し込んでただけだったからね。ことねさんが来たのを機に捨てたんだ。」
「例えば何があったんですか?」
「えっとね……バーベル、拳銃、爆弾、わら人形―――」
「何ですかそれ!?」
私の驚きに先生はあははと笑いながら答える。
「主に《ヤブ医者》の知り合いからもらったオレにはなんの意味もない代物だね。」
「《ヤブ医者》知り合いって……なんかすごいですね。気になるんですけど、他の《ヤブ医者》ってどんな治療法を行うんですか?」
「治療法かぁ。己の筋力のみで戦う奴とか日本刀を振りまわす奴とかいるよ。」
「はぁ……」
どんな治療法なんだ……日本刀はまだ武器だから良いとしても、筋力っていうのはつまり素手ということだ。中には鉄以上の硬さを誇る身体を持つヴァンドロームもいるのに。
「おおそうだ。それで思いだしたぞ。」
先生はスプーンをビッと立てて言う。
「ことねさんの最終目標は《オートマティスム》との共存って言ったでしょ?」
「はい。」
「あれはね、別に前人未到ってわけじゃないんだよ。」
「え……ということは、既に共存している人がいるってことですか!?」
「うん。さすがにSランクじゃないけどね。Aランクとの共存を実現してる奴が《ヤブ医者》にいるよ。というかだからこそ《ヤブ医者》になった感じだね。ほら、Bランク以上でヴァンドロームは人の言葉を話すでしょ? てことは『気が合う』っていうことが人間とヴァンドロームの間にあってもおかしくないんだよ。」
それもそうだ。《お医者さん》の敵=ヴァンドロームになっているけど、互いに知能を持っているなら仲良くもなれるはずだ。
先生は空になったお皿を持って台所に向かう。
「おかわりですか?」
「うん。ん? ごはんが一人分しか無いけど、ことねさんはまだ食べたい?」
私は少し考えてからいらないと答えた。
「じゃぁ食べちゃうよ。」
ハヤシライスをお皿に盛って先生が帰って来た。そして座った瞬間に手にしていたお皿を奪われた。
「……ことねさん?」
「……私じゃありません。」
なぜか私の左手が先生からハヤシライスを奪っていた。奪ったハヤシライスを私の前に置いた私の左手は器用に私の右手からスプーンを奪ってハヤシライスをすくい、私の口元に持ってきた。
「先生……」
「うん……たぶん《オートマティスム》がことねさんにもっと栄養をとって欲しいと思ったんじゃない? 年齢的にはまだ育ち盛りだしね。」
「はぁ……いいんですか?」
「いいよ。」
傍から見ると私は左利きの人になるけど私は左手に食べさせられているというのが現状という不思議な状態になった。
「そういえば先生。」
「うん?」
「『半円卓会議』ってどこでやるんですか?」
「イングランドだよ。」
「先生がそっちに言ってる間、私はどうしてればいいんでしょうか?」
そこで先生は不思議そうな顔をした。
「ことねさんは来ないの?」
「え、……モグモグ……行っていいんですか?」
「そりゃ……会議に出席するのは《ヤブ医者》と《医者》のトップだけど、会議室の外で誰が待ってようと文句は出ないよ。」
「あ……そうですね。」
私はなんとなく恥ずかしくなってうつむこうとしたのだけども左手がハヤシライスを持ってくるから出来なかった。
「それにね、《ヤブ医者》の弟子も何人か来ると思うからいい刺激を得られるよ。《お医者さん》を目指すためのね。」
「助手じゃなくて弟子ですか。」
「《ヤブ医者》の技術ってのは仮に特定のヴァンドロームにしか効果が無いとしてもそれはそれで失ってしまうのは惜しい技術だからね。んまぁ、強制ではないけども《ヤブ医者》が自分の技術を伝えるために弟子を持つことはよくあることだよ。」
「……私は……先生の弟子ですか……?」
さっきのレポートにも関係してくる事柄だから恐る恐る尋ねる私。
「いや、ことねさんは患者さんで助手で生徒だね。」
言葉はいつも通りだけどやっぱり表情がいつものニコニコ笑顔じゃない。
「オレの治療法、あの人の理論を継ぐ的なことはね、あのレポートを読んでから考えることだよ。」
「先生は……弟子を持つ気はないんですか?」
「あんまり。でもあれのことを理解した上で継ぎたいっていう人がいるならそれはそれで素直に嬉しいよ。」
いつもとは違う表情になる先生。やっぱり先生の技術はそんなに軽くないんだ。私には考えられないような何かがあるんだろう。それでも私は……
「それに、もっといろんなモノを見ることを勧めるよ。ことねさんはオレと小町坂しか見たことないでしょう? 《お医者さん》の中で誰かのとまったく同じ治療法をする人は少ないから出会った《お医者さん》の数がそのまま見たことある治療法になるからね。」
「そういえば個性的ですよね。それなりに人数がいるんだから同じ人がもっといても良さそうですけど。」
「同じ科目でも先生が違うだけでわかりやすい、わかりにくいがあるのと同じだよ。誰かとまったく同じやり方でモノを教える教師はいないでしょ。それと同じだね。縛りが少ない分、個性が出る。」
「そういう……モグモグ……もんですか。」
食事の後は私も先生も自由行動だ。私は先生からもらった教科書を読んだりノートを書いたりしている。たまに趣味のジグソーパズルをする。
私の部屋は家に住んでいた頃と変わらない。よく『女の子っぽくない』と言われる飾りの少ない部屋。一応今までやったジグソーパズルが並んでいるんだけどな。
「たまに思うけど……やっぱり先生には謎がいっぱいだ。」
治療法も確かに謎だけど、一番の謎はお金。患者さんの来なさ加減といったらという感じなのに細々と生活できるお金はある。私がここに来たからといって火の車っていうわけではなさそうだし。小町坂さんとかは貧乏人呼ばわりするけどホントのとこはどうなんだろう?実はお金持ちの家系の御曹司だったりするのかな。
先生の部屋を覗いたことがある。何に使うのかよくわからないモノがあふれるおもちゃ箱みたいな部屋だった。しかも天井からはお星様が吊るされているし、壁には子供の落書きみたいな絵が貼ってあったりするのだ。
「唯一使い方がわかったのは壁に立てかけてあった金属バットだけだなぁ。」
オレは自分の部屋でぐったりと寝っ転がっていた。
「なんか……あの人の話になるとオレって嫌な感じになるなぁ……」
ことねさんに嫌われたかもしれん。一緒に住んでいる身としては忌々しき事態だぞ。
しかし……ことねさんを弟子にか。考えたことなかったな。できればことねさんにはことねさんだけの治療法を見つけて欲しいんだけど……あれが伝わるのは嬉しいしね。複雑だ。
「どーすればいいんすかね?」
オレはあちこちへこんでる金属バットを持つ。そして見る。そこに書いてあるへたくそな文字を。
翌日の朝、ことねさんがあわててオレの部屋に入って来た。
「せんせ痛っ! 何か踏んだ! たまには片付けてくださ―――じゃなくて先生! 患者さんです!」
のそりと起きあがったオレはホウキとチリトリを持ったことねさんを見る。
「ことねさん、わかったから……ホウキで叩かないで……」
「私じゃありません。」
適当に着替えて白衣を羽織ったオレはあくびをしながらことねさんについていく。すると受付の前に人がいた。
「おはようございますぅ。」
なんだか気の抜けるあいさつをしてきたのはオレと同様に眠そうなおばあさんだった。たぶんるるが紹介したんだろうが……『おばあさん』とはね。
「おはようございます。しかしまた随分早く来ましたね。まだ開院してませんよ?」
オレがそう言うとおばあさんは申し訳なさそうに答えた。
「失礼なのは承知しております。ですが……起きている内に行かないとと思いましてねぇ……」
ふむ、そういう症状なのかな。
「いいでしょう。こちらへどうぞ。」
おばあさんを椅子に座らせ、オレとことねさんは定位置へ。
「さて、紹介状を拝見。」
オレは紹介状を受け取る。るるが書く紹介状は適当極まりなく、患者さんの名前が書かれていないこともしょっちゅうだ。だからオレはまず最初に名前を聞く必要がある。
「オレは安藤享守。こちらは溝川ことねさんです。あなたのお名前は?」
「梅宮しずこです。」
「梅宮さん。それではどんな症状か教えてもらえますか。」
「はい……」
梅宮さんはどう説明したらいいのやらという顔をする。ヴァンドロームの患者さんは大抵この顔になる。
「不眠症……というのでしょうか。ですが眠れないわけでもなくてですね……その、時間が不規則と言いますか……」
「え……」
と呟いたのはことねさんだ。オレも少し驚いた。
ヴァンドロームは基本的に若い人にとりつく。とは言っても例外がいないわけではなく、年配の人に好んでとりつく奴もいる。だが、その珍しいヴァンドロームの中に今梅宮さんが言った症状を引き起こす奴はいないのだ。
「梅宮さん。あなたの症状は……つまり、寝ようと思っても眠れないのに、ある時突然睡魔が襲ってくる……という感じですか? 時間に関係なく。」
「ああ! そうです。さすが専門の方ですねぇ。」
オレとことねさんは目を合わせた。その症状を引き起こすヴァンドロームは《ファンシフル》という奴だ。だがこいつが年配の人にとりついたという記録は今までない。こいつも一般的なヴァンドロームと同じように、若い年代にとりつくからだ。
「そうなんですよ。お友達とお話している時やお散歩をしている時に突然眠くなるんです。なのに夜、布団に入っても眠くならないんです。時々眠れるんですけど……」
……さて、本来ならここで《お医者さん》の世界を説明するわけだが、相手が年配の人、もしくはまだ子供の場合はそうはいかない。完全に新しいことを教えるわけだからそれなりの理解力が必要になる。年配の人と子供の場合は普通に説明しても理解してもらえないことが多いのだ。
「わかりました。梅宮さんはなかなか珍しい病気にかかってしまったようですね。」
こういう場合、オレは適当に誤魔化すことにしている
「これは『不規則性不眠症』と言いましてね、歳をとるとかかることがある病気なんですよ。とは言ってもこの病気にかかる人は本当に一握りでしてね。」
ことねさんが「適当な病名だなぁ。」という顔をしているが気にしない。
「珍しい病気なんですか……あの、治るんでしょうか?」
「御心配なさらず。この病気、確かに珍しいのですが……すぐに治るんです。」
オレは普段使わない聴診器を机から引っ張り出す。
「ですがそのために少し背中を見せてもらいますよ。」
「あ、はい。」
梅宮さんはくるりと椅子を回して背中を向けてきた。
「お医者さんにとは言いましても……この歳になって見せるのは恥ずかしいですねぇ。」
そう言いながら梅宮さんは上着に手をかけた。だけど梅宮さんが服をまくることはなかった。
「……?」
「あ、先生。梅宮さん眠ってます。」
《ファンシフル》が引き起こす眠気はおそらく何をもってしても抗えない。だから睡魔が来たら眠るしかない。時間を選ばないからこいつはヴァンドロームの中でもかなり面倒な奴として有名だ。
「ホントだ。でもいいタイミングと言えばいいタイミングだね。」
「……聴診器なんか取り出して何しようとしてたんですか?」
軽くホコリをかぶっている聴診器を元に戻しながらオレは答える。
「ヴァンドロームのことを説明しないで背中を見せてもらうには聴診器を見せるのが一番効果的だからね。」
「ああ……なるほど。」
オレは梅宮さんの背中に手を置く。
「接続……」
先生が治療を始めた。いつも通り、背中に手を置いているだけだ。何をしているのかはまったくわからない。
……《ファンシフル》がこんな年配の方にとりつくなんて。私の知識は本からの知識だから実際はこういうこともあるのかと思って先生を見たけど先生もびっくりした顔だった。
《ファンシフル》はEランクでそこまでの知力がないから本能に従って動く。だからとりつく相手の年齢は一定のはずなのに。
まだ誰も知らないヴァンドロームの生態でもあるのかな。
二分ぐらい経った頃、先生の表情が変わった。
「んな……」
先生は信じられないという表情だった。どうしたんだろう?
「……ことねさん、オレの部屋からバットを持ってきてくれる?」
「え……?」
「……《ファンシフル》を切り離すよ。」
私は質問しようとしたけど先生の表情が真剣だったから急いで先生の部屋に向かった。先生の部屋のバットと言えばあの金属バットだろう。私は壁に立てかけてあったそれを手に、急いで戻る。
「持ってきました!」
「それじゃ……《ファンシフル》を切り離したらことねさん、それで思いっきりぶん殴って。」
「な、殴る!?」
「頼むよ!」
すると先生が梅宮さんの背中に当てていた手を何かを掴むような形にする。そして刺さっている棒でも引抜くように手を引いた。
梅宮さんの身体が一瞬ビクッとなる。たぶん痛みが走ったんだろう。
「……! これが……」
今まで何もなかったはずの空間におばけのように一体のヴァンドロームが出現した。
それは……大きな目玉だった。直径五十センチくらいの目玉にそれより小さいいくつかの球体が連結して尻尾のようにくっついている。
「キャルルルルルルッ!」
どこに口があるのかよくわからない姿のくせに奇声を発したそれは部屋を横切って出口へと向かう。
「ことねさん!」
先生が叫ぶ。とっさのことに私は反応できなかった。だけど私の左手はバットを握り締め、それを《ファンシフル》に振りかざした。
外見に反した硬い音がし、《ファンシフル》は数度のバウンドの後に床に倒れた。そして、太陽の光を浴びてしまった吸血鬼のように灰になり、空気に消えていった。
ヴァンドロームの奇妙な生態の一つとして、死んだら身体が灰になるというのがある。《お医者さん》の歴史はそれなりに長いのに症状を強制的に発症させる物質とかが判明していないのはそのためなのだとか。先生が言うにはその物質なり方法なりが判明してしまうと対策を取られてしまってヴァンドロームが食事できなくなるからそれを恐れての仕組みらしい。
自分の身体を灰にする命令がDNAに書かれているとは恐ろしい生き物だ。
「御苦労さま。」
先生が私の肩に手を置く。すると私の左手はバットを離す。先生が床に転がるバットを拾い上げた時、私はそこに書かれている変な言葉を目にした。
「?」
私がその言葉を口に出して読もうとした瞬間、梅宮さんが目を覚ました。
「あれ……眠ってましたか?」
「そのようですね。ですが診察は終わりましたので大丈夫です。」
そう言って先生は机の引き出しから飴玉を取り出す。あれはヴァンドロームのことを説明しなかった場合、薬と言って渡すものだ。
「これ、お薬です。外見も味も飴玉ですけどきちんとしたお薬ですのでご心配なく。これを食後に舐めてもらえば治ります。」
「え……一個でいいんですか?」
「ええ。これで十分なんですよ。もしもまた発症したらその時はまた来てください。」
不思議な顔をして帰っていく梅宮さん。それを見送った私はすぐに受付から診察室に戻る。
「?……先生?」
先生はさっき《ファンシフル》が灰になった場所をじっと見ていた。
「ことねさん、これ見て。」
先生が指差した場所を見る。そこには何かが落ちていた。例えるなら……メカメカしたブローチだろうか。真ん中に赤い水晶のようなものがあって、まわりを機械的な何かが覆っている五センチぐらいの何か。
「……これ、どこから?」
「《ファンシフル》の体内。」
「え?」
「治療中に気付いたんだよ。あの《ファンシフル》の体内に生物的でないもの、異物があることにね。それで切り離したんだ。」
さらりと言ったけど……つまり先生の治療法にはヴァンドロームの体内を把握するという過程があるのか?
先生は一応ゴム手袋をして謎の物体を掴んだ。だけどそれは掴んだ瞬間にヴァンドロームのように塵になった。
「……もしもあの物体が《ファンシフル》を年配の人にとりつかせたとしたら……」
先生はそんなことを呟いた。
「よし、も一度おさらいな。作戦はこうだ。」
翌日、私と先生は小町坂さんのとこに来た。うちの診療所とは比べ物にならない大きくて立派な病院だ。名前は晴明病院。どこかの有名な陰陽師からとった名前だそうだ。そこの院長室で私たちは作戦会議をしている。
小町坂さんの院長室はなんだかおもしろいことになっている。日本刀が置いてあったり、星のマークが貼ってあったり、ろうそくがたくさん並んでいたりと、いかにもという感じだ。
今日は小町坂さんの協力要請の日。例の高崎というお偉いさんのお孫さんの治療の日だ。
昨日の《ファンシフル》の件はとりあえず『半円卓会議』を待つということで落ち着いた。結局一番情報が集まる場所がそこなのだそうだ。藤木さんが言ってた患者さんの増加も気になるところだ。
「俺が結界で動きを制限。安藤がいつも通り、《トライリバース》に攻撃を仕掛ける。……いつもよりペース遅めでな。」
Cランク以下は知能が低いからそもそも先生の攻撃に気付かないらしい。攻撃されていることに気付かない攻撃ってあんまりイメージできないけど……とにかく知らぬ間にやられるというわけだ。ますますもって先生の治療法はおそろしい。
でも、Bランク以上のヴァンドロームだと先生の攻撃に気付き、患者さんから自分で離れて先生を攻撃しようとするのだとか。だけど、先生はそれを許さない。切り離し時の痛みはこっちからやろうとヴァンドローム自身で離れようと同じだ。患者さんに痛みを与えないため、Bランク以上のヴァンドロームが相手の時、先生はいつもより攻撃のスピードを上げるのだ。
「安藤がいつも通りやると瞬殺だからな……」
そう、本当に瞬殺だ。Cランク以下の治療よりも速い。どうしていつもそのスピードでやらないのかと言うと、先生がフルマラソンを走った後の人のように疲労するからだ。
「つまり、俺たちはわざと相手に反撃のチャンスを与えるわけだ。そうすっと《トライリバース》の方で勝手に出てくる。俺たちが切り離す必要ないわけだな。そこをまぁ……攻撃する。」
「大丈夫なんですか? Bランクですよ?」
私がそう言うと小町坂さんは笑った。
「なっはっは! 仮にも安藤の攻撃を受けてんだからな、出てきた時点ですでに瀕死だ。」
私がなんじゃそりゃという顔をしていると先生が私に言った。
「オレの下で勉強してるとどーしても……ヴァンドロームとの直接戦闘を経験できないからね。今日の治療はいい経験になるよ。」
「はい!」
「失礼します。」
私が身を引き締めると同時に看護婦さん……あ、いや、看護師さんが入って来た。高木さんだ。
「高崎様が。」
「ん、来たか。」
病院の入り口に私たちは並ぶ。目の前にはリムジン。初めて見た。
「いやー出迎え御苦労さん。」
ボディーガードというかヤクザの人というか、そんな感じの人に車いすを押されて高崎修一が登場した。
「まったく、こんな田舎くさいとこに僕が来るとはね。」
「はっはっは。空気がおいしいでしょう?」
小町坂さんがひきつった笑顔で答える。
「《お医者さん》ねぇ……いや、別に信じてないわけじゃないんだよ。ああ、ああ、いるいる。ヴァンドロームはいるさ。でもねぇ、君たちが医者を名乗っていることがむかつくんだよね。僕らはものすごい勉強を重ねてさ、命を背負ってるんだよ。それがなんだい、君らは。ちょこっと背中いじって呪文を唱えれば治療完了? ふざけてるのかい? しかもそんな君らも患者から見たら僕らと同じくくりになってるのがむかつく。」
小町坂さんの顔がひきつり過ぎてよくわからない表情になっている。
「それに? 君らが治療すんだろ? 袴姿のアホと便所サンダルのバカと白髪の女。アホらしい。」
高木さんが入ってない……ただの看護師と見られたのかな……私は逆に白衣をしてるから《お医者さん》に数えられたのかな。それにしても失礼な人だな。不愉快だ。
「おいおい高崎さん。あんまりバカにするなよ?」
さすがの小町坂さんもヒクヒクしている。
「悪い悪い。でも心配で心配で。僕で医療ミスを起こすなよ? あ、起こしようがないか。だっはっは―――」
グシャアッ!
次の瞬間、高崎修一が乗って来たリムジンが潰れた。それはもう見事にペシャンコに。
「―――は?」
高崎修一が口を開けたままリムジン……だったものを見た。
「な……なななな?」
「オレたちをバカにするってことは……」
そこで先生が目を閉じながら独り言のように言った。
「間接的にヴァンドロームを『呪文一つでやられてしまうような矮小な存在』って言ってるようなもんですよ。」
「そ……それが……?」
「あなたにとりついているのはBランク。オレたちの会話も理解できます。あんまり怒らせない方がいいですよ。人間を遥かに超える生き物なんですから。」
先生がかっこいい。珍しいモノを見た気分になっている私の肩を先生が掴んで小声で言った。
「……大丈夫? ことねさん。」
そう……先生にはわかっている。今のが私の左手、《オートマティスム》の仕業だと。たぶん、私が高崎修一の発言を不快と思ったからだろう。
「すみません……」
今のが高崎修一相手に行われていたら……確実に目の前の車いすの人は潰れていた。
「いや……スッキリしたし、ある意味成長だよ。」
先生の言っているのはこういうことだ。
『以前の《オートマティスム》なら確実に高崎修一を殺していた。』
先生と暮らし始めた最初の一週間、私の左手は事あるごとに先生を殺そうとした。
初めてのことだらけで不安になる私を安心させようと、私の知らない世界を教えてくる先生を排除しようとしたんだろう。先生はそう言っていた。
でも私はこう思っている。今まで誰も手を出せなかったSランクの自分に初めて攻撃をした《お医者さん》。それは脅威以外の何ものでもない。《オートマティスム》は初めて倒される恐怖を感じ、先生を殺そうとした。
でも先生自身が言うように、そもそもSランクは人間では倒せない。《オートマティスム》もそれを理解したのか、先生を殺そうとするのは止めた。なにより先生がいなくなると私がもっと不安になるということを感じたんだと思う。
《オートマティスム》は時間が経つにつれて学習していった。私が、何に対して恐怖するのか、何を不安に思うのか。
初めの頃は……犬に吠えられればその犬は壁に叩きつけられたし、いかにも不良という感じの人は私を見ただけで十メートルは宙に舞った。
でもそれをすることで私がもっと不安になることを理解した《オートマティスム》は段々と手荒なことをしなくなっていった。やるとしても誰かに危害が及ぶような事はしなくなった。
リムジンを潰したのはそういう理由だ。
「……見る度に思うけど《オートマティスム》って念力が使えるのかねぇ? 基本的に触れることなく攻撃するよね。」
「そうですね……商店街の福引を当てるくらいですもんね。超能力者かもしれません。」
私と先生がこそこそ話している間に高崎修一はガクガクブルブルしながら病院に入って行った。
「さ、俺らも行くぞー。」
「うい。」
「はい。」
「は、早く治療してくれ!」
高崎修一は部屋の真ん中にぽつんと座っている。さっきまでの威勢はどこにいったのやら、今にも泣きそうだ。
ここは体育館みたいな広い空間だ。ただし床に描いてあるのはコートのラインじゃなくて魔法陣みたいな模様。
「静かに願います、高崎様。いま、先生が準備をしているので。」
この前会った時とは別人のような高木さんがぴしゃりと言う。先生こと小町坂さんは筆を手にして床にいろいろ書いている。
「先生、あれは何をしているんですか? 前に見た時よりも書く量が多いですけど。」
「オレにはわからないよ。小町坂が日本古来の術式を使うって事以外はさっぱりだね。これもおもしろいことでさ、《お医者さん》の治療法って他人が見てもわからないんだよね。本人以外は。」
先生はニコニコしながら腕を組む。
「どういう状態が良くてどうなったら都合が悪いのか。聞いたとこで意味不明だしね。ま、当たり前だよね。その《お医者さん》が《お医者さん》として編み出した唯一無二の治療法が多いから……説明しただけで理解出来たら困っちゃうよ。」
……それが普通だから……今まで小町坂さんも先生の治療法について聞かなかったのかな? それとも小町坂さんは何か知ってるのかな?『あの人』のことは知ってるみたいだけど。
「うっし、出来た。」
小町坂さんがそう言った瞬間、床の模様が光り出した。
「これは黒金緊縛式・神牢加羅混弾劉絶結界と言いましてね。対象の―――」
「いいから始めろー!」
「あ、そうですか?」
小町坂さんがニヤニヤしながら床に手をついた。
「んじゃ縛られたくなかったら俺と武者ぶるいで震えていらっしゃる高崎様以外、陣から出ろよ。」
「おい、小町坂ー。どうして手をつくんだー?」
「これはなー、古くは昔々の平安時代から続く経理宗の不知火影定様がな―――」
「いいから早く!」
小町坂さんと先生がニヤニヤする。私もクスクスと笑う。
「では―――」
小町坂さんがぶつぶつ何かを言い始めた。お経のように聞こえるけど……何て言っているのかはわからない。先生を見るけど、先生もさっぱりという感じに両肩をあげた。
数十秒経った後、小町坂さんがふぅと息を吐く。
「安藤。」
「ん。」
小町坂さんと入れ替わり、先生が陣(?)の中に入る。そして高崎修一の背中に手を置いた。
「接続。」
先生が治療をしている間、小町坂さんが隣に来たので先生の治療法について聞いてみた。
「うーん……『あの人』の理論をどうとか聞いたことあるけど……具体的に何をしているかは知らねーな。」
「そうですか……」
「基本的に、《お医者さん》が他人に自分の治療法の詳細を教えるのは弟子だけだしな。ま、見るだけで何してるかわかるような治療をしてる奴もいるけどな。」
誰かを思い出したのか、ニヤリとする小町坂さん。
「何をしているかはわからない。だが少なくとも……安藤っつー《ヤブ医者》はすごい奴だよ。それだけは信じて良い。」
それは私も理解しているけど……
「……ん。」
そんな会話をしていると先生が私たちをちらりと見た。
「出て来るぞ。……高崎さん。」
「は、はい!?」
「……痛いですよ。かなり。」
そう言った瞬間、高崎修一の背中から何かが飛び出した。正確にはもともといたモノが見えるようになったのだけど。
「ぎゃあああああああああああああああっ!」
高崎修一の叫びと共に現れたのはもちろん、《トライリバース》。Bランクのヴァンドロームだ。
五メートルはある巨体。筋骨隆々な身体。だけどそれは上半身だけの話で、下半身はない。例えるならランプから出てきた精霊のような下半身が幽霊的な感じになってる姿だ。黒々とした身体は夜に溶け込めばまったく見えないだろう。唯一違う色をしているのは人間で言うところの頭部に光る逆三角形の形に並んだ三つの赤い目。
『うぬぅ! 折角見つけた美味を……』
口がどこにあるのかわからないが、その外見とはかけ離れた紳士的な声が響く。
『許さん! 我が拳にて肉塊にしてくれるぞぉっ!』
空想の中の住人のような姿のそれは部屋を崩壊させんばかりの声で吠えた。
私は初めて見たBランク……というよりはしゃべるヴァンドロームにびっくりしてその場で動けなくなった。だけどもやっぱり先生と小町坂さんはすぐに身構えた。
……何かの武術の構えをしたわけではないけれど。
「折角見つけた美味って……おいおい。お前は男好きなんだろ? いくらでもいるだろうが。」
小町坂さんがそう言うと《トライリバース》はガハハと笑った。
『バカを言え! 生き物は腐るほどいるがこの我が好む味を持つのは人間でしかあり得なく、そしてまたその人間の中でも極一部。希少なのだ。』
「その味ってのは?」
今度は先生が尋ねた。
『虚栄心!』
「ああ……」(先生)
「なるほど……」(小町坂さん)
「……」(私)
三人同時に、痛みで気絶した高崎修一を見た。
『中身が無いのに何かの後ろで踏ん反りかえる。最高だ! こんなに愉快な味は他にない!』
……ん? ということは……『元気』の味っていうのはその人の性格とかでも変わるのか。初めて知った。
『やっと見つけた味だ。我は長く味わうつもりだったのでな……あと一年は食べるぞ。故に……』
《トライリバース》が両腕に力を入れる。筋肉……なのかな。力こぶみたいに盛り上がった両腕を私たちに向けた。
『死ね、人間。』
ものすごく大きな音が響いた。私は音と共にやってきた飛来物を見てとっさに頭を両手でかばってしゃがんだ。
「……!?」
私のうしろに飛来物が落ちる。それは変な文字が書いてある石のようなモノだった。数秒見つめて、私はそれが小町坂さんがいろいろ書いていた床の破片だということに気付いた。
おそるおそる前を見る私。その目に映ったのは……
『……人間にしては良い反応だな……』
深々と床に突き刺さった《トライリバース》の腕だった。そしてその腕から一メートルもない所に先生が立っていた。
『一般的な人間では反応できない一撃だったのだがな……貴様、ボクシングでもやっているのか?』
「良く知ってるなぁ……ボクシング。」
『それなりの数の人間を食べたのでな。それより我の問いに答えろ人間。』
先生が攻撃を仕掛けた後での切り離しだから大丈夫……小町坂さんはそんなことを言っていた……今の攻撃ってあんまり余裕でいられない一撃に見えたんだけどな……
「ボクシングか? やってないよ。ただ……」
先生がポケットに両手をつっこんで言った。
「オレは《お医者さん》だ。」
『ふん!』
再び放たれる《トライリバース》の拳。私には速すぎて良く見えないのに……
「ほ、よ、うわ、おう!」
先生は何故か華麗にかわしている。先生の運動能力は……いや、そんなに高くなかった気がするけど……?
攻撃をかわしながら先生は小町坂さんの方を見る。
「おい小町坂。動き止めろよ。」
「俺がここに書いたのは『食眠』状態のヴァンドロームの拘束術式だ。その後は知らん。今から書くか?」
「いや……いい。もう時間だ。」
『ちょこまかとぉ!』
《トライリバース》の拳が迫る。それに対して先生はあろうことか片腕をあげ、手を開いた。つまり……拳を受け止めるようなポーズに。
「!? 先生!」
思わず叫んだ私の方を見て先生はニコリと笑って手をふってくれ―――じゃなくて前!
パン。
「……え?」
なんだか乾いた音が聞こえたと思ったら、先生が《トライリバース》の拳を本当に受け止めていた。片手で。
『な!? なぜ!?』
「最初に気付かなかった時点でお前の負けなんだ。自分の身体にはもっと気を使えよ?」
言いながら先生はあまりのことに呆然としている《トライリバース》の腕を引っ張り、その顔と思われる場所を自分の正面に持ってきて―――
「これで治療完了だ。」
デコピンをした。すると《トライリバース》の巨体が吹っ飛び、グルングルン回転しながら壁に激突した。
『バカ……な……』
そこで《トライリバース》は灰になった。
「二度と来るかこんなとこ!」
そんな捨て台詞を残して高崎修一は帰って行った。なんのために切り離しをしたのやら、気絶してしまって意味なく終わった治療のあとは部屋の片づけだ。
「くっそー……これだから高位ランクは嫌なんだ。床が……」
穴のあいた床を悲しそうに見つめる小町坂さん。口にくわえているキセルからモクモクと煙が出ている。私は壁に寄りかかっている先生に話しかける。
「先生。」
「うん、高崎修一なら大丈夫だよ。ちゃんと治ってるから。」
高崎修一は治療後も車いすで帰った。進行度がイエローやレッドになるとヴァンドロームを倒してもしばらく症状が残るのだとか。
「えぇっと……そうじゃなくてですね……先生さっき……なんかすごいことしてましたよね。」
「?……ああ。」
先生はあははと笑ってこう言った。
「違う違う。オレは何もしてないんだよ。したのは《トライリバース》の方。」
「え?」
「切り離す前にオレが攻撃をしかけた……あの時点で勝負は決まってたんだよ。だってあいつの身体に負けるような仕組みを仕掛けたんだからね。」
「???」
「あれを解読すればわかるよ。それまでは秘密だね。」
オレとことねさんは小町坂のとこをあとにした。相変わらずことねさんはオレの治療法に興味津津だけど……ま、ことねさんならその内自分で答えを見つけるだろう。
それよりも、実戦を間近で見た今だからこそ教えられることを教えよう。
「ことねさん。」
「あ、はい。」
「歩きながらだけど色々教えるね。」
「! はい、お願いします。」
ことねさんはメモ帳を取り出す。
「まず、今日の《トライリバース》は饒舌な方だったよ。」
「? 《トライリバース》は無口なんですか?」
「と言うよりはヴァンドロームが、だね。誰だって食事をじゃまされたら怒るよね。自分を怒らせた相手と仲良く会話する奴はめずらしいね。」
「はぁ、なるほど。ホントに性格が色々なんですね。好みも色々ありそうですし。」
「図鑑に載ってる性質を超える個性を持つ奴もいるから……いつでもセオリー通りというわけにはいかないとこが難しいところだね。」
「身体も……ですか? Eランクでもものすごく強いのがいたりとか……」
「いるにはいるけど『Eの中で強い』程度に収まるよ。それを超えたらそれはもはや突然変異。Sランクだね。」
「あ……そうか。今気付きましたけど……Sランクが突然変異ということは全てのSランクに元となったヴァンドロームがいるわけですよね。」
「うん。確かそういうのを研究してる《お医者さん》の意見だと《オートマティスム》は神経に異常を与えるヴァンドロームの突然変異じゃないかって言われてるね。まぁ、正解は本人のみが知るとこだけどね。」
「Sランク……先生は他に何体くらい知ってるんですか? 十数体いるって聞きましたけど。」
「そりゃ……確認されている奴全部だね……」
「え!? すごいですね!」
「いやそんなにすごくないんだよ。ただことねさんが……と言うかことねさんにあげた図鑑に載ってないだけだね。」
「そういえばあれにはSランクって載ってませんでしたね……」
「あれは《お医者さん》の卵のために作られた図鑑だからね……」
「卵だと知るのも禁止なんですか?」
少しことねさんの顔がふくれる。不満そうな顔が可愛いんだけど……
「ちょっとした事情があってね。ほら、Sランクってさ、おとぎ話に出てくるようなドラゴンとか天使みたいな存在だから……たまにその力を求める人が出るんだよ。なんせ街の一つや二つ、軽く吹き飛ばせる力だからね。」
「なるほど……先生、私は大丈夫ですよ。」
「そりゃことねさんはSランクの患者さんだしね。その力の怖さを知ってるから逆に安心だね。」
「なら他のSランクも教えてください、先生。私……《オートマティスム》のことをもっと知りたいんです。だから……そもそもSランクと呼ばれるヴァンドロームってどんな存在なのかを知っておきたいんです。」
「いいよ。別に教えることは構わないさ。直接会ったことある奴もいるしね。」
「えぇ!?」
「と言っても……三体だけだけど。」
「三体も……」
「一体は《オートマティスム》だけどね。」
「じゃぁあと二体は……」
「一体は……うん、今度ことねさんも会えるよ。『半円卓会議』でね。」
「それってどういう……」
「もう一体は……《イクシード》……」
「《イクシード》……どんな症―――」
そこでことねさんの言葉が途切れた。オレがことねさんを見るとことねさんは前を指差した。
「またお客さんですかね?」
前を見るとそこには甜瓜診療所がある。いつの間にか帰って来たようだ。
そして、扉の前にある数段だけの階段に人が座っていた。
若い男だ。金髪だが外人ではない。例えるなら……チャラい大学生だろうか。だるそうに座っていたそいつはオレたちに気付き、立ちあがった。
「もしかして患者さんですかね?」
るるが紹介状を書いた患者さんをオレはまだ全員診察していないからだろう、ことねさんがそう言った。だがオレにはそいつの表情が……診察を受けに来た患者さんには見えなかった。
「んあ。やっと帰って来たか。あんたが安藤享守?」
ポケットに両手をつっこんだままそいつはたずねてきた。
「……そうですけど。」
近づきながらオレが答えるとそいつはこう言った。
「ないすちゅーみーちゅー。そんでもって俺に拉致られてくれねぇ?」
オレとことねさんは呆然となる。なんだって?
「あれ? 女がいるな。そんな情報はなかったんだが……いつの間に弟子をとったんだ? 《ヤブ医者》さんよ。」
「……お前は誰だ……」
オレがそう聞くとそいつはニヤリと笑った。
「俺は高瀬。んまぁ下っ端さ。」
「何の……?」
「ある組織の。」
その時、オレの頭にはとある組織の名前が浮かんだ。
「お前まさか!」
「おおぅ!? おっかねー顔だぜ。んま、《お医者さん》なら当然か。」
高瀬と名乗ったそいつはスタスタと歩き、オレたちの横を通り過ぎる。そのまま十メートルくらい歩いた後、こちらに向き直った。上から見るとちょうど高瀬、オレたち、甜瓜診療所の順で並ぶ感じだ。
「先生? 知り合い……ですか?」
「いや……」
オレは戸惑う。あれを解読した時に話そうとしていた一つの真実。もっと落ち着いたとこで話したかったんだが……
「んあ? まさかそのお弟子さんは知らないのか。良いぜ、待ってやるよ。教えてやってくれ、俺たちの偉大さをよ。」
「……」
オレはことねさんを見る。不安そうな表情でこっちを見ることねさん。
「……ことねさん。今から話すことは……《お医者さん》の……裏だ。」
「裏……」
オレは深呼吸をし、話し始めた。
「ことねさんは火事場の馬鹿力って知ってる?」
「はい……緊急時に普通よりも力が出ることですよね。」
「単純に、科学的な見方で人間を見ると……理論上、人間は岩をも砕くパンチを放てる。でも普通はそんなことできない。なぜなら……その力を出してしまうと身体が壊れてしまうから。求める結果に対して負うリスクが大きすぎる。故にそんなことができないようになっている。」
「はい……」
「人間のそういう機能を見た時、『ある《お医者さん》』は思ったんだ。目的やリスクのために自身の能力を抑えている……そういうのがヴァンドロームにもあるんじゃないかってね。」
「ヴァンドロームに……?」
「ものすごい苦痛を伴う症状を引き起こす奴もいる。あまりの苦しさに暴れ出してしまうような症状を与える奴もいる。でもね、ことねさん……ヴァンドロームはその症状そのものでは相手を絶対に殺さないんだ。」
「絶対……」
「だってそれじゃ目的が達成できないから。『元気』を食べつくして相手を死に追いやるのはともかく、症状そのもので殺してしまったら意味がないからね。」
「そう……ですね……」
「生き物によって耐えうる痛みも違う。ヴァンドロームはそれに対応して引き起こす症状を調節しているはず。なら……あいつらが本気を出したらその症状はどれほど凶悪なモノになるのだろうか。さっき言った『ある《お医者さん》』は……それを実験してしまった。」
「そして成功した!」
そこで高瀬が大声で叫んだ。
「偉大なる先人は成功した! そして症状の調節を行わない、常にフルパワーの症状を引き起こすようになったそのヴァンドロームを自分にとりつかせた! すごいよなぁ!」
高瀬のその言葉を聞き、ことねさんは意味が分からないという表情でオレに問いかける。
「何ですかそれ……とりついた相手を症状で殺してしまうようになったヴァンドロームを自分に……? なんのメリットが……」
「ことねさん。サヴァン症候群って知ってる?」
突然のオレの質問に戸惑いながらもことねさんは答える。
「えっと……自閉症の人とかがなる……ものすごい記憶力を持つっていう……」
「そう……一目見ただけで全てを記憶。一度聞いただけで演奏可能。そういう能力……ことねさんはさ……それ、欲しいと思ったことない?」
オレの質問にことねさんは少し声のトーンを下げながら答えた。
「……少しは……」
「気にしないでいいよ。オレもだ。でもこの考えは健康だからこそ言えること。その記憶力は脳の異常によって引き起こされた異常。天才と呼ばれるサヴァン症候群の人たちは代わりに何かを失っている。」
そこまで言ってことねさんが気付いた。ヴァンドロームの……利用方法に。
「そうか……ヴァンドロームは……症状だけを……引き起こす……!」
「そうなんだよ。さすがに記憶力が上がるなんて言う嬉しい症状を引き起こす奴はいない。基本的に嫌な症状だよ。でもね、その出力を最大まで上げて、上手く利用すれば……それは一つの特殊能力なんだよ。ヴァンドロームは突然変異すると異常な力を持つ。それはつまり全てのヴァンドロームにそういう力の元があるってことなんだ。」
「それがつまり……制限をなくすってことですか……症状の。」
「最大出力の症状は……もちろん身体に負担をかけるけど……そのリスクを上回る能力になる。それを発見した『ある《お医者さん》』は……その力を利用することを提案した。」
「しかし!」
またも高瀬が口をはさむ。
「《お医者さん》の世界はそれを否定した! んま、無理もないよな。《お医者さん》の仕事はヴァンドロームの退治だ。それがヴァンドロームを強くしてしまうアイデアに賛同するわけがない。だから! 偉大な先人は《お医者さん》の世界から離れ、独自の組織を作った!」
「それが……さっき言ってた……」
「《パンデミッカー》。それが組織の名前だよ。」
「解説御苦労さまっす!」
高瀬が拍手をしながらそう言った。
「改めまして、俺は《パンデミッカー》の高瀬船一。上の人たちからあんたを連れてこいと言われたんだ、安藤先生?」
オレは一歩前に出てことねさんを後ろにかばう感じの位置に移動する。
「何故だ。そもそもお前たちはとっくの昔に……」
「そう、壊滅した。だけどな、俺らには目的があった。生き残った数人で見事復活を遂げたのさ! まぁ俺はその新生からのメンバーだけどな。」
「目的……?」
ことねさんの呟きにオレはぼそりと答える。
「選民思想だね……」
オレの答えに首をかしげることねさん。詳しくはまた今度ということにして……
「それで……何でオレを?」
「俺が聞きたいくらいだ。上の人たちが教えてくれねーんだ。ただあんたを最重要人物って言ってよー。あんた何ものなんだ? 《ヤブ医者》ってことしか知らねーんだわ。」
オレを求める理由。……原因はあの人か……
「さぁ……オレもわからないな。」
「あっそ。まいいや。とりあえず俺に拉致られてくれれば。」
「あいにく、オレには診察待ちの患者さんがいてね。残念だけど要望には応えられない。」
「いいよ。力づくでやるから。」
オレは後ろのことねさんに話しかける。
「気をつけて。あいつもたぶん……何かの症状を最大出力で使ってくる。」
「は、はぁ……」
改めて高瀬を見る。高瀬はポケットにいれていた両手を外に出す。その片方の手に何かが握られている。あれは……
「こより……ですね……」
ことねさんが後ろで呟いた。
こより。細い紙をより合わせて一本の紐にしたものだ。丈夫なものなら冊子をとじるときなんかに使うが……高瀬が持っているのはティッシュの切れはし程度のモノ。なら、その使い道はただ一つ。
「ぅん……」
高瀬は手にしたこよりを鼻の穴に突っ込んだ。
「先生……あれって……くしゃみを出させる時なんかに使うやつですよね……?」
そう。くしゃみを外的要因によって故意に引き起こすための道具。
「ふぁ……」
案の定、高瀬はくしゃみをする直前の独特な息使いになる。
「ふぁ……ふぁ……」
だんだんと身体をのけ反らせていく高瀬。そして―――
「ぶぁっくしょいっ!」
次の瞬間、まるで巨人の張り手をくらったかのようにオレとことねさんは後ろに吹き飛ばされた。鍵をかけていた診療所の入り口の扉に二人とも激突する。幸い扉についているガラスを割るようなことはなかったが―――
「いたた……なんですか今の……?」
ことねさんが頭を抑えながら身体を起こす。オレもその隣で起きあがる。
「……こういうことだよ……症状の最大出力っていうのは……」
「え……今のが……?」
「その通りだ!」
遠くの方で高瀬が叫んだ。
「俺にとりついているのは《ゴッドブレス》。症状はずばり『くしゃみ』だ!」
《ゴッドブレス》。Eランクのヴァンドローム。とりつかれるととにかくくしゃみが止まらなくなる。
「知ってるか? くしゃみの風速ってのは時速三百キロ以上あんだぜ? 風速八十メートル強! 竜巻にすら匹敵するその威力……リミッター解除すりゃこの通りってわけだ。」
「リミッター解除……随分かっこいい名前をつけたな……」
オレはのっそりと立ち上がった。……さっきこいつが場所を移動したのは……あのくしゃみでオレたちを叩きつける壁が欲しかったからか……周到だな。戦い慣れている。
「でも《ゴッドブレス》がついてるなら……わざわざこよりを使う必要なんかない気がするけどな……」
「リミッター解除したくしゃみが止まらなくなるんだぞ? 身体がもたねーっつーの。《パンデミッカー》にはな、ヴァンドロームのとりつき、切り離しのオン・オフを自在にコントロールできる技術があんだよ! こよりでくしゃみの準備をして、くしゃみする瞬間だけとりつかせる。そんな感じだ。」
……《ゴッドブレス》といえど、四六時中くしゃみがでるわけじゃない。ある時は止まらなくなり、ある時は大丈夫。そんな周期の繰り返しだ。とりつかせただけじゃくしゃみのタイミングを決められない。故にこよりを引き金にしてると……なるほど。
「あんたら《お医者さん》はヴァンドロームに対して強いだけだ。人間相手じゃただの一般人。無力な存在さ。おとなしくついてこいよ。」
高瀬がこよりを再び鼻に突っ込む。
「まぬけな顔で何言ってんだか!」
そう言ってオレは鍵を開けて診療所の中に入った。
「ぇえっ!? 先生!?」
あれは今、オレの部屋ではなく、この前みたいなときのために診察室にある!
「ただいま!」
ざっと十秒ぐらいで目的のモノをとって帰って来たオレはことねさんの横に立つ。
「戦うよ、ことねさん。」
「……そのバットでですか?」
オレが持ってきた金属バットを見てことねさんは半目で呟いた。
「こよりでのくしゃみ発動には幾分かのタイムラグがあるから……勝機はあるよ。バカみたいなくしゃみ以外は普通の人だしね。」
「突然言われましても……私『戦う』なんて今までしたことないですし……」
「大丈夫。ことねさんはここから何かをポイポイ投げててくれれば。」
「ふぁ……」
高瀬が発射態勢に入った。
「とりあえずことねさんは物陰に。さすがに建物を崩壊させるようなくしゃみは撃てないと思うから。」
「先生は……?」
「走る。」
オレは右手を右脚に、左手を左脚にそれぞれふとももあたりに置く。
「……明日は筋肉痛だね。」
先生はしゃがみこんでぶつぶつ言っている。私は言われた通りに診療所の中に避難する。
でも走るってどういうことだろう。先生の運動能力は……人並みだ。ヘタすれば私以下だ。随分前にスーパーのバーゲンセールのために二人して走ったことがあったけど……私がお店に着いた時、先生は遥か後方にいた。便所サンダルのせいかもだけど。
そもそも何でこんなことに? いきなり戦いって……ポイポイ投げるって……
《パンデミッカー》という人たちがいる。それは納得した。きっと《お医者さん》にとっては天敵みたいな……そんな存在なんだろう。
でもどうしてそんな人が先生を? 確かにすごい治療法を持ってるけど……別にヴァンドロームをとりつかせている訳でもないし。
私は左手を見た。ここには確かに《オートマティスム》っていうヴァンドロームがいる。だけどあの高瀬って人は先生が目的らしい。
なんだか突然の展開に私はついて行けていないみたいだ。とりあえず先生に言われたように投げるものを探し、受付においてあるペン立てを掴んだ。
「ふぁ……ふぁ……」
再びのけ反る高瀬の身体。ペンを何本か持って身構える私。
「ぶぁっくしょ―――」
高瀬の口から風速うん十メートルっていう速度の風が放たれるその瞬間。本当に一瞬のことだけど、私はその時確かに見た。
先生が私の視界から消えるのを。
「―――いっ!」
ゴォッ!
吹き付ける一瞬の突風。診療所の入り口の扉がすごい勢いで開き、中に風が吹き荒れた。物陰で目をつぶって耐えた私は風が止むと同時に外を見た。
正面には少し離れているけど高瀬が立っている。先生は……
「くぅらえっ!」
上空にいた。バットをふりかざしながら。
その高さはざっと十メートル以上。あんな高さから落ちたらひとたまりもない。いやいや……そもそもどうやってあの高さに!?
「はいぃっ!?」
さすがの高瀬も驚きを隠せないようだった。上を見てあんぐりしている。だけどすぐに表情を戻す。
「なにしたか知らねーが! 上からの奇襲なら俺がくしゃみをする前に攻撃できるとふんだか? だとしたら甘いぜ!」
すばやくポケットに手を突っ込み、そこから小さな瓶みたいなものを取り出した。あれには見覚えがある。台所に行けば大抵どの家庭にもあるそれの名前は―――
「こしょう!?」
先生が目を見開くと同時に高瀬がこしょうの容器のふたを開け、それを鼻に近付けて思い切り吸い込んだ。
「うぇあっくしょん!」
かなりの高度から落下してきたはずの先生はくしゃみの突風であっけなく吹き飛ばされる。上空でクルクルと回転しながら落ちてきた先生は診療所の手前あたりにきれいに着地した。
なんだこりゃ。私の知ってる先生はどこに……
「まだ終わらねーっくしょい!」
着地した先生の方に身体を向けると同時に高瀬がくしゃみをする。再び突風が吹く。だけど風が私のとこに来るころには先生はすでにその場にいない。
「あぁっくしょん! へっくしょん! ばっくしょん!」
こしょうを吸ったせいか、くしゃみを連発する高瀬。連続で吹き荒れる突風。診療所の前に竜巻が発生したのかと思うほどの光景の中、先生は便所サンダルで走り回っていた。……とんでもないスピードで。
私は……ペンを手にしたまま呆然としていた。
「……っつ……」
十数発のくしゃみをしたあたりで高瀬が腰を抑えた。高瀬が言うところの『リミッター解除したくしゃみ』を連発したからだろう。
そもそも、普通のくしゃみでもその威力が実はすさまじいっていうのはさっき高瀬が言ったように事実だ。くしゃみでぎっくり腰になる人もいるって……お父さんが言っていた。その理由も。
『くしゃみ程の力を生みだすとはどういうことなのか。人間が生み出す力とはすなわち筋肉に起因するモノだ。くしゃみみたいな強風を生む筋肉といったらそれは人間の筋肉の中でもトップクラスのサイズを持つ筋肉、つまり太ももだ。太ももの筋肉の瞬間的な収縮で生み出される力。でも、身体の筋肉が固まった状態でくしゃみをしてしまうと太ももだけに収まらず、他の筋肉も巻き込むことになる。それが大胸筋。太ももの筋肉と大胸筋が互いに引っ張り合うと……その被害を一番受けるのは、その中間にある腰。だから腰にダメージが行くことになる。』とのこと。
でもあんな強烈なくしゃみなら筋肉が固まっていようとなかろうと関係ない。腰にダメージが行くのは当然だ。
「スキありだ!」
バカみたいなスピードで先生が高瀬の背後に回り込んだ。
「《ゴッドブレス》使いなら弱点は腰! 手加減するから安心しろよ!」
そう言ってバットを高瀬の腰に向けてスイングした先生。だけど―――
ガキィンッ!
人間を金属バットで叩いた時に出る音ではない音が響いた。
「硬い……!?」
先生の驚きに対し、高瀬は笑って答えた。
「弱点が腰なんてことは理解してるさ! そこを弱点のままにしとくアホはいないよな!」
言いながら高瀬は服をまくる。そこには金属質のヨロイのような、プロテクターのような、なんとも言えないモノがあり、腰の部分を覆っていた。
「つか、あのくしゃみを普通に発射してたら一、二発で腰が壊れるっつーの。内部にサスペンションやエアクッションを仕込んだ特注品だぜ?」
高瀬はすばやく後ろを向き、先生の足をはらう。先生はその場に倒れた。
「その高速移動……上の人が連れて来いって言うからには普通じゃないんだろうと思ってたが……なるほどな。」
腰につけたプロテクターのようなモノの一部を引き抜く。シャリンという音と共に出たのは包丁ほどの長さの刃を持つナイフ。
「! 先生!」
「無傷でとは言われてねーんでな!」
振り下ろされたナイフは先生の脚へ向かう。思わず目を閉じた私は直後に聞こえるであろう先生の叫びに対して耳をふさごうとした。でも先生の声は聞こえなくて、代わりに高瀬の声がした。
「……すげぇな……」
私はおそるおそる目を開いて先生を見る。ナイフは確かに先生の右脚を貫き、地面に先生を縫い付けている。血も出ている。でも先生の表情は……別に痛そうなそれではなかった。
「義足……じゃねぇもんな。血ぃ出てんし。結構痛いはずなんだけどな。ただ単に我慢強いだけか?」
「さてな。……この後はどういう予定なんだ?」
「じきに仲間が来るんでな。それまで待つさ。」
私はそこですごい恐怖を覚えた。
このままだと先生は連れて行かれてしまう。たぶん、そうなったら私は先生に二度と会えない。
そしたら……私の治療はどうなってしまうんだろうか。先生がいなくなったことを良い事に《オートマティスム》が手加減なしに力を揮うようになったりしたら? 私はいつか知らぬ間に人を殺してしまうかもしれない。
それに、私は《お医者さん》になりたい。先生がいなくなったら……誰に教わればいいんだ? 小町坂さんのとこ? でももしそこで《オートマティスム》が暴れたら……? 私は……
「……違う……」
『何が?』
どこからか声が聞こえた。いつか聞いたことのあるような……声だ。
「先生は……そういうのじゃなくて……」
『安藤享守は溝川ことねの?』
「先生……同居人……」
『そして?』
なんて言うのが適切なのかわからない。でもたぶんこういう感じの存在だ。
「……友達……!」
「わぁぁあああっ!」
私は持っていたペンを捨てて走り出した。高瀬と地面に倒れている先生が私を見る。
「ことねさん!?」
「んあ? 師匠想いのいいお弟子さんだな。」
高瀬はこしょうの容器を鼻に近付ける。
「上の人からの指令にはお前の存在はなかった。だから何をしたっていいわけ。」
容器のふたをあける。
「つーことで邪魔ものは排除。今度はさっきよりも派手に壁にぶつけてやんぜ!」
高瀬の頭が後ろに引く。それと同時に私は左手を前に出す。
「ぶぇっくしょん!」
普通なら、私はその一発で後ろに飛んで行っただろう。でも―――
「!?」
風は私の手前……正確には左手の前で消えた。
「……!」
一瞬驚いた顔になった高瀬は続けて数発のくしゃみをする。でもその全てが私の前でなかったことにされていく。原理はわからない。もしかしたら原理なんてないのかもしれない。風は、とても不条理に消されていった。
《オートマティスム》の手によって。
「んなっ!?」
高瀬の目の前に来た私。そこまで来て具体的に何をするか考えていなかったことに気付いた私だったけど、私の左手は勝手に動いた。
硬く握られた左の拳は鋭い軌道を描いて高瀬のお腹に食い込む。そこで終わるかと思いきや、左手はさらに力を入れ、そのまま高瀬を殴り飛ばした。
数メートル飛んで行った高瀬はゴロゴロ転がって止まり、ぴくりともしなくなった。
「……ありゃ鳩尾だね。気絶したんだろうね。」
私の足元で先生が呟いた。
「先生!」
私は先生の横にしゃがみこむ。先生は何食わぬ顔でナイフを脚から抜いた。
「大丈夫なんですか!? 病院に……」
「大丈夫。治ったからね。」
「何言って……」
すると先生は普通に立ちあがった。血ももう止まっているみたいだ。
「……先生って本当に人間ですか?」
「……一応人間だよ。それよりも……」
先生は私の左手を手に取った。
「……素人が『殴る』なんて行為をすると関節とか痛むんだけどね……さすが《オートマティスム》。」
「あ、はい。全然痛くないです。」
「それは良かった。けどあんな無茶はできるだけしないでね。オレがひやひやするから。」
「そう言われましても……全然よくないはずの先生があんなんでこんなんですし……」
「あはは。次は頑張るよ。」
本当はすぐにでも先生の超人的な動きの種明かしをして欲しかったけど、たぶんこれも先生の治療法に関係のあることなんだろう。私は聞かないことにした。
「……どうしますか? あの人。」
私は離れた所で倒れている高瀬を指差す。
「とりあえず縄で縛っておくかね……」
「いえ、それには及びません。」
先生の言葉に答えたのは私ではない。高瀬の声でもない。
「自分が回収しますので。」
どこから聞こえるのかわからない謎の声。先生と一緒にキョロキョロしていると突然倒れている高瀬の横に人が現れた。
真っ白な男の人だった。スーツなのだけどそれは真っ白で、ネクタイも白で、靴も白で、肌も白い。そして私みたいに髪の毛も白い。唯一別の色があるのが瞳の黒色だけというぐらいに真っ白なその人は「どっこいしょー」と言いながら高瀬を軽々と肩に担いだ。
「もう少し早足で来れば良かったですね。ああかゆい。これをやったのは……あなた? それともあなた?……かゆい……」
何故だかわからないけれど、あいてる片手で背中やら腕やらをポリポリとかいているその人は私と先生を交互に見る。先生は一歩前に出て答えた。
「どっちでもいいさ。あんたは?」
「自分はカール。カール・ゲープハルト。日本語上手でしょう?」
「流暢だな。あんたも《パンデミッカー》か。」
「ええ。この高瀬よりは上の地位にいます。ですからあなたのことは存じておりますよ。」
にっこりと笑うカールという人はパチンと指を鳴らした。するとだんだん、カールと担がれている高瀬の姿が透けてきた。
「またお迎えに……かゆい……あがりますよ。」
なんだかかっこ悪い言葉と共に、ついにカールの姿は見えなくなった。まるで透明人間にでもなったかのように。
「先生……これも……?」
「何かの症状だね。見えないなんて……厄介な『症状』だ。」
先生はくるりと向き直り、診療所を見る。
「きっと……中は風でごちゃごちゃだね。片付けるよ、ことねさん。」
「はい……」
私はトコトコとついていく。そして……カールの言った言葉の意味を考えていた。先生を迎えにくる理由を。
翌日。先生は布団から出て来なかった。というか出れなかった。
「筋肉痛だね。」
昨日、なかなかに散らかった診療所の中を片付けてふぅと先生が椅子に座った瞬間、『あんぎゃぁあああ!』と叫んで倒れた。両脚に激痛が走ったとか。なんとか自分の部屋にホフク前進して布団に入りこんだのが昨日の夕方。それから先生は布団から動かなくなったのだ。
今、私は先生の真横に正座している。
「……」
なんとなく先生の脚にデコピンをしてみる。
「うぎゃぁあああっ!?」
「痛そうですね。」
「ことねさんは鬼だったんだね!」
「デコピンで痛いなんてずいぶん不思議な筋肉痛ですけど、元気そうでなによりです。」
「うん、まぁ……でも病気じゃないからね。心配しないで。ただの……ものすごく痛い筋肉痛だよ。」
先生は動けない。私はまだ一人で診察できる身じゃないし……やることがなくて困る。
「先生、私は何をしていればいいんでしょうか?」
「暇なオレの話し相手はどう?」
「それじゃ……ちょうどいいのでいろいろ聞きたいことがあります。」
「オレの治療法?」
「いいえ。自力であれを解読しますからいいです。」
「偉いね。さすがことねさん。すると何が聞きたいの?」
「《パンデミッカー》についてもっと詳しく知りたいです。」
私がそう言うとちょっと複雑そうな顔になる先生。
「うーん……そうだね……オレを狙ってるみたいだしね。よし、何でも聞いて。」
「先生は……昨日、《パンデミッカー》という組織は昔に壊滅したって言ってましたけど。」
「うん。あの組織は二十年ぐらい前に壊滅してる。」
「先生がまだ五歳の時ですね。」
「いやいやことねさん……いくらオレでもその頃は《お医者さん》を知らなかったよ? その言い方だとまるでオレが生まれた時から《お医者さん》みたいだよ?」
「そうですか? まぁ、私の中では先生は先生以外の何ものでもないので。なんとなく。」
「……まぁいいけど。」
「それで……壊滅したのにどうして復活したんでしょうか。それとなんで先生を?」
「壊滅って言っても……例えばメンバー全員が死にましたってわけじゃないしね。中心だった人がやられただけで……当時下っ端だった人が復活させたのかもね。オレを狙う理由はオレの治療法のせいだろうね。《パンデミッカー》もその性質上、《お医者さん》の知識が必要になるからね。二十年前も有名な《お医者さん》が何人か連れてかれたよ。」
「先生のは……そうですね、やっぱりすごい技術ですもんね。」
……ということは先生からもらったあの研究書はあっちに渡しちゃいけないモノになるのかな。大切に保管しないと。
「あとは……そうだ、選民思想って何ですか?」
「ああ……《パンデミッカー》の存在理由だね。」
先生は少し考えたのち、説明をはじめた。
「ことねさんはユダヤ教って知ってる?」
「名前は聞いたことありますけどその内容は知りません。」
「えぇっとね、ユダヤ教はユダヤ人という存在を神様と契約を結ぶためにいる特別な存在だって考えてる宗教なんだ。んまぁ……キリスト教でも実はそんな考えがあったりもするんだけど。」
「つまりイタイ人ってことですか?」
「ことねさん……毒舌だね。」
「?」
「イタイ人って表現するとなんか悪いイメージだけど……アボリショニストとかもいるし。」
「アホ……?」
「アボリショニスト。昔、奴隷制度を廃止せよって主張してた人たちだね。アホじゃないよ?」
「その人たちが?」
「この人たちは外から見れば素晴らしい人たちだけど、本人たちは『奴隷に自由を与えるために神様に選ばれたのだ!』って思ってたって話だよ。」
「イタイですね。」
「……そうだね。とにかく選民思想ってのはそういう『アイアム選ばれし者』って考えのことだね。」
「えっ、《パンデミッカー》ってそんな人の集まりなんですか!?」
「そうだよ。ヴァンドローム教って言ってもいいかもね。」
「嫌な宗教ですね……」
「全てはSランクのせいなんだけどね。」
「Sランクの?」
「あいつらって凄すぎでしょ? 時代が時代なら神様として崇められるレベルだよね。」
「ああ……つまりヴァンドロームは神様ですよと?」
「そんな感じ。《パンデミッカー》はSランクを神様、それより下を天使みたいに考えてる。ヴァンドロームにとりつかれたということは神様に選ばれたということだと。」
「何をする人に選ばれたと考えているんですか?」
「最高神の復活。」
「先生、漫画の読み過ぎですよ。」
「いやいやことねさん、オレが言ったわけじゃないよ!?」
「じゃあ最高神ってなんですか。」
「オレも見たことあるわけじゃないんだけどね、あいつらが言うには……一体、封印されてるSランクがいるんだと。」
「先生、小説の読み過ぎですよ。」
「いやいやことねさん、オレが言ったわけじゃないよ!?」
「封印って……どういうことですか……」
「その昔、誕生してしまったとあるSランクヴァンドローム。そいつを昔のすご腕《お医者さん》が封印したんだって。」
「Sランクは危険ですからね……でもどうしてそいつを復活させようと? そのSランクが何か特別だったんですかね。」
「別に特別でもなんでもないんだ。でも……そいつの『症状』を《パンデミッカー》的思想で見るとまさに神様。選ばれた人間以外を一掃できる力なんだよ。」
「先生、映画の見過ぎですよ。」
「いやいやことねさん、オレが言ったわけじゃないよ!?」
「その『症状』っていうのは……?」
「『ウィルス感染』……あいつらはそう言ってた。たぶん新種で強力なウィルスなんだろうね。封印が解かれたなら、そのウィルスは世界へ超速で広まる……つまりパンデミックが起きるわけだね。」
パンデミック。広範囲に及ぶ集団感染。要するに流行のことだ。その規模でエンデミック、エピデミック、パンデミックの三段階にわけられる。ざっくりと言うなら地域レベル、国内レベル、複数の国レベルだ。過去に起きたパンデミックとしてはインフルエンザや結核なんかが挙げられる。
「すごい話ですけど……確かめてはいないんですよね?」
「うん。あいつらがそう言ってるだけ。そんなSランクがいたという記録もないよ。でも実際にあいつらは行動を起こしてるから対応しないわけにはいかないよね。」
「具体的には何を?」
「『元気』の収集。封印を解くには莫大な量の『元気』が要るんだとか。それでヴァンドロームを故意にとりつかせて『元気』食べさせ、お腹一杯になったそのヴァンドロームからまた『元気』吸い取る……そんな感じらしい。」
「! それじゃ……最近患者さんが多いのは……」
「うん。《パンデミッカー》の仕業の可能性が大だね。」
なんて迷惑な集団なんだろうか。でもそれだとヴァンドロームを飼ってることになるのかな? あ、でもとりつかせる・切り離すのオン・オフが出来るとか言ってたし……《お医者さん》よりもヴァンドロームに関しては研究しているのかもしれない。倒そうとして研究するのと利用しようとして研究するのとではやり方もだいぶ違うだろうし。
「となると……この前から出てきた謎の物体は《パンデミッカー》の?」
「たぶんね。でもあんなの見たことないからなぁ……《パンデミッカー》の新技術かもね。」
ここまでで《パンデミッカー》のことはだいぶ教えてもらった。また疑問を感じたら聞くとして、あと聞きたいことはなんだろう?
「……あ。」
その時私の目に入ったのは金属バット。先生の部屋の壁に立てかけてある、昨日先生が武器にしてたあれだ。《ファンシフル》の時に私はそのバットによくわからない言葉が書いてあるのを見た。
「先生。」
「ん?」
「そのバットですけ―――」
「すーみーまーせーん。」
私がバットを指差そうとした瞬間、外の方から声が聞こえた。
「あれま。患者さんかな?」
先生がそう言ったので私は立ちあがって玄関の方に向かう。
だれもいない受付の前に中学生がいた。なんでそうわかったかというと近くの中学の制服を来ていたからだ。
「あ、誰か来たぜ。」
「よかったぁ。」
中学生が……二人。男の子と女の子。
「えぇっと……」
いつも先生が聞いていることを聞く。
「白樺病院からの紹介ですか?」
「あ、はい。そうです。」
男の子の方が肩からさげてるカバンから封筒を取り出した。と言うことは患者さんはこっちの男の子かな。
「そちらの女の子は付き添いですか?」
「いえ。」
そう言うと今度は女の子も封筒を取り出したのだった。
「その……私たちは……えっと……」
説明しにくそうな表情。これは『症状』を説明しようとする患者さんのそれだ。
「ちょっと待って下さいね。」
とりあえず私は先生を呼びに行く。
部屋に戻ると先生が起きあがっていた。
「患者さん?」
「はい……その、二人。」
「ふむ……男の子の声がしたけど……」
「はい。男女二人の患者さんです。」
「女の子二人に男の子一人か。うん、大丈夫そうだね。」
「?」
「二人を呼んで……オレを診察室に運んでくれないかな……?」
何だこの人という表情の二人と私は先生を布団から出し、なんとか診察室のベットに座らせた。二人は先生の部屋を見てから不安が消えないようだ。まぁ、ごちゃごちゃしてるしなぁ。
「いやーごめんね。脚が動かなくてね。」
「はぁ……」
「そうですか……」
うわぁ、二人とも心配そうだ。
「とりあえず紹介状を拝見。」
先生は二人から紹介状を受け取り、中を見て少し驚いた。
「るるのくせにきちんと書いてる……!?」
私も覗いてみる。そこにはきちんとした……カルテみたいのが書いてあった。そこに書いてあることをじっくりと読んだあと、先生は頷く。
「……ああ……なるほどね。」
納得した先生は二人にとんでもないことを言った。
「最近は中学生ぐらいでもキスするんだね。」
私がビックリして先生にチョップでも入れた方がいいのかと考えていると二人は私以上にビックリしていた。別の意味で。
「どうして……わかったんですか?」
なんか二人の顔が赤くなった。まさか図星なのか?
「そういう『症状』だからね。」
「どういうことよ……」
女の子の方がいぶかしげに聞いた。
「この紹介状によるとね、二人は付き合い始めてからしばらくした時、互いの顔が常に視界に映るという『症状』になったとあるんだ。」
言いながら私を見る先生。私はその『症状』を聞いてそういうヴァンドロームを思い出す。
「……《ハスティアンドスローゴーイング》ですか……」
図鑑を見た時「名前長っ!」と思わず突っ込んでしまったヴァンドロームだ。最初に見つけた人が単純ながらも的を射た名前をつけたのだ。
直訳は「せっかち&気長」。
「確かえぇっと……男女のカップルにとりつくっていう変な奴ですよね。二人が一緒の時には何もないけど二人が離れた時に男なら女の、女なら男の顔が視界の隅っこに常に映り続けるっていう怖い『症状』……『視界占有』を引き起こす……」
「目的はその男女を早くくっつけること……正確に言うなら早く性行為をさせて子供を作らせること。子供が女性の体内に誕生する過程に手を加えることでその子供を自分専用の『元気』補給機にするという……せっかちで気長な計画の実行者だね。」
「え……えっ? なんの話なんすか? 子供……?」
「こいつが持つカップルの定義はキスをする間柄というモノだからね……キスをすることが原因と言えば原因だね。」
二人の困惑顔をよそに先生は「怖い怖い。」と呟く。
「まぁまぁ、二人とも座って。きちんと説明しますから。二人が知らなかった世界をね。」
先生がいつもの説明を始めたので私は《ハスティアンドスローゴーイング》のことを考える。
複数をターゲットにするヴァンドローム。実は結構いたりする。友情、愛情、恋愛。さらには嫉妬、嫌悪。複数の人間がいて初めて生まれる感情を利用するヴァンドローム。
本当にいろいろな種類がいる。図鑑が作られはしたけどそれも数年後には更新されるだろう。未発見のヴァンドロームもたくさんいるはずだ。《ハスティアンドスローゴーイング》のように対象を複数とるヴァンドロームが初めて発見された時、《お医者さん》の世界は大いに混乱したとか。でもすぐにそれに対応する治療法を持つ《お医者さん》が登場して、普通におさまったらしい。
新種の出現は良くあることだけど、それの治療法が簡単に出てくるというのもよくあることなのだとか。つまりはそれだけ《お医者さん》が個性あふれる治療法を行っているということだ。
「はい。それじゃ後ろを向いてくれるかな。」
先生が治療を始める。二人の背中にそれぞれ手を置いて目を閉じる先生。
……治療法。私も《お医者さん》を目指すのだから私だけの治療法を考えないといけない。先生のあれを解読すれば……もしかしたら先生の治療法を教えてもらえるかもしれないけど……ちょっと考えておかないとなぁ……
《お医者さん》とヴァンドロームの戦いの歴史は長い。小町坂さんの術が平安時代から伝わるものであることからも明らかだ。
世界にたくさんある……いわゆるオカルト的なモノ。魔術、悪魔召喚、生贄……今では誰も見向きもしないそれらを昔の人たちは熱心に研究していた。その理由はヴァンドロームを倒さなければならなかったからだ。
この世界に確かにいるのだけれどこの世界の生き物としてはあまりに規格外の彼らを倒すにはそれなりの方法が必要だった。だから生まれたのが魔術とか呼ばれる学問。つまり、あれはインチキでもなんでもない……極めて真面目な戦闘方法なのだ。
ならオカルト好きがあっちこっちで術を発動させそうなものだけど、それは滅多にない。西洋の魔法も東洋の術も、その対象はヴァンドローム。その場にヴァンドロームがいないと発動しないし、そもそも術者がその術の目的を理解していないのに発動するわけはない。
《お医者さん》の一般的な治療法はそういった先人の遺産の使用、応用だ。先生の話によると、西洋東洋問わず、術と呼ばれる治療法を使用している《お医者さん》は全体の八割を占めるらしい。その八割が個人個人に術を解釈、応用するのでさまざまな方法が生まれるのだとか。
残りの二割は、例えば《医者》の医術で治療したり、兵器を用いたりというパターン。そしてその二割の中からさらに厳選された……あまりにバカバカしく、けれど確かに効果がある……そんなおかしな治療法を実践する《お医者さん》……それが《ヤブ医者》だ。
先生は《ヤブ医者》をただ単に変な治療法を行う人みたいに言っているけどそうではない。私は小町坂さんから《ヤブ医者》という存在のすごさを聞いたことがある。
《ヤブ医者》はずば抜けた技術の持ち主か、それとも単純に強い人なのかというので分類されるそうだ。
ずば抜けた技術というのはつまり天才的なひらめきと脅威的な才能の下に生まれる結果。誰もマネできない奇跡の治療法。先生はこっち側にあたる。
そして、単純に強い人というのは……別にヴァンドロームが相手でなくてもその強さを発揮できる人ということだ。ヴァンドロームを倒す時に誰もが一度は考える治療法。武器を持つなり、武道を身につけるなりで自分を強くして戦うという選択肢。単純な話、術なんかに頼らなくても《お医者さん》自身が強ければ問題ないという考えだ。
でもそれを実践する人はほとんどいない。なぜなら、あんな恐ろしい能力を持った生き物と戦うなんて無謀だからだ。だけど、それを無謀とは考えず、実行し、治療を完遂してしまう《お医者さん》が確かにいる。
生き物として強いということは、治療の相性なんてないということに等しい。どんなヴァンドロームだろうと叩きつぶせるなら……それはつまり万能な治療法だ。だから、そういう人は《ヤブ医者》と呼ばれる。
「はい、治療完了。」
「え……ホントですか?」
治療が終わったらしい。疑いの表情で男の子の方が部屋から出てみる。つまり女の子から離れたわけだ。
「! ホントだ! 視界が元に戻ってる!」
「私も!」
二人は大喜びだ。
「ことねさん、お会計をお願いね。」
私が受付の方に移動すると二人がついてきた。
私はおもちゃみたいなレジスターを操作する。
「治療費はこれです。」
「え……思ったより安いっすね。」
私はいつも言っている言葉を口にする。
「悪徳霊媒師ではありませんからね。保険もききますし。」
第一章 その2に続きます。